交じる色
夕方であるにも関わらず、曇天のせいで辺りは鼠色に染まっている。
普段なら子供達の笑い声が響く公園も、今にも雨が降り出しそうな天候のせいで人の姿がない。
公園には似つかわしくない、スーツの男がひとりいるだけだ。
真ん中で分けられた黒髪は、耳にかかるように流れた毛先だけが黒紫色に染まっており、精悍な顔立ちのシャープな顎には髭が整えられている。
齢三十になる男の意志の強そうな切長の目は、公園の一角にある東屋に向けられていた。
「フジさん」
長椅子に腰をかけている女性の背に、声をかける。漆黒のたおやかな髪を腰まで伸ばした、白い小袖に藤色の袴姿の女性は、男の声に反応してくるりと顔を向けた。
胡桃型の溢れんばかりに大きな瞳は、男の姿を見るや厚くぽってりした紅色の唇を開き、艶やかな声を発した。
「お待ちしておりました。槐様」
「単刀直入に申し上げます。浅葱の小袖の男性を見つけることはできませんでした」
「そうでしたか」
「お力になれず申し訳ありません」
「いえ、良いのです。彼にとっては遊びの範疇だったのでしょう。私だけが浮かれていたのでございます。他の美しい
自分の白魚のような手に視線を落としていた。声音は淡々としていたが、目は口ほどに物を言う、虚な目からは失意の色が伺えた。
「これはあくまで推測ですが、彼は囚われているのかもしれません」
「囚われている、というのは、彼は罪を?」
「いえ、恐らく違います。私の推測をお話しする前に確認をしたいのですが」
「何でしょう」
「フジさんは、私に何か隠していることはありませんか?」
フジは槐に視線を移すと、胡桃型の目を何度か瞬かせた。瞳の奥は揺れている。それが戸惑いなのか怯えなのか定かではない。
「いえ、ありませんが……」
声にも僅かな震えを感じる。だが、槐はそこには触れずに「分かりました」とだけ答えた。
東屋の外はいつの間にか雨が降ってきたようだ。雨音が気になる程に、槐とフジの間には沈黙が横たわる。
フジからは、緊張感が漂い落ち着きがない。ついに沈黙に耐えられなくなったのか、彼女から言葉を発した。
「何故、私が何か隠していると思われたのですか?」
「それは、あなたから依頼を受けてからのことを話さねばなりません」
フジは視線を空に移し、再び槐へと戻した。
「時間はかかりますか?」
「いえ。お時間はとらせません」
フジが話すよう促すと、槐は手短にこれまでのことを語り出した。
「依頼を受けてから、あなたと浅葱色の小袖の男——以後、便宜上この男のことを浅葱さんと呼ぶことにしましょう——が会った同じ時刻に、公園周辺で目撃情報を探し回りました。この時代に、和装をした男がいれば目につきますし記憶に残るでしょう。しかし、雨が降っていたからかその日に公園に来ていた人を探すのは困難でした。そこで公園を管理している方々に話を聞いたのですが、そのような男は見ていないというのです」
「さようですか……」
「ええ。東屋にも誰もいなかったと言うのですよ。フジさん」
一瞬だけ言葉を途切らせた合間、フジが生唾を飲むのが聞こえた。
槐は視線を東屋の外へ移した。つられてフジも、慌てたように彼の視線を追う。その先には、無惨に枯れた花が群れていた。
小さな花があった所は茶色く変色し、元の色は分からない。茎も萎れて少しでも触れれば崩れ落ちそうだ。
「そこに咲いていたのはフジバカマという花だそうですよ」
「そう、でしたか」
フジはおどおどと答えた。槐はその様子を見てひとり小さく頷く。確信を得たかのように、その目は鋭くフジに向けられていた。
「何故、この公園にフジバカマが群生しているのでしょう」
「それは……管理している方が植えているのでは?」
「何故でしょう」
「そう言われましても、分かりかねます」
「何故数ある花の中から、フジバカマを選んで植えているのでしょうか」
「私に分かるはずありませんわ!」
声を荒げた紫に、槐は冷静に畳みかけた。
「東屋近くに設置されている看板に書いてあるのですが、ここに来る途中お読みになりませんでしたか?」
フジは言葉を詰まらせ、目を大きく見開いて槐を睨んだ。唇は恐怖でわなわなと震え、膝の上で組まれている手は拳を作っている。
「……そのような看板は知りません」
「知らないはずありません。すぐそこにあるのですから」
槐の指は、東屋の柱に真っ直ぐ伸びていた。柱にくくりつけられた木製の板、そこには写真と文字が書かれた紙が貼られている。
「フジさんは文字が読めませんね?」
「それが、どうしたというのです」
