第4話 名前
神雄は最先端の改造手術を施されていて、神雄が先生と呼んでいたあの町医者は、神雄の肉体改造を行った張本人だった。
町医者――
そう、肉体改造を施した者は定期的なメンテナンスを要する。わたしは神雄と行動を共にするようになってから、新たな担当医の世話になった。その担当医――
しかし、飯田は生前の穀造から既に事情を聞いており、秘密を厳守すると言った。飯田は穀造の愛弟子だったそうで、穀造の意向には必ず沿うと念を押される。ここに来て、穀造がわたしの今後の生活に至るまで様々な面で工面していたのだと知った。
神雄は、わたしが穀造の孫娘だという話を信じていたらしい。恩人に報いるためにも、わたしを命がけで守ってやると言ってのけた。助けられなかった穀造の代わりだと言いたげな節もある。
これはわたしにとっては好都合であるが、わたしは正体を猶更隠し続けねばならない。もし、わたしが『
神雄とわたしは敵対組織に顔を知られてしまっている。それ故に、常に行動を共にするパートナーの関係となっていた。わたしが常人よりも優れた身体能力を持っている件に関しては、佐岩穀造が護身のためにわたしにも肉体改造を施したという内容を神雄に伝えていたらしく、神雄も納得していた。
ある日の午後。神雄は単独で敵の要塞に潜入し、この任務には付いては来れないという判断により、わたしは廃校となっていた近隣の中学校の教室で待機させられていた。
入り込んでくる朱色の日差しを吸収し、空気はほのかな熱気を含んでいた。窓から見える空の赤みが徐々に増していき、わたしは何時か見た風景を思い出す。ただ、荒廃した街並みを染める色彩は、血を連想させた。
不安だった。神雄は同じ人間とは思えないほどの存在だったし、今までどんな危険な任地へ向かっても敵に壊滅的な打撃を与えたうえで生還してのけた猛者だ。それでも、かつての『
これまでの戦闘で、わたしと神雄が死線ギリギリのラインまで追い詰められたのは一度や二度ではない。そして、敵の勢力はますます増大しており、強力な爆弾が投下されて、首都が壊滅したのも数か月前の話だ。
あの男が心配……という実感は湧かなかった。神雄が死ねば、今後、わたしが生き延びる道が絶たれるのは明白だ。多分、わたしはそれを恐れているのだろうけど、何故か、いつも通りに無事に戻って来た時のあの男の顔が、差し込む陽の光で焼きつけられたかのように、脳裡から離れなかった。
考えていても仕方がない。ぼんやりと、乱雑に置かれた机や椅子を見やる。黒板の隅には白い板状の日程表があり、六月の日付だけは青いマジックで記され、あとは空欄であった。見ているうちに、頭の中で誰かの悲鳴が木霊し、思わず自分の耳を抑える。わたしが……中学生だった頃の、自分自身の悲鳴だった。
どうにも落ち着かない。じっとしているのは自分の性分ではないんだ。わたしは意味もなく教室の中をぶらぶらと歩き回り、そのままの足取りで廊下に出た。学校からは出ないように言われているが、暇つぶしがてらに校内を歩くくらいは良いだろう。
外履きで歩く廊下には土埃が散乱し、手入れをするものが居ない壁沿いの至る所には蜘蛛の巣が蔓延っていた。空気もよどんでおり、大きく息を吸えばむせかえってしまいそうだ。
自在箒で廊下の中央に埃を集め、塵取りを使ってまとめて取り除く……そんな、何気ない日常の一コマが、今となっては遠い過去の出来事。同じ日常がいつまでも続くはずはないとわかった気になっていながら、全く実感を持てずにいたあの頃。
何の物か不明な茶色い染みで汚れた階段を下りながら、昔の日常を反芻していく。始業間近になって階段を駆け上がっていく生徒たち。わたしの横を通り過ぎていくのは、過去の幻視だ。何もかも、動いていく。昔も、これからも。
二階に下り、目についた職員室の戸に手をかける。鍵は掛かっていない。生徒が自由に出入りするのは許されていなかった空間に踏み入る。出迎えたのは、相変わらずの薄汚れた一室で、何故こんな場所に入ったのだろうかと、答えのない疑念が頭に浮かぶ。
張り詰めた空気。咄嗟に感じた己の緊張。わたしの身体の奥に、鈍く冷たい血流が流れ込む。震え。何か、凄く嫌な予感がする。
