24.神隠し
健二は薄暗い場所で目を覚ました。辺りの土の湿った臭いが鼻を突く。鼻が曲がるような嫌な臭いに顔を歪めながら、健二は上体を起こす。
ここがどこなのかわからず、辺りを見渡してみるが、闇に沈んだ周囲の空間は、手元がようやく視認できる程度だ。僅かに光を感じ、頭上を見上げると、明かり取りの窓のような場所から一条の光が差し込んでいるのがわかった。光は壁に反射すると、頼りない弱々しい照明となり健二を照らしている。
次第に目が慣れ、辺りの状況がわかってきた。どうやら狭い空間にいるらしい。四方を閉ざされた狭い空間から抜け出す道は、頭上だけとなっている。訳がわからず、おもむろに立ち上がる。
身体は全身に鉛を巻き付けたように重く、まるで見えない重りが纏わり付いているようだ。辺りを手探りで確認すると、ざらついた土の感触が掌から伝わる。
(ここはどこだ……)
健二はふらっと立ち尽くし、必死になって記憶を遡る。
昨日は夜になり床に就いた。夜中に何かが起きて家の外へ出たあと、誰かとどこかへ向かったような気がする。だが、その詳細を思い出そうとすると、その記憶だけがぽっかりと穴が開いたように何も思い出せない。
悶々とする気持ちを何とか抑え、この暗闇から抜け出す方法を考える。方法はひとつしかなかった。頭上にある明かりに向かって、この狭い空間から脱出しなければならない。だが、よじ登ろうにも、直角な壁に手足を掛けてもなかなか上がることができず、徐々に焦燥感だけが募っていく。
暫くの間、色んな工夫し悪戦苦闘していた健二だったが、体力が削られるだけでまるで報われない。遂に諦めて地面に座り込む。ふと思いつきポケットに忍ばせていたスマホを取り出す。何となく予想はしていたが、スマホの電波は圏外になっている。
この状況からどうにか抜け出さなければ、いつまでもこの薄暗い空間に閉じ込められたままだ。その上、助けを呼ぶ術は持ち合わせているわけでもない。いよいよ絶望しうなだれる健二だったが、ふと何かが聞こえた気がした。
はじめは空耳や幻聴の類いなのでは、と思ったが、改めて耳を澄ませると、確かに誰かが何かを叫んでいるようだ。この好機を逃すわけにはいかない。
健二はありったけの声を張り上げる。喉が潰れそうなほどの大声を発し自分の居場所を教える。
暫く叫び続け声が嗄れた頃、差し込む光に陰が差した。陰は少しの間動かずにいたが、ぴくりと動くと、
「おい。大丈夫か――君が健二君か」
「はい――そうです」
その声に健二は弱々しく応える。人の声を聞いてこれほど安堵したことはなかった。力が抜けたように地面に跪くと、健二は深々とため息を吐く。
頭上では、男が誰かと連絡を取っているのか、無線機の雑音が僅かに耳に入る。どうやら、健二は捜索されているらしい。少年を発見した、という報告に無線機の向こう側から慌ただしい雰囲気が伝わってくる。
数分も経たないうちに、頭上が慌ただしい雰囲気になり、何かを設置しているらしい物音が聞こえる。そして、頭上から何かが下ろされた。それが梯子だとわかり、健二はしがみつく。
「ゆっくり上がっておいで」
頭上から掛けられ、そろそろと梯子を登っていく。徐々に視界が明るくなっていき。遂にそこから顔を出したとき、目が眩んでしまい平衡感覚を失う。体勢を崩し梯子から底の地面に落下しそうになるが、寸前で脇を抱えられると一気に引き上げられる。
生まれたての子鹿のように地面に立つと、眩んでいた視野が回復していく。気付けば数人の男が健二を取り囲み、心配した面持ちで立っていた。
「立って歩けるか」
一人の男に声を掛けられ、健二は無言で頷く。そのとき、周りの者たちが安堵しているのが何となく伝わってくる。
健二はふと、自分が引き上げられた場所に視線を向ける。そこには古井戸があった。今は使われていないことが一見してわかる、辺りは鬱蒼とした茂みに囲われた朽ちかけた木枠でできており、一体誰がこの井戸を使うのかも疑わしいほどだ。
健二は自分がいる場所がどこなのかを理解した。先日、散歩をしていて迷い込んだ場所だ。祖父母が『鎮守の森』と呼んでいたこの場所は、人が立ち入ることを許されていない。
健二は自分が犯してしまった禁忌を自覚し、冷や汗が全身から吹き出るのを感じた。先日は祖父母の見付からなければ大したことにはならない、と高をくくり、興味本位で森へ入った。実際に、見付かることはなく、祖父母に咎められることなどなかった。だが、今の状況は明らかに自分が神域に無断で足を踏み入れ、禁忌を犯したことを表明しているにも等しい。
介抱されるように健二はおぼつかない足取りで、木々が生い茂った小道を下っていく。
頭の中で、祖父母への言い訳を考えるが、あの状況をどう言い繕っても、言い訳など立つ通りがない。
