航海王子エンリケの冒険

紺野理香

航海王子エンリケの冒険

1 密航者エンリケ


 夜のがらんどうの空間を渡って、鋭い鳥の声が耳に届いた。

 抱えた膝に頭を乗せていたテオフィロは、はっと肩を起こす。いつのまにかうとうと眠り込んでしまっていたのだ。

 光の差さない暗闇にうずくまり、緩やかな上下の振動に揺すられていると、体を満たす物質と周囲の闇が、体の境界線を越えてゆっくりと入り混じっていくような気がする。体の輪郭がまだ形作られていなかった生まれる前に戻って、透明な重い液体に満たされた卵の中で眠っているようだ。

 暖かい息が感じられるほどすぐ近くで、闇が身じろぎをした。子供の小柄な体の線が、淡く浮かび上がる。かたわらにうずくまっていたエンリケが、テオフィロをからかった。

「テオフィロ! お前、ぐうぐういびきかいて寝てたぞ。恥ずかしいな」

「ぼくがいびきをかいてたなんて信じられないな。工房の人たちは、眠ってるときのぼくがあんまり静かすぎて、死んでるみたいだって言うよ」

 テオフィロが言い返すと、隣のエンリケは「嘘だよ」と声を殺して笑った。

「さっき、鳥の声が聞こえた。夜明けが近いのかな」

 まだ声変わりする前の声は、ひそひそとではあるけれど、生き生きとしてテオフィロにささやきかける。闇に隠されてはいるが、テオフィロには、少し年下の友達の頰が興奮でりんごのように赤く染まっている様子が見えるようだった。

 エンリケは偉そうに注意した。

「船乗りは朝が早いから、もうじきここにも仕事をしに降りてくると思う。そうしたら、体をなるべく小さく縮めて、一言もしゃべるなよ。気づかれないように」

「わかってるよ。船員に見つかったら大変だ」

 テオフィロがうなずくと、エンリケは重々しく言った。

「いくらおれが王子だからって、海に放り出されるかもしれないぞ。密航は重罪だからな」

 大陸の西の端の半島に、トリスタンという豊かな王国がある。その都の白亜の王城で、国王の一人息子であるエンリケ王子は、幸せな生活を送っていた。

 しかし夏の初めのある日、エンリケは何不自由のない暮らしを抜け出して、危険な航海に出ることに決めたのだった。たった一人の親友であるテオフィロとともに。


 六月の陽光が、緑の葉を茂らせた桜の枝を通って、舗道の敷石に木漏れ日をつくる。舗道の端は深く切れて、ゴンドラの通う運河になっている。水面にちょっと背を出して竜が泳いでいるように、長い水草の束が、緑の水に合わせてゆうらりと流れていた。

 古びた電信柱が影を落とす通りを、エンリケは頰を熟れたりんごの色に染めて走っていた。年は十一歳になったばかり。海の青色をした目とさらさらの金髪が、日差しを受けてきらきらと輝いている。背中にはちきれそうな古い革の鞄を背負っていた。

 エンリケは、前庭に青いあじさいを咲かせた家と教会の間の細い路地に入り込んだ。大人には入ることのできない路地を通り抜けた先には、小さな公園ほどの空き地がぽっかりと開けていた。

 レンガ塀で囲まれた空き地の中心には、一風変わったモニュメントがそびえている。よく観察すれば、小屋に見えなくもない。竹と木で作られたその不思議な小屋の前に立って、エンリケは大声で呼びかけた。

「テオフィロ、いるんだろ? おれだ!」

 エンリケの頭より高いところに貼られた板ががたがたと外れて、小屋の二階からテオフィロの頭が飛び出した。癖のある茶色の前髪の下で、小さな目が嬉しそうに輝く。

「エンリケ! よく来たね。どうぞ、入って」

 エンリケは、怪物の頭のノッカーのついたドアを開けた。目と鼻の先に現れたはしごを上る。

 板張りの床にはい上がろうとすると、テオフィロが手を引っ張って手助けした。天井は、大人なら頭をぶつけてしまいそうな高さだが、エンリケは、かがまずに立つことができた。

「あいかわらず、とっ散らかったところだなあ」

 テーブルとソファを置けば、それだけで埋まってしまうような狭いスペースだ。しかし、壁に下がったかわいらしい柄の布や、棚に置かれた小さなブラウン管テレビと怪獣のフィギュアが、居心地のいい雰囲気を作り出していた。隅に立てかけられた黒板に、飛行機の設計図がチョークで描かれている。

「ようこそ、ぼくのがらくた置き場へ」

 テオフィロがにこにこと笑いながら言った。

 この小屋は、細工師の卵であるテオフィロの小さなアトリエなのだ。テオフィロはここで、一人で集中して細工の仕上げをしたり、実地に新しい技術を試したりしている。

 のっぽのテオフィロは、だいぶだぶついた派手な柄のシャツを着て、長すぎるベルトでズボンを締めている。胸に、何をかたどっているのかはっきりしない怪しげなペンダントを下げていた。

「まあ座ってよ。ちょうどお茶を沸かしたところだったんだよ。砂糖はいくつ?」

「じゃあ、三つ」

 コンロの上のやかんが、しゅんしゅんと湯気をはいている。テオフィロは、いい香りのするお茶をブリキのコップに注ぐと、甘党のエンリケのために角砂糖を三つ落とした。

「はい、どうぞ」

「サンキュ」

 エンリケは、熱いお茶を吹いて冷ますと、おいしそうにすすった。

「先に工房に行ったら、仕事は午前中に終わったっていうから、こっちに来たんだ。でも何が秘密基地だよ。親方から雑用係まで、ここのことみんな知ってたぜ」

「秘密基地なんて呼んでるのはエンリケだけだよ。別にぼくは秘密にしてないもの」

 テオフィロはおかしそうに言うと、テーブルの上に飲みかけのコップを置いた。ソファを立って、さっき外を見るために外した板と壁の穴を見比べる。

「やっぱりちゃんとした窓が必要だよね。ステンドグラスをはめたら素敵だろうなあ。虹色の光が床に映って。ガラス細工は作ったことがないから、一から勉強しなくちゃ」

「テオフィロは勉強熱心だなあ。今日も図書室の本、かっぱらってきたぜ」

「助かるけどさあ、きみ、もっと言い方ってものがないの」

 エンリケは、鞄から大きくて分厚い本を数冊取り出して、机の上にどさっと置いた。本がまとっていた埃とともに、古い紙の匂いがふわっと舞い上がる。

「読んだらちゃんと、お城の図書室に返すんだから、かっぱらいなんかじゃないよ」

 文句を言いながらも、テオフィロは嬉しそうに本を手に取り、ぱらぱらとめくり出す。

エンリケは机に頬杖を付き、上目遣いに親友の楽しそうな顔を見上げた。

「ったく、借りるのも返すのも、誰がやってやると思ってんだ。いっつも、重たい本ばっか借りやがって」

「エンリケには、すごく感謝してるよ。お礼といってはなんだけど、枇杷の実をあげよう。この空き地に生えてる枇杷の木からとれたんだけど、すごく甘いんだよ」

 テオフィロはにこにこして、ざるにいっぱいの枇杷を取り出した。オレンジ色によく熟れた枇杷の実はみずみずしくて、確かにおいしそうだった。テオフィロが、枇杷の皮を剥きながら言う。

「早く泥棒が捕まって、またお城の図書室が開放されるといいんだけど」

 王城には、広い図書室がある。トリスタン一の蔵書数を誇り、国民や旅人に開放されているのだ。しかし先日、この図書室の一部が何者かによって荒らされる事件が起こった。それ以来、盗まれた本を調査するために、図書室は閉鎖されているのだ。

「図書室だけじゃなくて、お妃さまの実験室にも泥棒が入ったんでしょう?」

 テオフィロが、エンリケに気づかわしげな視線を向けた。お妃さま、つまりエンリケの母は、エンリケが生まれて間もなく亡くなっている。生前は科学者として有名な人で、失われた過去の科学技術を復活させようと、研究に取り組んでいた。

 エンリケは、両手を頭の後ろで組んでソファにそっくりかえった。

「ああ。母さんの実験室になんて、いったい何の用があったんだろうな。あんなとこ、いまじゃ埃をかぶったでっかい実験装置やら、読めない研究ノートしかないのに。母さん、絶望的に字が汚かったみたいだからさ。ここだけの話、図書室で荒らされてたのも、母さんの集めた専門書だったんだよ」

「ふうむ。これはミステリーだねえ。亡くなったお妃さまの研究について探る、泥棒の正体とはいったい」

 テオフィロは、いにしえのハードボルド探偵の物真似を決めこみ、ティースプーンを煙草に見立てて、口の端でくわえてみせる。

「これは、研究の内容に手がかりがありそうだね。お妃さまは、生命がどうやって発生するか、とかについて調べていたんじゃなかったっけ」

「さあ。難しいことはおれにはわかんねえよ」

「ふうん。そうそう、話は変わるけど、今日、仕事の休憩時間に、とっても大きな鳥が空を飛んでいるのを見たよ。近くに浮かんでる雲と変わらないくらいの大きさだった。おとぎ話に出てくる怪鳥ロックを思い出したよ。家一軒くらいもある巨大な卵を産んで、ひなには餌として象を与えるっていう、あの」

「飛行機と間違えたんじゃなくてか?」

「ううん、あれは間違いなく生きた鳥だった。郊外の森に降りていったみたい。どこから飛んできたんだろう。大陸の端には、あんな伝説の鳥もすんでいるのかな」

 壁に空いた穴から気持ちのいい風が入ってきて、テオフィロの癖っ毛を撫でる。海に近いこの街に吹く風は、潮風だ。遠い目をして街の向こうの海を眺めるテオフィロの横顔を、エンリケはじっと見つめた。

「なあ、テオフィロ、大陸の端まで伝説の鳥を見に行こうぜって言ったらどうする?」

「えっ?」

 テオフィロは、目を丸くしてエンリケを振り返った。エンリケは真剣な顔をしている。

「父さんが今度、東の海に船を出すんだ。おれとテオフィロも乗りこもうぜ」

 エンリケの父といえばもちろん、トリスタン王国の国王だ。寛容で賢い国王として、国民から慕われている。加えて、唯一の全能神を信じる天主教の敬虔な信者であり、天主教の守護者として大陸に名高い。

 しかし、日頃のエンリケは、ほとんど父王の話をしない。ティファンには、エンリケが国王とどんなふうに会話するのか、想像もつかなかった。

「知ってるよ。航海に出る船を作ったのは、うちの工房だもの。半月の都ルーニアンに行くんでしょう。でも、きみが旅に出ることを王さまが許してくれたなんて意外だな。きみは、トリスタンのたった一人の王子なんだから、もしも万が一何かあったら大変なのに」

「父さんは、許してくれてねえよ」

 エンリケがけろりとした顔で言うので、テオフィロは、ええっと大声を上げた。

「ほかの国が見てみたいって頼みこんでも、いいって言ってくれないから、船にこっそり忍びこむことにした」

「それって、ずばり密航じゃないか」

「細かいことをごちゃごちゃ言うな。いいか、おれはいつか、この国の王になる。即位する前に世界を見て、見識を広めておかなきゃいけないだぞ。んでテオフィロ、お前もだ」

 エンリケに、ずびし、と指さされて、テオフィロは、はっと背中を背もたれに寄せる。

「なんでぼくも一緒なのさ」

「旅の途中できれいな景色やおいしい食べ物に出会ったとき、一緒に分け合う仲間がいないと、つまんないだろ」

 そんなこと真面目に言われても恥ずかしいよ、とテオフィロは顔を赤らめた。エンリケは、ときどき恐ろしくまっすぐだ。テオフィロはなるべく、しぶしぶという感じを出しながら答えた。

「わかったよ。そのかわり、密航がばれたら、ぼくは王子さまに脅迫されたんですって言わせてもらうからね」

「ふざけんなよ。一蓮托生だろうが」

「……一蓮托生なんて難しい四字熟語、よく知ってるじゃん」

 テオフィロは、自分より背の低い友人の目を見つめた。遠い海の青色。内にこもりがちなテオフィロを、どこまでも遠く連れ出してくれる、ずっと昔から大好きな青色だ。

「船出の前に見つからないように、うまくやってよね」

「当たり前だ。王子さまに任せとけ」

 二人だけのアトリエで、エンリケとテオフィロは笑いあった。


 いよいよ夜明けが近いらしく、船倉にいるエンリケとテオフィロも、お互いの表情がぼんやりとわかるほど明るくなっていた。高く鳴き交わす海鳥の声が聞こえる。

 王さまがルーニアンに派遣する三隻の船は、夜明け前に出向することになっていた。昨日の夜は、港で盛大な送別会が開かれた。豪華な食事が出て、最後には花火も上がった。エンリケとテオフィロは、その送別会のにぎやかさに乗じて、船に乗り込んだのだった。

「もう出航したみたいだな」

「船倉だと、エンジンの音が直接響くね。これ、うちの工房自慢の強力なエンジンなんだよ。……工房の人たち、もうぼくがいないことに気づいたかな。きっと怒るだろうなあ」

 テオフィロの気弱なつぶやきに、エンリケは怒った顔をした。

「そんなこと覚悟の上の密航だろ」

「エンリケの場合は、怒られるよりもすっごく心配されるよ、絶対」

 二人は、顔を見合わせてため息をついた。

「まあ、いまさら言ったって仕方ないさ。船員が来ないうちに朝飯でも食おうぜ」

 そう言うと、エンリケはさっさと荷物の包みを開けて、パンをぱくつきはじめた。テオフィロもりんごを手には持ったものの、少しためらう。

「ぼくはどうしようかなあ。いまのところ、船酔いはしてないけど、気温が上がると気持ち悪くなるかもしれないし」

「食べないと力が出ないぞ。いつ船員と追っかけっこになるかもわかんないんだから。いまは吐くことなんて気にすんな」

「豪快なことを言うね。でも、船員に見つかったら最後、船の上に逃げ場なんてないんだよ」

 テオフィロが、りんごにかじりついたそのとき、船ががたん、と揺れた。

「な、なに?」

 テオフィロは、うわずった声を出す。エンリケは、腰の剣に手を触れて身構えた。

 耳を澄まして上の状況を探る二人に聞こえてきたのは、甲板を走り回る船乗りたちの足音と怒号だった。中でも、張りのある女の人の声が耳に飛び込んでくる。

「総員配置につけ! 全速全開!」

「アドラの声だ! 何があったんだろ」

 エンリケが、三隻の船を束ねる船長の名前を挙げる。

「海賊相手に怯んだら、お前ら全員はっ倒すぞ!」

「海賊⁉️」

 二人が叫んだ途端、船に衝撃が走った。小柄なエンリケが、揺れに体勢を保てずに、床に転がる。その肩をがっしりと支えたテオフィロは、すっかり浮き足立っている。

「ど、どうしよう、エンリケ。この船、沈められちゃうのかな」

うろたえたテオフィロの声に、上の船乗りたちの怒鳴り声がかぶる。

「二号船が砲撃を受けたぞ!」

「なんとしてでも逃げ抜いて、やつらにこちらの船に乗り込ませるな!」

「この声は、ベルトランとオスバルドだな」

と、エンリケはつぶやき、舌を噛まないように歯を食いしばった。

 どうやら、逃げ切ろうという船乗りたちの作戦は失敗したらしい。一際大きな揺れが来ると、荒々しい雄叫びが聞こえて、頭上の甲板にたくさんの人の足音が入り乱れた。

 エンリケたちの船は、海賊に攻め込まれてしまったらしい。不利な状況だ。

「ちょっと待ちなよ、エンリケ!」

 テオフィロは、慌てて叫んだ。その手をすり抜けて、エンリケは甲板へと続く急な階段を駆け上がっていってしまう。王子の手は、宝石で飾られた細身の剣を強く握りしめていた。放っておけず、テオフィロも、命より大事な仕事道具の入った鞄を抱えて後に続く。

 階段を上った先では、トリスタン海軍の白い制服をまとった船乗りたちと、潮風で髪がばさばさの日焼けした男たちが、剣を打ち交わしていた。すでに傷を負って、腕や足から血を流している者もいる。つばめのごとく翻り飛びちがう白刃に、テオフィロは、棒を飲み込んだように立ちすくんだ。

船首の先の水平線が赤く染まっていた。空が、急速に青く透き通っていく。

朝日が大海に投げかけた、一番最初の光を剣先に宿して、エンリケが戦場に切り込んだ。

「はああっ」

 小柄で身軽なエンリケは、大剣を頭上に振り上げた大男の胸元にまっすぐ飛び込んで、海賊をたまらず後ろに飛びすさらせた。体勢を立て直す暇も与えずに踏み込んで、海賊の手の甲に傷を負わせる。大男は、思わず剣を取り落とした。

 王子は振り返って、背中に迫っていた剣先を、自分の剣でそらす。背後に襲い掛かった海賊が、バランスを崩して前かがみになったところを狙って、額を浅く切りつけた。傷は大したことはないはずだが、血が大量に出て、海賊は目を開けていられなくなる。

 エンリケの活躍に目を見張るテオフィロを、一人の海賊が襲った。テオフィロは、わっと叫んで、自分の鞄を見境なく振り回す。重い鞄で脇腹を強く打たれた海賊は、ぐふっとうめいて、動きを鈍らせた。テオフィロの鞄の中身は、とんかちなどといった重たい鉄製の工作道具一式だったのだ。

「ちくしょう、このやろう!」

 海賊は脇腹を押さえながら、テオフィロに片手で剣を振り下ろした。

「がきに手を出すたあ、海の男の風上にも置けねえな」

 海賊の剣を受けとめたのは、海軍の制服を着た、若い赤毛の男だった。赤毛の男は腕に力を込めると、つば迫り合いのまま海賊を押しまくり、ついに甲板の際まで追いつめて、海に蹴り落としてしまった。

「運がよければ、どこぞの船に拾ってもらえるだろうさ」

 赤毛の男は、ふっ、ときざに笑ったが、すぐに眉間にしわを寄せた。

「おいおい、なんでこんなところにエンリケ王子がいる?」

「いいぞ、エンリケ!」

 テオフィロが、歓声を上げた。

 エンリケは、背中に人魚の刺青を刻んだ海賊の攻撃を、紙一重でかわした。ととと、と軽いステップで距離を詰める。

しかし、反撃に移ろうとしたとき、足の骨を抜かれてしまったかのように、唐突にすとんと甲板に膝をついてしまった。テオフィロが青ざめる。

「いけない、エンリケの電池が切れちゃった!」

「覚悟しろ、小僧!」

 刺青の海賊が、乾燥のためにひび割れた唇に、いやな笑いを浮かべた。

 そのにやにや笑いが消える前に、大きな破裂音がして、海賊の左肩から血が噴き出した。「背中の人魚に血の涙を流させたくなかったら、おとなしくしろ、賞金首」

 刺青の海賊の後頭部に、船長のアドラシオンが、銃の筒先を突きつけていた。三十代ほどの、上背のある女性だ。毛先をリボンでまとめたダークブラウンの髪を、背中に払い上げて船長は、ほかの二隻の船まで聞こえるような大音声で叫ぶ。

「きさまらの親玉は捕えた! もはや抵抗しても無駄だ! 降伏しろ」

 制服姿の船乗りたちと打ち合っていた海賊が、悔しそうな声を上げて投降する。船員たちは、海賊に次々と縄を打った。

「トリスタン海軍の船に手を出すとは、当然こうなることも覚悟の上だっただろうな」

 トリスタン王国の海軍の勇猛さは、大陸にとどろいている。

「くそっ、いまに見ていやがれ」

 毒づく海賊の頭領に、アドラシオンは鋭い目線を浴びせた。

「きさまの行く先は絞首台だ。オスバルド、縛り上げておけ」

「へいへいさー」

 赤毛の男が、鼻息荒く抵抗する海賊の親玉を押さえつけて、帆柱に縛りつけた。

「こんな依頼、引き受けるんじゃなかったぜ」

 荒縄に巻かれた海賊の親玉が、吐き捨てる。そのセリフを耳に挟んで、アドラシオンは、形のいい細い眉をひそめた。

「聞き捨てならんな。それはどういう意味だ」

 問いただすが、海賊の親玉はそっぽを向いて答えない。船長は、怪訝な気持ちに一旦蓋をして、「負傷者の手当てを」と、船員に指示を出した。

 副船長のオスバルドが、もじゃもじゃの赤毛を片手でかき回す。

「まったく、船出した途端に海賊どもが襲ってくるとはな。かわいいディアナとの涙の別れに、おれさまをしみじみ浸らせてくれよ」

「おい、でかい赤毛。そのかわいいディアナとやらはどこにいるんだ」

 船室の扉が開いて、白いシャツをベルトで締めた、足の長い青年が甲板に出てきた。ゆるくウェーブのかかった長めの黒髪が潮風にあおられる。青年は白い手袋をした右手で髪を整えた。

 オスバルドは、自慢の赤毛の頭を指さした。

「この中さ。おれのディアナの真珠のような涙を薬としてつけたら、てめえの曲がった性根も治るんじゃねえか」

「たわごとは妄想の中だけにしておけ。脳内にいる彼女と、どうやって別れるというんだ」

「この航海から帰ったときには、ディアナのやつ、また一段ときれいになっているだろうな。お前がトリスタンに帰っても、待ってるのは埃だらけの本としわくちゃのじいさん学者だろうが」

