3.さよなら、
一週間も一緒にいると愛情が沸くらしく、私はすっかりゾグワンタを受け入れてしまっている。でも、うるさく言わないお母さんの代わりに、ゾグワンタがしつこくつきまとってくるのだ。
「今日も学校へ行かないのかい?」
「勉強はしてるよ」
「そういう問題ではなかろうに」
「じゃあ、どういう問題?」
私はとぼけて机から離れ、キッチンでお茶を淹れて戻ってきた。
「ところで私、思ったの。パジャマポケットって必要だったよ。だって使用用途がなくても、あるかないかで見た目が全然違うもんね」
ゾグワンタは私のベッドの上でのさばりながらちらりと目を上げた。
「むかしむかしの話。病弱で、入退院を繰り返していた人間に出会ったことがある。パジャマのポケットに、煙草やライター、チョコレート、キャンディ、小銭を隠していてね。あたしにこう言ったのさ。ここには望めばどんなものでも仕込むことができるし、反対に、しまえばなかったことにもできるんだって。パジャマのポケットには魔法が働いているとあたしは思ったのさ。お前から奪ったのはそういう理由さ」
「もしかして、今の話は布石? 望めばどんなことでも叶えてくれるっていうこと?」
「一体全体、どう捉えたらそうなるのさ。お前の頭のなかにはお花畑があるのかい?」
ゾグワンタはあくびをして立ち上がり、伸びをする。玄関のチャイムが鳴ったのは、まさにその時のことだった。
ドアアイを覗いたら、東川先生が立っていた。私はびっくりして、パジャマのまま扉を開けてしまった。
「おはよう、外はいいお天気ですよ」
東川先生は歌うように述べて、手に提げていた風呂敷包みを私に渡してきた。
「これ、直しておきました。時間がかかってしまったけれど、我ながら完璧にできたんですよ」
わけもわからず受け取り、お礼を言う。先生は小首をかしげ、癖のある笑みを浮かべた。
「お友達のことだけれど、今度会ったら、ちゃんと対話をしてみてください。きっとお互いに誤解していることがあるんですよ。人は誤解し合う生き物ですから」
先生に愛莉のことを話した記憶はない。どう答えたらいいのかわからなくて、私は口ごもる。先生は、「それじゃあ、次の登校日にまたお会いしましょう」と爽やかに告げて帰っていった。
風呂敷を解くと、中身は私のキャンバスだった。切り裂かれてしまった傷が、まるで魔法を施されたかのように、きれいに消えていた。一体どうやって修復したのだろう。
「ねえ見てよ、ゾグワンタ。東川先生がこんなに上手に直してくれたの。すごいよね」
ゾグワンタは私の机の上に移動していて、黒い本の傍らでしっぽをぴんと扇状に伸ばしていた。無意識に数えたら九本だった。一本増えている。新しく生えてきたのだろうか。
「お別れの時間だ」と、ゾグワンタは唐突に声を震わせた。空耳かと思ったけれど、彼女は世の中の理を達観したみたいな眼差しで私に言ったのだ。「さよなら」と。
まばたきをしたら、ゾグワンタは本ごと姿を消していた。
冗談だと思いたくて家中を探したけれど、どこにも彼女は見当たらなかった。
「まだ私の願い事、叶えてもらってないのに……」
ほんのひと目でもおばあちゃんに会わせてもらえるとか、みんなが私にやさしくしてくれるとか。ううん、そうじゃない。できることなら、ゾグワンタにそばにいてほしかった。もう一度彼女に会いたい。幻だったなんて思いたくない――。
泣きながら寝てしまったらしい。仕事から帰ってきたお母さんに起こされてキッチンに行くと、遊びに来たおばが夕飯を食べていた。おばは味噌汁をすすると、改まって切り出した。
「今日来たのはね、あの本を返してほしいからなの。望結のところにあるわよね」
「あの本って……?」
おばはこほんともっともらしく咳払いをして声のトーンを落とした。「猫が出てきたって話していたわよね。実はあの本には、魔法使いが閉じ込められているんですって。堅物一辺倒四十五年の主人が言うんだから本物よ。なんでもお義母さんから聞いていたそうよ。これは特に取り扱い注意な物だから、誰の手にも渡してはいけないって」
「そうだったんですね……。でもごめんなさい。もう本は消えてしまったんです」
「消えてしまったって、まさか……」
おばは味噌汁をすっかり飲み干して喉をうるおし、口を開いた。「猫のしっぽは何本だった?」
「出会った時は八本でしたが、最後は九本になっていました」
おばは大きなため息をついて頭を抱えた。
「大変。最後の力が使われてしまったんだわ」
「どういうことなんですか?」
「本の魔女は変身する度にしっぽが増えていくらしいの。だけどそれも九回まで。望結が九本のしっぽを見たということは、ちょうど最後の変身を終えたところだったんだわ」
「午前中に保健の先生が家を訪ねてきたんです。変だなとは思っていました。もしかして先生に変身したのかも……」
ゾグワンタは東川先生に変身して学校へ出入りし、私のキャンバスを直してくれたのかもしれない。私に勇気を与えるために。
お母さんはつぶやいた。
「もしそうなら、本の最後の力が望結に使われてよかったわ。きっと、ちょっと早めのクリスマスプレゼントだったのよ。望結はおばあちゃんに可愛がられていたものね」
目頭が熱くなって、私は席を立った。心のなかでお母さん、ありがとうとつぶやく。お母さんはちゃんと私のことを見ていてくれたのだ。どうして今まで気付けなかったのだろう。私はたぶん、相当な損をしてしまった。でも気づきをもらえたから、これからはもっと丁寧に向き合いたい。こう思えるのは、ゾグワンタのおかげだ。
おばを見送り、部屋に戻って気が付いた。パジャマの胸ポケットが定位置に戻っていたのだ。かすかに残るゼラニウムの香り。私はしばらくの間、奇跡の余韻に浸っていた。
終わり
さよなら私のパジャマポケット もものはな @hananomomo
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