★泥棒さん いらっしゃい

 都内のいわゆる一等地と呼ばれる住宅街に、ひときわ目立つ邸宅がある。


 スクラッチタイルを施した外壁に扁平アーチ型の洒落た玄関ポーチ、各部屋に取り付けられた縦長の窓枠ひとつひとつに施された細かい装飾。広い庭園は、四季折々の花々が順番に花期を迎えるよう完璧に設計されている。誰もがうらやむ豪邸といっても過言ではない。


 そこに、四人家族が住んでいる。父親、母親は四十代前半頃。まるできょうだいのように似通った容姿に見えるのは、日本人離れした彫りの深い顔立ちにあるのだろう。どちらもすっと通った鼻筋に、涙を浮かべているわけでもないのに常に潤んでいる黒い瞳と魅力的な厚みをもった唇、丁寧に漆を塗り重ねたような艶やかな黒髪をしている。均整の取れた八等身は、まるでファッションモデルのようである。その遺伝子は高校生の長女、小学生の長男にもしっかり受け継がれており、ただ歩くだけで注目されるのだった。


 そうした恵まれた環境と資質を持っている彼らだが、鼻につくような傲慢な態度をとることはなかった。むしろ深遠なる森のごとくじっと他人の目をうかがうような所作を見せ、一切の生活感をにおわせない。友人や親せきが訪ねてくることがなければ、客人をもてなすためのサロンが賑わうこともまったくないのだ。


 そんな風変わりな一家に目をつけた中年男がいた。空き巣に入り、財産をがっぽり奪いとるためだ。一年かけて念入りに独自調査を重ね、わかったのは、子供たちが長期の休みになると一家は決まって駅前のレストランへディナーに出かけるということだった。そこで必ず約二時間、のんびり食事を楽しんでいる。両親はいくぶんかのアルコールをたしなみ、家族だんらんの和やかな時を過ごすのだ。さながら慰労会といったところなのだろう。男はその様子を、向かいの喫茶店で観察してきた。うらやましいと思ったことは一度もない。ただの金づるとしか考えていないからだ。


 そして決行の日はやってきた。男はいつもどおりランニングを装ったいでたちで邸宅に近づき、監視カメラの死角になる垣根の隙間から敷地に侵入した。あとは頭のなかに入った図面どおりに進んでいくだけである。冬でも青々とした低木の樹木が盾になり、防犯システムの要となるブレーカーが収容されている小屋までやすやすと近づくことができた。なかに入り、用意していた手袋をはめ、電源を落とす。これで敷地内の監視カメラの作動はすべて停止されたはずだ。男は思わず安堵のため息をつく。だが仕事はまだこれからだと自らに言い聞かせ、小屋を出た――その次の瞬間のことだった、後ろから肩を叩かれたのは。


 振り向く余裕はなかった。問答無用に投げ飛ばされたからである。男は相手がこの家の主人であることを確かめるとみるまに青ざめ、芝生の上にひれ伏した。


「申し訳ありません。魔が差してつい……。どうぞ警察に連絡してください!」


 男はとっさにこう言ったが、あわよくば隙を見て逃げ出そうと考えていた。鼻先には主人のぴかぴかに磨かれた黒い革靴がある。このまま一発、二発蹴られても仕方あるまい。覚悟を決めたが、頭の遥か上の方からは思いがけず紳士的な口調の言葉が降ってくるのだ。


「その必要はありません。あなたはまだなにも盗っていないのですから。それよりお怪我はありませんか。つい興奮していきなり仕掛けてしまって」


 男は心のなかで冷笑した。世間知らずの金持ちを騙すほど容易なことはないからだ。


「心配していただけるなんて恐縮です。しかし私は、未遂に終わったとはいえ、あなたの大切な家族の家に土足で踏み込もうとしていたのです。到底、お許しいただけるとは考えておりません」


 わずかな間があり、目の前には主人がひざまづいた。彼は慈悲深い声色で男に告げた。


「ああ、あなたはなんて腰の低いお方なんでしょう。どうぞ頭を上げてください」


 嗅いだことのない高級な香水のかおりが鼻腔をくすぐり、涙がにじむ。男はそれを大げさにぬぐいながらゆっくりと顔を上げた。


 驚いたのは、男より主人のほうが号泣していたことである。呆然としながら見守っていたが、やがて主人は言った。


「よろしければリビングへ場所を移して少しお話しませんか。大したおもてなしはできませんが」


 空き巣未遂の男を家のなかに招き入れるなど、考えられる可能性はたったひとつ。逃亡の隙を完全に阻んでから通報するつもりなのだ。男は冷や汗をかきながらふたたび地面にひれ伏し、答えた。