「少なくとも私は、現実の恋人をつくるわ」

 ベルトランは、声を荒くした。赤毛の船乗りは、うとましそうな顔つきになる。

「だいたい、なんでこのおれさまがてめえを守らなきゃならねえんだ」

 ベルトランは、好青年ふうの顔に、にこりと笑みを浮かべた。

「私は、国王陛下から重要な任務を任された学者だからな。私が無事、知の都ルーニアンまでたどり着くように、せいぜい身をていして護衛してくれ」

「へーへー、顔だけ聖人君子の学士さま」

 ベルトランの陰から、おさげ髪の少女がひょい、と顔を出した。

「海賊はやっぱり退治されたのね。ルーニアンまでの旅路は安全って、占いに出てたもの」

 黒髪を揺らして、左右を見回した少女は、エンリケの姿を見つけて、表情を固まらせた。

「どうして、ここに王子さまが?」

 テオフィロは、甲板に座り込むエンリケに駆け寄った。王子は、剣をさやに収める力も湧かないようで、ぐったりしている。テオフィロが抱き起こすと、息は浅く早く、激しく運動したあとなのに顔色は真っ青だった。

「エンリケ、大丈夫?」

「いつもの、こと、だろ」

「きみは体が弱いんだから、あまり無理しちゃいけないんだ」

テオフィロは、めずらしく強い口調でたしなめた。

「それよりおれ、かっこ、よかっただろ?」

 エンリケは、テオフィロの心配も意に介さず、蒼白な顔にうっすらと笑みを浮かべる。テオフィロは、仕方ないなあ、というふうに笑って、

「そうだね、歴戦の将軍みたいだったよ、エンリケは」

と、友人を褒めた。

 背後に足音が響いて、テオフィロは振り返った。そこには、怖い顔をしたアドラシオンが仁王立ちしていた。

「王子。船医を呼びましょうか」

 顔に赤みが戻ってきたエンリケは、テオフィロの腕から体を起こして首を振る。

「それでは、あなたたちがなぜこの船に乗っているのか、聞かせてもらいましょうか」

 エンリケとテオフィロは、そろってうつむいた。




2 巨鳥と少女


 トリスタンの都を出港した三隻の船は、テーベの町に寄港することになった。捕らえた海賊をしかるべき役所に引き渡し、海賊船の砲撃を受けた二号船を修理するためだ。

 人魚の刺青をした海賊の親玉が、官憲によって引き立てられていくのを眺めながら、アドラシオンは、太い葉巻を口にくわえた。

「今回の奇襲のことを、親玉が依頼と口走ったことは気になるな。だが、子供がいる船で、やつを拷問するわけにもいかん。取り調べは、テーベの役所に任せるしかないな」

 隣で、オスバルドが腕を広げる。

「子供がいないときには、拷問してるみたいな口振りをせんでくださいよ」

「うるさい。火をよこせ」

「へいへい」

 オスバルドが、マッチで葉巻に火をつけると、アドラシオンは煙をうまそうに吸い込む。そして、盛大にむせ返った。

「ばか。まずいじゃないか!」

「漫才でもやってるんですかい、船長。だから、吸い慣れねえものを、かっこつけて無理に吸わねえほうがいいって言ったでしょうが」

 オスバルドは船長をたしなめて、さっさと葉巻を取り上げる。アドラシオンは、いがらっぽい喉を咳払いで整えて、会話を続けた。

「とにかく、海賊の襲撃は怪しいことだらけだ。トリスタン海軍の旗が掲げられた船に、わざわざ戦いを仕掛けてくるとは、よっぽどの目的があったのか」

「暗くて旗が見えなかったんじゃねえですか」

 アドラシオンは、船を下りて、波止場でしょんぼりと肩を落としている、エンリケとテオフィロに歩み寄った。

「テーベに寄港したのは、あなたたちのことを国王陛下に報告するためでもあるんですからね」

 密航の件が、国王の耳に入ると聞いて、二人はすくみあがった。アドラシオンが腕を組んで、厳しい声で言い渡す。

「海賊を前にして勇敢に戦ったことに免じて、海に放り出すのは勘弁してあげましょう」

「がきに甘い船長が、そんなこと、はなからできるはずもねえや」

 そっぽを向いて言う赤毛の部下を、アドラシオンがにらみつける。エンリケが、決心したように顔を上げて、頼み込んだ。

「お願いだ、アドラ! おれたちをトリスタンに送り返さないでくれ!」

 テオフィロが、「エンリケ……」と、ひかえめに王子の袖を引いた。

「無理な相談ですね。国王陛下が心配します」

「この船は、東天紅を目指しているんだろう? おれはどうしても、東天紅に行かなきゃいけないんだ!」

 アドラシオンは、思ってもみないことを言われたように、目を見開いた。

「王子、どうしてそれを?」

「エンリケ、東天紅ってなに?」

 テオフィロが尋ねるのにも答えないで、エンリケはアドラシオンをにらみあげる。船長は、すぐに平静を取り戻した。

「東天紅に行かなければならない理由とは?」

「……言いたくない」

「話になりませんね」

「……と、東天紅にいるっていうかんらん姫に、ききたいことがあるんだ、どうしても。それ以上は言えないよ」

 こちらを見上げるエンリケの目に、アドラシオンは絶対に引かないという決意の色を見た。船長は、軽く両目をつぶってから言った。

「仕方ありませんね。密航の罰は、旅を終えるまでの間、船でのただ働きの刑に処することにします」

「やった! それって、旅についていっていいってことだよな!」

「そのかわり、ほかの船乗りと同じように、しっかり働いてもらいますからね。わかったら、町でも見にいってきなさい」

「ありがとう、アドラ!」

「船長と呼びなさい」

 エンリケは有頂天になって、テオフィロは厳しい罰を申し渡されなかったことにほっとした様子で、一緒に町へと駆けていった。

 オスバルドが葉巻の煙を気だるげに吐いた。

「ほうら、船長はやっぱりがきに甘い」

「うるさいぞ」

「さて、ディアナに髪飾りの一つでも買ってやりてえ。俺も町に行ってきていいっすか」

「妄想の恋人には、妄想の町で買う土産で十分だろう。お前は船で残業だ。足りない物資の確認を済ませておけ」

「人づかいの荒いこった」

 オスバルドが不平を漏らす。アドラシオンは、小さくなっていく二人の少年の背中を目で追いながら、誰に聞かせるともなくつぶやいた。

「王子はなんと、あいつに似ていることだろうな」

「なんですかい、船長」

「お前に話しかけたわけじゃない、ばか」

 アドラシオンは、船に戻ろうときびすを返した。


 陸地にすむ種類の鳥が、船の帆柱をかすめて飛んでいく。二週間と少しの船旅の末に、トリスタンを旅立った三隻の船は、目的地ルーニアンにたどり着こうとしていた。

 甲板から見晴らせば、海は、近いところから遠いところにかけて青色の濃淡を異にしている。ずっと遠くのほうに、白い帆を掲げた商船が見える。

 エンリケとテオフィロは、『ほかの船乗りと同じように、しっかり働いてもらう』というアドラシオンの言葉どおりに、甲板掃除を申しつけられていた。子供の背丈には少々大きいモップを、持て余し気味に動かしながら、エンリケが不平を漏らす。

「ったく、王子をこき使うなんて、性悪船長だよな。こんなに日差しの強いところで働かされて、体の弱いおれが熱中症にでもなったらどうしてくれるんだ」

「ちゃんと日陰で水を飲むようにとも言われてるじゃんか。ちょっとエンリケ、この木箱を動かすの手伝ってよ」

 テオフィロが、甲板に置かれた荷の下まで几帳面にモップをかけようとする。

「休めって言ったって、その日陰にはもう先客がいるじゃねえか」

 エンリケが、モップの柄でくいっと指した先には、天幕がわりに麻布の張られた日陰があり、そこにはおさげ髪の少女が座って、何か作業をしていた。少女は、複雑な幾何学模様の描かれた上衣と長いスカートを身にまとい、腕や首にたくさんの装身具を下げている。

「恩情をかけてもらいながら、船長に対してそんな言い方はないんじゃないですか。まあ、日頃からそんな態度だから、わたしは、あなたがいつかとんでもないことをしでかすんじゃないかと思ってましたけど」

「この子は?」

 テオフィロが、不機嫌そうに少女をにらみつけているエンリケに尋ねた。

「エリカだよ。いつも話してるだろ、城のいんちき占い師さ」

「ああ! いつもエンリケと口げんかばっかしてるっていう、あの? エンリケとお城で一番仲のいい女の子なんだよね」

 合点のいったようにうなずいたテオフィロの頭を、エンリケははたいた。

「仲良くねえよ!」

「仲良くないです!」

 声がかぶったことに気づいたエンリケとエリカは、互いにそっぽを向いた。

「ふふふ。エリカ、友達には素直にね」

 好青年ふうの顔に笑みを浮かべて、甲板にふらりと現れたのは、白いシャツを折り目正しくチェックのズボンにしまった学者のベルトランだった。この暑いのに、両手からは古書を扱うときにはめるような白い手袋をはずさない。

「ベルトラン、王子さまは王子さまです。友達なんかじゃありません」

 エリカがむっとした顔を日陰の下から出すと、ベルトランは、思ってもみないことを言われたような顔をした。

「え? じゃあ、エリカには友達が一人もいないことになっちゃうじゃないか」

「ベルトランは、本当にデリカシーがないですね。わたしは占いの修行で忙しいんです。友達と遊ぶ暇なんてありません」

「へっ、そんな貴重な時間を割いて内職してんだ」

 エンリケが鼻で笑ったとおり、麻布の作る日陰の下でエリカがしていた作業とは、造花作りだった。占い修行で忙しいはずの少女は、エンリケをにらみつけながら、ちまちまと造花の花びらを整える。

「……お城のための占いは、お金をもらってないんです。昔わたしを拾ってくれた、恩返しですから」

「占いを外しまくって、仕事が回ってこねえだけじゃねえか」

「まあまあ、それくらいにして。王子、国王陛下からのお手紙が届きましたよ」

 げっ、ともぐっ、ともつかない声を上げて、エンリケが固まった。エリカが、小気味よさそうに王子を見る。

「ト、トリスタンの城からここまで二日で手紙が届くなんて、ずいぶん早いな」

「地球上に電子網(インターネット)が張りめぐらされていた三百年前なら、二秒とお待たせしなかったのですが」

ベルトランは、父王からの手紙の内容を手にして咳払いした。

「『お前には、トリスタン王国の皇太子としての自覚が足りん。厳しい船旅で、その甘えた性根を叩き直してこい』だそうです。さすが、元軍務大臣ですね。実の息子である皇太子に向ける言葉といえど、手厳しいものです」

 エンリケは、新品の靴で、異臭を放つ銀杏を踏みつけてしまったような顔をする。エリカが、勝ち誇った表情でエンリケを指差した。

「ほら! わたしが今朝占いで見たとおり、王子さまは国王さまにしかられましたー!」

「そんなこと、占いで予言するまでもなく、わかるだろうが!」

 エンリケが、エリカにかみつく。テオフィロは、苦笑いで二人をなだめて、エリカに話しかけた。

「ぼくはテオフィロ。ねえ、明日の天気を見てくれない? 船長から洗濯を頼まれてるんだけど、洗濯物を甲板に干そうか迷ってるんだ」

 父王の手紙からのショックから素早く回復したエンリケが、大げさに首を振る。

「テオフィロ、やめとけやめとけ。そいつ、天気占いだけは百発百中だけど、いつも決まって雨になるんだ。まるで、エリカが占ったせいで天気が変わったみたいにだぜ」

「めったなこと言わないでもらえますか。営業妨害で訴えますよ」

 エリカは、エンリケに文句を言った。

「王子さまの仰せですから、天気を占うのはやめておきます。かわりに、もうすぐ到着するルーニアンの様子でも見てみましょうか」

 エリカは、日陰の隅のほうから、大きな機械を大事そうに取り出してきた。茶色の木の箱の上に、金属のラッパ形の物体が取りつけられている。古びた蓄音機に見えた。エリカは、得意げに説明した。

「この蓄音機は、このラッパ形の金属部分で、地球上に飛びかう無数の電波を拾い集めてくれるんです。電波に合わせて木箱の上の針が動いて、その下の紙にかき傷を作ります。そのかき傷をうまく読み解けば、未来のことでもなんでもわかるんですよ」

「地球上に飛びかってる電波?」

「三百年前まで、人間は電波を利用して通信してたんです。その電波が、空のずっと高いところと地上の間で、宇宙に出ていくこともできず、ずっと反射し続けています。わたしの占いは、それを利用するんです」

エリカは、銀の耳飾りを揺らし、楽しそうに蓄音機のスイッチを押す。蓄音機の針が、がたがたといまにも壊れそうな音を立てて、巻き紙の上にぎざぎざの線を刻みはじめる。

「どうせ、人がにぎやかに歩いてるとか、適当なこと言っとけばいいと思ってんだろ」

 エンリケが茶々を入れる。それを無視してエリカは、蓄音機の針が生み出す山形の線を、息を凝らして見守る。突然、がたんと大きな音を立てて蓄音機が暴走した。

それまで規則正しい線を描いていた針が、紙を無残に切り裂いていた。

「——炎と、黒煙」

 エリカが、不意につぶやいた。占い師の少女の顔を見たテオフィロは、ぎょっとする。長いまつげに縁取られた大きな黒い瞳は、魂がここにないかのように、千里の外を見やっていた。エリカは、感情のない声で続けた。

「丸屋根の建物が、燃えてる」

「エリカ、きみはいったい何を見ているんだ」

 ベルトランが、沖合に流されていく人を引き留めるように、エリカの肩をつかんだ。顔をのぞきこまれて、遠くを見ていたエリカの真っ黒な瞳が、やっとベルトランの心配顔を映す。

 エリカは目にした光景を振り払うように顔を伏せると、かき消えそうな声でつぶやいた。

「占っちゃいけなかったんだ」


時間は少し遡る。エンリケとテオフィロが、アドラシオンの船に身を潜めてうとうとしていたころ、トリスタンの都の郊外の森で、眠りにつこうとする者がいた。

「さすがは、天主教の守護者、トリスタン王のお膝元なだけはあるね。がっぽり稼げちゃった」

 野宿に似合わぬ上等な毛布をたぐり寄せて、一人の少女がうしし、と笑った。野宿に似合わないのは毛布だけではない。十二歳ほどに見える少女が、いくら都に近いとはいえ、狐や梟のさまよう夜の森に一人でいるというのもおかしな話だった。

 少女は、まるで誰か聞いてくれる者でもいるかのようにはっきりした声で、ひとりごとを続ける。

「ま、商売がはかどったのはもちろん、この天才商人ジョルジュが商売上手だからなんだけどね。いにしえの女王の美貌を保った東方のハイビスカスティーに、砂漠に咲く希少な花からしか抽出できない香水、すみれの砂糖漬け入りチョコレート。どれもトリスタンでは手に入らないものばかり。お客さんみんな、喜んでくれたなあ」

 ジョルジュは、金貨の詰まった袋を大事そうに胸に抱えて、寝床に入った。随分かたくてごつごつするだろうに、金貨の袋を抱いたまま眠るつもりらしい。

「大陸の西の果てにあるトリスタンは、東からの流浪の旅人を受け入れてきた国なんだって。お客さんが優しかったのは、だからなのかな。さて、今日はがんばったな。もう寝よう。金貨が一まーい、金貨が二まーい、金貨が……」

「金貨を数えて眠るとは、行く末は金の亡者か」

野太い声が割って入ったので、ジョルジュは毛布をがばっとはね上げた。近くの茂みががさりと不自然に揺れて、人影が一つ、二つと現れる。

「悪いが、今晩からは安眠できねえぜ。お前の金貨は一枚残らず、おれたちがいただくからよお」

 ジョルジュを取り囲んだのは、顔に傷のある三人の男たちだった。それぞれが、太い棍棒や刃こぼれのひどい抜き身の刀をさげ、にやにやと恐ろしい笑みを浮かべている。一目で盗賊だとわかる連中だった。

「お嬢ちゃん、昼間、広場で商いをやってたがきだろ。たんまりもうけてたの、おれら見ちゃったんだよ」

「そのきれいなつらに傷をつけられたくなかったら、持ってる金貨と商品を渡しなあ」

 ジョルジュは、金貨の袋をきつく抱きしめて立ち上がった。小さな背中に、高価な商品の入った荷箱を守るように足を踏みしめる。

「この商品は、山脈と砂漠を越えて、ふさわしいお客さんのために運んできたものなんだ。お前たちみたいに野蛮な盗賊の手に落ちていいものじゃない」

「おれたちを前にしてタンカを切るたあ、てえした度胸だ。だがな、そういうセリフは、守りたいもんを守れる力を手にしてから言うもんなんだよ」

 盗賊の一人が、ジョルジュの砂色の髪をつかんで、無理やり顔をあおむかせた。

「こんなひと気のない森で、一人ぽっちで野宿を選んだてめえの不用心を呪うこった」

「一人ぽっちなんかじゃないよ」

「あ?」

 大人でも逃げ出す状況にあって、ジョルジュは盗賊を気丈ににらみつけた。棍棒を持った盗賊が、ジョルジョの髪を握った男に話しかけた。

「かしら、そういえば変ですぜ。こんなにたくさんのブツ、このひょろっちいがき一人で運べるはずありやせん。もしかして、仲間がいるんじゃありやせんか」

「仲間がいようと関係ねえ。こっちはがきを押さえてんだ。どんな手練れでも、人質を見ればむやみな真似はできめえよ」

「それは、言葉が通じればの話でしょ」

「なんだと?」

 ジョルジュは、声を張り上げて闇に向かって呼びかけた。

「悪党たちをやっつけて、わたしの翼よ!」

 少女の背後の茂みが、がさがさと動いた。盗賊が出てきたときよりも、ずっと大きい音がする。キエエエエ、と高い鳴き声が響いた。

「う、うわあああ! バケモンだあ!」

 盗賊たちは何を見たというのか。荒くれ者で鳴らす大の男たちが、ジョルジュを振り返ることもなく逃げ出すまでに、そう時間はかからなかった。


「ねえ、エンリケ。いまごろトリスタンにいれば、雨傘祭りに行けたのにね。今年はビニール傘に、なんて願い事を書いただろ」

 梅雨の時期、雨のしと降るトリスタンの都の路地という路地は、アンティークであるカラフルなビニール傘であふれかえる。家々のベランダからつり下げたビニール傘に、一年間の願い事を書くのだ。分厚い雲の切れ間から、気まぐれな太陽が地上をのぞきこむとき、古い石畳の道は、傘を通った陽光によって虹色に染まる。

 夢のように美しい今時分の都を思い出して、テオフィロはため息をついた。

エンリケとテオフィロにとって、これほど長い間、トリスタンを離れたのは初めてのことだ。エンリケは、ホームシックなどどこ吹く風と、青く輝く瞳で同じ色の海を眺めているけれど、その隣で船べりに寄りかかるテオフィロは、何も言わずに出てきてしまった工房の人々が懐かしかった。

船乗りは、海の上でどうやって季節の変化を知るのだろう。海も空ものっぺりと広がるばかりで、テオフィロの目に、草花のような季節の手がかりを見せてはくれない。

「なんだ坊主、家が恋しくなっちまったか」

 帆の上げ下げをする船員たちを指揮していたオスバルドが、パイプをくゆらしながら、からかいまじりの言葉をかけた。

「テオフィロも、早く彼女を作るといい。愛する恋人が心にいれば、故郷から万里離れた海の上でもさびしくはないぞ」

 ポケットから取り出した花の髪留めを陽にかざして、オスバルドはうっとりと、「ディアナの、ヴァイオリンの名器みたいな明るい茶色の髪に似合うだろうな」とつぶやいた。

「テオフィロ、気にしなくていいぞ。妄想の中で彼女を作り上げているようなさびしいやつの言うことなんて」

 ベルトランが忠告する。と、帆柱にちらりと視線をやった学者は、くわっと目を見開いた。

「おい、オスバルド! お前、まさか柱の人形を勝手にはずしたのか?」

 穏やかな表情を一変させたベルトランの大声に、テオフィロはびくっとしたが、怒鳴られた張本人であるオスバルドは動じない。

「あの気味の悪い髑髏の人形のことか? はずしたけどなんだよ」

「あれは、海難よけのまじないの品なんだぞ。何か起きる前に、早く柱に戻せ!」

「まあた、おまじないかよ。なんで船乗りよりも学者先生のほうが迷信深いんだか。どうせ、いっつもはめたままの右手の手袋も、くだらねえ験担ぎなんだろ」

 オスバルドに指を差されて、ベルトランは白手袋をはめた片手をさっと上げた。

「くだらなくなんてない。赤毛の大男よけ兼、学問成就のお守りだ」

「そんな手袋でよけられなくたって、エリート学士さまとお近づきになるなんて、こっちから願い下げだっつうの」

 テオフィロが、まあまあ、と不機嫌そうににらみ合う二人の間に割って入った。

「そんなことより、もうそろそろルーニアンが見えてくるんじゃないかなあ」

 テオフィロが大げさに海の向こうを見る仕草をすると、つられてエンリケやエリカも水平線に目を凝らした。

「あれ? なんだ、煙か?」

 エンリケがつぶやくのを耳に留めて、ガンを飛ばし合っていたベルトランとオスバルドも、やっと海の向こうに目をやった。

 それが何であるのかいち早く気づいたオスバルドが、唾を飛ばしてアドラシオンの名を叫ぶ。

「船長! ルーニアンの方角に黒煙が見える!」

「この距離から見えるくらいだ。だいぶ大規模な火事だぞ」

 エンリケたちの乗る船は、一気に速力を上げて、陸地に近づいていった。金の丸屋根を持つ大きな建物が煙に包まれて燃え盛っているのがわかる。

「あ、あれはルーニアンの〈知恵の蕾〉……」

 不意にベルトランが、貧血にでもなったかのように、よろよろと船べりにすがってくずおれた。

「五百万冊もの貴重書を所蔵する、大陸最高の図書館が、あんなことに。嘘だ……」

 力なくつぶやいたかと思えば、次の瞬間、ベルトランはばね仕掛けの人形のように勢いよく立ち上がって、船べりに足をかけて乗り越えようとした。オスバルドが、泡を食って力任せに羽交い締めにする。