ガシャンと音を立てて窓が割れ飛んだ時、わたしは既に身構えていた。敵? 投げ込まれたのは、突起のついた鉛色の旧型の物体。それには見覚えがあった。
毒ガス弾だ。わたしは急いで引き返し、職員室から駆け出そうとした。途端に、これまで気配を殺していた戦闘員たちがどっと押し寄せてくる。皆、防護服とガスマスクを着用している。
背後でガスが噴出する。時間がない。銃口を向けようとする相手の腹の辺りまでかがみ込み、正面からぶつかっていく。男のものと思しき「ぎゃっ」という声が響き、相手はあっけなく押し倒された。
そのまま職員室を出て、廊下を走りながらホルスターから銃を引き抜き、迫る敵に向かって三、四発と発砲。潰れかかったカエルのような断末魔の声が廊下に反響した。
先の戦闘員はおそらく経験も浅く、強化手術を受けていない連中だ。とはいえ、隠れ場所を敵に知られている今となっては、校内にいる限りは敵の術中にはまっていると見ていい。急いで脱出しなければならなかった。
階段を駆け下りる。まるで門限前の駆け込みだ。眼下には一階の廊下が間近に迫っている。
発砲音。わたしのものではない……そう思ったところで、太ももの辺りから激痛が奔った。
段差を転げ落ち、硬い床に倒れ伏す。急いで起き上がろうとしたところで、再度銃声が響き、今度は左の肩を撃ち抜かれた。
体内に入り込んだ鉛が分裂し、肉を抉る。凡人であれば死は免れない。改造を受けたこの身であっても、まともに動ける状態ではなかった。
神雄であれば、こんなもの軽くかわしていただろうな――床に這いつくばったまま、痛みに耐えるだけで精一杯なわたしの頭の片隅で、そんな思考が通り過ぎていく。
こつこつこつ……と、前方から足早に近づいてくる人影。その人物は、わたしの眼前で立ち止まり、わたしの全身をなめ回すような視線を向けた。マスクに隠された素顔は見えない。
「お前……やっぱり、そうなんだ」
くぐもった声。女性のものだろうか? その疑問は、相手が自らのガスマスクを片手ではぎ取ったことで、氷解する。
まだ幼さを残した少女の顔。この学校の生徒であっても不思議でないくらいの年齢かもしれない。だが、この世の裏表を知った者の冷めた目を有していた。
でも……それよりも、もっと大事なことが。この少女。誰かの面影。
少女は懐からナイフを取り出す。あれで動けないわたしを刺し殺す――神雄に拘束された時、胸に突きつけられた刃の痛みが蘇ってくる。
少女はわたしの髪を掴み、頭を引っ張り上げると、喉元にナイフを突きつけた。わたしはもうこの時点で助かる見込みなどないと悟ったが、不思議と恐怖は湧いてこなかった。巡り巡った狂気の渦が、ようやくここに終着する。わたしは、生き延びようとすることに、疲れていたのかもしれなかった。
少女のナイフが首の喉仏の辺りを傷つける。何故、一思いに貫かないのだろう? ……少女の手は震えていた。
「最期まで、気づいてくれないんだ」
どこか寂しげな声。
朱色の空、一人の幼女が呟く。
『お姉ちゃん、最後まで見送ってくれないんだ……』
嫌がっていた幼女は両親に連れられ、紅色に染まった空の下を歩いていく。その後ろ姿を、生垣の影から見守る、わたし。
今、この瞬間と過去の情景がダブった。わたしは相手の正体を、はっきりと思い出す。
「まゆ……」
刃と接する喉から絞り出した声。相手の息を飲む気配がはっきりと感じられた。
「……そうだよ、お姉ちゃん」
真夕。わたしの妹の名前。彼女は、わたしを見捨てた両親に連れていかれ、北の――東北のどこかと聞いているが――の地域へと、武力組織のテロ行為から逃れるために疎開していった。
真夕。わたしと別れたのが、真夕が小学校に入学して間もない頃であったから、今は中学三年生か。以前なら義務教育のはずだけど、この時世、学校に通えない子供は珍しくもない。
いや、そんなことよりも。わたしは聞きださなければならなかった。
「どうして……真夕が、『
真夕は暫しの間、わたしの問いに応えることを躊躇っている様子であった。だが、意を決したのか、彼女は語り出す。
「北の向こうでもね、武力蜂起があったの。お父さんは仕事先でテロに巻き込まれて死んじゃった。お母さんは人質にとられて……わたしは」