「私のような愚か者にはもったいないお言葉です。いくらでも謝罪はしますからどうか家のなかへ入ることだけは勘弁してください。申し訳ありません、申し訳ありません」


「困りましたね、どういたしましょうか」と、主人がつぶやくや否や、今度は婦人の声が飛んできた。


「いつまでそこにいるのよ、サム。みんな待ちくたびれているわ」


「おお愛するジェニー。こちらの方がどうしてもここから動きたくないと言うのだよ」


「力づくで連れてくればいいのに」


「アンフェアなパーティほどつまらないものはない。君もそう思うだろう?」


 夫婦は地べたに這いつくばる男そっちのけで実におかしな押し問答を始めた。会話から察するに、二人は男の愚行の一部始終を見て認識しており、ホームパーティに招待しようと打ち合わせたのだろう。彼らはまともではない。誰も近づかない理由がたったいまわかった。これはとんでもなく面倒な展開になってしまったと、男は人生最大のピンチを嘆く。


 そうこうしている間に、婦人はじりじりと男に近づいていた。そして金魚すくいの要領で突然、男の腕をからめとり、否応なく立ち上がらせたのだ。婦人は身軽に男の前へと立ち回り、翡翠色の双眼を不敵に輝かせながら言った。


「あなた、お名前は?」


 男は震え上がりながら答えた。


「な、七篠権兵衛」


 どこの世界にわざわざ“名無しのごんべえ”だと名乗るやからがいるだろうか。男は自らの失態を悔やんだが、とっさに思い浮かんだ嘘がこれしかなかったのだからしかたがない。しかし婦人はというと、すんなり引き下がった。


「七篠さん。お茶に呼ばれたと思って軽い気持ちでいらっしゃればいいのよ。肩の力を抜いて」


 婦人は上品に微笑む。つい先ほどまではまるで魔力を暴走させる魔女のようだと思っていたのに、男の見る目はあっさり好ましい方に変化した。


「では、少しだけ……」


「うれしいわ。久しぶりにお客様を迎え入れられるなんて」


 美しい婦人に腕をつかまれ、男はまんざらでもなく頭をかく。主人に嫉妬されないかとやきもきしたが、その心配もなさそうだ。三人は旧知の仲であるかのように、和気あいあいと家のなかに入る。外観もすばらしいが、内装もかなり凝っていた。大理石の床に角柱、王朝風の装飾で彩られた壁際にはヨーロッパのアンティーク家具や調度品が並べられている。男はひそかに唾を飲んで動揺をごまかした。いったんは収まったはずの泥棒の虫が、体のなかで騒ぎ出したからだ。


 テーブルに並ぶ見たことのないご馳走。グラスに注いだ赤ワインはシャンデリアの光を反射し、きらきらと輝いている。勧められるがままアルコールを口にするうちに、男の警戒心はどんどんほどけていった。歓迎される身分というのは、こんなにも気持ちのよいものだったのだろうか。ふわふわした夢見心地で洗面所へと向かい、リビングに戻ってくる。ソファには、二人の子供たちも座っていた。だいぶ遅い時間になっていたため、とっくに寝室で寝ているものだと思い込んでいたが違ったようだ。姉も弟も紙のように顔色が真っ白で血の気がない。目が合っても黙っているし、夫婦にも紹介されないので、男は一番端のソファに無言で腰かけた。と、その時、弟が立ち上がり、男に訊ねた。


「おじさん、電話は使えるよね? パソコンは?」


 多少の酔いはあるが、なにを言われているか理解できないほどのまれてはいない。男は考えた。彼は自分に自首させるつもりなのだろうかと。だがそれならパソコンができるかどうかまでは聞かないだろう。男は戸惑ったが、夫婦の心証をよくしたい一心で愛想よく答えた。


「おじさんは長いことプログラマーとして働いていたんだよ。だからだいたいのものには対応できるよ」


「それはよかった。ボク、安心したよ」


 なにが安心なのかはわからないが、ほほえむ少年の顔を見ていると心が癒され、疑問はいずこかへと消え去った。


 つづいて問いかけてきたのは主人だった。


「ところで君はどこの出身なんだい? お父さんとお母さんは?」


 よくある会話の糸口である。だが後ろ暗い背景がある男には、郷愁を誘って反省を促し、自首させようとしているとしか思えない。胸ポケットには、金の万年筆が入っている。隙を見て、廊下のフレームから拝借したのだ。男はいつでも逃亡する気構えを整えてから言った。


