人間辞職

増田時雨

人間辞職


 朝、起きる時、通勤する時、食事を摂る時、夜寝る時。僕はいつもふと思う。水が高いところから低いところへと流れるように、りんごが地へ落ちるように。

この世界は腐っていると。


 社会人になった頃、世界は輝きに満ちていた。すべてが美しく、愛おしかった。なのに、世界の現実は残酷に思えるほど、僕の夢をぶち壊した。仕事がいくらこなせようと、人にいくら好意を持たれようと、生きがいを感じられなかった。自分が生きる意味を見いだせなかった。そんな時、こんな広告と出会った。

「人間から転職しませんか? たくさんの転職先、ご用意しています」

ネットサーフィンをしていた時、スマホの全画面にどんと映し出された。

「んん?」

見間違いかと思って、ゴシゴシと目をこする。しかし、その文字は変わらない。詐欺か?いや、でもこれは流石に騙せないだろう。僕の頭の中ではてなマークが膨らんでいく。しかし、そんな疑問よりも先に好奇心が僕を動かした。URLに人差し指が吸い付けられていく。ポチッ。押した瞬間、画面が真っ暗になった。そして、赤い文字で、文が映される。

「このページ以降は引き返すことができません。本当に人間を辞めますか?

YES / NO」

僕は無意識のうちにYESを押していた。すると、ぱっと視界が真っ暗になった。何も見えないし、何も聞こえない。急に恐ろしさが全身を包む。

「誰か〜!!!」

僕は精一杯叫んだ。しかし、誰も返してくれないどころか、自分の声が暗闇に吸い込まれていってしまった。怖い怖い怖い。恐怖だけが僕の心を支配する。

「ごめんね〜、待った?」

後ろから、少し高めの男性の声が聞こえた。

「ひぇっ!?」

驚いて、思わず変な声を出してのけぞってしまう。

「そんな驚かないでよ〜、人間から転職希望でしょ?」

そう言いながら、彼は僕の前に姿を表した。まるでそこにスポットライトでもあるかのように彼の周りだけが明るくなる。彼には、ヤギのような角が生えていた。コスプレだろうか。服装は長い丈の黒パーカーを羽織っており、同じく黒のアンクルパンツを履いている。そこから伸びる足首は人とは思えないほど白く、黒い服装によく映えていた。そんな事を考えていると、隣から急に手が伸びてきて眼の前でひらひらと振られる。

「どした?生きてる?」

「あっ、すいません」

「まぁ、もう人間としては生きてないんだけどね」

彼はケラケラと明るい笑い声を上げる。

「え……それはどういう……」

「ん?言葉のまんまだけど?もう君は人間に戻れないの。」

そう言いながら、彼はニコッと笑って僕の顔を覗き込んだ。彼の灰色の瞳に僕の顔が映り込む。

「君さ、さっきウェブサイトからここに飛んできたでしょ。そのときにさ、これ以降は引き返せません〜的な事が書いてあるとこでYES押したでしょ。だからもう戻れないの。おっけー?」