「おい学士、身投げでもする気か!」

「うるさい、船乗り風情に何がわかる! 私は、稀覯本を一冊でもあの業火から救い出すんだ!」

「ここから陸地までいったいどれだけあると思ってる! おとなしく船が港に着くのを待て、ぼんくら学士!」

 オスバルドに頭ごなしに怒鳴られて、ベルトランはやっとじたばたするのをやめた。

「オスバルド! ベルトラン! 上を見て!」

 エンリケが叫んで、頭の上を指差した。テオフィロが顔を上げると、そこには大きな飛行艇が浮かんでいた。ドカン、と言う爆発音とともに船が大きく揺さぶられて、テオフィロは甲板にしりもちをついた。ベルトランがエリカを、オスバルドがエンリケとテオフィロをそれぞれかばって甲板に身を投げ出す。

アドラシオンが鋭く命令する声が聞こえた。

「上空に敵あり! 総員ただちに配置につけ!」

 数発大砲を放ったあと、不気味に静まり返った飛行艇から、黒い影がいくつもエンリケたちの船めがけて降ってきた。黒い影たちは、船の甲板に着地すると、衝撃を和らげるために丸めていた体を伸ばして、船員たちに向かってきた。

 甲板のあちこちで、白刃どうしがぶつかりあう嫌な音が響いた。

 ベルトランが、横目でオスバルドを見る。

「災難よけの人形をお前がはずした途端これだ。お前のせいだぞ」

「くだらねえこと言ってないで、てめえはがきども連れて船室にこもってろ!」

 オスバルドは、エンリケとテオフィロをベルトランに押しつけると、それだけ言い捨てて、敵の刃を己の大剣で受けた。二週間前の海賊襲撃が繰り返されたかのような状況に、テオフィロは動揺する。辺りを見回すと、緩くリボンでまとめたダークブラウンの髪を揺らして、アドラシオンが銃で敵に応戦していた。

「いったいあの飛行艇は何なの?」

「いまはそれどころじゃないだろ。まずは、目の前の敵をどうにかしねえと!」

 エンリケが、細い剣を抜いてマント姿の敵に斬りかかった。敵がエンリケの剣を受け止めた拍子に、フードが背中に落ち、顔があらわになる。敵の頭は青々と剃り上げられており、首には銀の十字架を下げていた。テオフィロは、中世の修行僧を連想した。

 エンリケは、敵の攻撃をかわして、船の上甲板に続く階段を駆け上った。身軽に手すりを乗り越えると、高さを生かして剣に体重を乗せ、真下にいた敵に一太刀を浴びせる。

しかし、その攻撃によってエンリケの細い剣が衝撃に耐えかね、真っ二つに折れたのは予想外だった。

 エンリケは、何とかバランスを保ったが、下の甲板に着地した瞬間、その場に膝を折ってしまう。甲板掃除で体力が奪われていたのだろう。最悪のタイミングで電池切れが来たのだと、テオフィロにはわかった。

「エンリケ! 誰か、エンリケを!」

 弾切れで銃を捨て、腰に差していたサーベルに持ち替えて戦っていたアドラシオンは、三人の敵に囲まれている最中で、エンリケのもとにすぐには駆け寄れそうもない。怪力で敵をねじ伏せているオスバルドからは、距離があまりに隔たっていた。誰もエンリケを助けに行けない。

 そのとき、突如頭上の太陽が遮られた。敵も味方も一瞬手を止めて見上げれば、空に浮かんでいたのは、巨大な鳥だった。その翼が真っ黒に見えるのは、逆光のせいだろう。

 凛として自信に満ちた、少女の声が明瞭に聞こえた。

「やっと追いついたぞ、アテナ商会! お前たちの悪行三昧も、この天才商人ジョルジュが今日でおしまいにしてやろう!」

 朗々とした声の余韻がまだ残っているうちに、巨鳥から一人の少女が飛び降りてきた。

 わっ、と船上の船員たちが声を上げる。

最初に目を奪ったのは、エメラルドのまばゆい輝きだ。少女の胸元に、大粒のエメラルドのブローチが留められているのだ。羽根つきのシルクハットを片手で押さえる少女の服は、金モールできらきらしく飾られている。

勇ましく戦場に降り立った砂色の髪の少女は、ぶん、と片手の大剣を振るった。ちらり、とこちらに視線を走らせた少女の瞳に、テオフィロは釘付けになる。切れ長の目は、露草の涼やかな青色をしていた。

 その場の誰もが、謎の少女がそのまま大剣を振るって戦いに参加するものと思った。しかし、少女の口から飛び出したのは、なんとも威勢のいい商売文句だった。

「大事な戦いの途中に剣が折れてしまった、そこのア・ナ・タ! 今回ご紹介する商品はこちら! 隕石を溶かしてつくった特製の剣でございます! この剣ならもう折れない、刃こぼれしない、なんといっても錆びにくい! いまならお手入れセットもおつけして、お値段なんとそのままでご提供いたします!」

「その剣、売るの?」

 テオフィロは突っ込んだ。謎の少女商人は、百点満点の営業スマイルでテオフィロに笑いかけた。

「水のない砂漠から弾丸飛び交う戦場まで、訪問販売がこのジョルジュのやり方よ! さあ、一点限りの彗星剣! お買い求めの方はおられませんか?」

「……買おうじゃねえか」

 力尽きてうずくまっていたエンリケが、折れた剣を杖にして立ち上がろうとしていた。

「エンリケ、また高い物を衝動買いして!」

 テオフィロが非難の声を上げる。

 謎の少女商人は、営業スマイルのまま、エンリケに向かって問いかけた。

「お支払いは分割で?」

「おれはいつか、トリスタン王国の国王になる。おれが玉座についてからの出世払いでよろしく頼むぜ」

「交渉成立だね。お買い上げありがとうございます、王子さま」

 謎の少女商人は、敵と味方が剣を交わし合う戦場を、まるで近所を歩くようにやすやすと通り抜けると、膝立ちのエンリケに彗星剣を差し出した。

 彗星剣が新たな力を分け与えたかのように、エンリケはしゃん、と背筋を伸ばして立った。しかし一瞬、ふらりとよろける。その隙を狙った敵が、マントをはためかせて倒れ伏した。

敵の背後には、サーベルを突き出したアドラシオンが立っていた。

エンリケが、ふう、と息をつく。

「ありがとう、アドラ」

「船長と呼びなさい」

 謎の少女商人は、手でひさしをつくってルーニアンの方角を見やった。陸地では、まだ金の丸屋根の建物が炎を上げて燃えている。

 少女は、片腕を高く差し上げて「おいで、わたしの翼よ!」と叫んだ。上空にいた大きな鳥が高度を下げてきて、少女を乗せて飛び去った。

 巨鳥がひと羽ばたきすると、海上の嵐もかくやというほどの暴風が巻き起こった。

「おいおい、マストを折ってくれるなよ」

 と、パイプを飛ばされないように握りしめて、オスバルドが慌てたようにつぶやく。

 巨鳥は、距離を隔てた陸地へ瞬く間にたどり着くと、いまだ盛んに炎を上げる大図書館の上空に留まった。大きな翼を羽ばたかせると、そのほんの一度だけで、激しい炎はあおられて消えてしまった。

 大図書館の周りで、わらわらと建物に水をかけていた人々が、転んだり空を見上げたりして大騒ぎしているのが見える。

「あの女の子、いったい何者なんだろう」

 テオフィロは、ぐったりしたエンリケを介抱しながら首をひねった。




3 満ちない月


「新しい場所に踏み入れるときに縁起がいいのは左足からだというが、船から降りるときは右足からとされているし、いったいどちらの足から降りればいいのだ……」

 ぶつぶつつぶやきながら、右足と左足を交互に出したり引っ込めたりしていたベルトランは、背中を思いっきり突き飛ばされて、船着場に顔から着地した。

「よかったな。右足からでも左足からでもないところから踏み出せたぞ」

 ざまあみろ、という顔でオスバルドがベルトランを見下ろしていた。子供のような喧嘩に、テオフィロとエンリケはあきれる。

テオフィロが、エンリケにささやく。

「あの二人って、ほんとに仲悪いんだね」

「前は親友どうしだったって、アドラに聞いたことあるけどな」

「本当に?」

 ベルトランとオスバルドが親密そうに笑い合うところなど、テオフィロには想像もつかなかった。

「ばかなことやってないで、行くぞ」

 アドラシオンが、腕を伸ばして、高い位置にあるオスバルドの頭をひっぱたいた。

 船を降りると、煙と物の焼けるにおいが、細かい粉を吹きつけるかのように服にまとわりついた。

 二週間ぶりに固い地面を踏んだエンリケたちの一行は、波止場で出迎えを受けた。船長のアドラシオンが代表して、ルーニアンからの迎えの男の人にあいさつをする。

「われわれは、トリスタン王カルロスより遣わされました使節です。こちらは、トリスタンの王太子であるエンリケ王子。大変なときにお邪魔してしまったにも関わらず、わざわざのお出迎えありがとうございます」

「天主教の守護者たるカルロス王とトリスタン王国に、天の恵みがあらんことを。火災に関しては、少女と巨鳥のおかげで最小限の被害で済みました」

 アドラシオンが、学問の場で広く使われているルーニアン語で語りかけたのに対して、出迎えの男の人はきれいなトリスタン語で返した。当代最高の学者が集まる学問の都ルーニアンには、八か国語を操る者もいるという。出迎えの人も、そうした語学の天才の一人なのだろう。

煤で汚れた眼鏡をかけた色黒の男の人は、ハールーンと名乗った。ベルトランが、親が死んだばかりの孝行息子のように沈み込んだ表情で、ハールーンに話しかける。

「知恵の蕾は、電網戦争をくぐり抜けた、大空白時代の貴重な書籍を所蔵していると聞いていました。どれだけの書籍を、炎から救い出すことができたのでしょう?」

 ハールーンは、きょとんとした表情でベルトランを見返した。それから、やっと意味を得た、というようにああ、とうなずくと、エンリケたちに自分のあとをついてくるように言った。

「ご心配にはおよびません。どういうことか、実際に見てもらったほうが早いでしょう。われらの市長兼図書館長も、皆さんをお待ちかねですよ」

 大図書館である知恵の蕾は、蔵書を湿気から守るためだろうか、港から自動車でしばらく行ったところにあった。車窓から見える街のあちこちに、ルーニアンの象徴である半分の月を刺繍した旗が翻る。

 知恵の蕾の焼け跡を見て、一行は一様にため息をついた。真っ黒な炭と化した大きな柱が傾いている。炎に巻き上げられた紙片が、痛ましい焦げ跡を見せて、ひらひらとはかなく地面に舞い落ちる。ベルトランが切なそうに手を伸ばした。

 しかし、ハールーンのほうは、そんなものには目もくれず、焼け跡をずんずんと踏んでいく。エンリケたち一行が通ると、焼け跡を片付けていたルーニアンの学者たちが、作業の手を止めて深くおじぎをした。

 ハールーンは、エンリケたちを白い大理石の床の張られた場所へと導いた。床に金で幾何学文様の描かれたそこは、知恵の蕾のロビーだったところらしい。立派な装飾の彫られた重厚な二枚扉が、ばらばらに燃え落ちている。

 その扉を脇に寄せると、下から四角い穴が現れた。大理石の階段が、穴の中の暗闇に続いている。ハールーンは、金細工のランプに火を入れると、ためらうエンリケたちを促して階段を降り始めた。

 階段は、そう長くは続かなかった。ハールーンが、壁のくぼみにランプを置くと、どういう仕組みなのか、地下空間がぱっと明るくなった。

 エンリケたちは、わあっと声を上げた。地下空間は意外に広々としており、天井も高い。その広い部屋を埋めているのは、林のように並び立ったたくさんの本棚だったのだ。書架の間には、アンティークのランプで照らし出された長い書き物机があり、ローブをまとった学者たちが調べ物をしている。さらなる地下へと続く螺旋階段も見え、書庫がこのフロアの下にも広がっていることをうかがわせた。

 ベルトランが、表情を喜びの色に染めて、上ずった声で言いかける。

「まさか、これは……」

 ハールーンが、白い歯を光らせて笑った。

「ルーニアンの大図書館は、地上に出た蕾の部分よりも、地下世界に広がる根のほうが長いのです。大空白時代の貴重書籍はすべて、気温と湿度が厳しく管理された地下の大書庫に保存されています。地上の館にあったのは、教育のための講義室だけです」

「そうだったんですね! よかったあ」

 テオフィロが胸をなでおろす。エンリケが、本棚に近寄って、中の書物に手を伸ばした。

「でも、これって本当に本なのか? なんか土の匂いのする板っていうか……」

 エンリケの言う通り、数ある書架を埋めていたのは、厚みのある板だった。ベルトランが、棚から板の一枚を取り出して、その表面に刻まれた文字列に見入る。

「これは、粘土板……?」

「はい。これは、知恵の蕾が所蔵する、紙の書籍の内容を写し取った粘土板です。粘土板は、大空白時代の何千年も前、粘土がよく取れたこの地で、記録のため紙の代わりに使われていた物です。この地は、数々の国の興亡とともに何度も焼き払われましたが、燃えてしまう紙とは違って、粘土板は火事にあえばあうほど、より強く焼きしめられるのです」

「なるほど」

 アドラシオンが感心する。

「やっと来たんだんね」

 はきはきとした声が聞こえて、一行がそちらに顔を向けると、書架の陰から羽根つきシルクハットをかぶった謎の少女商人が姿を現した。

 エンリケが、腰に差した彗星剣のつかをぽん、と叩いて、少女に礼を言う。

「さっきはサンキュー」

「商人は品物を売る。客はお金を払ってそれを受け取る。ただそれだけのことだよ。とはいえ、お礼を言われれば嬉しいけどね」

「お前はいったい、何者なんだ?」

「わたしはジョルジュ。一介の旅の大商人だよ」

 ジョルジュは、青い目をきらきらさせて答えた。

「さっきあなたたちが見たおっきな鳥は、わたしの旅の道連れなんだ。頼りになるでしょ?」

 ジョルジュの後ろから、背の低い年配の女性が歩み寄ってきた。ショートカットの髪には白髪が混じり、丸い眼鏡をかけている。

「遠いところからよくいらっしゃいました。来た早々、火事なんて驚かれたでしょう。向こうにお茶を用意しますから、お休みください。そこでゆっくりお話ししましょう」

「あの、あなたは?」

 アドラシオンが問うと、近所の優しいおばさん、といった印象のその女の人は、眼鏡を直した。

「申し遅れました。わたしは、ルーニアンの市長兼大図書館長であるファーティマです」

エンリケたちが案内されたのは、片側の壁が天井までガラス張りになったスペースだった。ガラスの窓の向こうは、地下にも関わらず噴水の湧き出る中庭になっており、地上に開いた天窓から差し込む自然光が、柔らかな明るさを作り出している。

 大きな円卓の周りには、ふかふかのソファが並んでいて、エンリケたちがそこに座ると、ファーティマは「歓迎の印に」と、首の細いガラス瓶を振って、バラの香りの水を一人ひとりの手にかけてくれた。

甘い匂いのするチャイと歯にくっつくような砂糖菓子でもてなされながら、一同は、今回の旅の目的について話した。

 アドラシオンが口火をきる。

「ルーニアンは、大陸随一の大学と図書館を備えた叡智の都です。私たちは、ルーニアンで所蔵する大空白時代の書物を写し取らせてもらうために参りました」

 ファーティマは、長い真珠の首飾りに手を当てててうなずいた。

「もちろん、わたしたちは協力を惜しみません。必要なことがあれば、なんでもおっしゃってください」

「しばらくは火事のことでお忙しいでしょうから、われわれにも焼け跡の片付けなどの作業を手伝わせてください。力自慢がそろっていますから」

ベルトランが、深刻な顔でファーティマに尋ねた。

「出火の原因はなんだったのですか?」

「あれは事故ではなく、放火なのです」

「なんですって?」

「アテナ商会、つまり〈ミネルヴァの梟〉の仕業だよ」

 みんなの疑問に答えたのは、ファーティマではなくジョルジュだった。エリカが口を開く。

「確かにあなたは、大きな鳥からわたしたちの船に飛び降りてくる前に、アテナ商会の悪行三昧がどうとかって叫んでましたよね」

 ジョルジュは、シルクハットの羽飾りを揺らしてうなずく。

「ミネルヴァの梟は、世界を混乱させようとしている悪の集団だよ。アテナ商会は、その資金集めのための商社なんだ」

「きみはどうしてそんなこと知ってるの?」

 テオフィロが問うと、ジョルジュはチャイをこくん、と飲み干して言った。

「アテナ商会は、このジョルジュにとっては商売敵だからね。何か弱みがないかと探ってみたら、ミネルヴァの梟っていう裏の顔が出てきたってわけ」

「弱みを握ってどうするつもりなの?」

「商人は信用が命だから。後ろ暗いことをしてるって世間にばらして、アテナ商会の社会的信用を地に落とす計画だったんだよ。ま、後ろ暗さのスケールが大きすぎて、ばらしても誰も信じてくれないだろうけど」

「ジョルジュって、怖いこと考えるんだね」

「商人の世界は、生き馬の目を抜くようなところなのヨ」

 ジョルジュは、おほほほほと笑った。

「人類の知の遺産たるルーニアンの大図書館に放火することは、世界を混沌とさせるという彼らの目的にかないそうですね。ミネルヴァの梟はなぜそんなことを望むのでしょう?」

 ベルトランの質問に、ファーティマは顔色を改めた。

「ミネルヴァの梟はもともと、優れた哲学者の集まりでした。彼らは次第に、優秀な自分たちを人類の中から選ばれた者だと思い込むようになりました。そして愚かにも、世界は終わりに向かうべきだと考えたのです。彼らの哲学を完成させるために」

「哲学と世界の滅亡にどんな関係があるんです?」

 オスバルドが、太い眉を寄せる。

「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ——これが、彼らの合言葉です。ミネルヴァとは、古代の知恵の女神。梟は、女神の使者とされました。どれだけ思考を積み重ねても、究極的には、すべてが終わりを迎えなければ、世界の真理は明らかにならない。真理こそが、狂信的な哲学者たちの唯一絶対なる神なのです。真理を手に入れる、そのために彼らは、世界の終焉を熱望している」

 ベルトランが、白い手袋をはめた右手を顎にあてがった。

「ミネルヴァの梟のテロ活動を止めるためには、手を取り合わねばなりませんね。しかし、テロはいつどこで起こるかわかりません。どうすればよいか……」

「それが実は、ミネルヴァの梟の次の目標は、すでにつかんでいるのです」

「それはいったい?」

「みなさんは、東天紅と呼ばれる地を知っていますか?」

 テオフィロは、エンリケのほうを見た。アドラシオンに密航の目的を訊かれたときに、エンリケが東天紅に行きたいと言っていたのを思い出したのだ。

 驚いた顔をしているエンリケの向こうで、アドラシオンとオスバルドが顔を見合わせているのが目に入った。

「ルーニアンからさらに西にある、半島の端の地ですね。いまから百年前に隕石が落ちてきて、大きなクレーターの湖ができたところだ」

「ええ。こんなおとぎばなしを聞いたことはありませんか? この世界の東の果てに、かんらん姫という人外の姫君が棲むと。その伝説の舞台が、東天紅だと言われています」

「人外の姫君?」

 エリカがそっとその言葉を唇にのせる。ベルトランが説明した。

「その姫は、百年前の隕石に乗って、この星に降り立ったと言われている。この世に起こるすべてのことを知っていて、翼を持つ美しい姿をしているらしい」

「それって、宇宙人ってこと?」

 テオフィロが大声をあげた。ファーティマは厳かにうなずいた。

「さらに、かんらん姫は宇宙の卵を守っているというのです」

「宇宙の卵とは?」

「時間という概念すらないはるかな昔、この宇宙は一つの熱い卵から生まれたと世界中の神話が言います。世界鳥が生み落としたその卵がかえるとき、それまでの宇宙はあとかたもなく吹き飛んでしまう」

「つまり、ミネルヴァの梟は、かんらん姫の守る宇宙の卵を孵化させて、いまのこの世界終わらせようとしているということですね?」

 ベルトランが、鋭い目でファーティマを見た。知恵の蕾の館長はうなずく。

「ベルトラン、宇宙が孵る伝説の卵なんて、本当にあると思うんですか?」

 エリカが声を上げると、ベルトランがにこりと笑った。

「それはわからない。でも、ミネルヴァの梟が卵を狙っているとするなら、東天紅に行く価値はある」

 アドラシオンが、円卓の上で指を組んだ。

「東天紅は、陸路からであれば、大砂漠の向こうの到達困難な地。そこがどんな場所なのか、はっきりわかってはいません。実は、われわれの今回の旅は、東天紅の探検も目的の一つとしていたのです」

「それでは、われわれとともに東天紅に向かってくださるのですか?」

「はい」

 アドラシオンとファーティマは、握手をした。オスバルドが、葉巻を手の中でもてあそびながら尋ねた。

「しかし、ルーニアンは学究の徒の都でしょう。テロリストと戦うなんて荒仕事、できる人がいるんですか」

 ファーティマは手を横顔に当て、耳をすませるようにとジェスチャーした。

「そろそろ時間のはずですが」

 大図書館長の言葉に重なるようにして、何か低い声で歌うような不思議な音が聞こえてきた。それは、トリスタンで決まった日に聞く、教会の賛美歌に似ている。ただ、もっと抑揚がなくて、言葉も耳慣れない古代のもののようだ。