「私は北国の田舎町の出身で、両親は子供の頃に病気で他界しています。結婚もしていなければ親戚づきあいもありません。天涯孤独の身です」


 重苦しい沈黙に包まれたのはほんの数秒のことだった。真っ先に口を開いたのは婦人だった。


「七篠さんはとてもご苦労なされた方なのね。だからこれからはもっとぜいたくをしていいと思うの。どうかしら、この家のオーナーになってみては」


 男は今度こそ本当に度肝を抜かれた。だがすぐにからかわれているのだろうと思い至った。


「ハハハ、ご冗談を。奥様はお酒で酔われてしまったのですね」


「いいえ、まさか」と、婦人は強めに打ち消してつづけた。「わたくしは自他ともに認めるうわばみなの。いまだって正気よ。ちょうど引越しを考えているところだったから、もし七篠さんに受け取っていただけるなら、いまここにある全財産を差し上げてもいいと考えているのよ」


 うまい話には必ず裏があるものだ。やはりさっさと退散しておくべきだった。居心地がよくてつい居座ってしまったのである。男はいよいよ警戒心を高めながら腰を上げた。


「私はそろそろおいとまさせていただきます。これ以上うまく受け流す自信がありませんから」


「七篠さん……」


 物言いたげな視線を投げかけられ、男はためらう。詐欺、詐取、窃盗といった行為を幾度となく繰り返してきた身だからこそわかってしまうのだ。婦人の言葉に偽りがないことを。


 しかし他人に全財産を明け渡すなどという自殺行為をして、この家族はいったいこれからどうするつもりなのだ。直感で決めたことならなおさら困る。さすがに責任を感じてしまう。男は真剣に言い募った。


「独り身の私に、こんな大きな屋敷は分不相応です。お願いですから奥様、お言葉を撤回なさってください」


 主人はきっと呆れているのだろうと男は思った。ここまで言葉ひとつ発しないからだ。だがそれは正反対だったらしい。主人は困ったように場をとりなし始めた。


「七篠さん。妻が言ったことは事実なんだよ。そして僕も同じ考えだ。この家ごとあなたにお譲りしたい。どうか受け取ってくれないだろうか」


 男の脳裏に浮かんだのは、自らの半生である。貧しい家に生まれ、中卒で職を転々としてきた。プログラマーとして働いたことなどない。いかにして楽に他人のものを奪うか、その技術と知識を磨くことに時間を費やしてきたのだ。そんな自分に、こんな幸運が訪れていいはずがない。夫婦を信じきれない葛藤を抱えながら、それでもなにか答えようと男が口をひらいたその時、初めて長女が凛とした声を響き渡らせた。


「パパとママを困らせないで。わたしと弟に遠慮しているなら、そんな理由は成立しないから」


 夫婦は大粒の涙を浮かべ、男を見つめている。とうとう男の心にもあきらめが訪れた。


「後で返してほしいと申し上げないことをお約束できるんですか? 絶対に後悔しないことも」


 主人は男に駆け寄り、両手を握り締めた。


「もちろんだよ、七篠さん。なんなら、念書を起こしてもいい。君さえよければ、互いに誓約書を交わそうじゃないか」


「そんな大げさな……」


「いや、そうしよう。そうするべきなんだ。ジェニー、さっそく書面を用意して」


 婦人は快く返事をして、さっそく長女とともに隣室へ消えた。


 二人がふたたび姿を現したのは十分後のことで、その時にはもうサインをするのみとなった書類が出来上がってきたのである。



「それでは七篠さん、納得していただいたら、こちらに署名をお願いいたします」


 長女の差し出した金のペンに、男は一瞬、息を飲む。胸元から取り返されたような気がしたからだ。かと言って確認のしようがないので、男はしらばっくれてペンを受け取り、机の上に置いてから、書面に目を通した。


 一般的な不動産取引に使われる文章、そして先ほどの口頭でのやりとりがしっかり織り込まれている。後で不足事項が見つかれば、追加する可能性もあるようだ。まるで事前に用意されていたかのような充実した内容を不審に思わなくもなかったが、既に男の心は棚からぼたもちの恩恵を享受する方向に傾いていた。それは、お互いの意思を最終確認し、主人のサインを目の当たりにしたとき、揺らぎないものへと変化した。男はいまにも飛び上がらんばかりの喜びを抑え、本名を書く。わざと崩したため、“七篠権兵衛”と読めなくもない文字列だ。さいわい、誰にも怪しまれることはなかった。家族と男は、改めてシャンパンで乾杯した。