彼はそう言って首をかしげる。あれは本当だったんだ。僕は、人間を辞められるんだ。その事実がじわじわと実感になって僕の中に溢れ出す。

「……やった!」

僕は思わず叫んでいた。彼はぽかんと僕を見ている。

「あ、意図してここに来たんだね?へぇ。いやぁ、そんな人はじめてだよ〜」

「え、そうなんですか?」

「うん。いつも来る人来る人みんな『押し間違えちゃってぇ〜』って泣きついてくるんだよ?もう泣いても無理だっつうの!だから、君はやりやすそうだ。」

そう言いながら、彼は手を上に挙げた。すると、優しい光を放ちながら分厚いファイルが現れた。

「この中から転職先を選んでね〜。と言っても転職というよりは輪廻転生に近いけどね」

「輪廻転生…ですか」

「うん、自我を持ったまま自分の好きな生物に転生する感じかなぁ」

彼の話を聞きつつ、僕はファイルのページを捲る。たくさんの職業、というよりは異世界の種族というべきだろうか、そのような人々の説明が写真とともにまとめられている。

「ボクのおすすめはこれ〜」

彼はそう言って一つのページを細い指で指した。そこには明朝体で”死神”と書かれている。

「実はボクも前までの種族が嫌になっちゃってさぁ〜死神に転職したんだよねぇ」

そんなことを言っていたが、僕の耳には届かなかった。死神。人間界に失望した僕にとって、死神はとても似合うような気がした。

「これにします。」

「そう?オッケー、ちょっと待ってね〜」

彼はそう軽く言ってから、すぐに真面目な顔になって暗闇の中からたくさんのディスプレイを空中に出現させ、なんだか難しい情報処理を行っている。

しばらくすると、彼はふぅと息を吐き出し僕に自慢げな表情でこう告げた。

「君にはこれから面接試験を受けてもらうよ〜早速行こーう!」

「え、ちょ……」

彼は僕の困惑した声をさらりと聞き流し、僕の手を掴む。そして急に走り始めた。僕は彼の思ってもみなかった行動によろけてしまう。しかし、彼の方はそんなことも気にせず、僕を引きずる形で風のように走っていく。

「そろそろジャンプするよ〜」

彼はそう言って少し速度を落とし、僕を立たせる。そして、

「ジャーンプ!!」

僕の手を掴んでいる方の手を上に挙げて、ぴょんと飛び上がった。彼の力でふわりと宙に浮いた僕は、そのまま暗闇に吸い込まれていく。

「え!?な、う、うわぁ〜!!」

変な叫び声を上げる僕を見て、彼はケラケラと笑っている。

「やっと普通の人みたいな反応したねェ!なんか優越感〜」

ニヤニヤしながら顔を覗き込んでくる彼にいらだちを覚えたが、彼は楽しそうに笑い続けている。

「あ、そろそろつくよ〜」

そう言われ下を向くと、暗闇の中に突如穴が開き、そこに吸い込まれていった。


「うぐっ……」

うまく着地できず、変な声が漏れる。

「いつもお世話になっております。この方は、先程連絡させていただいた死神に転職希望の人間です。面接試験をお願い申し上げます。ほら、君も挨拶して」

彼はそう言って倒れたままの僕に手を差し伸べる。彼の礼儀正しい態度に、慌てて立ち上がると、低く内蔵に響くような声が聞こえた。

「人間からの転職希望とは、珍しいね。」

とてつもない圧を感じる男性だった。思わず45度に腰を折り、会社員だった頃のように挨拶をしてしまう。

「初めまして。本日、面接試験を受けさせていただきます、月城一樹つきじょういつきと申します。よろしくお願い申し上げます。」

「ははは、そんなかしこまらなくていいよ。私はハデスだ。人間界では冥界の王と言われているが、そんなものではなくてね。死神の長のようなことをしているんだ。」

彼、というのも申し訳ないので長と呼ぶことにしよう。長は僕に椅子に座ることを促し、淡々と質問を投げかける。僕は長の逆鱗に触れないよう、言葉を選びながら答えていく。一通り質問が終わると、長はふぅと息を吐き出し、こう告げた。