「識字率が百パーセントのこの国で、文字が読めない人など本当に珍しいのです。文字が読めなくても私の事務所のことを知ることはできたでしょう。私のことを知っている第三者から聞いたのでしょうから。しかし、契約書の内容を読むことはできていませんでしたね。それは、あなたの様子から明らかでした。サインは拇印でしたところから、文字の読み書きができない方だということは容易に推測できました」
フジは何も言わない。覚悟したように唇を噛み締めていた。
「フジさん。貴女は人間ではありませんね?」
槐が放った言葉に、深くため息をついたフジは頭を垂れたままで力なく頷いた。
「槐様のおっしゃる通りです。私はフジバカマの化身です」
「そして浅葱さんは、アサギマダラ、という渡り蝶。そうですよね?」
「アサギマダラ……?」
東屋の柱にかけられた看板。そこには散房花序に藤色の花が群れるように咲くフジバカマと、その蜜を吸う一匹の蝶の写真が印刷されていた。
前翅は黒、後翅は褐色の縁取りがされ、それぞれの翅には脈が走っている。その内側は、浅葱色をしていた。前翅の黒縁には薄い浅葱色の斑点が幾つも連なっている。美しい模様の蝶だ。
春から夏にかけて北上し、秋になると南下する。海を渡ることもあるというこの蝶は、何故長距離移動をするのか、見知らぬ土地の方角をどうやって知り得るのか、未だに解明されていない謎を多く持っている。
「看板によると、この公園はアサギマダラの研究のため、飛来地となるように毎年フジバカマを育てているようです。アサギマダラは、フジバカマが好物らしいですから」
「……つまり浅葱様は、私でなくても良かったということですね。フジバカマであれば、誰でも口吸いをした。蜜を吸うために」
悲哀に満ちた声はか細く、打ち付ける雨音にかき消されそうだった。彼女の口振りから、浅葱の正体を知らなかったのだろうということは、すぐに推測できた。
それを聞き取った槐だったが、彼には浅葱の心の内は分からない。
「本人を探し出して、直接お聞きにならないと分かりかねます。そのために、ひとつだけお聞きして良いですか?」
「何でしょう」
「実は、フジバカマを育てている公園がこの近くにもありまして。そこで、アサギマダラを無断で獲った少年がいたという話を聞いたのです。アサギマダラの模様が、有名な映画の登場人物が身につけているアクセサリーに酷似していたのですよ。それで、子供達が獲ってしまったようです。本当は、獲ってはならない決まりなのに」
「もしかして、浅葱様も?」
「ええ、その可能性は十分あります。実際、その少年以外にも多くの人がアサギマダラを獲ったと報道がされておりました。獲ったアサギマダラは放されたそうです。しかし、獲った者が名乗り出ずにいたとしたら。その人が獲ったアサギマダラが、浅葱さんだとしたら。フジさんのもとへ来れなかった理由としては、十分だと思います」
「仮に浅葱様を獲った人がいたとして、その人を探すのは難しいのではないですか?」
「フジバカマにとまった時こそ、アサギマダラを獲る絶好の機会です。蝶を捕獲していた不審な人物を、見ていませんか?」
フジは目を閉じて、必死で記憶を手繰り寄せているのか苦悶の表情を浮かべていた。だが、ひとつ失望のため息を吐き出すと力なく首を横に振る。
「いえ、何も覚えておりません」
「そうでしたか……」
槐の声音も無念の響きを含んでいる。
「槐様にはお手数をおかけしました。浅葱様をお救いしたいのですが、私にはもう、時間がないようです」
握りしめていた拳を開いて、顔の前に差し出した。白魚のような指の先から、枯れた花弁のようなものがいくつも溢れ落ちていた。赤子の爪のように小さな破片は干からびていて、元の色が分からないほどに黒ずんでいる。
乾いた音を発しながら、はらはらとフジの足下に積もっていく。
「もうじき花が完全に枯れて、私の命も尽きます。どうか、この世から去る私を見ないでください。お見苦しい所を見せたくないのです」
懇願するフジの思いを受けた槐は、長椅子から腰を上げた。
「お力になれなかったこと、誠に申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げる槐に、彼女は声をかけた。
「私からも聞きたいことがあります。何故、槐様は私の姿を見ることができたのでしょう?」
姿勢を正すと、普段は冷静沈着で感情など読み取れない顔に曇りが見えた。槐は答えに逡巡しているのか数秒ほど黙りこくった後に、徐に口を開いた。
「それは、話すと長くなりますので」