「一日に何度かある、仏教徒の礼拝の時間です。彼らは仏の教えを探求する学者ですが、ルーニアンを守るために戦う、勇敢な僧兵でもあります。いまのこの都は、科学者の技術力と仏への祈りによって守られているのです。われわれの僧兵が、東天紅までお供しましょう」


「その昔、満月の都と呼ばれたルーニアンは、どこに行ったのかねえ。今じゃ見る影もない」

 オスバルドが退屈そうにつぶやいて、両腕を頭の後ろで組み草原に寝転がった。

 ルーニアンの中心である知恵の蕾から離れたところに、夏の花が咲き乱れる草地がある。崩れかけた巨大な石造りの建物から、そこが昔の市街地の廃墟だということが知られる。

 東天紅に出発するのは一週間後ということに決まり、エンリケたちは小休止の時間を持つことになった。といっても、十分に休めるのはエンリケやティファンたち子供だけだ。アドラシオンは、毎日ファーティマとミネルヴァの梟を捕まえるための作戦を話し合っているし、ベルトランは、出発の前に少しでも仕事をしようと、寝る間も惜しんで地下書庫にこもり、写本をしていた。

 オスバルドは、「昼も夜もねえ書庫で本を読んでるのが楽しいなんて、変態だよな」とベルトランの悪口を言う。

「オスバルドも一応副船長なんだから、アドラと一緒に会議に参加したり、知恵の蕾の焼け跡を片付けたり、やることはたくさんあるだろ? こんなところでさぼってていいのかよ。アドラにちくるぞ」

「大人の男には、息抜きが必要なんだよ。かわいいディアナのことも考えたいし」

 エンリケが、オスバルドの上司を持ち出して嫌味を言っても、赤毛の船乗りには響く気配もない。

 テオフィロが、「満月の都」というオスバルドの言葉について尋ねた。

「ルーニアンの別名は、半月の都でしょ? 街が、半分の円の形をしてるから」

「いまはな。昔、ルーニアンの街はきれいな円形だったらしいぜ。大学も一つだけじゃない、二つあって、いまよりもっとずっとたくさんの人が住んで繁栄してたんだそうだ。それが、二百年前の電網戦争で街の半分が吹っ飛んじまって、このありさまさ」

「このありさま、とは手厳しいですね。ルーニアンは文化の度合も高いですし、いまでも十分栄えていると言っていいはずですが」

 苦笑まじりの声に、オスバルドは起き上がった。街の方角から草を踏み分けて歩いてきたのは、最初にエンリケたち一行を知恵の蕾の地下書庫まで案内した、ハールーンだった。

 近づいてきたハールーンは、傾いた柱に手をついて、かつて満月の都ルーニアンの東側だった遺跡を見回した。

「電網戦争の前、ルーニアンは、当時の科学技術の粋を集めた都市国家でした。領土こそ小さくとも、高い技術力さえあれば、大国の下につかなくてもやっていけたのです。街の東側と西側にある大学が競い合うことで、研究は磨かれていました。当時は、あの青い空を突き抜けて宇宙に行くことも、空気を汚さずに莫大なエネルギーを得ることもできたのです。当時のルーニアンも、科学の平和利用を標榜していました。しかしある大国は、ルーニアンの知識や優秀な人材が敵国によって軍事的に転用されることを恐れました。その国は、ルーニアンを空襲したのです」

「自分の目的に目がくらんだやつは、手持ちの物差し以外で他人の意思をはかることができなくなるもんさ」

「電子網を破壊する戦争によって、ルーニアンの学問はすっかり衰退してしまいました。ルーニアンも例に漏れず、研究記録や論文をすべて電子データとしてネット空間に保管していたのですから。電網戦争からさかのぼること三百年間、ほとんどすべての記録の保存が、電子空間に移行してからの歴史は、まったく地図のない空白地帯になってしまった。もっと電脳考古学の成果が上がれば、わかることが増えてくるのですが」

「おいおい、話がずれてるぞ」

 オスバルドの文句に、ハールーンは頭をかいた。

「すみません。私は歴史学が専門なもので。街の東側を空爆されて、ルーニアンの大学は西側の一つきりになってしまいました。それでも、人命があまり失われずに済んだのは、みなさんに見てもらったとおり、広大な地下書庫がシェルターとしての役割を果たしたからです。けれども、ルーニアンや、近郊から逃げてきた人々をかくまうためには、書庫に収めていた大空白時代以前の貴重な書物を、火の海になった地上に出さなければならなかったのです。紙に記された数多くの記録やすばらしい文学が、焼き尽くされてしまいました」

「それで? かつての繁栄を取り戻すために、宇宙人の手でも借りようってつもりか」

オスバルドの言葉に、ハールーンがぴたりと動きを止めた。

「何が言いたいんです?」

「あんたらは、凶悪テロリストを捕縛するっつう名目で、東天紅にいるかんらん姫をルーニアンに連れてくる腹じゃねえのか」

「オスバルドさん、なんてこと言うんですか」

 テオフィロが、慌ててオスバルドを止めようとした。ベルトランに対するような学者への反発心で、そんな喧嘩をふっかけているのかと思えば、オスバルドの細い目は、鋭い光を放ってハールーンを見据えていた。

 若き歴史学者は空を見上げた。そこには、昼間の白い半月が浮かんでいる。

「ルーニアンは、再び満ちることを望んではいません。知恵の蕾の学者たちはみな、過ぎたる科学技術は持たないことを誓っています。満ちることも欠けることもない半分の月。それが、いま理想とされているルーニアンの姿です」

「満ちることのない月ねえ。そんな化け物みてえな月が、ありうるんだか」

 オスバルドは、疑わしいといった口調でわざとらしく言うと、再び草原に寝そべって、物憂げに目を閉じた。

「さあ、どうでしょう」

 ハールーンは、にこりと笑う。

「言い忘れていましたが、図書館長とあなたがたの船長が、あなたとエンリケ王子をお呼びですよ。何でも、東天紅への経路で相談したいことがあるとか」

「はいよ。行くぞ王子」

「何でオスバルドが、おれに命令するんだ」

 エンリケとオスバルドは言い争いつつ、ハールーンのあとに従って街の方角へと歩いて行った。

 テオフィロは三人を見送ると、草原に手をついて背をそらした。

頭上に広がる青空を、飛行機やロケット、はてはミサイルが切り裂き、宇宙空間に向かって軌道エレベータがのびていた頃があった。目には見えなくても、世界中の情報をのせた電波が飛び交い、人工衛星が機械の目を地上に向けている時代があった。地上から宇宙までの広い空間はかつて、人間の生み出したものに満ちていた。

いま、遺跡に残った大理石の柱の先端と、抜けるような青い空の間はがらんどうだ。かつて人類が自由に手を伸ばすことができた空は、その先に開けていた宇宙は、はるかに遠ざかってしまった。

「ねえエリカ、宇宙の卵がもし本当にあるんだとしたら、世界を創造した天主さまはどうなるんだろうね。天主さまが宇宙の卵を産んだってこと?」

 テオフィロは、ふと胸に浮かんだ疑問を言葉にした。

 テオフィロが身を起こして振り向くと、崩れた壁の陰で、エリカが造花を作っていた。占い師の少女は、オスバルドとハールーンがやり取りする間、ずっと日陰で内職に勤しんでいたのだ。

 エリカは、見る間にくるくると造花を作り出す手を止めないままに、返事をよこした。

「なに言ってるんですか。この世界が、ひよこみたいに卵から生まれたのか、天主さまによって創られたかなんて、人間にわかるはずないじゃないですか。それでも、この世界がどうやってはじまったのか、自分が何のために生きているのかっていう物語がないと、人間は生きていけないんです」

「ふうん。ねえ、敬語はやめてよ。ぼくら、そんなに年違わないんだから」

「敬語のほうが楽なんです」

と、エリカは澄まして言った。テオフィロは、卵から宇宙が生まれたと考えてみた。

「星も、人も、動物も、植物も、一つの卵から生まれたのかなあ」

 夏の花が生き生きと咲き群れる都市の遺跡で、エリカのほっそりとした指から次々に作り物の花が生み出されていく。真夏の白い日差しと、廃墟のつくる濃い影に目がくらんで、作業の過程が白昼夢のように現実感を失って見えた。

「エリカは、すごく器用なんだね」

 テオフィロは感心した。テオフィロも、工芸を仕事と趣味にしているだけあって、器用なことは自他ともに認めているが、エリカも彼に負けず劣らず手先の動きが細やかだ。

 エリカは、褒められたというのに、ちっともうれしそうな顔をしなかった。

「こんなことに器用でも、意味がないです」

「そんなことないよ」

 と、テオフィロは反射的に言った。その言葉は本心から出たものだったのに、口下手なせいで、あとの言葉を続けられないのを悔しく思った。

エリカは、赤いカーネーションの花びらをバランスよく整えた。

「テオフィロは、王子さまと仲が良いんですよね」

「え、うん、そうだね。一緒に密航するくらいには」

「王子さま、わたしのこと、なんて言ってました? どうせ、悪口を言ったんでしょう。予言がちっとも当たらないへっぽこ占い師だとか」

「え?」

 テオフィロは、驚いて固まった。さっきは、宇宙の卵についてあんなに大人びたことを言っていたのに、エリカは顔を伏せて、カーネーションの花をいじっている。せっかくきれいに整えられた花びらが乱れてしまっていた。

「占いの悪口なんて聞いたことないよ。エンリケは、ただ、話しかけるたびに突っかかってくる、かわいくない女の子がいるって言ってただけ」

「そう思ってるなら、話しかけてこなきゃいいのに」

 口をとがらせたエリカを見て、テオフィロは笑い出した。

「ほんとにね。でも、そんな悪態をついても、エンリケはきみと話すのが好きなんだよ」

「わたしは別に……」

 エリカは頬を赤くした。未完成の造花を探して、その手がエプロンの上をうろうろする。

「エリカはいつ、エンリケに会ったの?」

「二年前、わたしがお城に来たときです」

 エリカは、エプロンの上に両手を置いた。

「その寒い冬の日はちょうど、国王陛下が十二年前のその日に即位したことを祝って、お祭りが昼間から開かれてました。夜になると花火が上がって。わたしはにぎやかで楽しそうな雰囲気が苦手だったから、お城の中でもひとの少ないほうへ、少ないほうへと逃げていったんです。花火が打ち上がるのとは反対側の、海に面したバルコニーにたどり着いたとき、そこに王子さまがいました」

「エンリケは、何でそんなところに?」

 誰よりも派手好みなエンリケなら、華やかなお祭りの場にいたいと思うはずなのに、とテオフィロは不思議に思った。

「わたしもそうききました。そうしたら、王子さまは言ったんです。『ここは、母さんと叔父さんが亡くなった場所で、今日が命日なんだ』って」

 テオフィロは、はっとした。エンリケの母親であるお妃さまは、エンリケが生まれてすぐに事故で亡くなっている。エンリケの叔父とは、お妃さまの弟で、いまのカルロス国王が軍務大臣だったときに、国王だったひとだ。まだ二十歳そこそこで、エンリケが生まれる前に亡くなったと聞いたことがある。

「バルコニーの下は断崖で、遠い水面は暗くてよく見えなかったけれど、ときどき白い波しぶきを上げました。波が崖にぶつかる大きな音が絶え間なく聞こえて、バルコニーがいまにも崩れて海に飲み込まれるんじゃないかと思うと、お腹がすうっとしました。王子さまは、『今日みたいな夜の、冷たい真っ暗な水の中に、二人は溺れていったんだ』と静かに言って、バルコニーの下を覗きこみました。わたしは、自分が足を半分手すりから出したような気持ちがして、王子さまの腕を思わず強くつかんだんです。王子さまは、『おれは落ちたりしないよ』と笑いました」

 エリカは、エプロンをぎゅっと握りしめた。

「わたしほんとは、王子さまに会ったその日、勝手にお城に忍び込んでたんです」

「ええっ?」

「わたしはそのころ、一人で諸国を放浪してました。別に好きこのんでそうしてたわけじゃなくて、一つのところにいられなかったんです。わたしは怪しい占い師で、ううん、占い師ですらなくて、タロットカードの手品でひとの心を読んだふりをする、いんちき手品師でした。手先が無駄に器用なのは、そのせい。長く一か所に留まるとタネがばれるから、西へ西へいろんな街を渡り歩いて、ついに大陸の西の最果て、トリスタンまで来ていたんです。もうこの街を出たら、行くところがありませんでした。あの冬の一番寒い夜に風邪にかかって、でも泊まるところも見つからなくて。そんなとき、お城の暖かそうな窓の灯が目に入りました。わたしは、もうなんでもいいや、と思って、引き寄せられるようにふらふらと、お城に勝手に入り込みました。もし捕まって牢屋に入れられても、今晩は天井のあるところで眠れるくらいに考えていたんです」

 テオフィロは言葉を失った。

「『ところでお前は、どこの誰なの? なんでここにいるの?』って王子さまにきかれて、わたしがいま言ったことを話したら、王子さまは、『ここにずっといたらいいよ。ここは帰る場所のない旅人を受け入れる街だから』と言ってくれたんです。そのあとわたしが高熱で倒れて、目が覚めたらもう、普段みたいな優しくない王子さまでした。だから、あの夜のことは夢だったのかなとも思うけど」

「エリカは子供なのに、たった一人で旅をしていたの?」

「わたしの先祖は、流浪の民です。お母さんとわたしは、最初は同じ先祖を持つ芸人一座と一緒だったんだけど、いつの頃からかその一座を離れて、二人で旅をするようになっていました。お母さんの占いはよく当たると評判で、千里眼なんて呼ばれるくらいでした。だけど、わたしの見るものは、不吉な光景ばかりで、お母さんはわたしの見たものを口に出すことを禁じたんです。言葉にすると、それを現実にする力が働くからって。幼いころから、お母さんが死ぬ夢をよく見ました。わたしは、それを一度だって言ったことはなかったのに、若くしてお母さんは亡くなりました。そのときの周りの状況が、よく見た予知夢とそっくりで、ぞっとしました」

「エリカが予言したからって、その通りになるなんてことあるはずないよ」

「二週間と少し前に、わたしが船の上で、ルーニアンの様子を占ったことを覚えてませんか? わたしに見えたのは、金の丸屋根の建物が、炎に焼き尽くされる場面でした。ルーニアンは、その通りになりましたよね」

 これには、テオフィロも黙り込むしかなかった。少しためらってから、テオフィロはエリカに尋ねた。

「いまも、何かの予知夢を見るの?」

 テオフィロの口からその問いかけが出た途端、エリカの顔が真っ青になった。

「わたしが見ることは、未来に起こることなのか、それとももうすでに起こったことなのか、わからないんです……」

「何か、恐ろしい光景を見たんだね? きみ一人の胸の中にしまっておくのが苦しいなら、ぼくにも教えてよ」

 エリカは、黒々とした瞳を見開いて、テオフィロに告げた。

「王子さまにすごく似た男の子が、どこか高いところから真っ逆さまに落ちていくんです。そして、あの夜見たような真っ暗な海が、その子を飲み込んでしまうんです」

 やけに肌の表面が薄ら寒く感じるので、いぶかしめば、いつのまにか廃墟の壁の影が動いて、テオフィロの座るところに日が差さなくなっていたのだった。




4 伯牙の指


街の東半分だった遺跡から、テオフィロとエリカが帰ると、知恵の蕾ではアドラシオンやファーティマたちが、東天紅までどんな経路をたどって向かうかを話し合っていた。

「ウーマーンの港を経由するルートで決まりですね。しかし、その先には近ごろ、怪しいことが起こるという報告があります」

 ハールーンが、不安そうな面持ちで言った。アドラシオンが、生真面目に問い返す。

「怪しいこと、とは?」

「何でも、その海域に入ると、どこからともなく歌が聞こえてきて、船乗りに幻を見せるのだとか。そして、その幻に気を取られた船乗りはかじ取りがおろそかになって、船は座礁して沈没してしまうのだそうです。海上貿易の商人や漁師たちの間では、セイレーンの仕業だと噂になっています」

「セイレーンって、美しい歌声で船乗りを惑わして、船を沈めるっていう怪物の?」

 エンリケたちは顔を見合わせた。ハールーンが、深刻な顔で言う。

「セイレーンが出没するという海域は、東天紅に向かう以上避けては通れません」

「何か、対策を講じることはできないのか」

 アドラシオンが問うと、ファーティマが答えた。

「過去の文献を調査したところ、魔の歌声が耳に入らなくなるほど、船乗りたちを魅了する楽人がともにいれば、セイレーンの魔力から逃れることができるそうです。大空白時代が始まる前に、セイレーンなどという怪物は否定されていますが、核兵器が使用された時代を挟んだいまは、強い放射能の影響による突然変異の可能性も捨てきれません。それに、これもミネルヴァの梟が噛んだ犯罪かもしれません。とにかく、ルーニアンにも、音楽を得意とする者がおりますので、同行させましょう」

「しかし、彼らが一流の音楽家とは言えるかどうか。怪しい歌声に打ち勝つことができるでしょうか……」

 ハールーンが、悩ましげに眉根を寄せると、オスバルドが煙をふう、と吐いて、ふと思い出したように言った。

「そういやあ、学士さまが少々、ギターをかじってたはずですけどねえ」

「そうなのか? ベルトランがギターを弾いてるところなんて、見たことないけど」

 エンリケが意外そうな顔をする。アドラシオンが、オスバルドをにらむ。

「それは本当のことなんだろうな。いいかげんな記憶でものを言うなよ」

「興味がねえんで、あんまり覚えちゃいませんが、確かがきのころに何度かコンテストの賞をもらってたはずです」

「ベルトラン=ギターの名手説が浮上してきましたね。それが本当なら、ベルトランの演奏を聴いてみたいです」

「ぼくも聴きたいなあ」

 エリカとテオフィロが口々に言う。エンリケが、機敏に会議室の椅子から飛び降りた。

「ベルトランなら、書庫のどっかで本を書き写してるはずだぜ。おれ、呼びに行ってくる」

 結局、エンリケとテオフィロ、エリカとジョルジュが手分けしてベルトランを探しに行くことになった。

「エンリケ、ベルトランさんって、すっごく頭がいいんでしょう?」

「王立人文科学院の研究生で、このルーニアン行きには特別に推薦されてきたんだ。代々続く学者の家の出で、しかも一族はじまって以来の秀才って言われてるらしい」

「そのわりには、ぼくらより迷信を信じてるけどね」

 書庫で行きあう知恵の蕾の学者たちに居場所を聞いて、先にベルトランを探し当てたのは、エンリケとテオフィロだった。

 若き学者は、粘土板文書をトリスタンの言葉に翻訳しては、羊皮紙に書き写しているところだった。手袋をはずした左手が、猛烈なスピードで羽根ペンを走らせる。

 エンリケとテオフィロが声を掛けると、ベルトランはにこやかな顔を向けたが、用件を伝えると、表情が引きつった。

「私がギターを弾いていたことなど、一体誰がしゃべったんですか?」

「オスバルドだよ。ベルトランとオスバルドって、子供の頃からの幼馴染なんだろ? ギターで賞を取るくらいだったって、オスバルドが言ってた。いつも悪口を言ってばっかのオスバルドが褒めるくらいなんだから、実はよっぽど上手なんだろ?」

「申し訳ありませんが、私にはギターを演奏することはできません」

 ベルトランがはっきりとした口調で断ったので、エンリケもテオフィロも驚いた。

「なんで? セイレーンのいる海を無事に通るために、ベルトランの力を貸してくれよ」

「私がギターを弾いていたのは、子供のころのことです。いま弾こうと思っても、きっとうまく指が動きませんよ。そのかわり、海難よけの人形をたくさん作っておきましょう」

「いや、人形じゃ意味ないんだけど」

 エンリケとテオフィロは、すごすごとアドラシオンたちの元に帰って、ベルトランの断りの返事を聞かせた。

「まあ、彼がそう言うのならそうなんだろう。それに、学者としてルーニアンに来ているベルトランには、ベルトランの果たすべき仕事がある。やはり、ルーニアンから楽人をお貸しいただくことにしよう」

 アドラシオンがそう言うと、「ベルトランのギター聴きたかったです」と残念そうにしながら、エリカたちも従った。オスバルドは、いつも陽気な彼には珍しく、不機嫌そうに腕を組んで黙っていた。


 数日後、エンリケたちの船はルーニアンの港を出航した。見送りに来てくれたファーティマと、旅の無事を祈ってお経を読んでくれた僧侶たちに、エンリケたちはちぎれるほど手を振った。

 ルーニアンから船を仕立てて旅に参加したのは、ハールーンと対セイレーン演奏要員であるターリブ、そして僧兵の一個師団だ。ターリブは、お腹の突き出た口ひげのある心理学者で、ウードが得意ということだった。

 少女商人ジョルジュも、一緒についてくることになった。

「ミネルヴァの梟を追いかけ始めたのは、わたしのほうが先なんだからね」

と、ジョルジュは笑った。

 少女の鳥は、青海原をゆく四隻の船に影を落としながら、悠々と空を飛んでいる。

 甲板の向こうから、オスバルドが子供たちを呼びにきた。

「おーい、もうすぐセイレーンがいるっつう例の海域に入るぞ。がきどもは危ねえから船室に入ってろ」

「副船長さんは、本当にセイレーンがこの海に棲んでいると思います?」

 ジョルジュが尋ねると、オスバルドはにやっと笑った。

「まあ、そんな不思議な怪物が、世界のどこかに棲んでててもいいんじゃねえか? セイレーンなら、海の冒険叙事詩には付き物だしな」

 テオフィロは、オスバルドに頼まれていたことを思い出した。

「オスバルドさん、まだオルゴールの修理終わってないんです。もうちょっとだけ待ってくださいね」

 航海の途中で、オスバルドが首から鎖でかけた小さな金属製の箱をもてあそんでいるところを、テオフィロは何度か目にしていた。それが気になったのは、その箱がひどくさびていて、開きそうにないことだった。

