後編

 深い無意識の長い航海を経て、気が付くと私はモノクロームの世界に迷い込んでいた。私を取り囲む、どこか異邦めいた街並みにはおよそ色彩と呼ばれるものが完全に欠落しており、灰色のコントラストで世界のディティールが構築されていた。人の気配は途絶え、絶対的な静けさが周囲に漂っていた。自分の呼吸の音だけがやけに大きく聞こえた。空を見上げると、そこには茜色の輝きなどはなくて、ただただ色褪せたグレイの空がどこまでも広がっていた。私はどれくらいの間、そこに呆然と立ち尽くしていただろうか。意識がひどく曖昧で、頭が異様に重たく、ろくに考え事もできない状態でいた。それから私は、しばらく経ってから、不意に体が動くことを思い出したかのように、よたよたと見知らぬ通りを歩き始めた。私はそこに不気味で陰鬱な雰囲気を強く感じ取った。それらはおよそ人間的なものを拒絶するかのようなある種異界の如き景観を表していたが、それは人間にとって往々にしてひどく魅力的なものに見えるのである。拒絶と誘惑の見えざる手が、まるで私の体を引っ張っているかのようだった。私はぐらぐらと周囲を見回しながら、当てもなく歩き続ける。彷徨えば彷徨うほど迷宮の中心部に迷い込んでいくかのような感覚を覚えるのに、それでも、こめかみに鈍い頭痛を伴ったデジャビュのような感覚がどうしても振り払えない。

 やがて私は何度もこの街を訪れたことがある、という事実に気付く。

 不意に意識が鮮明になる瞬間が訪れる。

 そうして、それがいつもの悪夢であることを認識するタイミングで、私は目覚めた。

 かつて朝日と呼ばれていた夕日が、カーテンの隙間から差し込んでいた。

 目覚めは例によって最高とは言えない気分だった。夜が夜であることをやめ、星の瞬きを忘れた今、この街に図太くも無神経に平和な安眠を貪れる人間がどれほど残っていることだろう。


 蝶の捜索は難航していた。私はその実在性を疑い始めていた。それでも私が当てもなく夕焼けの街を歩き続けた理由は、そこに希望を感じ取っていたからに他ならない。例えそれが蜃気楼のように不確かなものでも、私には縋る対象が必要だったのである。それは私がかろうじてまだ生きる理由でもあったし、それと同時にこの世と私を結びつける最後のよすがとなる蜘蛛の糸とも言えた。

 私が深々と座り込むソファの傍らには小テーブルが設置されており、その上には銀色のヴィンテージ風の小振りな灰皿と、真っ赤な、どこか懐かしく、それでいて悪趣味な感じのする塗装のされた電話機が乗っている。友人などおらず、およそ社会というものから隔絶されている私にとってその呼び鈴は不吉の象徴でこそあれど、決して心安まる知らせではなかった。そんな赤い電話機が鳴ったのは数日後のこと。病院からの電話であった。そこで、私は父が死んだことを知った。

 人間が死んだ後の手続きは慎ましやかにも粛々と、そして何より事務的に進んでいった。この街は既に人間の死を特別視しなくありつつあるのかもしれない。そういった儀式が滞りなく進むその間、私はなぜだか涙を流すことができなかった。なぜだろう。その理由は分からない。私はただただ質量に乏しくも体積のかさむ感情の正体を掴みあぐねた状態のまま、父の最期を見送った。骨が焼かれる。私は血溜まりのように赤い夕空に聳える煙突からもくもくと黒い煙が吐き出されていく光景を頭の片隅に思い浮かべる。

 私は父の骨壺を手に帰り道を歩いた。

 そして帰宅した時、馴染みの静寂の中に列記とした事実として存在するある種の確信が私を襲った。私は全ての肉親を失い、この茜色の街に一人取り残されてしまったのだ。私は骨壺をテーブルに乗せると、いつものソファに崩れるように座り込んだ。そして力なく、壁に掛けられた虫の標本を眺めた。鋭利なピンで胸部を串刺しにされ、腐敗することも朽ちることもなく永遠にその亡骸を残し続けるその姿が、父の骨壺に重なった。今の父にはあらゆる葛藤も存在しないだろう。そんな在り方が、私にはたまらなく羨ましかった。少なくとも今の私の精神状態にはそれが救済のようなものに感じた。しばしぼんやりと時間を潰してから、私はいつもの煙草に手を伸ばす。大きく吸い込み、ゆっくりと吐き出す。白い煙が宙をゆらゆらと漂った。物思いの泡に似て、ふわふわとふやけながら透明に飲み込まれていくその様を、私は見詰めていた。

