第3話 境涯

 わたしの命を救ったのは、町医者を営んでいるという老人であった。意識が回復した時、眩しい朝の光が視覚を刺激し、朱を覆いつくしていた漆黒の夜が過ぎ、新たな日を生きて迎えることができた……と実感した。


 まだ身体中がひどく痛む。横たえられたベッドから身を起こすだけでも一苦労だ。カーテンは開けられており、あの町医者に助けられてから幾日目かの午前の陽ざしが、変わらぬ外の情景を映し出した。


 半ば煤けた二階の窓から見下ろせるその光景は、ここ数年で起こった出来事を如実に物語っていた。昔は賑わった繁華街も、今では人っ子一人見当たらず、手入れのされていないいびつな形状をした街路樹が、不気味な列を形成している。皆、どこかに隠れているのであろうが、迂闊に外を出歩けば近隣の武装組織に捕まり、強制労働か洗脳教育を受けるのがオチだった。


 このような社会情勢になっても物資が流通しているというのが奇妙な話であったけど、これまで表舞台に出てこないで長い準備期間を置いていた地下組織が、数年前の大破局に乗じて本格的に活動を開始したことに起因していた。今や、各々が独自の思想を打ち立てた、近代戦による戦国時代に突入したと言っても過言ではない状況だ。


 それまで誰もいなかった街道に、政府の軍服を着ている長い銃を手にした男の姿が現れた。わたしは背に冷たいものが奔るのを感じ、急いで顔を伏せた。時代の変換を先読みしていたのか、政府が従来の法律から逸脱した軍事組織を発足したのも、ほんの数年前の話だ。彼らは、反政府組織の構成員を人間とは見なしていない。


 戸がキーっと引きずるような音を立てて開かれた。あの人がやって来たのだろう。


「まだ昨日のリハの疲れが取れていないようだね。今のうちに身体を休ませておきなさい」


 老いた町医者は部屋に入ってくるなりそう言うと、わたしの寝床の傍に、昼食の麦飯の入ったお椀と、何かをすり潰した薄い塩味の介護食、湯気の立っている白湯の入っているティーカップを置いてくれた。わたしが面を上げて視線を向けると、老人は温和な笑みを返してくれた。


 わたしは船上から海に投げ出された後、無我夢中で岸辺の付近まで泳いでいったのだという。あの男に関節の所々を破壊され、内臓にも傷を負っていたにも関わらず生き延びることができたのは、『あま瓊矛ぬほこ』の正式な戦闘員になった際に施された肉体改造の賜物であった。わたしの怪我は、常人であれば最低でも三回は死んでいるほどの重症だと老人は語り、改造を施した組織も、研究班の技術力だけは大したものだと称賛していた。


 『あま瓊矛ぬほこ』は自分が所属していた組織だが、それに関する記憶は嫌なものしかない。組織を象徴するオノゴロ島を模したシンボルを右手の甲に刻まれ、緑を基調としている身体の線を強調した正式な戦闘員専用の服装は、組織への忠誠の証とはよくいったものだが、他方では恐怖の象徴、あるいは狩りの対象だ。


 オノゴロ島は国生みで最初に生み出された島。つまり、失われた神を甦らせ新たな国を創り出すという思想の象徴として適任だったのだろう。もっとも、その手に刻まれたシンボルは、わたしの生涯に焼きつけられた忌まわしき刻印でしかない。


「その紋章は消せなかった……すまないね」


 わたしが自分の包帯を巻かれた右手をぼんやりと見ていると、部屋の隅でわたしの方を見やりながら、何やら書類に筆記していたその老人が呟いた。


 組織のシンボルは肉体改造の手術を行った際に、遺伝子を直接操作して刻まれたものであり、言うなればゲノムタトゥーという代物だ。元に戻せない運命の象徴とも言えた。


「実はね、そろそろ、患者とは違う、ある客人が来るんだ。今日の午後のリハはなしになるけど、きみはここで大人しくしているんだ。良いね」


 最後の語調は、何時にない強めのものであった。老人は二階の施設は隙に好かって良いことと、一階には降りてこないようにとだけ念を押し、一室を後にした。去り際は、何やらそわそわした様子だった。