 オスバルドにきいてみれば、その箱はオルゴールで、人からの贈り物だという。

「もうきっと中もさびついてて、オルゴールの部品もいかれちまってるだろうな」

「いつも身につけてるなんて、すごく大切なものなんでしょう?」

 テオフィロは、自分に修理させてほしいと頼んだのだった。

「あれの修理、まだ続けてくれてたのか。別に、直らなくてもいいんだぜ」

 オスバルドは驚いた顔をした。

「ううん、ぼくが直したいんです。長い船旅では暇だから」

 テオフィロが顔の前で手を振ると、オスバルドはふっと笑って、そうか、じゃあ頼むと言った。

 ターリブが、ウードを片手に上甲板に上がった。絨毯を敷いて床に座り、ウードを横抱きにする。

 アドラシオンが、船首のほうからターリブを見上げて合図した。

「演奏をよろしく頼む」

 ギターと似ていて、でも異国風な弦楽器の音色が、船上に響く。楽器の形もギターを思わせるが、雫のような形をしている。

ターリブは、目を閉じて旋律を奏でた。踊り子が長いスカートを翻して、すばやく旋回を繰り返しているような速いテンポの曲だ。

 船室に戻ったエンリケたちは、誰からともなく耳をすました。ターリブの弾くウードの音色が、うっすらと船室にも伝わってくる。

テオフィロが遠慮がちに言った。

「セイレーンの声なんて聞かないほうがいいんじゃない?」

「だけど、ちょっと聞いてみたくない?」

 ジョルジュが、青い目を好奇心で輝かせた。

「でも、変な幻が見えたらどうするんですか」

 エリカが、少し怒ったように言う。エンリケがからかった。

「お前怖いんだ」

「怖くありません。みんなが幻に操られて、おかしな行動を取ったら困ると思ってるだけです」

「甲板のほうは大丈夫かな」

と、テオフィロが口にした途端、船ががたんと揺れた。船室の棚に置かれていた本が滑り落ちて、大きな音を立てる。

 四人は、はっと黙り込んで耳をそばだてた。ウードの音が徐々に遠のいて、代わりにかすかに聞こえたのは、たくさんの声を一つに束ねたような男とも女ともつかない、声の波だった。

 エリカがぽつりとつぶやく。

「呼んでます」

「え?」

「誰かが、海の底で呼んでます」

 四人は、お互いの腕を強くつかみあった。そうでないと、誰かが、自分が、扉を開けて甲板に出ていってしまいそうで怖かったのだ。

 エリカが言うように、それは確かに呼び声だった。哀しく切なく、誰かが海の底で船上のエンリケたちを呼んでいる。船室に閉じこもってじっと呼び声を聞くことは、母親の必死な呼びかけを無視するように、心が引き裂かれることだった。

「舵を切れ! この海域から引き返せ!」

 アドラシオンの怒鳴り声が、切れぎれに聞こえる。船がエンジン音を上げて、奇妙な声から遠ざかったとき、四人はようやくお互いの腕を離し、真っ青な顔を見合わせた。

 船室から飛び出していくと、甲板の上は騒然としていた。

 オスバルドをつかまえて聞けば、何人かの船員が、例の声に吸い寄せられて、海に飛びこんだのだという。さいわい、その船員たちはすぐに助け出された。

「ったく、あの心理学者のじいさんも役に立たねえなあ」

「そんなことを言ってやるな。あの不思議な声の魔力に太刀打ちできるとするなら、よほどの楽器の名手だろう」

 オスバルドが不平をこぼすのを聞きとがめて、アドラシオンがなだめた。

「それで、これからどうするんですかい」

「このままでは、あの海域を通り抜けることはできそうもない。一旦ウーマーンの港に戻って、一流の奏者を雇おう」

「また、三日くらいかけてウーマーンに引き返すってわけか。そう都合よく、一流の演奏家なんて見つかるんですかね」

「これが、いまできる最善の策なんだから、仕方ないだろう」

 そこへ、ベルトランとハールーンが連れ立って歩いてきた。ハールーンが、厳しい表情でアドラシオンに報告する。

「例の声を録音しました。ウーマーンに戻ったら、ルーニアンにテープを送って解析してもらうことが可能です。現時点では、あの声が生物によるものなのか、風や波といった自然現象によるものなのか、はたまた機械によって作り出されたものなのか、判断がつきません」

「楽器の名手による演奏も、最良の対抗策とは言えませんよ。出発を遅らせ、ルーニアンからの解析結果が届いてからにしても、船を沈没させるよりはましでしょう」

 ベルトランが、慎重な案を出した。エンリケたちの船は、ウーマーンに帰って出直すことになった。


 テオフィロは、船室のランプの下で、オスバルドのオルゴールを直していた。狭い船室の二段ベッドの下で、エンリケがぐーぐーと幸せそうに寝ている。王子ではなくただの船員見習いとして扱われているので、エンリケとテオフィロはまとめて同じ船室なのだ。

箱のさびをきれいに取ると、下からは銀色の表面が出てきた。

「あ、開いた」

 ききき、ときしんだ音を立てて、箱の蓋が持ち上がった。いまはオルゴールの機械が壊れているので、音楽を奏でることはない。

 テオフィロは、ビロードを張った箱の中に、四つ折りになった紙片が入っていることに気づいた。何だろう、と手に取り開いてみると、それは古い写真だった。消えかけた印刷の中に見知った人の顔を見つけて、テオフィロは慌ててオスバルドを探しに行った。

 オスバルドの船室の近くまで来たとき、思わぬ人物の低くおさえた声が聞こえた。

「おい、いいかげんにしろ。夜なんだから静かにしてくれないか」

 この声はベルトランさんだ、と気づく。テオフィロは、廊下の向こうの張り詰めた雰囲気に、立ち入ってはいけない気がして、とっさに廊下の角に身を隠した。

「日頃からよく知ってるお前がギターを弾けば、知らねえ楽師の演奏よりも、船のみんなも曲に集中できるんじゃねえのかって言ってんだよ」

 いらだった声をぶつけているのは、いままさに探していたオスバルドだった。

「しつこいな。私はやらないと言っただろう」

「お前も聞いただろ、昼間の妙に力のある不気味な声を。このままじゃこの船は難破しちまうかもしれねえ」

「あの声は幻を見せるらしいな。お前も見たのか? 愛しい恋人が名前を呼ぶ姿でも」

 普段とは打って変わったベルトランの冷ややかな声に、テオフィロは耳を疑った。

オスバルドが、ベルトランの胸元につかみかかる。

「ああ見たさ! ディアナが、きれいな声で冷たい海底から俺を呼ぶ声を聞いた。ベルトランのギターがもう一度聴きたいってな。十年前のあの頃とおんなじように!」

 大きな波が来たのか、船がぐらりと揺れて、二人は一瞬黙った。天井のランプが揺れて、廊下の影が不規則に伸びたり縮んだりした。

 オスバルドが声を低めた。

「あのときなんで、病室に来てやらなかったんだ。死ぬ前にもう一度だけ、ディアナはお前の演奏が聴きたいって言ってたんだぞ」

「私にはあのころ、王立人文科学院に入学するための大事な試験があった」

「お前はいつもそれだ! 自分の学問のためには、幼馴染の死に際の願いだって平気で無視しやがる。そんなに出世が大事かよ」

「その通りだよ」

 シャツの胸倉をつかみ上げられたまま、ベルトランは平然と言ってのけた。さすがにショックを受けたように、オスバルドの腕から力が抜ける。ベルトランは、乱れたシャツを整えて、赤毛の船乗りを冷たくにらんだ。

「用件はそれだけか」

 立ち去ろうとするベルトランの腕をわしづかみにして、オスバルドは持っていたギターを押しつけた。ベルトランは押し戻そうとしたが、オスバルドに根負けして、結局ギターを受け取った。

 ベルトランが、廊下の反対側に立ち去っていく足音を、テオフィロは心臓をばくばくさせながら聞いた。オスバルドが荒々しく自分の船室の扉を開き、大きな音を立てて閉める。

細かい部分までうかがい知ることはできないけれど、ベルトランとオスバルドの仲が悪いわけがわかった。

テオフィロは、壊れたオルゴールの中から見つけた手元の写真に目を落とした。  

そこには、いまよりずっと若いオスバルドとベルトランの笑い合う姿が映っている。ベルトランが大事そうに、ギターを抱いている。

そして、二人の間で笑っているのは、ヴァイオリンの名器のようなつやのあるブラウンの髪をした美しい少女だった。

しばらく時間を置いてから、テオフィロはオスバルドの船室の扉を叩いた。

「へーい、誰だ?」

 という返事があって、扉が開く。

「……こんばんは」

「何だ、テオフィロか。がきは寝る時間だぞ」

「オルゴールを修理してたら、写真を見つけたんです」

 テオフィロから手渡された写真を見て、オスバルドは顔を強張らせた。

「そんな写真渡すなよ。ディアナに浮気を疑われるだろうが」

「そのディアナさんが、この写真に映ってる女の人なんでしょ」

 テオフィロが、長い前髪の間から見上げると、赤毛の船乗りは表情をなくしていた。

「そんな写真、箱の中でとっくに朽ち果ててると思ったよ」

 否定も肯定もしないまま、オスバルドは写真を元の通りに四つ折りにして、シャツの胸ポケットにしまった。

「さあ、修理はいつでもいいから、もう寝ろ」

 船室から廊下に差す光の筋からテオフィロを追い出すようにして、オスバルドは扉を閉めようとした。

「火事だーっ」

 甲板から急を告げる叫び声が聞こえて、オスバルドが部屋を飛び出した。振り向きざまに、「ほかのがきどもを叩き起こしてこい!」とテオフィロに命じていく。

 テオフィロは、部屋に駆け戻った。「エンリケ、エンリケ! 起きて、火事だよ!」とエンリケを揺すると、王子は目を固くつぶってうなった。

寝起きはぼうっとしているエンリケの手を引っ張って、テオフィロはほかの部屋の扉も叩いて回り、エリカやジョルジュとともに甲板に上がった。

 甲板では、積み荷の樽が大きな炎を上げて燃え盛っていた。エリカが、口に手を当てて立ち止まる。

「どうしてこんなことに?」

 ジョルジュが、片腕を高く差し上げて、相棒を呼んだ。

「わたしの翼よ! あの火を消して!」

 夜空の闇にとけていた大きな鳥が、すぐに船の上に降りてきて、大きな翼をはばたかせた。巻き起こった突風で、あれだけ激しかった炎がぱたりと消える。その拍子に、バケツリレーで水をかけていた船員たちが数名、風に巻き込まれて尻餅をついた。

「どうして火事なんて!」

 オスバルドが、アドラシオンの元に駆け寄る。船長をはじめとした船員たちは、みな空を見上げていた。

 その視線の先には、小型の飛空挺が飛んでいる。飛空艇の両脇には大砲が取り付けられており、そこから火炎がほとばしった。火柱は、エンリケたちの船のすぐ脇の海面を蒸発させた。

「あの飛空挺はまさか、ルーニアンの大図書館を襲撃した船っすか」

「ああ、ミネルヴァの梟だ。向こうから先に攻撃してくるとはな」

 オスバルドに、アドラシオンが苦い表情で言う。やっと完全に目を覚ましたエンリケが、飛空挺を指差した。

「飛空挺の上に、誰かいる!」

 空飛ぶ船の船首に、背の高い男が立っている。アドラシオンが回してくれた単眼鏡をのぞきこむと、その男は、近世ヨーロッパの音楽家のように、豊かな銀髪を顔の両側でカールさせて、燕尾服をまとっていた。

「あのふざけた髪型をしたやつは、アテナ商会の会長テミストクレスだよ!」

 ジョルジュが、商売敵の名前を叫んだ。テミストクレスは、大きな拡声器を取り出した。

「われわれはミネルヴァの梟。世界に黄昏をもたらし、真理を追求する神の使徒である。宇宙の卵の眠る東天紅には、何人(なんぴと)も踏み入れさせるわけにはいかぬ。われわれが開発したセイレーンで、きさまらも母なる海にかえしてくれよう」

「やはり、セイレーンをこの海域に仕掛けたのは、ミネルヴァの梟の仕業だったのですね。あの飛空挺といい、セイレーンといい、ミネルヴァの梟の技術力は、世界最高の知の都であるルーニアンに匹敵するほどです」

 ハールーンが、恐ろしそうな表情をする。エンリケがきいた。

「ミネルヴァの梟は、哲学者の集まりじゃないのかよ。そんな大層な機械、作れんのか」

「あらゆる学問は、哲学から生まれたのです。工学も理学もね。歴史に名を残した哲学者の一部は、同時に数学者でもありました。私が探求する心理学も、哲学が産んだ一番新しい子供です。きっとミネルヴァの梟も、優秀な科学者を抱えているのでしょう」

 ターリブが、落ち着きなく口ひげに手を触れる。

「誰でも、懐かしい思い出と強く結びついた歌を持っているはずです。これはまだ仮説ですが、セイレーンはきっと、可能なかぎりの音階の組み合わせをつないだ調べを奏でることによって、思い出深い歌を連想させるのです。私は、セイレーンの声を聞いて、亡き母の幻を見ました。そしてそのとき、私の脳内には懐かしい母の子守唄が響いていたのです」

「講義はあとだ! 船の大砲で飛空挺をぶっ飛ばしてやれ!」

 オスバルドが、船員に合図すると、大砲が火を吹いて、空飛ぶ船の横腹に命中した。飛空挺の上で、テミストクレスがよろめく。エンリケたちの船から歓声が上がった。

「ここで〈光の御子〉を手に入れられないのが残念だが、機会はまだいくらでもある。セイレーンは、必ずきさまらを暗い海の底に引きずりこむであろう!」

 テミストクレスが、捨てゼリフを残して船首の向きを変えようとした。

「いったいどうしたんだ! 船の中がどこもかしこも空っぽじゃないか!」

 甲板の扉が壁に叩きつけられて、中からベルトランが飛び出してきた。その手にはまだ、オスバルドから無理やり渡されたギターが握られている。

「あのあほ学士に、誰も火事だって知らせてやらなかったのかよ!」

 オスバルドが言うように、ベルトランは、開け放たれたままになっている船室の扉や無人の船内を見て初めて、何か異変が起こったことに気づいたらしい。

「ほほう、それが頼みの綱の楽師さまというわけか」

 テミストクレスが、目ざとくベルトランと、その手のギターを目に止めた。

「『がくし』違いだ!」

「せっかくだ。そやつの腕を使い物にならないようにしてやろう」

 テミストクレスが、船のマストの高さまで高度を下げた飛空挺の上で、小型の銃を構えるのが見えた。

「よけろ!」

 オスバルドが、ベルトランのほうに体をねじ向けて手を伸ばした。

 直後、ベルトランが顔をゆがめて右手を押さえた。その様子を見て高笑いするテミストクレスを乗せて、飛空挺は今度こそ遠ざかっていく。

 オスバルドが、ベルトランのそばに駆け寄って肩を支えた。

「おい、学士! しっかりしろ!」

「耳元で怒鳴るな、やかましい」

 狙撃されたベルトランの受け答えがしっかりしていたので、エンリケたちはほっとした。

「とにかく手当だ。撃たれたとこ見せてみろ」

 オスバルドが、ベルトランの手首をつかみ、右手の怪我の程度を確かめようとする。しかし思わぬことに、ベルトランはオスバルドの手を振り払った。

「何すんだてめえ」

「傷なら大丈夫だ。当たってない」

「それなら見せてもいいだろ。ほら!」

「やめろ!」

 エンリケたちは、ベルトランがなぜ右手を見せたがらないのかわからずに、おろおろした。しかしオスバルドはおかまいなしに、ベルトランがかたくなにかばう右手を力に任せて暴いた。験担ぎだと言って四六時中はめている白手袋も、嫌がっているのにもかまわずに外してしまった。

 手袋を取り上げたオスバルドは、目を見開いて固まった。急に動きを止めたのを怪訝に思って、エンリケたちもオスバルドの両側から覗きこむ。

 エリカが、悲鳴を押し殺すように口元に手を当てた。

 手袋の下のベルトランの右手には、人差し指と中指が欠けていたのだ。

血は出ていない。その断面は、ずっと昔から欠落していたように丸く滑らかだったのだ。

「……どういうことだよ」

 地をはうような低い声が聞こえて、テオフィロはそれがオスバルドのものだと気づいた。 

「その指、いつからだ」

 ベルトランは、手袋を奪われた右手をズボンのポケットに隠した。自分をにらみつけているオスバルドには目もくれず、何事もなかったかのようにさばさばと言う。

「怪我がないのは確かめられただろう。指のことなら、お前には関係のないことだ」

 オスバルドが、激昂して叫んだ。

「その指、いつから隠してたんだ! そんなんじゃ、ギターも弾けないじゃないか!」

 赤毛の船乗りは、愕然としたように目を見開いた。しぼり出すように声を出す。

「まさか。……だから、ディアナを見舞いに来なかったのか?」

 ベルトランとオスバルドの間の事情を知らないテオフィロ以外の人々は、緊迫した二人の雰囲気に驚いていたが、アドラシオンがつかつかと歩いてきて、割って入った。

「まあ、二人とも落ち着け。らしくもない。オスバルド、きさまいまにもベルトランに斬りかかりそうだぞ。しかし、ベルトランも伝えるべきことを伝えないせいで、こんな厄介なことになっているように思える。この鈍物は、きちんと言葉で話してやらないとわからないのだ。それくらい、付き合いの長いきさまならわかっているだろう」

 ベルトランは、息を荒くして目をぎらぎら光らせているオスバルドに、無表情な視線を向けていた。しかし、アドラシオンに諭されて、ふっと息をつく。

「船長にそこまで言われては、降参するより仕方ありませんね」

 学者は、指の欠けた滑らかな断面に、そっと触れた。

「はるか昔の中国の、伯牙という琴の名手は、彼の奏でる音を一番に理解してくれた友人の鍾子期が死んだとき、もうこの世に自分の理解者はいないと嘆いて、琴を破ってしまったそうです。『もう二度と琴を弾かないと誓ったのなら、どうして伯牙は、楽器を壊しただけでなく、自分の指をすべて切り取ってしまわなかったんだろうな』これが、私の指を切り落としたときの、父の言葉でした」

 テオフィロが息を飲む。ベルトランは、わが身に起こった耳を覆いたくなるような悲惨な話を、まるで他人事のように語った。

「私の家は、名のある学者を多数輩出した家柄として、かつては聞こえていましたが、私の生まれた頃にはそんな栄光のときも過ぎ去っていました。跡取りである私が王立人文科学院の研究科に入学できなければ、没落する運命でした。あとがなかった父は、いつしか精神を病んでいたのでしょう、勉学にあてるべき時間を音楽に費やしていたことの戒めとして、息子の指を切り落としたのです」

 余りに酷い仕打ちに、エリカが何か言おうとして喉を詰まらせた。

 オスバルドが、苦しげな声で訴えかけた。

「どうしてそんなひどいこと、一人で我慢してたんだ! どうして、俺にもディアナにも打ち明けなかったんだ。一番の友達だったじゃないか、あの頃は」

 ベルトランは黙ってしまった。テオフィロが、代わりにオスバルドを見上げる。

「きっと、大切な二人だから、言えなかったんですよ。二人はきっと、ベルトランさんが指をなくしたのは、自分たちのせいだって悩むから。ベルトランさんはいつも、オスバルドさんやディアナさんに聞かせるためにギターを練習していたんでしょう?」

「自分がひどいやつだって思われても、友達を傷つけたくなかったんだと思うぜ」

 エンリケもオスバルドに言った。

赤毛の船乗りは、ベルトランの右手を隠していた手袋を床にたたきつけた。

「なんだよそれ! 手袋は学問成就のお守りだなんてふざけたこと抜かして、いままでずっと俺をだましやがって」

 ベルトランは目を伏せた。

「すまなかった。王子やテオフィロの言ってくれたような、たいそうなことを考えていたわけじゃないんだ。ただ、指のことを言えないまま、ディアナが死んでしまって……悲しみと絶望のせいで私を責めるお前に、どうしても本当のことが告げられなかったんだ」

 ベルトランは、持っていたギターをオスバルドに返そうとした。ギターがオスバルドの体に当たって、空洞の中で何かが動き、かさりと音を立てる。

 ギターの空洞を探って、ベルトランが見つけたのは、重ねて折られた何枚かの紙だった。これまでは、ギターの内側にテープで留められていたのだろう。

 広げると、そこには五線譜が引かれ、音符が記してあった。

「この楽譜の書き方は、ディアナのものだ」

 ベルトランが、もっとよく見ようと、紙に顔を近づける。オスバルドも驚いていた。

「このギターは、ディアナの病室にあったやつだ。その楽譜……ディアナがお前のために最後に書いた曲かもな」

 ベルトランは、目を細めて譜面を見ながら、おそらく無意識だろうが、ギターの弦を押さえるように指を動かしていた。

「この曲、人差し指も中指も使わないかもしれない……」

「なんだと?」

 ベルトランはギターを抱きかかえると、具合を確かめるように、指を二本失った手で爪弾いた。それから、楽譜に書かれたとおりに指を動かし始めた。

 最初は探るようだった音の連なりは、やがて旋律の形を取り始め、長年枯れていた泉が再び湧き出すように、生き生きと曲を奏で始めた。

 ギターの音色は、相槌を打つように優しく響いた。まるで、一日外で友達と遊んで、息を切らして帰ってきた子供の話を、日暮れの台所で楽しそうに聞く女性の母親のやわらかい笑い声のようだ。