「君はこれから死神だ。同じ種族として、よろしく頼むよ。」

そう言われた僕は、ほっとしながら

「有難うございます。」

と静かに答えた。

「よし、ではサテュロス。君がこの人の教育係だ。優しくしてやってくれ。」

「かしこまりました。お任せください。」

彼はすっと長にお辞儀をし、僕の方をみる。

「失礼いたしました。よし、行こう!」

僕も長に対してペコリと礼をして彼についていく。長のいた部屋から出ると、彼はぐぐっと背伸びをして言った。

「ハデスさんの前に行くと緊張するなぁ〜でもとってもいい人なんだよ。そういえば、君に自己紹介してなかったね。」

彼はくるりと僕の方へ向き直り、大仰な身振りでお辞儀をした。

「ボクの名前はサテュロス。これから君の教育係として一緒にたくさんの事をすると思うけど、仲良くしてね〜よろしく!」

彼はニコッと笑って手を差し出す。僕は彼の手を握りながら、簡単に自己紹介する。

「僕は月城一樹。よろしく」

「よしゃ、じゃあ武器庫にレッツゴー!」

彼は僕の手を引いて、スキップしながら進んでいく。

金庫のようなドアをくぐると、たくさんの武器がずらりと並んでいた。

「好きなのを選んでいいよ〜」

「これは……」

「人間の命を狩るための武器だよ〜人間界では大鎌っていうイメージがあると思うけど、実は色んな種類の武器があるんだよ」

「へぇー……」

僕はたくさん並べられた武器に圧倒されていた。特に、あるひとつの武器に。

「これにします」

「お、お目が高いですねぇ〜これは三日月をイメージして作られた大鎌で、すんごい職人さんが作ったんだよ〜」

その大鎌は細かい装飾が施されており、美しくきらきら光っている。彼がそっとその鎌を取り、僕に渡してくれた。僕はその大鎌をしっかりと両手に持ち、胸に抱える。

「早速仕事について教えるよぉ」

彼は細かいことを丁寧に教えてくれた。死神一人ひとりにタブレット端末が配布され、そこに自分の仕事対象の人(つまり殺す人)の情報や殺す場所、時間などが送られてくる。僕らはそれに合わせて対象者を殺すだけ。楽な仕事だった。しかも、人間を殺すと言っても、死神になると心臓辺りに見えるようになる、命の糸を切るだけだ。僕は淡々と仕事を行った。死んでいく人々に、最初は少し申し訳無さを覚えていたが、今ではやりがいを感じれるようになった。そんなときだった。彼女と会ったのは。


ある病院に、人の命を狩るために行った時、どこからか視線を感じた。死神は人間には見えない。だから普通は人間界では視線を感じないはずなのだ。僕は不思議に思いながら視線を感じたほうを向いた。すると、ある少女と目が合った。彼女はニコッと笑って、こちらに近づいてくる。

「こんにちは〜」

周りの人は僕に挨拶する彼女を見て、困惑の表情を浮かべる。しかし、彼女は構わず僕に話しかける。

「お兄さんは死神なんですか?」

「えっ……」

「そうなんですか?」

「ま、まぁそうですが……」

「やっぱり!ふふ、そんな気がしてたんです。今日もお仕事ですか?」

「ええ、そうですが。君はなんでそう思ったんですか?僕が死神だと。」

「貴方がお見舞いに行った患者さんは貴方が居なくなったあとに絶対亡くなってるんですよ?そんなこと、死神にしか出来ないですよ〜」

彼女はさも当たり前のようにそう言った。周りの人は、彼女を見て怪訝そうな表情を浮かべている。しかし、僕は質問を投げかけた。

「怖くないんですか?僕のこと。」

「はい、だって人間は死ぬ運命ですからね〜」

僕が見える人も初めてだが、僕のことを恐れないことにとても驚いた。もし僕が彼女の立場ならば、怖くなって見えていても話しかけないだろう。

「君は、何者なの?」

僕は思わずそう聞いてしまった。すると彼女はにやりと笑ってこう言った。

「知りたいですか?だったら話相手になってください。」

それから、僕と彼女の物語は始まった。


彼女は自分をサリエルと名乗った。彼女は入院しているらしく、いつもパジャマ姿で僕が来るのを待っていた。僕が仕事をしに来ると、彼女はニコッと笑って僕に手を振り、駆け寄ってきた。そして、黙って僕の隣で仕事の様子を見守る。その時の彼女は、いつもの陽気な雰囲気とは全く違って静かで、澄んだ湖のような空気を纏っていた。しかし、その後は大変だった。怒涛のトークは5時間に及ぶこともあった。病院であった面白い話、異世界ファンタジー、恋愛物語。たくさんの話が彼女の口から紡がれていく。さらに、数え切れないほどたくさんの話をしているのに彼女の話につまらないものはなく、聞いていて思わず笑ってしまうようなものばかりだった。そんな彼女に聞いたことがある。

「君はそのたくさんの話をどこで知ったの?」

そう言うと、彼女は得意そうにふふんと笑って自分の頭を指差した。

「ここにぜーんぶ入ってるの。」

そして、彼女はニコッと笑って話し始める。

「私、絵本作家になるのが夢だったんだ。でも、病気が見つかって絵を描けなくなっちゃった。」

彼女の口は微笑んでいたが、目には悲しさが潜んでいた。僕はそれを見て、不覚にも美しいと感じてしまった。彼女の心には、僕がなくしてしまった感情がとても綺麗に輝いていた。彼女と一緒にいることで、僕の心にもあの光が再び戻るのではないか。そんな希望さえ、抱いてしまうほどに。