真夕は母と己の身の安全と引き換えに、『
「守るものが自分の命一つになっちゃった。……それでも、わたしは、生きたかった。だって……家族を見捨てたお姉ちゃんにはわからないだろうけど、わたしはお母さんとお父さんがこの世に生きた証だから……ね」
口を挟みたかったが、何も言えない。わたしには、言うだけの度胸もない。
「そして……正式な戦闘員として認められるために、絶対の忠誠を示せ、そう言われた。この任務をやり遂げればそれで良いって」
真夕に命じられたのは、実の姉の抹殺だった。つまり、組織の裏切り者の始末と、唯一残された家族との訣別により、『
「だから……せめて、最期は家族のために……お姉ちゃん、死んで」
もう抵抗する気も失せていた。瞳を閉じ、朱の中に消えて行こう。そう思った。
暫しの時間が流れた。妹の手は決意の力を込めることすらできずに震えていた。負傷しているとはいえ、強化手術を受けているわたしの力を以てすれば、振りほどくこともできそうだった。
「おい。いつまで、時間をかけているんだ?」
それまで遠巻きに眺めていた数人の戦闘員の内の一人が、痺れを切らした様子で言う。
「今やる、今」
真夕が力強くナイフを握りしめる。
……終わりなんだ、わたし。そう思った、刹那。
たーん、と甲高い音が響いた。真夕が咄嗟にわたしから身を離し、左右を見渡す。廊下の向こうから怒声と悲鳴の入り混じった若者たちの声が反響してきた。
武装した若者たちが駆けてくる。その表情には、鬼気迫るものがあった。そして、数発の銃声。響いた音の数だけ、バタバタと倒れていく。皆、頭を撃ち抜かれており、未来ある生徒たちが行き来していた廊下を、未来を奪われた若者たちの血が流れていく。
「奴だ。奴が来た……」
言い終わらないうちに、撃ち倒される者。真夕は怯えの色を露わにし、わたしの上体を掴んで引き起こした。
要塞の攻略を終えたのか、あるいは情報の漏洩を知ったのか。何れにしても、予想よりも遥かに速い、神雄の帰還だった。
「う、動くな。動いたら、こいつを……」
わたしの喉元にナイフを突きつけたまま、ガタガタと震えている真夕。対峙している神雄が脳天を狙っていると察し、頭部をわたしの顔で守っている。
駄目だ、そんなんじゃ、この男を止めるなんてできっこない。……案の定、神雄の目覚ましい銃捌きは真夕の腕のみを狙い撃ち、真夕の悲鳴が上がる。ナイフは床に落ち、カツンと音を立てた。
わたしは咄嗟に、真夕を庇うように立ちはだかり、真夕の頭が神雄によって撃ち抜かれるのを阻止した。急いで腰に装着しているホルスターから拳銃を抜き出そうとする、真夕。神雄は一気に駆け寄って拳を振るい、わたしの背後にいる真夕の華奢な身体を殴り倒した。
廊下の壁に叩きつけられる真夕。真夕の持っていた銃が床を滑り、ナイフに当たって横に並んだ。そんな真夕に、躊躇うことなく冷たい銃口を向ける神雄。
「ひい」
真夕は小さな悲鳴を絞り出すと、降参の意であろう、左腕を高く上げた。右腕は先の衝撃でいびつに折れ曲がっていた。
相手が完全に戦意を失っているにも関わらず、神雄からは敵に対する殺意がはっきりと感じられる。
「止めて」
わたしは叫んだ。神雄の動きに若干の躊躇いが生じる。わたしは神雄の腕を掴み銃口を真夕から遠ざけようとした。
銃声。弾丸は、廊下の向こうに跳んでいき、体育館に通じている外廊下と面している扉のガラス張りを粉砕した。
わたしが神雄を止めなければ、真夕は確実に死んでいた。わたしは尚も神雄を押さえつけたまま、叫ぶ。
「殺さなくてもいいだろ」
それだけ言うと、神雄から身を離す。途端に、それまで忘れていた身体の痛みが奔り、その場にくずおれる。それでも、わたしは床に伏した状態のまま、彼をきっと睨む。彼の厳しい眼光と視線が合う……身体全体が脱力し、わたしは懇願する想いで、彼を見つめ続けた。
「…………」
神雄は何も言わずに、己の銃を懐にしまった。
真夕は政府軍に連行されていった。あの場にいた他の構成員たちは、たまたま上の階にいて生き残った二人を残して、後の八人は死んだ。全員、銃弾で脳天を正確に撃ち抜かれていた。神雄は、敵に対しては一切の情けをかけない。彼は非情なのだ……だったけど。