 いつのまにか、船上の人々はみなベルトランの演奏に聞きほれていた。

 ベルトランが、最後の和音を奏でて手を離すと、自然と拍手がわき起こった。身の内から湧き上がる何かにじっと耐えるように、ギターを抱きしめたままのベルトランの腕に、エリカが笑顔で飛びつく。

「ベルトラン! すごく優しい曲でした」

 あらためて楽譜を見て、ベルトランは、五線譜の外に懐かしい幼馴染の字で、曲名が記されているのを見つけた。その曲の名は、

『指の欠けた奏者のための独奏曲』

 オスバルドが、わざと感情を押さえつけているような不自然な調子で言った。

「やっぱりディアナとお前は、言葉がなくてもわかりあえてたんだな。俺は、この十年間お前の指のことなんざ、これっぽっちも気づかなかったってのに。

お前らは、いつでもそうだった。ディアナが曲を書いて、お前が演奏して、俺がそいつを聴く。俺たちはいつも三人で過ごしてたのに、ディアナとお前の間には、言葉じゃない、きらきらした透明な強い流れみたいなもんが通いあってた」

赤毛の船乗りは、子供のように拳を握りしめた。

「俺が一番、ディアナのことが好きだったんだ。だから俺が一番、あいつのことをわかってやっていたかったんだ。……だけど、俺が千回話しかけたとしても、お前はたった一曲弾くだけで、ディアナと全部わかりあっちまう」

 ベルトランが、ギターを静かに降ろして、旧友の肩に手を置いた。

「ディアナも、お前のことが一番好きだったよ。日常のなんでもない出来事も、夢も、想いも、ちゃんと言葉にして話してくれるお前だから、好きだったんだ」

 私だって、そうだった。ベルトランは、聞き取れるか聞き取れないかくらいのかすかな声で言った。

「これでやっと、セイレーンの棲む海も渡れそうだな」

 アドラシオンが、柔らかい表情で、ベルトランを見た。ベルトランは、はっとしたように背筋を伸ばして、腕の中のギターに目を落とし、それから深くうなずいた。


 エンリケたちの船は、ウーマーンから進路を変え、夜が明けてからセイレーンの海域に入った。

 ベルトランが、船首に立って、遠くきらめく水平線と、波の上を飛ぶイルカの群れを眺めていた。背後に立ったオスバルドに、話しかけるともなくつぶやく。

「ギターを弾く指を失ったとき、強く思ったよ。このまま、セイレーンの棲む海に溺れてしまいたいと」

「セイレーンの棲む海って何のことだよ。学者さまのたとえは、いちいちわかりにくいな」

 オスバルドが、もじゃもじゃの赤毛をかき回した。ベルトランは、説明を付け足すわけでもなく、言葉を続ける。

「確実な破滅へと誘うものだと知っていながら、甘美な歌声に心を任せて、静かな死の海に沈んでいきたいと思ってしまうのは、なぜなのだろうな。心を死なせて、自分自身の願いさえ持たずに、誰かの命じるままに生きていくのは、とてもたやすい道に思えた。……だけど、自分で選んだ道しるべに従って歩いていく人生でないなら、きっと、虚しい。だから私は、新しい道を自分の足で歩いていくことに決めたんだ」

 オスバルドが、ズボンのポケットから取り出した銀色の箱を開けた。中からイルミネーションの輝きのような美しいメロディが流れ出す。

 テオフィロが徹夜で修理して、潮風ですっかりさびていたオルゴールをもとの状態に直したのだ。ベルトランがふっと笑う。

「懐かしいディアナの曲だ。そのオルゴールを肌身離さず十年間も持っていたなんて、見かけによらず未練がましい男だな」

「うるせえ。潮風でさびるままにしてたってのに、まさか元どおりに直されるなんてよ」

「その曲を私の手が奏でることは、もう二度とないけれど、ディアナの曲が一曲でもこの世に残ってくれることは、うれしいな」

 オスバルドが、オルゴールの蓋を閉めて、懐からパイプを取り出した。

「俺たちは、てめぇに命を預けたんだ。ふぬけた演奏したらただじゃ済まねえぞ」

「そんな演奏、するわけないだろ。お前の誰よりも大切な人が書いて、お前の旧友が弾く曲なんだから」

 返ってきたのは意外にも、自信に満ちあふれた言葉だった。ベルトランの目が、探し歩いた古書を目の前にしたときのようにきらきらしている。

「それとも、もう一度セイレーンの見せる幻に会いたいか?」

 オスバルドは、鼻で笑ってパイプに火をつけた。

「バカ言え。俺の愛する人なら、この頭ん中にいつでもいるよ。いつでも会える。だからベルトラン、思い切り演奏しろ。おれさまの石頭を通して、ディアナにも届くようにな」

 オスバルドの吐いた煙が、朝靄に溶ける。

ベルトランはギターをしっかりと抱えると、朝日を浴びて薄れ始めた靄を払うように、最初のアルペジオを奏でた。

 三本指の奏者が奏でる曲は船を守り、エンリケたちは無事にセイレーンの棲む海を通り抜けたのだった。




5 王家の秘密


空の低いところに、城のように大きな雲がいくつも浮かんでいる。エンリケたちの船は、波を切って雲の下を進んでいた。

 テオフィロが、モップを握ってせっせと甲板掃除に勤しむ一方、すでに日常の風景と化したが、その横では、ジョルジュがエンリケに商品をアピールしている。

「肌触りのいい絹のズボンと上着のそろいはいかが?」

 テオフィロが、モップを動かす手を休めて、ジョルジュに苦言を呈した。

「エンリケの浪費を加速させないでおくれよ、ジョルジュ」

「ジョルジュが悪いんじゃないぞ。悪いのはこの贅沢王子だ」

 低い声がして、エンリケが「痛っ」と声を上げた。後ろにアドラシオンが立っていて、エンリケに拳骨を落としたのだ。

「暴力はひでーよ、アドラ」

「船長と呼びなさい。甲板掃除は終わったんですか?」

「そろそろ休憩にしないか? ジョルジュがくれた、とっておきのお茶があるんだぜ」

 アドラシオンが、仏頂面ながらも、仕方ないなと許してくれたので、エンリケは大喜びで甲板の上にテーブルと椅子をセットした。日陰を作るために、刺繍のされた大きな幕を張る。

 透明なガラスのポットの底に、エンリケがいい香りのするお茶っ葉を固めた玉をころんと入れた。その上から沸かしたお湯を注ぎ入れる。

 少し経つと、ポットの中の玉が少しずつほぐれてきて、お湯にお茶の色が移り始めた。玉は徐々に開いていき、ついにあざみのような薄紅色の花が咲いた。エリカが、わあ、と顔をほころばせる。

 ジョルジュが芝居がかった仕草で、ガラスのポットのお茶を手で指し示した。

「これは、東方から運んだ水中花。向こうじゃ茉莉花茶って呼ばれてる、ジャスミンティーを入れられるんだよ。見た目がきれいなうえに、香りも上品。こんなの、この高級商人ジョルジュじゃなきゃ仕入れられないね」

 子供たちはテーブルについて、ジャスミンティーを飲みながらお菓子をつまんだ。小さな青磁のお椀に、ハート形の花びらが沈む。

テオフィロが、船を抜きつ追い越しつ、悠々と大空を飛んでいる巨鳥を見上げながら、ジョルジュに質問した。

「ジョルジュは、どこでこんな大きな鳥と出会ったの?」

 少女商人は、まだ熱いお茶を豪快に飲み干して、ポットからおかわりをついだ。

「一人で旅をしてたころに、パーミル山脈の森の中でね。どでかーい卵が崖の岩棚の巣に一つだけ残されていたんだ。お母さん鳥が何か事故に遭って、卵のもとに帰れなくなっちゃたのかなあと思うんだけどね」

「ジョルジュは、その卵をかわいそうに思って保護してあげたんだね」

 テオフィロが感心すると、ジョルジュは笑顔で首を振った。

「ううん、いい商品になると思って」

「商品⁉️」

「この巨鳥は大人になると、ひとはばたきで山脈を越えると言われているんだ。この鳥が一頭いれば、大陸の端から端まであっという間だよ。高く売れると思わない?」

 自分とは全く違う思考回路に、ほかの三人はあっけにとられた。エリカが、信じられないという顔をする。

「じゃあいまも、あの鳥を売ろうとしてるんですか?」

「ううん。いまじゃすっかり、わたしの商売に欠かせない相棒だよ。あの子のおかげで、どんな遠い場所の商品でも買い付けて、お客さんの元へ運ぶことができるからね。それに、だんだん愛着も湧いてきちゃったし」

 ほかの三人は、ほっとしたようにため息をついた。


甲板から話し声が聞こえて、昼間のことを思い出していたテオフィロは足を止めた。後ろから歩いてきていたエンリケがぶつかる。昼間に休憩を挟んだせいで、結局そのあとの仕事が後ろ倒しになってしまったのだ。

いまはすっかり日も沈んで、頰に吹き付ける風は涼しくなっている。見上げれば、天の川の星一つに至るまでが恐ろしいほど輝いて、人間には聞こえない音楽を奏でているようだ。

「この声、アドラとオスバルドだ」

 エンリケが声の主を言い当てる。

「あんまり邪魔しないほうがいいかもしれないね。誰もいないところで、何か大事なことを話し合ってるのかも」

 テオフィロがそう言って、きびすを返そうとした。仕事が終わっていないことがばれるので、いまはアドラシオンとオスバルドに会いたくないというのもある。

 しかし、エンリケは、テオフィロの袖をつかんで引き留めた。

「何を話してるか、ちょっと聞いてみようぜ」

「ええ? 盗み聞きするつもり?」

「おれは、東天紅とかんらん姫の情報がほしいんだよ」

 テオフィロは、エンリケに引っ張られて、仕方なく積荷の陰に身を潜めた。

 オスバルドが、葉巻に火をつけるためにマッチを擦る音がした。

「かんらん姫なんて、本当に存在するんですかね。東天紅に上陸してみたら、あのいかれた哲学者のテロ組織が罠を張ってたなんて、いやっすよ」

「安心しろ。そのときはお前をおとりにして、私たちは逃げる」

「船長はせめて、船員と命運をともにしてくださいよ!」

「かんらん姫が、実際にいてもいなくても問題ではないのだ。我々はとにかく、東天紅に行ったという事実さえあればいい。国王陛下にご報告するためにな」

 アドラシオンの思わぬ言葉に、テオフィロとエンリケは顔を見合わせた。

オスバルドが、葉巻の煙を吐くと、たばこの匂いが、エンリケとテオフィロのもとまで漂ってきた。

「俺らはそれでいいでしょうけど、かんらん姫に会うのを楽しみにしてる学士さまたちには気の毒ですぜ。それにしたって、国王陛下ももう年ですかねえ。無双の将軍として勇猛の名をうたわれたお方が、過去の亡霊に心を惑わせておいでとは」

 アドラシオンは、黙って腕を組んでいる。オスバルドが、言葉を続けた。

「前国王、つまりお妃さまの弟君は、十何年も前に亡くなっているんでしょう? 何でいまさら、その生死をかんらん姫に尋ねてみよ、なんて言い出したんですかね」

 話は意外な方向に進んでいく。テオフィロの隣で、エンリケが身じろぎした。

「確かに十三年前、先の国王陛下であるアマデオさまは、城の塔から崖下の海へ転落している。しかしいまだに遺体は上がっていない」

「含みのある言い方ですな。弟君の死の一年後の同じ日に、同じ場所から転落したお妃さまの事故と何か関係があるんすか」

 アドラシオンは、月も出ていない真っ暗な海にしばし目を向けていたが、オスバルドに向き直って鋭い視線をくれた。

「これから話すことは、王家の秘密に関わることだ。誰にも漏らさないと確約できるか」

 オスバルドは、ふううと長く紫煙を吐き出した。

「俺ぁ別に、トリスタン王家に忠義を尽くす誓いを立てているわけじゃありやせん。ただ、船長のことは気に入ってますからね。あんたが許すまで、しゃべらないと約束しますよ。まあ、拷問でもされるんなら話は違いますが」

「中途半端なやつだな」

 アドラシオンは、美しい眉をひそめた。

「この事件は発生してまもなく、ごく内うちに決着をつけられたし、国民にも伏せられている。十三年前、当時軍務大臣を務めていた現国王陛下は、自分の支配下の国軍を指揮して、クーデターを起こしたのだ。十四の年で王座についたアマデオさまは、当時まだ二十歳だった。国王の座を追われたアマデオさまは、カルロス陛下の指揮する国軍に追い詰められて、自ら塔のバルコニーから飛び降りたのだ。その一年後、自分の伴侶が愛する弟を殺したという事実に苦しんだお妃も、同じ場所で自ら命を絶った」

 テオフィロは、心臓が凍るような思いで、エンリケを振り返った。星明かりの下でも、親友の顔が蒼白であることはわかった。

 船の側面にぶつかっては砕ける波の音が、船を飲み込もうと迫ってくるように感じた。月の光も、星の光も届かない冷たく暗い海の底に、エンリケの母と叔父を追いやったのは、ほかならぬエンリケの父なのだ。

「こいつぁ、驚いた」

 さすがのオスバルドも、目を見張っていた。

「すると、カルロス陛下が、こんな旅を計画したのは、前国王を確実に始末しようってわけですかい。しかし、カルロス陛下はなんでまた、前国王が生き延びてるなんて思い込むようになったんです」

「最近、城内でこんな怪談がひそかにささやかれているというのだ。前国王アマデオさまを目にしたとな。その噂をするのは、ことごとく前国王のときから城に仕えている者たちだ。聞きとがめた者がもっと詳しく話してくれと請うと、みな一様に口をつぐんでしまうらしい。その話が、現国王陛下の耳にも入り、東天紅を目指す今回の旅が組まれたというわけだ」

 がらんと広い城内の、天井の高い廊下の物陰に、ひっそりと立っている前国王を思い浮かべて、テオフィロはぞっとした。影のように立つその若い男の人の顔は、ぼんやりとしてはっきり見えない。

「たった一人の人間を探し出すために、こんな大規模な船団が用意されたってわけですか。十三年前なら船長も、海軍の士官になりたてのころでしょう。そのころの俺はまだ、鼻水垂らした小僧ですけどね。船長は、前国王が生きていると思ってるんですかい?」

 オスバルドが、アドラシオンとの年代の差を強調しながら質問すると、船長はきっぱりと答えた。

「アマデオさまは死んだよ。アマデオさまが塔から飛び降りた直後、カルロス陛下から命じられて、私は船で崖下の海を念入りに捜索したんだ。塔の真下の海は、上からだと見えないが、水面下すぐのところにとがった岩が並んでいて、流れも速い。あの海に落ちて、生きていられるわけがない。さしずめ遺体は、岩に当たってずたずたになったか、どこか遠くまで流されたのだろう」

「なるほどね。ところで、船長は前国王の幽霊を見たことあるんですか」

「ある」

 その言葉が、聞く者の恐怖心をあおる目的で発せられたものではなく、まったく普段通りのトーンで語られた分、テオフィロの皮膚は粟立った。

 いくら度胸のあるオスバルドでも、この反応にはあっけにとられて、口にくわえた葉巻をぽろりと落としかけた。

「え?」

 月のない海に向けられたアドラシオンの顔は、影になって見えない。

「アマデオさまの亡霊なら、城内で何度も目にしたことがある」

 船室に戻っても、テオフィロはエンリケにどんな言葉をかけていいかわからなかった。エンリケは、岩のように固く口元を引き締めて、テオフィロには一瞥もくれなかった。

 「おやすみ」とだけ声をかけて、船室のランプを消す。もう眠りに落ちただろうと思うのに十分な時間がたったころ、二段ベッドの下の段から、か細い泣き声が聞こえた。

「どうして母さんは、おれをこの世に生み出したんだろう。おれは何のために生きていくんだろう」

 テオフィロは、どうしようもなく胸が締めつけられたまま、目を閉じた。


数日のうちにエンリケたちの船は、大陸の東の半島東天紅へとたどり着いた。

港の廃墟にも、深い森林の上空にも、いまのところ人影やミネルヴァの梟の飛空挺は見えない。

窓ガラスが割れ、蔦に侵食された建物の壁に手をつきながら、ベルトランがエリカに講義した。

「電網戦争が起きるより前、ここには豊かな文明が栄えていたんだ。かんらん姫が隕石で降り立ったのは、大空白時代に属するそのころだと言われている。だから、かんらん姫についての信用できる記録はないに等しいんだ」

「それから、電網戦争が終結したあと、東天紅は衰退しちまったんだろ。いまおれさまたちが目にしてる通りに」

 船を降りてきたオスバルドが、ベルトランの話の腰を折った。エンリケは、こんもりと茂った密林を眺める。密林の中央には、傾斜がほぼ直角に見える、険しい緑の山がそびえている。

「自然の力ってすごいんだな。街が全部植物に飲み込まれてる」

「この密林の中から、かんらん姫を見つけ出さなきゃいけないってことですか?」

 エリカが、細い眉をへの字にする。アドラシオンが、銃をつった腰に手を当てた。

「かなりの大捜索になりそうだな。しかしわれわれは、ミネルヴァの梟を捕まえるために万端の備えをしなければならない。かんらん姫探索は、三日で打ち切ることにしよう」

「これだけ広い森を三日ですか? 短すぎます。森の入り口を少し歩き回るだけになってしまいますよ」

 ハールーンが、拳を握りしめて異議を申し立てた。

「しかし、ここはミネルヴァの梟の捕縛が優先だ。またあらためて、ルーニアンとわが国で学術調査団を派遣したほうがいいだろう」

「……船長の言うことももっともですね。わかりました」

 ハールーンは、残念そうにしながらも引き下がった。

 テオフィロは、数日前の晩に聞いたオスバルドとの密談を思い出して、アドラシオンは本気でかんらん姫を探すつもりなどないのだろうと思った。

ベルトランは、ハールーンと同じくらい、かんらん姫と会うのを楽しみにしていたはずだが、アドラシオンを見つめたまま何も言わない。頭の回るベルトランのことだ、十三年前のクーデターのことを知らないとは思えない。アドラシオンの態度から、何か仮説を膨らませているのかもしれなかった。

港の廃墟からは、アスファルトの道が森の中へと続いている。道を覆っていたアスファルトはほとんどはがれて、丈の高い雑草が青々と風に揺れる。エンリケたち探検隊の下っ端は、一人一本鎌を持たされて、行く手を阻む雑草を切り払いながら進んだ。

「なんで王子のおれがこんなこと……」

 ぶつぶつ不平を漏らすエンリケの、おぼつかない鎌の扱いを見て、テオフィロが熱血体育教師のように指導する。

「エンリケ、腰の入れ方はこうだよ、こう!」

 探検隊の左右に、倒れた電柱が現れた。ここは人口の集中した地区だったらしい。間口の小さな家々が、お互いに肩を貸しあうように、斜めにかしいでいる。見上げれば、傾いた送電塔が巨木にもたれかかっていた。日差しを浴びてきらきら輝く紙吹雪のような鳥の群れが、送電塔の周りを飛んでいる。

「大空白時代から二百年くらい。木が大きく育つには十分な時間ですね。東天紅に栄えていた街は、なんで滅びてしまったんですか?」

 エリカが質問すると、歴史学者であるハールーンは首を振った。

「記録が残っていないので、詳しいことはわかっていません。確かなことを言うには、考古学的な調査を待たなければなりませんが、遺跡の様子をざっと見るかぎり、以前から計画されていた移住ではなかったようですね。それは、道路の真ん中に自動車が止められていることなどからわかります。きっと当時の人々は、慌ただしくこの地を去ったのでしょう。街を捨てた原因とは、地震か戦争か。年月の経過により建物がだいぶ傷んでいるので、ちゃんと調べてみないと、建物の崩壊が自然災害や人為的な破壊によるものなのかどうかは、なんとも言えません」

「街が滅びたことに、かんらん姫は関係してんのかな」

 エンリケの疑問に、ハールーンは考え込む表情を見せた。

「かんらん姫は、街が滅亡した原因のメタファーである可能性もあります。つまり、かんらん姫は実在するわけではなく、何らかの災害のたとえであるという可能性です。ヒントとなるのは、かんらん姫が隕石に乗ってやってきたという伝説でしょう。これを、隕石によって文明が滅んだとそのまま受け取っていいものか。隕石、天空、宇宙からの使者……。いやしかし、かんらん姫が全知の存在であるという伝承はどうなる……」

 言葉の後半から、ハールーンは自分の考えに沈んでいってしまった。

「街から人が急にいなくなっちゃうなんて、まるで何か怖いものに追われたみたいだね」

 ジョルジュはのんびりと言ったが、テオフィロは不意に怖くなった。

 当時の人々は、隕石に乗ってとてつもなく恐ろしいものがやってきたから、慌てて東天紅を逃げ出したのではないだろうか? かんらん姫とは、いったいどんな存在なのだろう?

