人間脳 VS 神脳

naka-motoo

あまりにも緻密な計算はどんぶり勘定扱いされてしまう

「前総理が逮捕!逮捕です!」


 どおおおおおお、と、報道が波動となった感覚は初めてだった。


 これでわたしは死ぬのを免れた。


 ・・・・・・・・・・


 わたしは大学三年生の時にいわゆる外交官試験に合格して大学を中退して外務省に入省した。20歳以上で入省の資格を得られるのでわたし世代の人間には時折こんなタイプの外交官が居た。


 その後ヨーロッパ、アジア、中東、あらゆる国に赴任して大過無くキャリアを重ねて来ていた。結婚はせずにわたしが30代の終わりに差し掛かった時のこと。


「総理、ご気分はいかがですか?」

「ああ・・・・・君、ありがとうね」


 ちょうどわたしが赴任していたアフリカの国で開催されたシンポジウムに総理が出席することとなり、わたしがアテンド役に抜擢されたのだ。


 会議も終了し、普通無いことなのだけれど、総理はこの国の世情を見たいとおっしゃってわたしと一緒に街に出た。もちろんSPは同行するけれども少し距離を置いていて、わたしは総理とふたりだけでならんで露天の食べ物屋などを見て歩いた。


 ふっ、と訊かれた。


「君はこの国をどう思う」

「そうですね・・・・ずっと白人からの差別をこの国のひとたちは受けてきましたけど・・・そういう歴史があるからこそみんな誇りを持っていると思いますね。なんだか日本人とも似ているかもしれません」

「・・・・・なんだって?」

「え」

「日本人と?この黒人たちが?」

「え・・・・は、はい。かつての大戦で負けて、まさしく耐え難きを耐え忍び難きを忍んで来た日本の先達のご苦労と重なるような気がします」

「・・・・君はそういう思想なのか?」

「えっ」


 意味を捉えきれなくて呆然としかかった時、黒人の男の子が総理の前に駆け出して来た。


 どうやら物乞いのようだ。

 英語でない、ネイティブの言語で笑いもせずに総理にまくしたて、『おくれよ』という風に両手のひらを総理に差し出した。


「バカ!」


 日本語で男の子に総理はそう鋭く叫んで、少年の手を力任せに右手の平ではたいた。続け様にこう言った。


「僕を誰だと思ってるんだ!」


 あまりの衝撃に目を閉じたくなったけど、更なる衝撃がわたしの目の前で起きた。


「あっ!」


 総理にはたかれてバランスを崩した少年はちょうどその後ろにあった井戸の、石で組まれたその壁に後頭部を打ちつけた。


 動かなくなった少年。


 血が、栄養が足りなくてアンバランスに大きな頭から流れ出ている。


 少年は絶命していた。


 幸い、なのか、不幸なのか、わたしたちの周囲には誰もいない。


 総理と、SPと、わたしと、そして少年の亡骸があるだけ。


 総理は、口をへの字にしている。


 生きていたらへの字にしたいのは多分、少年。


 ただ、総理の顔は茶色が極めて薄くなっていて、喉仏のあたりが痙攣していた。


 左目尻も、痙攣していた。


「見るな」


 SPが言った。


 3人居るSPのひとりが、少年の亡骸の脇に両手を差し入れて、井戸に、


 落とした。


 枯れ井戸なのか、深すぎて水の音が届かないのか、数秒後に、どす、という音だけ耳に入ってきた。


「言うな」


 これをわたしに言ったのもSP。


 頷かないとわたしはもう生きていられないような気がしたので、喉の渇きで顎を上げ気味に、数ミリの動きで承諾を示した。


 その後のわたしのキャリアは分かりやすさこのうえなかった。


 赴任地はすべて危険度ランキングトップの国ばかり。


 強盗、レイプ、パンデミック、衛生不良、食料難、災害、紛争。


 つまり地獄。


 少数民族と政府間の闘争が常態となっている赴任地では、実はわたしのマンションの2フロア上のマイノリティ・リーダーの部屋がランチャーを撃ち込まれた。


 深夜、爆音で起きて泣きながら非常階段を駆け降りた時、恐ろしさよりも情けなさで地べたに両手のひらを打ち付けて泣いた、泣いた、泣いた。


 レイシストの総理。


 殺人者の総理。


 人では無い存在の総理。


 なんでわたしが。


 生き地獄をさまようのか。


 何度も外務省を辞めようと思ったけど、むしろやめて野に出た瞬間に、直接殺されるかもしれない。


 世の地獄を彷徨おうとも、あの男の手下どもに殺されるよりは、強盗や強姦魔やテロリストどもが石の裏に蠢く虫のようにわらわらと襲いくる日常の方が、まだマシだ。


 その後、わたしのドサ回りとも言える地獄行脚は5年に及んだ。周辺国への出張も含めると100か国を超えた。


 まさしく一百三十六地獄だ。


 5年経ち、在任期間が極めて長かった総理がとうとう辞任し、本省の人事もがらりと入れ替わった後、何を勘違いしたかわたしのキャリアを不当人事と見た新しい上司がわたしを日本に呼び戻した。


