2.ゾグワンタと私
夜九時。珍しくお母さんは、長電話をしている。相手はおばらしい。私に気を遣っているみたいで、時折こちらを盗み見ては笑っているのがわかったので、私は憤まんやるかたなく自室にこもることにした。
扉を開けた瞬間に悟った。昼間、嗅いだあの花――多分ゼラニウムの香り――が、どこからともなく漂ってきていたからだ。嫌な予感をありありと感じながら扉を閉める。するとベッドの下から昼間遭遇した黒猫がするりと出てきて体勢を整えたのだ。
私は緊張を高まらせながら黒猫と対峙した。戦うことになったらどうしよう。にんにく、十字架、日光? どれも今すぐ手に入れられるものではない。困っていると、黒猫はあからさまに顔をしかめた。
「いやはや、こんな小娘と契約させられるとはね。つくづくついてないよ、あたしは」
膝は震えていたけれど、昼間ほどじゃない。私は自らを励ましながら、がらがら声の自称魔女に向かい、質問した。
「どうやってここまでついてきたの? 契約って? そもそも本当に魔女なの?」
黒猫は片眉だけつり上げ、目を見張る。
「おや、興味を持ったのかい。ならば教えてやろう。あたしは稀代の大魔法使い、ゾグワンタさ。ついてくるもなにも、あの本の表紙が解読できたということは、魔法の道が開かれたということ。契約はその時点で交わされたのさ」
「ゾグワンタ、さん? 帰っていただくことはできませんか?」
「帰れるものならそうしている。それができぬから仕方なくここにいるのだ。本に閉じ込められた時から、あたしには拒否権などない。こうして外へ出てくるまで、契約者がどんな人間なのかさえ知りえないのだ。気の毒だと思ったかい? ああそうだよ、あたしなんてどうせ歴史から忘れ去られた稀代の大魔法使いさ。お国が変われば無名も同然。今やこうして猫の姿を保っているのがやっとのババアだよ。わかっちゃいたけど、随分落ちぶれたもんだね。フフフ……」
どうやらクーリングオフはできなさそうだ。普通の猫ならまだしも、ゾグワンタの声も表情もひたすら恐ろしいので、ただここから立ち去ってもらいたい一心で私は共感するふりをした。
「ゾグワンタさんにはゾグワンタさんの事情があるということですね」
「そうだよ。だからさっさとあんたとの契約を解除して、次へ行きたいのさ」
「そういうことなら私が許可します」
「無理だね。願いを叶えなけりゃ解除はできない」
「そう言われても、願い事なんて、すぐ言葉にできるものではないですよ……」
濃密に圧縮されたゼラニウムの香りが、霧のごとく部屋のなかで充満していた。まともな思考力は低下。するとなぜかもう一人の私が現れ、勝手に私の声帯を操り始めた。
「大魔法使いとか冗談でしょ? どう見たって野良猫じゃない。ウケる~」
ゾグワンタはきいっと目を吊り上げ、八本のしっぽを扇風機の羽みたいにぶんぶん振り回して激高した。
「ふざけた小娘よ。契約の代償にこうしてくれるわ!」
雷鳴が轟き、部屋中をまばゆい光が覆った。そこから先の記憶はない。気がついたら、朝だったのだ。
お母さんに起こされるより前に目を覚ました私は、しばらくの間、ベッドの上で放心状態だった。昨日の出来事を少しずつ反芻しながら、ひょっとして夢を見ていたんじゃないかと考えている。でも机の上にはちゃんと黒い表紙の本があって、やっぱり夢じゃなかったのだと悟った時、急に現実が重くのしかかってくるのだった。
不本意にも魔女と契約してしまったなんて一体、誰が信じるだろう。お母さんもおばさんも、きっと真面目に取り合ってくれない。それならいつも相談に乗ってくれる保健の東川先生は? カレンダーを見たら、次の登校日は明後日だった。でもそれまで待つなんて無理。我慢できそうにない。
私はベランダで洗濯物を干していたお母さんに、「今日、学校行くから」と宣言した。お母さんは、「そう、じゃあ、一緒にごはん食べようね」とほほえんだ。もっと驚くと思ったのに、紙みたいに薄っぺらい返答である。期待するだけ無駄なのに、いつも別のなにかを期待してもやもやする。思春期なのだろうか。
お母さんの代わりにコーヒーをドリップしたけれど、うまくゆかなくて、苦いだけになってしまった。それでもお母さんはおいしいと言う。気まずいので、さっさと登校することにした。異変に気づいたのは、制服に着替えた後のこと。パジャマのポケットが、跡形もなく消えていたのだ。まさかとは思うけれど、契約の代償に奪われた、なんてことがあるのだろうか。だとしたら、相当な変わり者だ。
十二月の朝は凍えるほど寒くて、途中、何度も家に引き返したい衝動に駆られたけれど、結局、学校の敷地に入ってしまった。私は覚悟を決めて、早めに登校してきた生徒の間を走って通り抜けた。
上履きが入った靴箱を、祈りながら開ける。と、そこには、やっぱりというか、なかった。私の上履きは、大体の確率で、生徒用玄関の隅っこにある傘立ての上に、まるで私自身が望んでそうしたかのように置かれている。それ以外のことは今のところ起きていない。だから先生にも、話していない。どうして学校へ来ないのか聞かれても、どうしてもと答えて保健室へ登校するだけで、せめてクラス替えがあるまではと、このスタイルを貫くつもりだ。