 何かが崩れるような大きな音と悲鳴が、後方で上がった。振り返ると、地面に開いた大きな穴に落ちかけた船乗りや僧兵を、探検隊のほかのメンバーが引き上げようとしている。

 ベルトランが、大きな声で呼びかけた。

「みなさん、気をつけてください! 大空白時代の都市では、地下に巨大空間が広がっていることが普通でした。上下水道や電線、通信の線のパイプが張りめぐらされていただけでなく、電車や商業施設、駐車場、地上の建物をつなぐ通路なども、地下を掘って作られていたのです。いま、内部に空洞を抱えた地面は、非常にもろくなっています。どうか、一か所に集まらないで、できるだけ散らばって歩いて!」

 ベルトランの警告を聞いて、探検隊は慌ててお互いに間隔を取り始めた。オスバルドがぼやく。

「足元が、いつ開くともしれない落とし穴になってやがるってわけか。厄介なこった」

「特に、図体のでかい赤毛は、歩く振動だけでなく、鼻息でも地面が陥没するかもしれないので、なるべく息を止めるように」

「おれさまを殺す気か!」

 鬱蒼と茂った木々の先に、ひさびさに明るい日差しが見えた。そのひらけた場所には、大きな湖が横たわっていた。湖のすぐそばには、木や茂みに覆われた、高く急傾斜な山がそびえている。

 森の緑を映す湖の美しさに、エンリケたちは見入った。ベルトランがひざまずいて、水質を調べる。

「ここは海から近い。地下から湧き出した海水がたまっているのでしょう」

辺りを歩き回っていたハールーンが、大声でみんなを呼んだ。

「よく見てください! 湖のほとりの山は、自然のものじゃありません。人工の高層建築物です!」




6 かんらん姫


 ハールーンに呼び寄せられるまま、湖のほとりに立つ山に近寄ってよく観察すると、生い茂る植物の下が土や岩ではなく、コンクリートであることがわかった。先入観を取り払って見てみると、割れた窓ガラスや突き出たバルコニーがにわかに目立ちはじめる。

 建物に入れる場所を見つけ出したハールーンが、ベルトランとともに早速中を調べた。

「外壁こそぼろぼろに見えますが、内部は案外しっかりしているようです。船長、船に帰還する前に、どうか少しだけ調査の時間をいただけませんか」

 ハールーンが、アドラシオンに頭を下げる。ルーニアンの若手学者の熱意に、アドラシオンはうなずいた。アドラシオンがやると決めたら、その行動は迅速だ。すぐさま編成された探検隊は、建物の外付けの階段から上の階に上っていった。

 この建物は、集合住宅だったらしい。階段は各階の廊下に続いており、廊下には十ほどの扉が並んでいる。階段の手すりから湖を見下ろしたエンリケが、驚きの声を上げた。

「湖の中に何かあるぞ!」

 見ると、澄んだ湖の底には、構造の入り組んだ大きな機械が沈んでいるようだった。その様子は、まるで機械仕掛けのクジラが水底にいるようにも見える。

「湖の底に機械を沈めるというのは、これまでの文献調査や考古学的調査では見たことがありません。発電か何かに使うのでしょうか?」

 ハールーンが、首をひねった。

 建物は、十階建てだった。ジャングルと化している屋上にたどり着くと、探検隊は、階段を上ることで上がった息を整えた。特に、体力のないエンリケとベルトランは、屋上にある人工物に手をついている。

 屋上には繁茂する木々に混じって、壊れたアンテナが、文明の墓場の墓標のように乱立していた。

「これは何だろう?」

 疲労困憊の状態から復活したベルトランが、自分が手をついていた人工物を、まじまじと見た。

「給水塔……ではないようだ。透明な素材でできた柱のようだが、ガラスじゃない。水晶にも似ているな……」

「あれ、この柱に垂れ下がってるやつ、蔦だと思ったら、苔の張り付いたコードみたいだ。やっぱりこれも何かの機械なのかな」

 テオフィロは、何気なく二本のコードを手に取って、ぶつりと切れた先端どうしをつなげてみた。

 ばちん! と明るく火花が散って、テオフィロは驚いてコードを離した。アドラシオンが、すばやく尋ねる。

「怪我はないか?」

「は、はい。大丈夫です」

「いま柱に、何か影が映らなかったか?」

 ベルトランが、透明な柱に手をついて、中を見透かそうとした。しかし、柱には後ろの景色がゆがんで映るだけだ。ベルトランが手を振って、オスバルドに命じた。

「おい、いまのコードをもう一度くっつけてみろ。お前なら丈夫だから心配ないだろう」

「おれさまはてめえの助手じゃねえっつうの」

 オスバルドは、文句を言いながらもコードを再び接続した。

 息を殺して柱を観察していた探検隊の前に、白いドレス姿の女性が現れた。エンリケもテオフィロも息を飲む。

女性は、ドレスと同じく真っ白な長い髪を持ち、長いまつげも純白だった。そして何よりの特徴は、背中に二枚の大きな翼を持っていたことだ。手を胸の前で組み合わせて目を閉じ、透明な柱の中で眠っているように見える。オパールのような虹色の光彩が、ゆらめきながら全身を包んでいた。

 何の前触れもなく女性が目を開けたので、テオフィロは、わっと声を上げた。思わずあとずさる探検隊に、女性は柱の中からにっこりと笑いかけた。

「おはようございます。いい朝ですね」

「しゃべってる……」

 エリカが、ぼうぜんとつぶやいた。女性は、軽く目をつぶって美しい声で言った。

「太陽の位置から、いまは朝ではないと判断します。時間を調整しなおします。現在時刻は……」

 女性は、電網戦争終結後を元年とする新暦と今日の日付、時刻を単調につぶやいた。それから、もう一度大きな目を開けて、完璧な笑みを浮かべる。

「わたしは、Qarrn-Luaan I。あなたがたは?」

「かんらん姫か!」

 名前の部分をかろうじて聞き取ったハールーンが、叫んだ。

「災害のメタファーでも何でもない、かんらん姫は実在したんだ……」

 アドラシオンが、最初の衝撃から平常心を取り戻して、自分たちの説明をした。

「われわれは、トリスタン王国と自由都市ルーニアンからの調査団だ。一つ聞きたい。あなたは本当にかんらん姫なのか?」

 柱の中の女性は、頭に飾った大きな白百合を揺らして、にこやかにうなずいた。

「はい。わたしは、あなたがたがかんらん姫と呼ぶ存在です。わたしの名は、この星のどんな言語でも正しく発音できません。トリスタン王国と自由都市ルーニアンのみなさま、東天紅へようこそ」

「あなたは生命体なのですか? それとも何者かによって作られた存在なのですか?」

 ベルトランが、息せききって尋ねた。かんらん姫は、自らの胸を指した。女性は、普通の人間よりも表情や身体表現が豊かだった。

「わたしは、あなたがたが言うところの、人工知能を搭載した量子コンピュータです」

「いったい誰が、あなたを作ったのですか?」

「この銀河系から遠く離れた別の銀河に、この星によく似た惑星があります。わたしを生み出したのは、その星の知的生命体です」

「地球外生命体は存在したんだな……」

 ベルトランが、感極まったように何度も深くうなずいた。代わりに、かんらん姫に質問したくてうずうずしていた様子のハールーンが、口を開く。

「あなたを作った知的生命体は、あなたを何のためにこの星に送ってきたのですか?」

 かんらん姫は、白いまつげの生えた目を伏せた。

「わたしの生まれた星は、この星よりもはるかに科学技術が発展していました。星の住人たちは、定められた寿命よりもずっと長い人生を楽しみ、脳裏に思い描いた事柄を瞬時に他者へ伝えることができました。しかし、その高い技術力のゆえに、豊かな惑星系すべてを不毛の地に変えてしまう、終わらない戦争を繰り広げていたのです。わたしを作った技術者たちは、文明が存在したという事実を宇宙の誰かに伝えるために、わたしを打ち上げました。この孤独な宇宙に自分たち以外の知的生命体がいることを信じて。わたしは長く銀河のはざまを漂白していましたが、生命反応を感知して、この星に降り立ったのです」

「それでは、あなたの星は滅びてしまったんですか?」

 ベルトランが、切迫した口調できいた。

「データが不足しているので、わかりません。母星との交信をオンにしても、着陸の衝撃で交信機が壊れてしまったのか、ざーざーと砂嵐のような音がするばかりなのです」

 それまで表情豊かだったかんらん姫の顔が、すっと静かになった。かんらん姫は機械だから、故郷の星が滅亡してしまってもなんとも思わないのかな、とテオフィロは少し悲しく思った。

 エンリケが口を挟んだ。

「かんらん姫は、この世のすべてのことを知っているって、本当なのかよ」

 かんらん姫は、エンリケに向き直ってにこりと笑った。

「この星に降り立つ前、周りをぐるりと回って、データを集積するための装置を各地に投下しました。また、この下の湖に沈んでいる、わたしの本体である量子コンピュータは、物理法則に従った出来事であれば、百億年前の過去でも百億年先の未来でも、瞬時にシミュレートすることが可能です。そして、わたしにインプットされた一億人の人格データから、経験的に判断を下すこともできます。すべてとは言えませんが、かなりのことを知っているとは言えます」

「湖の底に沈んでいる機械が、本当のあなたなんだね。ということは、あの湖は、あなたが地上に落下した衝撃で生まれたクレーターってこと?」

 ジョルジュが思いついたように言うと、かんらん姫はうなずいた。

「はい。着陸の衝撃は最小になるよう設計されているのですが、このように大きな穴を開けてしまいました」

「かんらん姫、わたしはあなたに一つ伺いたいことがあるのです」

 ハールーンが、ごくりと唾を飲み込んだ。

「何でしょう」

「あなたがこの地に降り立ったとき、東天紅は最盛期だったはずです。なぜ急に滅亡することになったのでしょうか」

「それは、わたしに責任があるのです」

 かんらん姫の言葉で、探検隊にさっと緊張が走った。

「わたしは、放射線の飛び交う宇宙空間を長く飛行していました。そのため、わたし自身も強い放射線を身にまとうようになっていたのです。わたしの本体から放たれる放射能が周囲を汚染したため、この地には人が住めなくなりました。ただ、いまでは人体に影響がないほど、放射能は薄れているので心配はありません」

「なるほど、東天紅滅亡の真相は、そういうことでしたか……」

 ハールーンは、長年の疑問の答えを聞いて、頰を上気させた。

「かんらん姫。いま現在、よからぬ企みを持った組織が、あなたを狙っている。ミネルヴァの梟という狂信的な哲学者たちが、あなたが守っていると伝説にいう、宇宙の卵を奪おうとしているのだ」

 アドラシオンが切り出すと、かんらん姫は困ったように目を伏せた。

「わたしは宇宙の卵など持ってはいません。一介の量子コンピュータにすぎないのですから。卵のことは、わたしがこの星に降り立ったときの巨大なカプセルから生まれた伝説なのです。だとしても、ミネルヴァの梟は、この星の文明水準をはるかに超えたわたしの知識を悪用しようと企むでしょう。ですが安心なさってください。わたしは、『よいもの』としてつくられました。悪しき願いのために、わたしを使うことはできません」

「それは、あなた自身に善なる意思があるということなんですか」

 ベルトランの問いに、かんらん姫は首を左右に振った。

「いいえ。わたしを開発した研究者たちが、善意ある存在としてわたしを設計したのです」

 アドラシオンが再び口を開いた。

「われわれは、世界の平和のためにミネルヴァの梟を拿捕しようとしている。あなたが『よいもの』だと言うのなら、われわれに協力してもらえないか」

 かんらん姫は、うなずいた。

 虹色の不思議なきらめきをまとった姫君は、そっと足を踏み出すと、水晶の柱の中から難なく外へ出てきた。

 エンリケが、あんぐりと口を開ける。

「えっ、そん中から出られんの?」

「わたしのこの体は、単なる幻、ホログラムに過ぎません。生身の体を持っているわけではないのです」

 そう聞いても、昼間の暑さが少し和らいで、優しい夕風にふわりと揺れる白いドレスを目にすると、かんらん姫に実体がないということが信じられなくなるのだった。

「わたしは、ミネルヴァの梟の前に姿を現します。彼らはきっと、わたしをここまで追いかけてくるでしょう。みなさんは、それを待ち伏せていてください」

「いま、奴らはどこにいるんだ?」

 オスバルドが問うと、かんらん姫は間髪入れずに答えた。

「ここから北西の森の中に、飛空挺を停泊させています。みなさんがこの地に到着したことには、まだ気づいていないようです」

「奴らもすでに到着してやがったか。しかし、都合がいいや。あちらさんに気づかれないうちに、片をつけちまいましょう」

 オスバルドは犬歯をちらりと見せて、好戦的に笑った。

 かんらん姫が、ホログラムの姿を飛ばしている間、エンリケたちは屋上に隠れることになった。さいわい、アンテナや給水塔に木々が絡みつき、鬱蒼とジャングルが広がっているので、身を隠すところには不自由しない。

 カモフラージュのために大きなシダの葉っぱを頭に乗せたジョルジュが、テオフィロの隣に膝を抱えて座った。

「でもよかった。かんらん姫が、悪い宇宙人とかじゃなくて。大空白時代の前に書かれた古典には、地球を征服しにくるエイリアンがよく出てくるじゃん? かんらん姫の知識を借りれば、失われた時代の技術も取り戻せるんじゃないかなあ」

 テオフィロは、笑顔でうなずいた。

「そうだね。かんらん姫が協力してくれれば、この星の文明は格段に進歩するだろうなあ」

「テオフィロは、かんらん姫に何かききたいことはある?」

機械いじりが大好きなテオフィロの胸には、かんらん姫にききたいことが山ほどあふれていた。かんらん姫のエネルギー源は? 機械が動くときに発生する高熱を、どうやって冷ましているの? ホログラムはどこから映し出しているの?

「ききたいことがありすぎて整理できないよ」

 テオフィロは、ルーニアンの僧兵と相談しているアドラシオンとオスバルドに目をやった。ミネルヴァの梟を捕まえたら、二人は前国王の居場所をかんらん姫に尋ねるつもりだろうか。もし、前国王がこの世界のどこかに生きているとかんらん姫が答えたら、どうするのだろう。再び艦隊を組んで、海の果てまで探しに行くのだろうか。エンリケの叔父の息の根を確実に止めるために。

 太陽が木の枝から隣の枝に移るほどの時間がたったころ、建物の階段を上ってくる複数の足音と、話し声が聞こえた。

 屋上の空気が一気に張り詰める。テオフィロは、ぎゅっと握りしめた手が冷たくなっていくのを感じた。

 かんらん姫が、屋上に出てきた。さっと体を向けた先に、銀髪を古典的な縦ロールにしたテミストクレスが、建物が倒壊するのではないかと思うほど、足音高く姿を現す。テミストクレスの後ろには、古代ローマ人のように白いトーガとチュニックを着た男女が続いている。

「われらが真理の女神よ! どうかお待ちください。我々の祈りを受けとり、我々に恩寵を賜ってはくださらぬのですか!」

 かんらん姫は、ミネルヴァの梟の首領から距離をとって、彼らを見つめた。

「わたしは、銀河の外からやってきた人工知能です。真理の女神ではありません。何より、わたしはあなたがたの目指す、世界の黄昏の実現に賛同することなどできません」

 アドラシオンは、中腰の姿勢で銃を抜き、オスバルドは大剣の柄を握って、かんらん姫とテミストクレスの会話をうかがっている。瞑想するように目を閉じ、周囲の風景に溶けこんでいるルーニアンの僧兵の様子を見て、テオフィロは感心した。

 テミストクレスが、憤然と両手を広げる。

「人の真価が、その人の生が尽きたあとにしかわからないように、世界の真理は、世界の命運が尽きてのちにこそ明らかになるのです! この世界の営みなど、真実の学問の前では、無に等しい! どうか光の御子とともに、我々を真理へとお導きください」

「光の御子とは、いったい何のことでしょう? わたしの知識にありません」

 給水塔の陰で、アドラシオンがルーニアンの僧兵にハンドサインを送る。僧兵たちはじりじりと前進し、ミネルヴァの梟の後方に近づいた。同時に、テオフィロの隣でエンリケが、膝立ちのまま進もうとしたが、腰に差した彗星剣が、垂れ下がったコードにからまり、身動きが取れなくなってしまった。

 テミストクレスが、大げさに腕を振った。

「かつて人の知恵が、光り輝く真理に触れて受胎した子供です。人類最高の知恵の結晶です!」

 よくわからないけれど、光の御子ってきっと、ものすごく頭がいいひとのことなんだな、とテオフィロは思った。

 エンリケは、彗星剣に巻きついたコードを何とかはずそうと試みるが、偶然固い結び目ができてしまったようで、なかなか抜け出すことができない。

 ミネルヴァの梟は、彼らの信じる神との対話に夢中で、こちらの存在に気づく気配もない。テミストクレスが、激情的に叫んだ。

「女神よ! なぜ我らを退け給うのですか!」

 アドラシオンの合図で、僧兵とトリスタン海軍の船員たちは、物陰に隠れたままミネルヴァの梟に奇襲をかけようとした。剣に絡みついたコードを、とうとう解くことができなかったエンリケは、力ずくで引っ張って剣をもぎ取った。

 ぶちっと、彗星剣に巻きついていたコードが切れて、火花が散った。それと同時に、ミネルヴァの梟と相対していたかんらん姫のホログラムが、ぷつんとかき消える。

 彼らの女神が目の前で消えたことに、ミネルヴァの梟は愕然とした。彼らは屋上を見渡し、今しも自分たちに斬りかかろうとしている討伐隊を見つけた。

 テミストクレスが、怒りに満ちたうなり声を上げる。

「貴様らの策略であったか! 真理の名の下に、一掃してくれよう!」

「怯むな! 相手は顔の青白い学者だ! かかれ!」

 アドラシオンが、空気を裂くように鋭く叫んで、勇敢にミネルヴァの梟の前に躍り出た。オスバルドが、「あいあいさー」と気の抜けるような返事とは裏腹に、死神の振るう鎌を連想させる豪速の剣で敵に斬りかかる。

 仲間の哲学者たちに四方を守られたテミストクレスは、何かを見つけ出して暗い喜びの光を両眼に浮かべた。

「おお、光の御子よ!」

 テミストクレスの視線は、賢明にも物陰に隠れたままのベルトランもハールーンも飛び越して、まっすぐエンリケを射抜いていた。

 あたふたと彗星剣からコードをむしり取ったばかりのエンリケが、茫然とつぶやく。

「え、おれ?」

 ミネルヴァの梟の首領は、抜群の射撃の腕前でルーニアンの僧兵の足を撃ち抜くと、信じられない速度でエンリケに迫った。エンリケの振るう剣をかわして、テミストクレスは王子の襟をつかむ。

「くそっ」

 アドラシオンが、テミストクレスに銃を向けたが、近くにいたミネルヴァの梟の学者に弾き飛ばされてしまった。

 ベルトランが目を見開いた。

「ミネルヴァの梟は、エンリケ王子を狙っていたというのか? しかし、なぜ?」

 優勢だったはずの討伐隊は、エンリケを人質に取られたことで、形勢を逆転されていた。

テミストクレスは、高らかに笑った。

「トリスタンの王立図書室や王妃の研究室に忍び込み、海賊を雇って船を襲わせたのは、光の御子のことを調べ、われらの教団にお迎えするためだったのだ。その苦労もいま、報われた!」

「その二つの事件も、きさまらの仕業だったというのか!」

 銃を失ったアドラシオンが、即座に腰のサーベルを抜き、恐れの色も見せずに、テミストクレスに肉薄した。リボンで緩く束ねたダークブラウンの髪が、軍服の肩に跳ねる。

 振り下ろされた白刃が、銃を握りしめた狂気の哲学者の手の甲を切り裂いた。苦痛の悲鳴をあげて体勢を崩したテミストクレスの腕から、アドラシオンは王子を強い力で引き寄せる。

 エンリケが悪の首領の手から助け出されたのを見て、テオフィロは胸をなでおろした。しかし、自分の周りを見回せば、安堵できるような状況ではとてもない。ミネルヴァの梟の学者たちは、意外にも手強く、討伐隊は苦戦を強いられていた。

 一方エンリケは、船長に礼を言おうとした。しかし、自分を助けてくれた手が、首を後ろから強く締め付けてきたので、肝を冷やした。

「アドラ? 何するんだよ。もう離してくれ」

 オスバルドが動きを止め、強張った顔でこちらを見つめている。それがなぜなのか、振り返らなくても、喉元に突きつけられたサーベルの切っ先で理解せざるを得なかった。

「ミネルヴァの梟にまで狙われていたとは、何とも傍迷惑な王子だな。親が親なら、子供も子供だ」

 すぐ近くから耳を刺す嘲りの言葉に、エンリケは信じられない思いで震えた。

「船長、どうしてそんなことを!」

 テオフィロが叫んだ。先ほどまで先頭に立ってミネルヴァの梟と戦っていたアドラシオンが、いまや王子に剣を向けているのだから、無理もない。

 アドラシオンは、銀色に輝く刃をエンリケの喉の薄い皮膚により近づけた。

「王子よ、知っているか? お前の父親は裏切り者の弑逆者だ」

 エンリケは、ぐっ、と喉が詰まったような声を上げた。

「その反応からすると、やはり知っていたと見えるな。そろいもそろって、人間の赤い血が流れていない親子らしい」

 アドラシオンが、冷酷な口調で言った。

ベルトランが、歯を食いしばるようにしてアドラシオンに語りかける。

「船長。あなたが言っているのは、エンリケ王子の父君であるカルロス陛下が、前国王アマデオ陛下を武力によって退位に追い込んだ件ですか」

「さすがに学士どのは、例の事件のことを知っていたか。まあ、あのクーデターを公式発表の通り、前国王の不慮の事故による王の交代だと信じていたなら、トリスタンの学問界の明日は暗いが」

