さよなら私のパジャマポケット

いちいおと

1.封印が解かれた日

 眠れない夜は、ベッドを這い出して、ベランダから空を眺める。星のまたたきは私に抜群の睡眠効果をもたらすらしく、朝、お母さんが起こしにくる時はいつも布団のなかから返事をするのだった。自分でも不思議。いつベッドに戻っているのだろう。


「望結、学校は?」


 お母さんの声が私を揺すり、間もなく私は夢の深海旅行からゆっくりと浮上する。そして私はこう答える。「無理」と。


 するとお母さんは、怒ったりなだめたりせず、やさしく促すのだ。


「コーヒー淹れるから。一緒に飲みましょう」


 足音が遠のくと、ようやく半身を起こす。薄いレースのカーテン越しに、今日も朝がやってきたことを確かめて、それからやっと動き出すことができるようになる。


「おはよう」と交わさなくなった二ヶ月前からのルーティーンで、私はダイニングテーブルの椅子に座って、お母さんが目の前でドリップするコーヒーを、ただ見ている。最初のお湯を注いだ時、立ち上るかぐわしい香りが好き。この上ない多幸感に包まれ、今日も頑張ろうと思えるのだ。なのに、どうしても、学校へは行けない。正確に言うと、教室に入れない。だからたまに保健室登校して、先生から出された課題をこなして、テストもそこで受ける。誰にも会わないように気をつけながら裏門を出て、帰途に着く。時々は思う。こんな高校生活を送るつもりじゃなかったのに、と。でも、仕方ないとも思っている。解決方法が分かっていたら、ぐだぐだ悩んだりしない。きっととっくに登校している。


「はい、どうぞ」


「うん、ありがとう」


 目の前に差し出されたミルクたっぷりのコーヒー。カップに口をつけていると、ふいにおばあちゃんの言葉が頭のなかをよぎった。


「迷路に迷い込んで心がざわめいたら、気持ちがあたたかくなることを考えるの。なんでもいいのよ。好きな香り、好きなもの。思い浮かべるだけで幸せを感じられたら、ゆっくり深呼吸。それから、どうしたらいいか選ぶの。大丈夫。未来は無限大に広がっているのだからね。焦らなくていいのよ」


 おばあちゃんは、半年前に亡くなった。私のことは、五人いる孫のなかで一番、可愛がってくれた。いとこからは、単純に家が近くてしょっちゅう行き来しているからだと言われたけれど、それはやきもちから出た台詞だと私は思っている。これは私のなかでの確定事項で、自信もあった。もし勘違いだとしても、私はおばあちゃんのことが好きだったのだから、別に片想いでも構わない。楽しかった思い出は、胸のなかで、ずっとこの先も生き続けるだろう。


 そんなことを考えていたせいか、「今日は仕事を休んで、おばあちゃんちに行こうと思うのよ」と、お母さんが切り出した時は、本当に驚いた。飲んでいたコーヒーを吹き出してしまうところだった。


 おばあちゃんは、小さな平屋のアメリカンハウスに住んでいた。今は誰も住んでいないけれど、おじが管理していると聞いている。まさか取り壊すことになったのだろうか。


「片付けでもするの?」


「形見分けをしてからね」


「家は?」


「あちこち傷んでいるし、そろそろ解体するんじゃないかしら」


「それならお母さんと私が引っ越そうよ」


「リフォーム代だって、ばかにならないのよ。税金とか諸々のことを考えると、あまり現実的じゃないわね」


 お金のことを言われてしまうと、私に返せる言葉はなかった。私は意を決して言った。


「形見分けだったら、私も行く。私もなにか欲しい」


 お母さんは少し考えてからうなづいた。


「わかったわ。じゃあ、三十分後に出かけるから、そのつもりで支度してね」


「私にできそうもないことを言って、あきらめさせようとしてるの?」


 お母さんは答えない。さらりと笑って流すだけ。だから私は、保健室登校する時よりすばやく顔を洗って髪を整えて、ふいに同級生と出くわしてしまっても恥ずかしくない服に着替えた。


 少しは褒めてくれてもいいのに、お母さんは相変わらず口数が少なくて、必要最低限のことしか話したがらない。バスも離れた席に座ったから、たぶん誰にも、親子だと思われないかもしれない。時々私は思う。本当のお母さんは別にいるんじゃないか、と。そのくらい淡白で、理解し難い人物なのだ。