それからは、毎日彼女の所に行った。彼女はいつも笑顔で死神の僕を迎え入れてくれた。

「今日はこんなことがあったんだよ!」

そう嬉々として話してくれる彼女はキラキラしていて、見ているこっちまで幸せになるようだった。彼女と話しているときだけは、昔の自分でいられるような気がした。

しかし、そんな日々も長くは続かなかった。

「君さ人間に仲いい子いるでしょ。」

サテュロスに真剣な眼差しで言われ、思わず嘘をついてしまった。

「え?いないけど。」

「そう?最近頻繁に同じ病院に行ってるから、どーしたんだろと思ってさ。」

彼は未だ少し納得いっていないようだが、それを隠すように明るく答えた。これはまずい。僕は危機感を覚えた。僕を信頼しているサテュロスに疑われるということは、他の人からすると、相当おかしい行動だったのだろう。人間と仲良くしているのがどういう影響を及ぼすかはよく分からないが、サテュロスの雰囲気からみてあまり好ましくはないのだろう。

翌日、僕は仕事終わりに彼女のところに向かった。

「実は、僕が君と仲良くしていることがばれそうなんだ。」

僕が静かに告げると、彼女はふっと視線を下げて、悲しそうに笑った。

「そっかそっか。私といると一樹さん的にはやばいよね〜」

無理に明るく喋っているせいだろう、彼女の声は裏返ってしまって、それが僕の心を強く締め付ける。

「気にしないでよ、大丈夫!一樹さんに迷惑かけると嫌だし。今までありがとう!」

彼女はいつもと同じようにニコッと笑おうとする。しかし、彼女の目には涙が浮かんでいる。そっとハンカチを渡すと彼女はハンカチは受け取らず、ゴシゴシと目を袖でぬぐって、話し始めた。

「ごめんごめん。一樹さんに心配かけないようにしてたのに。……私さ、小さい時から死神が見えてたの。だから、おじいちゃんが死ぬときも、ひいばあちゃんが死ぬときも、死ぬんだってすぐ分かった。だからさ、死神が来た時点でわんわん泣いてさ。『おじいちゃんが死んじゃうよ〜』って。だから、『死神だ!!』ってすごい気持ちが悪がられちゃって。まぁ、当たり前だよね。そのせいで友達もろくにできなくて。ずっと一人で。だからかな、一樹さんが話を聞いてくれた時、すんごい嬉しかったんだ。」

そう淡々と話す彼女は悲劇のヒロインのようで、とても見ていて苦しかった。

「……また来るよ。」

僕はそうつぶやいて、逃げるように彼女のもとを去った。

なんで僕は彼女にあんな苦しそうな顔をさせてしまったんだ。後悔の念が僕の心に押し寄せる。しかし、一方で彼女が僕を必要としていることに安堵している自分もいた。もう、何がなんだかわからなかった。僕は走った。走って、走って。肺が焼き尽くされ、足の感覚がなくなるほど走りつづけた。でも、この気持ちが収まることはなかった。むしろ、時間が経てば立つほどよりこんがらがって、何もわからなくなっていった。

その後の記憶は曖昧で、僕はいつの間にか自室のベッドで寝ていた。はっと起きると、サテュロスが隣で本を読んでいた。僕が起きたことに気づくと、彼は少し心配そうに言った。

「大丈夫?昨日、死にそうな顔で帰ってきてそのまま寝ちゃったからさぁ。」

彼の白い髪が朝日に照らされて優しく光る。僕は何も言えず、ただただ黙っていた。彼が僕に貸してくれている彼の家の一部屋は静まり返っていて、遠くで鳴く鳥の声がより静寂を引き立てていた。彼は僕の目をじっと見てから

「ボクはそろそろ仕事に行くけど、君はゆっくりしていきなよ。少し顔色が悪い。」

と優しく言った。僕はコクリと頷いてまた横になる。彼は僕にそっと布団をかぶせてから部屋を出ていった。彼が行った後、僕は布団から抜け出し端末で今日の仕事内容を確認する。今日は午後からだ。僕は目覚まし時計をつけてからもう一度布団に入り、眠りについた。


ジリリリリリリッ!!