 

 例の蝶は死神の類いなのではないかという噂を私はネットで知った。つまりそれは、死を目前に控えた人間の前にのみ現れる幻影なのだ、と。言い換えればそれは、蝶を見つけた人間は遠からず死んでしまうという不気味な予感めいた事実の裏返しと解釈することもできた。だとしたら、今の私にはそれが見つけられるはずだし、見つけたとしても何ら問題がある訳ではない。私の心は既に、それほどまでに死を肯定していた。私は煙草の火を灰皿で磨り潰し、ソファから起き上がると、部屋着のまま扉を開けて散歩に出かけることにした。

 それからどういう道を歩いたのかは記憶にない。

 近所は既にくまなく歩いていたとは言え、歩いたことのない道の一本や二本はあるものだし、そこから全く知らない交差点をデタラメに歩き続ければ、迷子になったとしてもおかしくない。どれくらい彷徨っていただろう。どこか現実味の乏しい夕日は時間感覚をひどく曖昧に間延びさせる。そこで、私はあまりにも唐突にではあるが、例の蝶を発見した。なぜその蝶がこの街にありふれたただの蝶ではなく、私が探し求めていたまさにその蝶だと即座に分かったのかと言うと、言うまでも無い。それほどまでに美しい色合いを私はそこに見たからである。その翅の色彩のあまりの美しさに私はたちまち心を奪われた。それは言葉にできない類いの美しさだった。あらゆる色にまつわる名前を並べ立てた所で、あるいは私の乏しい詩的感覚を駆使して表現を積み重ねた所で、その美しさを形容し得るとは到底思えない。私は心の底から、今に至るまでの人生を感謝したい気分になった。それはとても心地よいものだった。そして私は大して苦労をすることもなくその蝶を捕獲することに成功した。蝶は大して抵抗する素振りも見せず、私の虫かごに静かにおさまった。

 私は帰宅した。

 そして、早速作業に取りかかることにした。

 この美しい色彩には人の魂を救済する力がある。この美しさを後世に残さねばならない。私は強くそう思った。そして、その蝶を標本にすることにした。

 私は細心の注意を払いながら翅の形を整える。

 そしてピンを胸にそっと突き刺す。

 そのピンが蝶を貫いた瞬間、翅に表れていた美しい色は薄れ、退屈な灰色だけがそこに残った。


 これ以上生きることになんの意味があるだろうか。どんな必然性があるだろうか。この街は観光客にとって(そんな物好きがいればの話だが)表向きは美しい斜陽に照らされた世界だが、その実態は生きながらにして内部から腐敗を始め、それでも尚完全な死という平穏を受け入れることが出来ずにいる非常に曖昧で不安定で不完全な世界なのだ。そんな有様が自分の人生と重なった時、私は自ら命を絶つという選択肢に具体的な希望を見出し始めていた。死んでないから生きているだけ。そんな消去法的な思考回路で定義される人生に何の重みがあるのだろうか。そもそもなぜ今まで、自殺という道を選ばなかったのか。無意味に目覚め、無意味に呼吸と食事を繰り返すだけの血と肉で構成された歯車に、それでも尚明日を、明日の生を求める必要などあるのだろうか。未来が明るくなる見通しなどは微塵もなかった。文字通り斜陽のまま、少しずつ様々なことが悪化し醜くなっていく確信めいた予感だけがあった。

 そうして考えることに疲れた私は、オサラバすることにした。

 願わくば私の亡骸に然るべき防腐処理を施した後、昆虫の標本の隣に飾って欲しいと思う。それだけが、いやそれだけを生きた証に、私は常世へ旅立つのだ。小テーブルに蒼色をした大量の睡眠薬が転がっていた。


 そうして、私は今、眠っているのだろうか。

 悪夢という言葉でしか形容のできない光景が眼前に広がっていた。妙に意識が冴えている。私が迷い込んだ夢は、地獄の様な色彩で充満していた。紫色に糜爛した夕焼け、玉虫色に輝く蝿、原色の廃墟、静脈の裂け目から滴り落ちる液体はモルフォ蝶の翅のように蒼かった。色相のスペクトラムはここが既に地獄である可能性を示唆している。私は手首を押さえながら何時間も彷徨っている。

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常世の暁 下村ケイ @shitamura_kei

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