上履きを回収した私は、まっすぐ保健室へと向かう。いつの間にか隣を並走していたゾグワンタに、私は前を向いたまま話しかけた。
「パジャマのポケットがなくなってた。あれってあなたのせい?」
「さあね」
「なにに使うの? あんな小さいポケット」
「別になんでもいいだろう。それより」と、黒猫は続けた。「この先は保健室だ。どこか具合が悪いのかい?」
「そうだね。悪いのかも」と答えて、たどり着いた保健室の扉を叩く。でも、返答はなかった。まだ先生が来ていないのかもしれない。壁にもたれながらうなだれると、ゾグワンタは私の足元に立ち、つんとすました顔で私を見上げた。
「教室へ行くよ、望結」
どうして私の名前を知っているのだろう。魔女だから、全部お見通しなのだろうか。私は投げやりになりながら言った。
「私の席なんて、ないも同然だよ」
「それなら帰るのかい?」
「帰れない。お母さんだってきっと期待してる。このまま通学できるようになってくれたらって望んでいるに決まってる」
ゾグワンタはしばらくの間、かわいらしく小首をかしげていた。やがてするりと私が気にしていることを並べ立てた。
「お前は誰のために学校へ来ているんだ。母親のためか? 違うだろう。やりたいことができると思ったからここを選んだんだ。どうして途中であきらめるのさ。横槍が入ったから? お前の夢とは、そんなもので潰えるほどヤワだったのかい」
「あなたに私のなにがわかるって言うの?」
「あたしは魔女だよ。お前の過去を見ることなどお安い御用なのさ」
ごまかすことさえ辛くて、私は黙り込む。脳裏には、忘れたい過去の出来事が否応なく再生され始めた。
愛莉と私は同じ美術部に入ったことで仲良くなった。クラスメイトではあったけれど、一度も話したことがないくらい接点がなかったのだ。でも一学期が終わる頃には、誰よりも一緒にいる時間が長くなっていたのだった。
夏休み、待ち合わせをしたファストフード店で彼女は私に訊ねた。
「望結は、どうして美術部に入ったの?」
「夢があったから」
「夢?」
「ちょっと長くなるけど、聞いてくれる?」
私は、思い出のなかにあるおばあちゃんの家の庭をキャンバスに残したいことを話した。おばあちゃんと約束したからだ。いつかプレゼントするから、と。
愛莉は涙を浮かべながら耳を傾けていてくれた。恥ずかしくて誰にも打ち明けられなかったから、ものすごく嬉しかった。
なのに彼女は、クラスの女子だけのグループメールに、こう流したのだ。
『自分語り女の相手って、ほんと疲れるよね~』と。
私はあえて返事をしなかった。自分のことだと認めたくなかったからだ。そして、ひたすら夏休みの課題に集中した。
最初に上履きを隠されたのは、九月上旬。初めは、誰かが間違えて取り出してしまい、あわてて隅っこに置いたのだろうと思っていた。でも、同じことが何度か続き、さすがにおかしいと感じ始めた。もしかしたらではなく、私を標的にした嫌がらせが行われているのだということに気が付いた。
真っ先に疑ったのは愛莉だった。一方通行の連絡、夏休みが明けてからのそっけなさが、すべてを物語っているようだった。私も意識的に彼女を避けるようになった。友達は他にもいたし、別に彼女がいなくても平気だと思うようになっていた。
そして十月。梅雨の頃に私が描いた紫陽花の絵が、地域の美術コンクールで入賞すると、愛莉は私をそこにいない人間として扱うようになった。すれ違っても無視。授業で同じグループになっても、絶対に話しかけてこなかった。
疑いが確信に変わった時、事件は起こった。美術準備室に置いていた描きかけのキャンバスがカッターで切り裂かれていたのだ。美術部員のキャンバスは他にもたくさんあったのに、私のものだけ。愛莉が犯人だと思った次の瞬間、過呼吸になって、私はその場にうずくまった。他の美術部員に付き添われながら保健室にたどり着いた。保健の東川先生はひだまりのようにとてもあたたかくて、そのやさしさが胸に染みた。もう学校には来られないと思ったけれど、東川先生がいるから、完全な不登校にはなりきれなかったのだ――。
「堂々としていればいいのさ」と、ゾグワンタがささやいた。「お前は悪くない。いざとなればあたしが魔法でなんとかしてやるから」
「猫連れの生徒なんて見たことないよ」
「心配ご無用。あたしの姿はお前にしか見えない。お守り代わりだと思えばいいのさ」
私は無言のままゾグワンタを見つめた。目も耳も口も垂れ下がった、お世辞にもかわいいとは言えない黒猫。本人曰く、大魔法使いなのだと言う。私は当てが外れてボロボロだった。だからこの際、騙されてもいいような気がした。
「本当にそばにいてくれる? 放課後までずっと?」
「放課後には、保健の東川先生に相談に行くんだろう? 悪魔と契約をしてしまったかもしれないとね」
「悪魔だなんて思ってない。それにもう、相談しなくていいよ……」
私は口のなかでもごもごと答えながら前方に目を向ける。と、そこに、愛莉がいた。愛莉は目を丸くしながらこう言った。
「へえ、学校、来られるんだ」
私は、逃げるようにその場から立ち去った。
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