時計の音で目が覚めると、額にじんわりと汗が浮かんでいた。きっと嫌な夢でも見たのだろう。僕はざっとシャワーを浴び、サテュロスが用意してくれていたご飯を食べてから、仕事に向かった。

仕事終わりの帰り道、僕の足は自然と彼女の入院している病院へと進んでいた。今日は空が夕焼けで血のように赤く染まり、街に暗い影を落としている。僕はゆっくりと歩きながら、彼女に最初に話しかける言葉を探していた。あんなふうに出てきてしまったからには、謝るべきだろう。そうだ、花でも持っていこうか。そう思って一旦死神界に戻り、彼女が好きそうな花を見繕ってくる。鮮やかな色とりどりのガーベラの花束を抱えながら、彼女の病室を訪ねた。すると、そこには愛剣を振りかざしているサテュロスの姿があった。僕は思わず抱えていた花束を落としてしまった。その音でサテュロスがこちらを振り返る。

「……一樹。」

そう僕を呼んだ声は今まで聞いたサテュロスのどんな声よりも泉のように澄み渡っていて、僕は何も言えなくなってしまった。

「一樹、君は人間と仲良くしすぎた。人間の命を狩るのが仕事のボクらにとってそれは大問題だ。だから……」

「この子が死ぬのはしょうがないってことか?」

僕はサテュロスの言葉を遮ってそうつぶやいた。僕の声は自分でも笑ってしまいたくなるほどかすれていて、でもそれが気にならないほど怒りに満ちていた。

「そんなの間違ってるだろう!なんで何もしていないこの子が死ななきゃいけなかったんだ!僕と話しているのが悪いっていうのか?」

「そうだよ!」

サテュロスは珍しく、声を荒げて言った。

「その子は、君の正体を知ってしまったから、君と話してしまったから、君と仲良くしてしまったから死ななきゃいけなくなっちゃったんだよ!本当はこの子は50代まで生きる予定だったのに、君と出会ってしまったせいで今死ななきゃいけなくなったんだ!君のせいで!この子は今死んだんだ!」

サテュロスが肩で息をしている。僕は再び言葉を失った。僕のせいで、彼女の寿命が縮んだ?僕のせいで?信じられない。あれほど楽しかった日々が、全て、無駄になってしまったのか?そんな。嫌だ、なんで。もう、僕は正常に物事を考えられなくなっていた。僕の手が、自分の仕事道具である大鎌にのびる。美しい装飾の施されたその鎌は夕焼けに照らされきらきらと輝いている。僕はその刃を自分の首にそっと添えた。サテュロスが唖然とした表情を浮かべている。

「何をしているの一樹!やめてよ!ボクが言い過ぎた!」

彼は必死に僕を止めに入る。しかし、もう遅かった。鎌の刃は僕の首に深々と刺さり、血で赤く染まっている。僕は最後の力を振り絞って自分の首を切り離す。すっと鎌が僕の命を絶つ瞬間、僕は彼女に会えた気がして、でもそれは錯覚だとわかってしまって。その感傷に浸る時間もないまま、僕の命の糸はぷつりと切れた。


一樹の落ちた首を見ながら、サテュロスは歯を食いしばっていた。ボクはいつも冷静に物事を考えられるたちだった。なのに、こんな事になってしまった。クソっ。心の中で自分に毒つく。でも、もう2つの命は燃え尽きてしまった。ボクはせめてもの報いに、ふたりの亡骸の目を閉めて、そっと横たわらせた。すると、少女の枕の下に何かが隠されていることに気がついた。なるべく動かさないようにそれを抜き取る。ノートのようだ。表紙を見てみると、『日記』と少しいびつな文字で書かれている。パラパラとめくってみると、絵本になっているようだった。そして、最初のページにはこう書かれていた。

「一樹さんへ

 私が死んだら、この本を読んでください。私のはじめての作品です。結構頑張ったけど、絵が下手なのは許してね。病気じゃないときはもっと上手かったんだから!(笑)ほんとはね、病気になってから、絵なんて描きたくなかった。うまく動かない手を使うのって、すごく怖いことだから。でもね、一樹さんがいたおかげで、頑張ろうって思えた。一樹さんがいたから、自分とちゃんと向き合えた。ほんとにありがとう。私が死んでも、一樹さんはいつまでも元気でいてね。黄泉の国で会えるのを楽しみにしてます!サリエルより」

サテュロスはいつの間にか涙を流していた。そして、こう静かにつぶやいた。

「一樹、人間は君が思っているより……」

遠くでカラスのなく声が聞こえる。その鳴き声がやんだころ、2つの儚い命は月に帰っていったのだった。

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