エピローグ
健二は重たい荷物を両手で抱えると、車のトランクに無雑作に詰め込む。
「ちょっと、大切に扱いなさい」
トランクの扱いを窘めるように言う母の言葉を聞き流し、健二は助手席に座る。
背もたれを少しだけ倒し、安楽肢位になると、スマホを取り出して何の気なしに触る。
車の外では、母が祖父母と何やら話し込んでいる。内容は大体想像がついた。
元気でね、体調に気を付けて、また時間があるときに健二を連れて遊びに来てね、などだろう。
ひとしきり会話したあと、母は運転席に着いて言う。
「窓開けて、おじいちゃんとおばあちゃんに挨拶して」
母に促され、健二は窓を開けると、こちらに笑みを湛えて手を振っている祖父母に応える。
二人は車に乗って去って行く健二に、いつまでも手を振っている。健二も二人の姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
二人の姿が見えなくなり、健二は助手席にもたれ掛かる。この退屈で恐ろしく穏やかな日常からようやく抜け出すことができる。今朝まではそんなことを思っていたが、実際祖父母の家をあとにすると、次第に名残惜しい感覚が染み出す。
母は不整地を巧みなハンドル捌きで、不整地に道路を走る車が心地よく揺れる。上下左右に揺られ、眠気を我慢しながら、
「――来年も来ようかな」
ふと健二が呟くと、母が当惑した顔で健二をまじまじと見つめる。その視線に気付かないふりをしつつ、窓ガラス越しに過ぎ去っていく外の風景を眺める。
健二の視界に、鎮守の森が見えた。数日前まで、自分が行方不明となり、なぜかその奥にあった古井戸の底にいた。その記憶を手繰り寄せる。
今考えても、自分がなぜあの場所にいたのかが腑に落ちない。自分の中で記憶に大穴が開いたようで、その空白の記憶の中で、自分の身に何が起きたのか。それだけが健二の中で嫌なほどしつこく、ややこしいしこりのように残っていた。
そのとき、過ぎ去る風景の中に、白い何かが飛び込んできた。
それが気になり目を凝らすと、それが一匹の犬だとわかる。この辺りの野良犬なのだろうか。今まで見たことのない小型犬で、犬種はわからない。チワワやマルチーズとは似ても似つかない大きな垂れた耳に潰れたような小さな鼻が印象的だ。全身を覆う伸び放題の薄汚れ乱れきった毛並みが、犬の不潔さを物語っている。不細工と言うにはあまりにも当てはまる外見に健二はふっ、と笑いが込み上げる。
犬はちょうど森の入り口で、地面に行儀良く座り、伸びきった毛並みの間から覗く目が、じっとこちらに視線を送っているように見えた。
健二はその犬に見覚えがあった。確か、記憶を無くす前日の昼間に、森の中で見掛けた。
遠く離れているはずの健二と犬の視線が交差する。健二も我慢比べをするように、目力を込めて見つめ返す。
永遠とも思える一瞬の間、決して健二から視線を逸らそうとはしない犬に、徐々に言い知れぬ不安とも恐怖ともいえる感情が募る。健二は犬から視線を逸らそうとするが、なぜかこちらを見つめる犬から視線を逸らすことができない。
犬の瞳に吸い込まれるような不思議な感覚と共に、言葉では言い表せない郷愁が胸に染み渡る。何かとても懐かしい感覚で、自分はそれを忘れてしまってはいけない。そんな気がするのだが、それが何なのかがわからず混乱する。そのとき、犬がにやりと笑ったように見えた。
精霊の神隠し【了】
精霊の神隠し 宮里洋幸 @hiroyuki_miyasato
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