 車窓の外にイチョウ並木が見え始めると、急に開けた住宅地が現れた。そこから二つ先の古ぼけたバス停で降りて、大きな一軒家の前を通り、だだっ広い梨園の間にある細い道をとぼとぼ歩いていった先に、おばあちゃんの家がある。まず視界に飛び込んでくるのは、草むしりしなくても整ったハーブの庭。背の高いもの、低いものが適材適所でのびのびと育っている。私がおばあちゃんのことを好きだったのは、この庭のせいかもしれなかった。庭には四季があって、四季は私に、美しさや儚さを教えてくれた。おばあちゃんとの思い出の背景には、いつも必ず庭があるのだ。


 家にはおばが来ていた。おばはとても明るくて気さくな人なのだけれど、いささかおしゃべり好きなのがたまにきず。私たち親子を盛大に迎え入れると、さっそくお母さんをリビングに連れて行ってしまった。今日学校はどうしたの、とか聞かれたらちょっと面倒なので、私は一人、書斎に行くことにした。


 おばあちゃんの書斎には、洋書がたくさん並んでいるのだ。読めなくても、挿絵を追うだけでよかった。訪れる度にこもっては、時間を忘れて入り浸ったものだった。だからいつもとは違う香りが鼻腔をくすぐった時、好奇心よりも不信感が先立ってしまった。決して不快ではない、むしろ、繊細で甘やかな花の香り。私は動物になったつもりで嗅覚を働かせて、香りの発生源を探した。それはすぐに見つかった。背伸びして届いた一冊の本を手に取って、まじまじと観察した。


 真っ黒でぼろぼろになった表紙には、りんごが転がったり杖が傾いたりしているような金色の文字列が並んでいる。とても怪しげではあるけれど、どうしてこんなにいい匂いがするのだろうと、夢うつつで表紙をめくった。


 そこには、花のイラストが描かれていた。おばあちゃんの庭でも見かけたことがある花だけど、どうしても名前が思い出せない。悩んでいるうちに、初めは微かだった香りがどんどん強くなっていった。すると私の頭のなかに、とてもこの世のものとは思えないおぞましい声が響いたのだ。


「本の表紙を読め! そしてあたしを解き放つのだ!」


 いつの間にか書斎は真っ暗闇に包まれていた。かろうじて立っているけれど、一歩でも踏み出したら、ここから抜け出せなくなりそうで恐ろしい。姿を現さない何者かは、またもや私の頭のなかに呼びかけてきた。


「早くしろ! さもなければ魂ごとお前を食ってしまうぞ!」


 抗い難い強い声色である。私はあわてて目線を本に落とした。周囲は真っ暗闇なのに、なぜか手元だけ照明を当てたように明るくなっていた。私は無我夢中で未知の領域にあったはずの文字列を声に出して読んだ。


「赤いゼラニウムが一輪咲いた。花言葉は、『君ありて幸せ』」


 プワンという漫画みたいな効果音が流れたかと思うと、唐突に室内が昼間の明るさを取り戻した。力なくその場に腰を下ろした私の前には、件の本と、真っ黒な猫がちょこんと座っていた。普通の黒猫じゃないことは、一目でわかった。蛇のように長いしっぽが何本もあったからだ。怯えながら数えると、八本もあった。猫の妖怪かもしれないと思っていたら、黒猫はすっと目を細め、口を開いた。


「あたしは西洋の魔女だよ。見てわからないのかい。困った娘だね」


 聞き間違いではない。黒猫は、つい先ほど私の頭のなかに呼びかけてきた何者かの正体だったのだ。


 私はありったけの悲鳴を上げて後ずさる。黒猫はにやにやしながらモデル歩きで近づいてきた。寄りかかった出入口の扉は、なんの前触れもなく突然向こう側に開いた。お母さんが助けにきてくれたのだ。私は顔を見るなり飛びついて、必死に訴えた。


「本棚の本から猫が出てきて喋ったの! お前の魂を食べちゃうぞ、って!」


「本って、この本?」


 書斎に入ってきたおばが、床でひっくり返っていた黒表紙の本を拾い上げる。猫はいなくなっていたけれど、私はぎゃあぎゃあ騒ぎ立てた。


「それ、呪われてますから! すぐ本棚に戻してください!」


「はいはい、わかりました」


 おばはくすくす笑いながら棚に戻して言った。


「まだまだお子様なのね、望結ちゃんは」


 一刻も早く立ち去りたくて、私はなぜか嬉しそうに渋るお母さんの手を引いて、急いで自宅へ帰ったのだった。

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