「これからの新しい生活に、祝福が訪れますように」


 声を揃えた夫婦は歓喜の涙を流し、子供たちはようやく緊張の糸がほどけたのか、ほがらかな笑い声を上げる。


 それから小一時間後、長女の先導で物件の取り扱い案内が始められた。


「まずキーはここ。面倒かもしれないけれど、こうして保管しておくのが決まりだから」


 そう説明しながら、長女は書庫の棚に並んでいた漢和辞典を向こう側へと押しやる。するとなにもない壁の一部が長方形に切り取られ、横にスライドした。現れたのは、腰高に設置された譜面台のようなものである。その上に箱型の透明なケースがあり、銀色の鍵が収められていた。


「これは家中の鍵穴すべてに対応している万能キーなの。玄関、書斎、主賓室、来賓室、子供部屋、サロン、クローゼット、トイレ、バスルーム、キッチンにパントリー。いつでも相手を閉じ込められる仕組みになっているというわけ」


 いわゆる強盗対策なのだろうかと、男はとりあえず了承する。そこに婦人が顔を出して、小型モバイルを提示した。


「七篠さん、ひとつ大切なことを忘れていました。モニターに顔を向けてください」


 言われるがまま画面をのぞくと、一瞬だけパッと光って消え、「新しいマスターを認証しました」という機械的な音声が流れた。婦人は言った。


「これは最新鋭の防犯システムなの。屋敷に家族以外の侵入者があれば、どこにいても連絡が入ってくるのよ。だから肌身離さず持っていてね」


 小型モバイルを男に手渡し、婦人はまた涙を浮かべる。


「いままでのいろんな思い出が急によみがえってきて感傷的になってしまっているみたいなの。泣いてばかりでごめんなさい、七篠さん」


「いいえ、いいんですよ。お好きなだけ浸ってください」


 男の胸にもこみ上げるものがあったのは、幸福そうな家族の姿に憧憬を抱いているからなのかもしれない。謝られるなんてもったいない。いまの自分には、言葉にしても足りないほどの感謝しかないからだ。


「ママ、残りの説明もわたしが。早く出て行く支度をしないと」


 長女に促され、婦人は名残惜しそうに去ってゆく。その美しい後ろ姿を目に焼き付けている男に向かい、長女はにべもなく「それじゃ行きましょうか」と言い放った。さっさと終わらせたい一心なのだろう。男は淡い恋心の余韻を封印し、長女の後をついていく。


 廊下の突き当たりを片手でトンと押すと、それまで壁と同化していた扉が現れた。まるで忍者屋敷のようである。ノブには鍵穴があり、さっそく男が銀色のキーを差し込んで開けると、地下へとつづくコンクリートの階段が見えた。人一人がやっと通れるほどの狭さである。そこをひたすら下っていくと、ようやく平坦な場所にたどり着いた。目の前には二つの鉄製の扉が並んでおり、右側は赤、左側は青で塗られていた。


「右の扉を開けてみて」


 相変わらずぞんざいな口調の長女ににわかに腹が立ったが、男は我慢して言うとおりにする。果たしてそこには、まばゆいばかりの光沢を放つ金の延べ棒が小高い山となって積まれていた。息を飲んで立ちつくしている男に向かい、長女は平然と言い放った。


「現在のレートでざっと十億くらいかな? 足りなかったらモバイルで一番最初に出てくる番号に電話をかけて。補充してもらえるから」


 初めから普通ではなかった。だからいまさら驚くようなからくりもないはずだ。そう胸に言い聞かせても動悸がする。男は足元から血の気が引いていくような寒気を感じながら長女に問いかけた。


「君のお父さんはいったいなんの仕事をしているんだ?」


「それをいまから話すの。おじさんはせっかちね」と、長女は母親譲りの不敵な笑みを浮かべてつづけた。「マスターが行動できるのは、家を中心に直径百メートル以内。そこから出ると、左の扉が開いちゃって、マスターは死より苦しい最期を迎えるそうよ」


「左の扉は絶対に開けてはいけないということなのか?」


「買い物は駅前の商店街かネット注文で済ませてね」


「いや、質問の答えは?」


 切迫した表情の男を軽くいちべつすると、長女は突然、「アハーハハハ!」という享楽的な笑い声を上げた。


「やっと解放される! 自由になる! あんた、バッカじゃなーい? 契約しちゃってさあ!」


 もしや左の扉の向こう側には、一瞬で世界を消滅させる化学兵器が保管されているというオチだろうか。男は鍵を握り締め、青い扉に駆け寄った。鉄格子をつかみ、なかをのぞきこむ。暗闇のなか、わずかだが、なにかがうごめく気配があった。たとえるなら、闇の炎。つかみどころなく漂い集まり、一定の形をとどめないのだ。男が目を凝らしているあいだにそれはゆうゆうと近づいた。そしていきなり男の鼻先まで飛び、耳障りな音波を発した。


「おまえが新しいマスターか」


 男は絶句した。





END

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短編集 もものはな @hananomomo

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