失意に打ちひしがれていた健二だったが、ふと周りの大人たちの装いを見て冷や汗が更に増していくのを感じる。羞恥などを通り越し、胸の辺りに悪寒が走り、吐きそうになるのを必死に堪える。
大人たちの服装から、消防団員や警察官であることがわかった。それを見て、健二は一瞬のうちに理解した。どうやら捜索されていたようだ。当然、祖父母か母が警察に捜索を願い出たのだろう。だが、この地域にこれほど若い人がいるとは思わなかった。
祖父の家にいる間、何人か訪れていたが、目にした人たちは高齢者ばかりで、まるで若年層が住み着いている様子など微塵も感じさせなかった。最年少だという区長でさえも、六十を手前にした中年だという。それだというのに、今健二の目に入る大人たちは、二十から三十代の男たちばかりだ。
ゆっくりした足取りのまま、歩き続け森を抜ける。祖父の家が目に入ったとき、昨夜ぶりだというのに、なぜか酷く懐かしく感じた。祖父の家に、ではなく。日本の原風景の中に佇む祖父の家と、その周囲の木々や田園の全てが、自分の郷愁感を鋭く刺激した。なぜ、これほど懐かしい感情を揺さぶられるのだろう。健二は訳がわからず困惑する。
遂に祖父の家の前に立つ。男が呼び鈴を鳴らすと、慌ただしい足音が駆け寄り、アルミのドアががらがら、と音を立てて開く。引き戸の向こう側に立っていた人物の姿を目にし、健二は何とも言い難い安堵を覚える。
「――健二」
唖然とも驚愕とも採れる母のやつれた顔が、少しだけ生気を取り戻したように見えた。母は力なく言葉を放つ。そして、ゆっくりと健二に歩み寄ると、優しく抱擁する。
健二は柔らかく暖かい母の腕を感じる。母の様子がこの状況の深刻さを物語っているような気がした。普段は冷静であまり感情の起伏を感じさせない母が、弱々しい姿を見せ、健二の姿を認めたとたんに、緊張の糸が切れたかのように硬い表情を綻ばせたのがわかった。
母の抱擁のあと、健二はまじまじと母を見つめる。安堵したせいかいつもの母とは様子が違い、優しさがかさ増しされているように感じた。健二は母との間に漂う空気に耐えられず、思わず目を逸らす。
母は健二の両肩に手を掛けると、全身を舐め回すように観察していく。どうやら、怪我をしていないかと心配らしい。暫く母の身体検査に付き合わされる。
いつの間にか、母の背後に祖父母の姿も見えた。二人も安堵の様子で健二に優しい微笑みを向けている。
「あの――今回は大変なご迷惑をお掛けしました。本当にありがとうございました」
母の綿密な身体検査から解放されると、母が健二を連れてきた大人たちに何度も頭を下げている横を通り抜け、健二は祖父母のもとへ行く。
「大丈夫か。どこか怪我とかしてないか」
心配そうに祖父が尋ねる。健二は強がって見せようと大きく頷く。
「別に何ともないよ。……お腹は空いてる」
今気付いたが、お腹と背中がくっつきそうなほど空腹だ。それを自覚した瞬間、今までに経験したことのないほど空腹感が健二を襲う。腹をえぐられたような鈍痛にも似た不思議な感覚だ。空腹よりも喉の口渇感が健二を激しく襲う。口の中が驚く乾燥し、喋ろうとすると舌と硬口蓋が糊で貼り付けられたようになり上手く言葉にすることができない。
祖母がかいがいしく持ってきたコップのお茶を一気に飲み干す。身体中に清水が澄み渡るような感覚が起き、身体に纏わり付いていた重苦しい何かから解放されたような気がした。
続けて祖母は、今の畳に座り込んだ健二に盆に乗せた何かを渡した。盆には一杯の丼が乗っていた。その中身を認めた健二は顔をしかめる。
「――これって何」
気になって尋ねると、祖母は微笑んで言う。
「お粥だよ。お腹が空いているのはわかるけど、お腹をびっくりさせないようにお粥からゆっくり食べて。もう少ししたらご飯ができるから」
そう言うと、祖母は台所の中に姿を消した。
健二は祖母から再び丼へ視線を戻す。丼には味噌を解いた粥に、鮭フレークを掛けた質素なものだった。だが、健二はこれで十分だった。
祖母に言われた通り、ちびちびと粥を口に運ぶ。できたての粥の薫りと暖かさが舌の上に乗った瞬間に幸福感で身体が熱くなる。
祖母の粥をゆっくり食べ進めていると、祖父が不思議そうに健二を見つめているのに気付き、健二は気恥ずかしくなる。
「――どうしたの、おじいちゃん」
健二が尋ねると、祖父は健二の目を探るようにじっと見つめてくる。
「お前は三日間もいなくなってたんだぞ。三日間もどこに行ってたんだ」
祖父は感心とも感嘆ともとれる表情をしている。健二が行方不明になったことを心配していただけに、無事に帰ってきたことが嬉しいのだろう。だが、健二は祖父の言葉に困惑する。
「えっ、三日間……どういうこと」
健二の問い返しに祖父は唖然としたように口をぽかんと開ける。