あれから一夜が過ぎ、雲に遮られた朝のおぼろげな日光があの中学校を照らしていた。
街の視察と戦闘後の処理を終え、わたしと神雄は校門前のバス停の傍で小休止をとっていた。
「真夕……死刑になっちゃうのかな?」
バス停にある椅子に腰を下ろしたまま、わたしは呟いた。神雄は未だ冷たさのある横目でわたしを見つめ、低い声で語る。
「善処はする。おれの権限を使ってな」
そう言う神雄であったが、あまり自信はなさそうだ。超法規と言っても、わがままを通せるというわけではないのだ。ましてや、相手は国を揺るがす反社会勢力の構成員。神雄が与えられた権限は、本来それらを殲滅するためのものなのだ。
「あれは、まだ己の手を直接血で染めたことがなかったらしい。それに、已むに已まれぬ理由があったのも事実だ。更生の希望がないわけではない……」
わたしもそう思いたかった。……わたしは、己の手を見つめ、身につけた手袋の裏に隠されたオノゴロ島のシンボルを思い浮かべていた。わたしの血まみれの手は、もう……。
「……きみが、『
驚愕した。瞬時に自分の命の危険を感じ、身構える。すると彼は、わたしを鎮めるようにして、片手を日差しの下にかざした。
「先生の孫娘はもう、死んでいるんだ。軍の上層部とも協力して、先生には隠し続けていたが……彼女は『
神雄は受けた陽の光を白く反射しているバスの時刻表を眺めながら、話し続ける。
「おれを女手一つで育ててくれた母親は、『
それは……もしかしたら、わたしが作戦に参加したあの戦闘の話だろうか? あるいは、別の地域の話かもしれないが、わたしが組織に与していたのは事実であったし、無関係でいられるはずもない。
「おれは『
神雄はどっかとベンチに腰を落とした。そのまま、彼は俯く。
「今のおれの存在意義は、敵を憎み、敵を殺すことだけだ。だが、二度も、殺すべき命を見過ごした。……もう、牙も足ももがれた猟犬のようなものだ。こんな気持ち、初めてだよ。今後も戦い続けねばならない己の運命を嫌悪するなんて、な」
神雄が初めてわたしに見せる、彼の弱さだった。
「わたしは……そんなあなたでも、必要だと思うよ」
わたしの口から、自然に出た言葉。わたしは隣に座っている彼に、そっと寄り添い、その手をとった。
「あなたが強いのは、改造された肉体だけでも、洗練された技術だけでもない。……その中に、育ての親や、あの……佐岩さんへの愛情があったから。……だと、思う」
そう、彼のこれまでの人生でどんな出来事があったのか、わたしにはまだまだ分からないことだらけだ。それでも、感情を捨てた人間がそれ以上強くなれるはずなんてないから……神雄の内に秘められていた信念が、彼という超人を形作っている最大の柱なのだろう。
「この国の未来は、まだまだ暗い。だから、あなたみたいな人が必要とされている。……それに、あなたという人間も、必要だと思う。その、わたしにとっても」
これまで、彼を異性として強く意識したことなどなかった。単に、正義の名の下に行動している冷酷な殺人鬼という印象であり、人間らしい感情を持ち合わせていない機械のようなものとして認識していた。それが、彼の内面という人間的な部分を垣間見たことで、わたしにとってとても愛おしい存在であると思い至った。
「
静華というのは、佐岩穀造の孫娘の名前であり、これまでのわたしの呼び名だった。
わたしは、彼の耳元にそっと口を寄せ、告げる。
「
『
「未夕」
彼がわたしの名前を言い、わたしをそっと抱きしめた。過去に、わたしを殺そうとした者の腕、幾度もわたしの命を奪おうと考えていた者の手――それは、今まで感じたことのない暖かさだった。
今後も戦いは続いていく。明日の命も知れない。でも、少なくとも、こうして生きている間は――わたしの身体の中に温かい血が通っている間は、彼の人生のヒロインでいるのも悪くないかな。そう、思った。
雲が晴れ、朝日がわたしたちを照らす。陽の光は、とても優しかった。
昨日の戦闘員は今日のヒロイン 来星馬玲 @cjmom33ybsyg
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