プログラムの中の人
λμ
運用
暗闇の中にいた。眼前に掲げた手のひらさえ視認できない漆黒の世界。身じろぐとすぐに分かった。
脂ぎった髪の毛のような何かに、腰までどっぷりと浸かっている。
ああ、まただ。
またここに来た。
ここに来る前どこにいたのか分からない。ここに来る前どうしていたのか分からない。
分かるのは、また始まったということだけだった。
低い、腹の底に響いてくるような音が、頭の上から降ってきた。
「パラポートをバンカラが橋脚にしようと食べている」
まるで意味のわからない言葉の羅列だ。
だが、
「バイラルの輝きが天井をなだめ、奥深きスポイルを重畳だ!」
語尾の形と、語気の強さと、声調の重苦しさから、命令であることだけは分かる。
そして、それから何が起こるのかも、すでに知っていた。
暗闇の遥か奥、背後から、荒い紙を擦り合わせるような音が聞こえてきた。音は徐々に大きく、近くなり、羽の壊れた扇風機が立てるような音が混じっているとすぐに気づく。
それは足音だ。腰の高さまで積まれた細い繊維の上を歩く、無数の虫の足音だ。風を切り続ける耳障りなそれは羽音だ。暗闇のなか、まっすぐに飛翔してくる無数の虫の羽音。
ぐぅ、と吐き気がこみ上げた。背筋を冷たい汗が流れ落ち、全身の肌が粟立つ。
「――ぅぅぅぅぅぅ……ぅぅぅううううああぁあぁぁぁああああ!!!」
口から絶叫を迸らせて、必死になって闇の中を漕いでいく。
虫が、音が近づいてきている。
一分前よりも近く、大きく。
十秒前よりも近く、大きく。
すぐ後ろに迫り、そして――。
「ああぁぁぁああああ!! 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 助けてくれ! 誰か!」
一匹の虫が背中に張り付いた。暗闇に研ぎ澄まされた肌感覚が、蠢く虫の足先を一本一本知覚していく。昇ってくる。近づいてくる。
二匹目が張り付き、三匹目が、四匹目が、五匹目が。
羽音を立てて飛んできた虫が後頭にへばりつき髪の毛の間に潜り込んできた。何匹かが前に回り込み、暗闇の中の視界をさらに奪う。
恐怖と不快感に全身を震わせながら、必死になって前に漕ぐ。虫どもが耳元でカチカチと音を立てながら 這い回り、衣服の隙間から内側に入り込む。
「――ッアァァァァァッ!」
鋭い痛みが走った。虫が肉を食んだのだ。叫んだ拍子に開いた口に、虫が入った。吐き出そうにも痛みで上手くいかない。虫は口中を
「葉脈の匂いを刷毛に乗せて踊るのだ!」
まるで意味の分からない命令が、唯一の希望に変わる。
何か、しなくてはならないことがある。その使命感が足を前に進ませ、顔に張り付いた虫を払わせた。
両腕を振り回し、脂ぎった髪の毛のような細い束に指を突き立てた。手は細い繊維の表面を掻き取り後ろに放った。離れきらなかった繊維が指に絡んでいた。足にも腰にもまとわりついて、体は遅々として前に行かない。
深い絶望に襲われ、
「う、うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」
叫ぶと、すぐに虫が飛び込んできた。胃袋にまで達した虫が羽を広げる。体の内側でも羽音が聞こえる。肌の下に潜り込んだ虫が肉を食む。ミチミチと引きちぎられていく感覚。
死んでしまいたい。
そう願う。
――しかし、死ぬことはないとだけ知っている。
「極彩色のコードをひた走れ! 栄光は君に!」
その命令に、光が見えた。
体に張り付く虫どもの背の脂が、細い光をどこからか受けて光っているのだ。
言い換えれば、そちらの方向に何かがある。やらねばならない何かが。
そして、そこに行かなくてはならない。
使命感だけに突き動かされて、絶叫しながら前へと進む。
進むしかない。
「誰かぁぁぁぁ……助けてくれぇぇぇ……誰かぁぁぁ……お願いだぁぁぁ……」
噛み潰した虫や半分溶けているであろう虫とともに胃液を吐き出し、瞼の僅かな隙間から眼科へと侵入する虫の痛みに瞬きながら、叫んで進む。
「終わらせてくれぇぇぇ……もう、もう殺してくれぇぇぇぇ……!」
光が、すぐそこにあった。
*
目にクマを下げた女が、青白く光るモニターを見つめ、悲壮感漂う声で言った。
「……せんぱぁーい……これ、絶対まずいですってぇー……」
「……あぁ? 何が?」
「いえあの、これ、めっちゃエラー吐いてるんですけど……私なんか……」
「……いいんだよ、それで。動いてっから」
尋ねられた男は重い息をつき、新たなエナジードリンクのプルタブを持ち上げた。
女が疲れ目を擦り、モニターを睨みながら、エラーをひとつひとつ見ていると、
「……え!? あれ!?」
「……なんだ、どうした? 今度はなんだよ」
「え、いや、違くて」
「違くてなんだよ」
「……なんか、処理が終わったっぽくて……」
「……で?」
「あ、あれ? あれー?」
「な? 動いてんだろ?」
ググリ、と男がエナジードリンクを飲み下した。胃まで鳴った。
「……なんか飯食ってくか?」
「……もうどこもやってないですよ……てか、これ直さなくていいんですか?」
「動いてんだから下手にいじんなよ。だいたい誰が作ったのかしらねぇし、覗いてみたけど何がどうなってんのか分かんねぇんだもん」
「だもん、って……でも……エラー表示だけでも出ないようにしとくとか」
「……バカか? 正気か? いや、いいアイデアかもって思った俺も俺だけど」
「出た瞬間に消す処理を加えるとか」
「いや、やめとけって」
そういう内にも、女がキーを叩く音がしていた。
男が背もたれを大きく軋ませ尋ねた。
「おい、やめとけって言って――」
「――あ」
「あ!?」
ガダン! と、男が椅子を蹴倒しながら立ち上がった。慌てた様子で女の見ているモニターを覗き込む。終わらない悲鳴のように吐き出される大量のエラー。
一瞬の静寂――の後。
「――っぶなー! 壊れたかと思った! 壊れたかと思った!」
女の喜色ばんだ声がオフィスに響き、男が安堵の息とともにうなだれた。
プログラムの中の人 λμ @ramdomyu
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