「三日間だろ、お前がいなくなってたのは。野宿で日にちの感覚が狂ったのか」
祖父は面白がるようにして言う。健二がとぼけていると思ったらしい。だが、健二の困惑は増すばかりだ。記憶を辿る限り、目を覚ますまでの記憶は、昨夜の夜中に祖父の家を抜けだし森の中へ入った、というものだ。その夜の前日の昼は、祖父と話をしていた。あの夜以降の記憶は健二の中には全くなかった。まさか、自分が記憶喪失にでもなってしまったか、と。
健二の困惑している顔を見た祖父の表情は、いよいよ険しくなる。何かを言い掛けた祖父だったが、ふと、健二の背後に視線を移すと顔が硬直する。祖父は逃げるように今から素早く立ち去る。
何が起きたのかと不思議に思った健二だったが、背後から鋭い視線を向けられているのを感じて振り返る。
そこには母が立っていた。母の表情は険しく母が纏っている空気がぴりついている。睨み付ける眼差しが、今にも自分を射殺さんとしていることに気付き、健二は全身に冷や汗が滲むのを感じた。
「――どうかしたの」
健二はゆっくりつばを飲み込むと、恐る恐る母に尋ねる。すると、母は低い声で言う。
「あんた、どこで何してたの一体」
憤慨した様子で、母が健二に勢いよく詰め寄る。その勢いに圧倒され、健二は狼狽える。
今の畳間に正座をさせられ、永遠と思えるほどの時永い時間、母に罵声を浴びせられる。
母が憤慨しているのには、何やら訳があるらしい。荒い息を吐き、母が捲し立てる。
健二が行方不明になった翌朝。寝室に健二の姿がないことに気付いた母は、はじめは健二が自由気ままに家の周りを散歩しているだけだろう、とさして気にしていなかったという。だが、昼前になっても健二の姿が見えないことに、次第に不安を募らせた。
昼頃から付近を探し始めるも、健二の姿がないことに、取り乱した母が区長に助けを求めた。区長の要請で、村中の人々が健二の捜索を始めたが、結局見付けることができなかった。翌日の昼前には、警察へ捜索願が出され、今朝には周囲の村や町からも集まった警察官や消防団の協力で、周辺の森などへ捜索範囲を広げて健二を捜索していたのだ。
「夜中に一人で勝手に家から抜け出して、あんたは色んな人に迷惑を掛けたのよ。一体何やってたの」
母はひとしきり捲し立てたあと、憤慨した様子で言う。どうやら、母は健二が行方不明になった事よりも、村の内外の人たちに迷惑を掛けたことに怒っているようだった。健二は内心で毒を吐く。自分の息子の心配より、周囲に迷惑を掛けたことを恥じているのか。その一方でふと思い出したことがある。健二が自宅の前に立ったとき、誰よりも先に玄関に立ち、健二を迎え入れてくれた。そして、あのときに見せた母の態度や表情に嘘はなかった。それを思い出すと、ただ単に健二に向けて苛立ちをぶつけているわけではないことを理解した。
健二が見付かるまでは、無事であることを願い、誰よりも心労が絶えなかったはずだ。健二が無事な姿を見せたことで安堵したのと同時に、周囲の人たちに迷惑を掛けたことに対して、健二に責任感を説こうとしているのだろう。と、いうより説教だ。ただ、それが苛立ちではなく、愛情故だということはわかった。三日間も息子の行方がわからず、不安の中にいたに違いない母が嫌がらせをしているようには見えなかった。
「――ごめんなさい」
健二の口から自然と母に対して申し訳ないという自責の念が沸き起こる。以前の自分でれば、何らかの理由をつけて言い訳や自分の落ち度を省みることなく、反抗していたに違いない。だが、母の内心を思い図ると、そのような言葉よりも、自分を心配していた母へ感謝と謝罪をしなければ、と思わず言葉を発していた。
健二の言葉を聞いた母は、面食らった顔で唖然とていたが、何かを思い直したのか、今までの憤慨していた様子は沈静化し、落ち着いた様子を見せる。
「まあ、きちんと反省して、これからは他人に迷惑を掛ける前に、きちんと考えて行動しなさい」
素直な健二の態度に少し驚いた母が言うと、それを待っていたとばかりに祖母が口を挟む。
「はいはい。ご飯ができたから準備して」
祖母の言葉に促されるように、母と健二の間にあった緊張の糸が緩む。
翌日からは、今まで通りの退屈で暇な日々が始まった。昼間は祖父の畑仕事を眺めながら、時間を潰すためのゲームや漫画に勤しむ。それでも時間を持て余すので外を散策しようとしたが、母の強烈な剣幕で制止され、結局軒先から外に出してもらえなかった。
母の形相に恐れを抱き、健二は大人しく祖父の家の中で大人しくしていることにした。
穏やかで退屈な夏休みは緩やかに過ぎ去っていった。
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