「お話を聞くことができなくて残念です。私の人生、心残りばかり……来世というものがあるのなら、花ではない人生を歩みたいものです」
フジの指は、すでに形などなくなっていた。彼女から剥がれて足下に積もっていた枯れた花弁は、東屋を吹き抜ける風に煽られて当てもなく宙を彷徨っている。まるで行き場を無くした亡霊のようだ。
槐は一礼して東屋を去ろうとした。が、一点を見つめ、その足を止めた。
「フジさん。あそこを」
槐が指さした先、フジの双眸はあるものを捉えて見開いた。
鼠色の景色の中、頼りなくふわふわと東屋に向かって飛んでくる一匹の蝶の姿があった。美しい模様と薄い浅葱色、紛れもなくアサギマダラだ。
時折吹き付ける雨風によるものなのだろうか。精一杯翅を動かしても風に煽られて、宙に流されていく。それでも、懸命にフジのもとへ飛び続けていた。
「浅葱、様?」
近づくにつれて、アサギマダラの翅がボロボロに引き裂かれていることに気づく。
傷だらけの彼を受け止めようと、フジは手を差し出した。だが、よろめきながら進む蝶を受け止めるための手は、すでに花弁と化して失われていた。
伸ばした腕の合間をくぐり、アサギマダラは彼女の鼻先に着地した。ぼろぼろになった翅を休ませるように、何度かゆっくりと羽ばたかせている。
その様子を、槐は静かに見守ることしかできなかった。
「ああ、貴方のことを待ち侘びておりました。もう二度と会えないものだと……」
フジの放った声音は涙で震えていた。
——申し訳ございません。貴女に会いに行く途中、捕まってしまいまして。
低くて優しい声は、槐には聞こえない。フジは、こくりこくりと何度も頷いては「そうでしたか、そうでしたか」と呟いた。
「こんなに、ぼろぼろになられて……」
——牢獄から抜け出すのに苦労しました。翅を失ってでも、這いつくばってでも、貴女に会いに行きたかったのです。
「最期に一目会えて嬉しかったです。ええ、私はこの世からおさらばします。どうか、達者に暮らしてくださいませ」
藤色の袴は、糸が解けるように彼女から剥がれていく。露わになった白い足も、黒い小さな破片となってしまっていた。
——僕もお供致します。貴女のいない世界に、僕の生きる意味はないのですから。
「フジバカマなら、他にいくらでもいますわ」
——貴女をお慕い申し上げております。貴女でなければならないのです。貴女しか、いらないのです。
アサギマダラの翅の先から、鱗粉に似た浅葱色の粒子が舞い上がっていく。それは、フジから落ちた花弁達に貼り付いて、離れようとしない。
——愛しております。永遠に。
「私も愛しています。貴方と離れ離れになるのは、耐えられません」
フジから言葉が溢れるのと同時に、つうと頬を伝って涙が地面に落ちた。藤色の雫がひとつ跳ねると、波紋が広がって辺りに伝わっていく。
行く当てなく彷徨っていた干からびた花弁は、一瞬のうちに藤色に染め上げられた。瑞々しい藤色は、優雅に舞う花吹雪となってふたりを包み込んでいく。その渦は浅葱色の鱗粉を纏い、きらきらと光に満ちていった。
フジは瞼を閉じてその時を待っている。鼻先にとまったアサギマダラも、寄り添うように彼女に身を寄せていた。
みるみるうちにふたりの体が解けて、浅葱色の粉と藤色の花弁の渦の中に巻き込まれていった。
ついに、フジの色白の顔が剥がれ落ちていて渦に吸い込まれていく。咲き誇るフジバカマを彷彿とさせる柔らかな藤色の花弁は、可憐であった。
アサギマダラの翅も胴体も、全て鱗粉と化して花弁に化粧を施していく。
その場には、フジの美しい鼻先とアサギマダラの脚だけが最後まで止まっていたが、ふっ、と渦に吸い込まれていった。
まるで蝋燭の火が消えるように静かに、穏やかに。
藤色と浅葱色は互いに絡まり、抱き合い、交わりながら、ゆるやかに天へと昇っていく。
雨風などもろともしないふたつの色は、鼠色の世界に映えている。
天高く昇りつめ、曇天の闇に届きそうになると、儚く、呆気なく、姿を消した。
ふたりの気配を奪うように、容赦なく雨は降りしきっている。
東屋に取り残された槐は、曇天の中を彷徨うふたつの色が消えゆくのを見届けると、その場を後にした。
雨に打たれた枯れたフジバカマは、悲壮感が漂っている。
ただひとつだけ、凛とした佇まいで立ち枯れているものがあった。憂いを秘めつつも、永遠に愛する者と寄り添い歩く希望に満ちているように。
—完—
恋焦がれ、交じる色 —花ノ探偵•槐太門— 空草 うつを @u-hachi-e2
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