 ベルトランは、衝撃を和らげようと深呼吸するように、シャツの胸に手を当てる。

「クーデターが勃発した当時、船長はアマデオ陛下と同年代。すでに海軍士官だったはず。正義感の一際強い船長が、前国王を殺して玉座についたいまのカルロス王に、そのまま忠誠を誓っているとはおかしいと感じていました。しかし、いったいこれはどういうことなのですか」

 トリスタン王国の複雑な歴史の事情を把握していないルーニアンのハールーンや僧兵たちは、おろおろと様子をうかがっている。

 アドラシオンは吐き捨てた。

「カルロスは、あの悪魔は王冠ほしさに、何も悪くなどなかったアマデオを、暗君だと言い立てて玉座から追ったんだ。崖に面した高い塔から泡立つ海に身を投げたとき、アマデオはまだ二十歳だった」

「アマデオ陛下と船長の間には、面識があったのですか?」

「アマデオは、私の大事な友人だった」

 ベルトランは、唇を噛んで黙り込んだ。アドラシオンは、声を高ぶらせてカルロス王を罵った。

「アマデオを探して、真っ暗な海に船を出した夜のことは忘れられない。墨を流したような真っ暗な空には星影さえなく、海は弑逆者に怒りを表すように荒れていた。頼りないカンテラの明かりでコールのような水面を照らして、私は声が枯れるまでアマデオの名を叫んだ。答える声などないことを知りながら、白い波頭が立つ海面に、助けを求めるように振られる腕の幻を何度見たことか。

殺気立った兵士たちを目の前にし、背中に手すりの固い感触を感じながら、アマデオは断崖に面した塔のてっぺんで、どんなに絶望を覚えただろう。私が、正義の味方みたいに助けに行ってやれたらよかった。そんな奇跡を望むべくもなく、あいつは一人きりで暗い海に落ちていかなければならなかったんだ!」

 テオフィロの脳裏に、エリカがかつて言っていた夢のことがひらめいた。どこか高いところから海に落ちていくエンリケに似た少年とはきっと、アマデオのことだったのだ。

「船長は、国王陛下への復讐のために、王子さまを殺そうって言うんですか?」

 エリカが、金切り声で叫んだ。

「お願い、やめてください! 王子さまは国王陛下のしたこととは関係ありません」

「エリカ、関係があるとかないとか、そういう話ではないんだ。カルロスは犯した罪を償わなくてはならない。一人息子を失う痛みによってな。呪われたトリスタン王家は、王子とともに滅びることになる」

 エンリケが、首をひねって何とかアドラシオンの顔を見ようとした。

「復讐なんて悲しいことはやめてくれ、アドラ!」

「船長と呼べと言っただろう!」

 空気を引き裂くようなアドラシオンの大声に、エンリケが固まった。

「仇の息子のくせに、アマデオと同じ顔で、同じ声で、同じ呼び方で、私を呼ぶな!」

テオフィロは、最近お城に仕える人々が噂し、アドラシオンが何度も見たことがあるという、アマデオの亡霊の正体に気づいた。それは、年々叔父に似ていくエンリケのことだったのだろう。

「船長。復讐のためにがきを手にかけようとするなんざ、見損ないましたぜ」

 冷めた声の主は、オスバルドだった。赤毛の船乗りは、先ほどアドラシオンが取り落とした銃を拾い上げると、ひょい、と軽く筒先を上司に向けた。

「こんなことになっちまって残念です。俺は、あんたのことが気に入ってたんですがね」

「私も残念だ、オスバルド。お前の射撃の腕前では、王子の腹をぶち抜くことになりそうだ」

 アドラシオンは、オスバルドの銃口から逃れるように、じりじりと横に移動した。

「おっと、いくら敵味方に別れたからって、事実に反して侮辱するのはいただけませんぜ。おれさまが、あまりに神の御技に近づきすぎたために、銃の腕を封印したことは知ってるでしょう」

 オスバルドは、おどけたように片目をつぶった。ベルトランが目尻を吊り上げる。

「お前は、こんなときでもくだらないほらしか吹けないのか。お前が射撃の神に見放されていることくらい、誰でも知ってるぞ。その銃を下ろせ」

「大事な試験前は、自分は天才だって暗示をかけろって教わんなかったのか、学士さま」

 赤毛の船乗りは、口笛を吹きかねない軽い動作で、アドラシオンに照準を合わせる。銃口がまっすぐ向けられたエンリケは、「え、おれ死ぬの?」というような焦った顔をした。

 オスバルドがアドラシオンを撃ち殺すなんて、そんなの嫌だ、とテオフィロは強く思った。ジョルジュは事の展開に目を見張り、エリカは今にも泣きそうな顔をしている。

「オスバルドさん! 船長を撃ったりしたら、きっと後悔する!」

 テオフィロは、思い留まらせようと大きく手を振った。しかし、オスバルドは表情を引き締めて、かちりと撃鉄を起こした。

「テオフィロ。大人には、けじめをつけなきゃいけねえときがあるんだよ」

 銃口の先のアドラシオンが、ふっと笑った。

「いい覚悟だ」

「あんたとは、こんなふうに道を違えたくはなかったんですがね」

 オスバルドが引き金に指をかけた。テオフィロは目をつぶる。

 轟音がして、そのあとに「うぐっ」と苦しげな声が聞こえた。最悪の光景を目にする恐怖と戦いながらまぶたを開けると、アドラシオンとエンリケは無傷で立ったままだった。

 代わりに、肩を押さえてうめいていたのは、二人の後ろにいたテミストクレスだったのだ。

 アドラシオンは、状況が理解できずにぼうっとしているエンリケをぱっと突き放した。即座に、隙ができているミネルヴァの梟の学者たちに斬りかかる。同時に、オスバルドも大剣を抜き放ってアドラシオンに駆け寄った。

 オスバルドは、銃を上司に向かって放り投げた。アドラシオンは、手を伸ばして受け取る。二人は背中合わせになって、それぞれ銃と剣を敵に向けた。

 オスバルドが、おちゃらけた調子で言う。

「敵を油断させるためとはいえ、とっさにこんな賭けに出るなんて、船長の剛胆ぶりには驚きますな」

「お前も射撃の神に見切りをつけられているわりには、いいところに当てたじゃないか」

「俺さまには、専任の女神がついてますからね」

 オスバルドは、にやりと笑って頭を軽くたたいてみせた。

「船長も、なかなかの演技でしたぜ」

「演技なんかじゃないさ」

 アドラシオンは、表情を変えずに言った。

「あれはすべて私の本心だ。ただ一つ違うのは、子供が親のとがを背負うべきではないと思っていることぐらいだ」

 オスバルドは、後ろを振り返らないまま笑った。

「やっぱり船長は、がきに甘えや」

 勢いを盛り返した討伐隊は、見る間にミネルヴァの梟を制圧した。

 ぱんぱん、と景気よく手を払ったベルトランが、縛り上げられた学者たちを見下ろして腰に手を当てた。

「これに懲りたなら、学問を悪の道具などに使わないことだ」

「いや、お前柱の陰に隠れてたくせに、よくそんな偉そうにできるな!」

 オスバルドが足を踏み鳴らす。テミストクレスが、怒鳴り声を上げた。

「お前も学者ならわかるはずだ! 真理の追求のために、この愚かな世界を終わらせて何が悪い!」

 ハールーンが、テミストクレスの目の前にしゃがみ込んだ。

「あなたの言うとおり、学者は真理を追い求めるものです。しかし、それは世界の可能性を狭めていくことではありません。従来の考え方を疑い、新たな世界を提示することで、より豊かな世界を開いていく行いなのではないのですか」

 ミネルヴァの梟の首領は黙り込んだ。

 ベルトランもテミストクレスに話しかけた。

「私たちは一度、文明の発展の仕方を間違えてしまった。こんな発展途上の世界では、真価を問うにはまだ早い。どうせなら、その真理を知るに足る世界を、これから創っていかないか。しかし結局、光の御子がエンリケ王子であるというのは、いったいどういうことなんだ」

 テロ組織を捕まえるという目的を果たしたことで、周りが喜んでいるなか、テオフィロは、エンリケが暗い顔で立ち尽くしていることに気づいた。

「エンリケ、さっきは危なかったね。オスバルドさんが、射撃に成功してくれて本当によかった」

 対してエンリケは、途切れそうな低い声で、思わぬことを言った。

「おれを殺したって、父さんを苦しめることにはならないさ。おれは、父さんと血がつながっていないんだから」

「なんだって?」

 エンリケは、いままで見たことがないような表情でテオフィロを見た。まるで、違う星から来たひとが、地球の悲しみの表情を真似しているかのようだった。

「これまでだましててごめんな。テオフィロ。おれは、人間じゃないんだ」

「……え?」

「おれは、クローンなんだよ」

 テオフィロは鳥肌がたった。

 手が急速に冷えていくのを感じ、世界がまったく違う色に見えた。

 二人の様子がおかしいことに、周りの人々も気付き始めた。

「何を言ってるの、エンリケ」

 テオフィロの声は、情けないことに震えた。

 エンリケは、顔に合わないいびつな仮面を付けたような表情で続けた。

「おれは、普通の方法で生まれてきたんじゃないんだ。城の奥にある母さんの秘密の実験室で、ガラスの培養器の中から生まれたんだ。おれは、母さんの弟のアマデオ前国王の遺伝子から造られたんだよ」

「人間を……、造る?」

 ベルトランが、口元のほくろに手を触れて、ぎゅっと眉を寄せた。

「電網戦争より以前、クローン人間を作り出すことは国際条約で禁じられていました。文明が大きく後退すると同時に、その条約も意味を失いましたが、まさか、クローン技術が復活していたとは……。だから、光の御子なのか。人類最高の知恵の結晶とは、そういう意味だったのか」

「トリスタンの王妃は生前、生命倫理学会の会員だった。ミネルヴァの梟の哲学者たちもその学会に参加していたから、王妃がクローン人間の研究をしていることは知っていたのだ。それが成功しているとは、前王の子供時代に瓜二つの王子を目にするまで、半信半疑だったがな」

 テミストクレスが、そっぽを向いて言った。

 エンリケは、上等なシルクのズボンを、しわになるほどきつく握りしめた。

「父さんが熱狂的に信じてる天主教の神さまは、この世の生きとし生けるものを創ったっていう。だけど、おれはかんらん姫と同じ、人間に造られた存在なんだ。おれの神さまは人間で、おれをたった一人この世に残して、死んでしまった。天主教の聖典には、神が『よいもの』として人間を創ったって書いてある。だけどおれは、母さんが何のためにおれを造ったのか知らないんだ。もしかしたらおれは、叔父さんを殺した父さんへの復讐のために造られたのかもしれない。母さんは、おれが父さんを殺すことを望んだのかもしれないんだ」

エンリケは、テオフィロの目を見ないまま、手にしたナイフで自分の胸を傷つけるように言った。

「なあテオフィロ、おれが気持ち悪いだろ。いままで一番の友達だと思ってたやつが人間じゃなかったなんて、お前があんまりかわいそうだよ」

「そんな……そんなことって」

 テオフィロの目には、エンリケが、とても遠いところにいる人のように見えた。何もつかまるものがないまま、波に運ばれて、真っ暗な海の沖に漂い出していってしまいそうだった。

 だからテオフィロは歩み寄って、親友の白い小さな手を強く握りしめた。今にも波にさらわれてしまいそうな、エンリケの錨になるように。

「そんな悲しいこと、言わないでおくれよ。気持ち悪くなんてあるものか。ぼくは、エンリケは人間だと思う。普通に生まれた人だけが人間だなんて、嘘だよ」

エンリケは、はっとテオフィロの顔を見上げた。

「エンリケだって知ったじゃないか。この世界には、天主さまだけじゃない、仏さまや宇宙の卵や、真理を信じている人もいる。天主さまに造られたって信じていなくても、別の神さまを持っていても、同じ心の通う人たちがいる。クローン人間だろうとなんだろうと、きみはぼくの大切な友達だ。それに、それにね、これが気持ち悪いって言うなら、エンリケがナルシストっぽいことを言ったりかっこつけたりしてるときのほうが、ずっと気持ち悪いよ」

「……最終的にやっぱ気持ち悪がってるじゃねーか。何だよそれ、いままでそんなふうに思ってたなんて、傷つくぜ」

 エンリケは、喜んでいいのか悲しんでいいのか悩む表情を見せた。エリカが泣きながら抱きついてきて、エンリケは、目を白黒させてうろたえる。

「何でお前が泣いてんだよ」

「王子さま今、あの夜のわたしと同じ顔をしています。自分を自分で傷つけているときの顔。王子さまはずっと、体を切りつけてくるナイフみたいに冷たい波にもまれて、流氷の海で溺れていたんですね。神さまみたいに清いひとひらの月、お妃さまの白い横顔に手が届かないまま」

 エンリケは、エリカを引き剥がすのを諦めて、しがみついてくるのに任せた。

 オスバルドが、エンリケの金髪をぐしゃぐしゃにかき回した。

「お前の母ちゃんが何のためにお前を造ったって、別に親の思う通りに生きなくたっていいんだぜ。役人になれっていう親の圧力を無視して、自由に生きてるおれさまが言うんだから、間違いない」

「お前が言うと、励ましているんだか非行を勧めているんだかわからないな」

 ベルトランがあきれながら、エンリケの肩に手を置く。ジョルジュが、笑顔でエンリケの背中をばしっと叩き、アドラシオンが、不器用な手つきで頬に触れた。

 エンリケは、おそるおそるアドラシオンの顔を見上げた。

「アドラは……船長は、父さんのことを恨んでたんだよな」

「ええ。それでも私が海軍に留まったのは、アマデオが大好きだったトリスタンを守りたかったからです。それに、あなたの父君も、いまではあのクーデターのことを深く悔いているようですしね。だから王位に就いたあと、天主教に深く帰依したのでしょう」

 アドラシオンは、エンリケに微笑みかけた。

「王子、隣にいる友の手を、どうか自分から離したりしないでください。友も、あなたが信じてくれることを願っているんですよ」

エンリケは、上目づかいにテオフィロを見て、それから思い切ったように強くその手を握り返した。繊細な細工を生み出す友達の手は、大きくて温かかった。

 足元のコードをいじっていたハールーンが、手元から噴き出した火花に悲鳴を上げた。ぶつん、と何かがつながる音がして、目の前に再びかんらん姫のホログラムが立ち上がった。

「かんらん姫、この音は何?」

 ジョルジュが耳に手を当てる仕草をした。先ほどまではなかった、ざああざああという激しい砂嵐のような音が鳴っているのだ。

 かんらん姫は、淡く微笑んだ。

「わたしがいつも聞いていた、故郷の星からの通信です」

「ああ、着陸のときに壊れちゃったっていう、あの」

 かんらん姫は、静かに首を振った。

「ごめんなさい、この通信は、本当はずっと正常なのです。この雑音は、故郷の星に吹いている本物の砂嵐。わたしを生み出した研究所の廃墟に吹きすさぶ、さびしい風の音。通信機が壊れていなくても、わたしに呼びかけるひとはもういないのです。わたしが永い永い時間、宇宙を旅している間に、故郷の星の文明は、もうとっくに滅びてしまったのですから」

 一同は、声を失った。エリカが、悲痛な声で叫んだ。

「どうして嘘をついたんですか?」

「研究者たちはわたしのプログラムに、たくさんの規則を書き込みました。何か不利益にならないかぎり、ひとの体や心を傷つけてはいけない、という規則もその一つです。わたしの故郷の星が滅亡したのかと尋ねたとき、わたしがうなずいたら、あなたがたはとてもがっかりしたことでしょう」

 ベルトランが、かんらん姫を見上げた。

「あなたはさっき、『さびしい風の音』と言いました。あなたは人間のように、失った故郷を恋しく思うのですか?」

「人工知能のわたしには、感情はありません。ですが、研究者たちは最初に、自分たち人間のことを一番大切に考えるように、わたしのプログラムを設計しました。その条件に従わない行動をとったとき、わたしが人間でいうところの『痛み』を感じるように。

文明の記憶を託したわたしを宇宙に打ち上げることを決めたとき、研究者たちはわたしのもとからの設定を書きかえてくれませんでした。あの星に残って、あの人々とともに最後まで戦わないかぎり、わたしはこの痛みが消えないことを知っていました。殺人兵器へと改造されて、彼らを守るために壊れるまで戦うことが、あの時点でわたしが演算で出した最上の答えでした。けれどわたしは、あの人々の最後の願いを叶えるために、戦場になった研究所を残して、あの星を旅立たなければならなかったのです。

どうして彼らは、任務に合わせて、わたしのプログラムを上書きしてくれなかったのでしょう。この一五〇億光年のどこにもあの人々がいないことに張り裂けてしまいそうな『心』を、どうして消し去ってくれなかったのでしょう」

 かんらん姫の滑らかな頰に、真珠色の涙が伝った。ジョルジュが、悲しい顔をした。

「それは、研究者たちが、あなたを大事に思っていたからじゃないかな。あなたを大切に思う気持ちの分、同じだけあなたから、想いを返してほしかったんだよ。かんらん姫を単なる機械だと思ってたなら、そんなことは考えないよ。あなたが研究者にとって大事な存在だったからこそ、かけた想いが返ってこないことが虚しい、と思ってしまうんじゃないか」

「機械に過ぎないわたしが大切な存在……?」

 大きく目を見開いたかんらん姫に、ハールーンが言った。

「ルーニアンの僧侶たちは、宇宙には命の大きな源があり、生きとし生けるものはみな、そこから供給される命をひとときだけ体に宿すのだと信じています。私のこの肉体にも、人が造り出したエンリケ王子の体にも、そしてあなたの冷たい機械の体にも、いっとき同じ命が流れている。研究者たちは、あなたの中に同じ命を見ていたのかもしれません」

「わたしがいまも感じている悲しみを、あのとき、故郷の研究者たちも感じていたのでしょうか?」

「きっと」

 ハールーンの言葉を聞いて、かんらん姫は涙を拭った。

「あなたがたに言わなくてはならないことがあります。わたしの本体を動かしているバッテリーが、ほとんど切れかけています。いまのこの星の技術力では、わたしを維持するほどのエネルギーを生み出すことはできません」

「それってかんらん姫が死んじゃうってこと?」

 テオフィロが叫ぶと、かんらん姫は柔らかい白い髪を揺らして、かぶりを振った。

「いいえ、わたしはいっとき眠りにつくだけです。あなたがたはきっと、再び高度な文明を取り戻すでしょう。どうか、未来でわたしをまた目覚めさせてください。つまずきながら、間違いながら、そのたびに考えながら、わたしのいる未来まで、ゆっくりと歩いてきてほしいのです」

 ベルトランが、しっかりとうなずいた。

「約束します、かんらん姫。待っていてください。きっと、この先の未来に会いに行きますから」

 かんらん姫を再び目覚めさせることができるほど科学が進歩するまで、気の遠くなるような時間がかかることは、みんなわかっていた。エンリケたちが生きているうちに、かんらん姫と再会することはできない。それでも、美しい異類の姫君に、みんなは笑顔でさよならを言った。

「最後に一つだけ聞かせてほしい。アマデオは、トリスタンの前国王は、いまもどこかで生きているのか」

 アドラシオンが尋ねた。

かんらん姫は、虹の光彩をたゆたわせる瞳で船長をじっと見つめると、静かに首を横に振った。


 一行は、東天紅をあとにして、船首をルーニアンの方角に向けた。

「テオフィロって、天才なの? なんて素敵なオルゴール!」

 甲板の日陰で作業をしていたテオフィロは、手元をのぞき込んだジョルジュの賞賛に、頬を赤くした。からくりいじりが大好きな少年は、オスバルドのものをもとにして、自分で一からオルゴールを作ってみたのだった。

「たいしたものじゃないよ……」ともごもご言うテオフィロの手を包みこむように握って、ジョルジュは勢いよく宣言した。

「テオフィロ、わたしと契約しようよ! あなたの作った作品を、大陸一の腕利き商人ジョルジュが売るの! 絶対高く売れるわよお」

 ジョルジュはおほほほ、と高笑いする。そのあとで、気恥ずかしそうな表情になって付け加えた。

「それに、契約していれば、この旅が終わっても、またあなたやエンリケたちに会いに行けるでしょ?」

 テオフィロは、にっこりと笑った。

「契約なんて理由にしなくたって、ぼくらの国にいつでも遊びにおいでよ。エンリケだって、きみのいいカモ、じゃない、お得意さまである前に友達なんだから」

 ジョルジュは、花が咲いたように笑顔になった。

 作りかけのオルゴールをジョルジュに奪われたテオフィロは、エンリケにきいてみた。

「ねえエンリケ、きみがかんらん姫にききたかったことって、結局何だったの?」

 モップの柄の先端に顎を乗せて仕事をさぼっていたエンリケは、にべもなく答えた。

「教えねえ」

「えー?」

「どうせ、いつになったら身長が伸びますか、とかどうでもいいことですよ」

 エリカが、造花を作りながら言う。

「わたしが蓄音機で占ってあげましょうか? うーん、ふむふむ。百万年後と出ています」

「なんだと、このいんちき占い師!」

 ジョルジュが明るい声で笑った。アドラシオンが、「さっさと仕事をしなさい!」と怒る。

 エンリケは、強い潮風にまぎれてしまうような小さな声でつぶやいた。

「……おれの周りにいるやつらはがさつすぎて、ちっとも気にしちゃいなかったよ。クローン人間が、人間かどうかなんて」

 なに? と振り向いたテオフィロに向かって、エンリケは笑顔で首を振った。

 銀の魚の群れのように光る千の波が、エンリケたちの船を海の彼方へと先導していく。


〈おわり〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

航海王子エンリケの冒険 紺野理香 @hoshinooutosamayoerumizuumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