 怖い。


 日本に戻ったら、殺される。


「お帰り。長い駐在お疲れ様」

「補佐。どうかわたしをすぐに外地へ」

「どうして?せっかく本省に戻ったのに」

「おカネが要るんです」


 でまかせだった。

 上司は、ならば、とこれまでの不遇に報いるために昇給を打診してくれていた。


 知らないことはしあわせだ。


 一番しあわせなのは自分が明日死ぬように仕組まれているのにそれを無視してウカウカと暮らしていることだ。


 なんだ・・・・・・・全員そうじゃないか・・・・


「すみません、お話をしたいのですが」


 本省のわたしの内線に繋がれたのは女性の声だった。若くはないだろう。キーは高いが落ち着きを持つ声質。


 地獄を観たわたしだからこそ、哀しみを抱え込んだ人格だとすぐに分かった。


 庁舎の地下にある喫茶室で彼女とお茶を飲んだ。


「わたしの夫は死にました。文科省の課長補佐をしておりました」

「あ。はい・・・・・・」


 申し訳ないと思ったが、言わないと話が進まない。


 だから、言った。


「自殺なさった補佐の、奥様ですね」


 報道では顔は伏せられて手記と声にしか触れることができなかったが、白髪と肌のシミが、怒りの集大成だと思えた。


 けれども、その女性は、決して憐れみだけを持って接するべき人間ではなかった。


「あなたが、前総理のあの男に関して、決定的なことをご存知だと聞きました」


 まさか・・・・・・・

 でも、決定的、とは。

 言葉通りだろう。


 そして、この人を無視することができないという優しさと、この人からは決して逃れられないだろうという絶望から、応答した。


「どこでそれを」

「わたしは主人の死亡保険金の5,000万円全額を投じて・・・・・法に抵触する方法で、あなたのアフリカ赴任の出来事を知りました。あの男はのうのうと後の人生をまっとうするべき人間ではありません」


 理由。


「真面目な官僚だった夫に、自分の汚職を糞を隠すようにして記録の改竄・隠蔽を脅迫・恫喝し、自殺に追い込んだからです。殺してやりたい」


 彼女はもう一度反芻した。


「殺してやりたい」


 おそらくわたしがアフリカで観た出来事は、挙証することはもはや不可能だろう。5年前のことで、死んだのはおそらく最上級国民であるあの男の人生と本来ならば全く重なり合うことのない世界の最も貧しく、最も不幸で、けれども真っ先に神の救いに掬われなければならないはずの少年でしかなかったのだから。


 おそらく水はなかったであろう枯れ井戸のそこだけ柔らかい砂の上で白骨となっている少年なのだから。


 でも、そんなこと知らない。


 知ったことか。


 証拠があろうがなかろうが。

 事実をそのまま言えばいい。


 もしそれでわたしが本当に殺されたら。

 彼女が夫の自殺と、わたしの偽装自殺=抹殺を世間にぶちまけ続けるだろう。


 証拠がないと言われたとしても、石に齧り付いてでも、死を賭してあの男と刺し違えてでも、大義をまっとうするだろう。


 殺す。


 その一念でもって戦う女。


 彼女を侮る人間がいたとしたら、それはとんでもない過ちだ。


 わたしたちは公表のタイミングを極めて綿密に練りに練った。


 わたしはこれでも外交官だ。諜報の触りぐらいは経験してきた。


 しかも地獄の海外で『死』というものに隣接してきたつもりだ。


 だから彼女との接触も、最初に喫茶室で遭って以降はほぼ諜報員のそれと変わらない水準でやりとりした。


 冗談抜きで伝書鳩を使おうとしたことすらあった。


「あの男が地元の選出で落選しそうです」

「やりましょう」


 もともと人望ではなく『威圧』で選ばれ続けてきた人間だ。そしてきわめて厄介なのは、そういう人間を支持する人間たちもまた『威圧』で周囲を蹴散らす選挙戦をなすということだ。


 ある意味、『いじめの構造』ときわめて似ている。

 マイノリティを永遠にマイノリティのままにしておこうという集団。


 マジョリティの既得権益を何がなんでも手放そうとしない集団。


 けれども、風向きを異様に気に掛けて自分のその瞬間の損得をきっちりと確保しようとする、『信念』を口にしながらその信念とは絶対に自分が損な役回りには回らないという、そういう信念。


 だから、落選しそうなそのタイミングで、少年を殺したことをぶちまけようとした。


 そうすれば落選を確実にでき、落選した人間のことなど誰も救おうとしないから、わたしたちが『事実』を告げても、わたしたちの安全はかなりの確率で確保されるから。


 けど。


「前総理の根回しで一律5%の大型減税法案が可決。選挙戦に極めて有利な展開となりました」


 わたしたちはタイミングを逸した。


『強行しましょうか』

『いいえ・・・・・現職外交官のあなたにとってはリスクが高すぎます。あなたを巻き込んでおいてわたしがこう言うのも身勝手ですが・・・あなたが殺されたらわたしにはもう何の希望も残されてはいません」


 次の好機は前総理の国会招致だった。

 彼女の夫が自殺したその事件に関する一連の省内での記録改ざんに関連した説明がなされた。


 何日も何日も、彼女も取材を受けた。


 わたしは一斉に発信する文書を既に書き上げてタイミングを図っていた。


 けど。


「これで十分説明責任を果たしたと考えます」


 怒号と罵声の飛び交う国会だったけど、彼はそのまま議場を後にした。


 怒っている野党にしたって、ホンキじゃない。

 ホンキで自殺した本人のことを思っている人間はいない。


 なんでわたしは、官僚になったんだろう?


『優秀だ』と世間から一律に扱われるから?


 もう2度と『下級民』として扱われることがないから?


 いじめに、二度と遭わない職業はこれしかないって思ったから・・・・・?


 結果、わたしもそうだし、彼女もそうだし、ほとんどの娑婆を生きている人間が、いじめに遭っているも同然じゃないの?


 わたしはこの無力・無気力感を放出するために、短編小説を書いた。


 5000文字程度のまるで単なる愚痴のような文章となった。


 ・・・・・神よ、我らが正義だなどとそんな畏れ多いことは申しません。

 けれども、事実、を知る身であり、事実に基づいて日々を生きております。


 大概の人間がそうです。


 衣食足るために、死に物狂いで働かないといけないという事実。


 リアルな現場やSNSの世界で、常に誰かから危害を加えられるかもしれないという事実。


 病気になるリスクを抱える生身である事実。


 老いて、衰えて・・・・認知症となり下の世話をしてもらいながら、


 死ぬ、という事実。


 そういう事実からは誰もが逃れられないのに、ある人間は、少年の命を終わらせた、という事実を事実でなかったことにしようとしています。


 ああ、神様。


 おそらくは我らやその少年が、両天秤にかけたら軽い、羽毛のような存在なのですね・・・・・・・・・・・



『動画配信を見てください!』


 彼女から違法な通信を経路した連絡が、深夜に入った。


 彼女が指定するアカウントにアップされた動画は、単なるフォロワーが極端に少ない投稿者の深夜の暇潰しのための動画に見えた。


 ほんの数分前にアップされたばかりの動画。


 雪が降りそうな寒い夜の、おそらくはコインパーキング。


 スーツの上に黒いコートを羽織った男が、駐車場の隅で、股間をまさぐっている。


 放尿していた。


 その男の背後から二人の警官が歩いてきた。注意するのだろう。


 男は泥酔しているようで、まだ放出が終わらない内に話しかけられたことに怒ったのか、警官の手をはたいた。


 手を、はたいた。


「あっ!」


 間違いない。

 前総理だった。


 わたしは間髪入れずに、アフリカの、わたしが違法な経緯を使って調べだしておいた、その少年の兄にDMした。


‘Go ahead’


 辛抱強く復讐のタイミングを待っていた少年の兄はわたしのデータを、一斉にSNSで配信した。


 全世界に。


 警官がふたりとも若く、原理原則通り、『市民の奉仕者』として前総理に・・・もちろんそうだと知りもせずに・・・・毅然として公務執行妨害を適用して即座にパトカーに乗せてしまったことが、ほとんど奇跡だったろう。


 彼が交番に拘束されているのはほんの数分で、SPたちがほとんど若い警官を恫喝するようにして彼を奪還してしまったが、その数分間に、アフリカで復讐に燃え続けていた少年の兄は、神速で『事実』を知らしめた。


『前総理は5年前、俺の弟を殺した』


 立小便。


 ただ、これだけのことで、彼は生きながら死ぬのと同じ状況となった。


 生きながら地獄に堕ちた。


 それから更に5年も経ってから彼女が、今度はきちんと別の明るいカフェでわたしに面と向かってこう言った。


「あの男は、立小便する時に、神仏を念じなかったんでしょう」

「えっ」

「わたしの死んだ祖母が言っていました。道端にも座っておられて人間を守り通しなのだと。だから、もし止むを得ず野外で用を足すことがあれば『神仏よ、申し訳ございません』と唱えてからするようにと」


 だから彼はこうなってしまったのかどうかは分からない。


 けど、もしもこの最後の、盲亀浮木のごとくあり得ぬタイミングに向けて『事実』を告げるためにそれまでの好機が敢えて潰されていたのだとしたら。


 それが学者たちの浅知恵やAI程度の浅瀬の所業でなく、神仏のあまりにも緻密すぎてまるで行き当たりばったりにしか見えない、けれども、わたしの脳のニューロンの接触がほんの微細に一瞬ずれただけでも成し遂げられないことだったとしたら・・・・・・


 わたしは彼らどもなど恐れることができない。


 ただただ、神仏を畏怖するのみ。






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