 もし、わたしの正体が他の人に知られたら――老人がそれを恐れているのは察しがついた。そもそも、あの老人が『あま瓊矛ぬほこ』の戦闘員の服を着たままだったわたしの命を助けたこと自体が不可解な話であり、手負いの『あま瓊矛ぬほこ』の一員という厄介者を生かしておこうなどという、政府軍を敵に回しかねない行為は、大多数の人間が考えもしない。


 窓から差し込む陽の光を見るに、老人が去ってからおよそ一時間が過ぎた。階下の玄関の扉が開かれる音が微かに聞こえ、誰かが建物に入ってくる気配がした。下級戦闘員であっても多少の手が加えられているわたしの聴覚は、それを敏感に感じ取った。


 床の下から聞こえてくる話し声。あの町医者の老人ともう一人もまた男の声だった。顔もわからない男の声――だが、それを聴いているうちに、わたしの心臓が鼓動を速めた。


 精神を逆なでする音。不安。心の中のどこかでずっと望んでいた平穏に、ずるずると這い寄り、入り込んでくる異物。


 そう……錯覚みたいなものなんだ。一人の老人の気まぐれで生き延びたことによって感じていた、平穏は。

 

 男の声には聞き覚えがあった。多分、わたしを殺そうとした男だ。まさか、そんなはずはないという楽観的な考えは、相手の声を繰り返し聞いているうちに急速に失われていった。


(逃げよう……でも、どこへ?)


 まだ身体が言うことを聞いてくれない。二階の窓から飛び降りても、無事に済むとは思えない。例え上手くいっても、行き先に見当は全くない。あの政府軍の見回りに見つかって撃たれるかもしれないし、かつての組織の仲間に掴まったら処刑は免れないだろう。


 ただ黙って、目前に迫っている恐怖に甘んじようなどとは思いたくもなかった。何とか上体を起こし、次に何をすべきか考える。


 部屋の中に隠れられるような場所は見当たらない。せいぜいベッドの下の狭い隙間に身を隠すくらいであろうが、痛む身体を酷使して転がり込んだところで、どうにかなるわけでもない。


 結局のところ、あの男と顔見知りらしい医者が護ってくれることを祈るくらいしか思いつかなかったが、敵と認識した者を殺すのに一切の躊躇いを持たない男を相手にして、それが通用するとは思えなかった。


 未だに二人の会話が響いている階下からは、何やら不穏な空気が醸し出しされている。聞こえてくる言葉――首都、やられた……? ……はっきりとは聞き取れなかったが、その単語が妙に心へ刺し入って来た。

 

 轟音。突如、外から聞こえてくる、爆薬の炸裂にも似た機械音。続けざまに銃声が響き、林立する建物の屋根瓦が、甲高い音を立てながら吹っ飛んだ。悲鳴が聞こえ、建物から逃げ出す人間の姿も見えた。


 けたたましいサイレンが遅れて鳴り出す。居住区から火の手が上がり、この寂れた町にこれほどの数の人々が隠れていたのかと驚くほどに、無数の人影が街路に殺到した。


 下の階からも慌ただしい物音が聞こえる。あの老人の一際強い声が反響すると、誰かが階段を駆け上がってきた。そして、足音は廊下を伝わり、わたしのいる一室の戸が勢いよく開かれた。


 正規軍の物とは異なる、黒を基調とした工作員を思わせる軍服。顔立ちは三十か四十代ほどの年齢に思えるが、気味の悪いほどに端整な相貌は、冷たい機械のような印象を見る者に与える。紛れもない、あの男だ。


 わたしが言葉も出せずに戸惑っていると、突然、男は飛びかかってきた。


 殺される――咄嗟に身構えたが、男はわたしの身体をベッドから引きずり出すと、両腕で抱きかかえた。


 所謂お姫様抱っこの恰好。相手は職務に忠実な屈強な体格の男で、宮仕えをしている現代の騎士と言えば間違いではないのかもしれないが、わたしの方は地肌の上に介護寝巻きのみという出で立ちで、その中身も反政府組織の末端に過ぎないが。


 上の方から耳をつんざく銃声が立て続けに轟き、屋根を貫通した機銃が天井を突き破り、床板を抉り取った。男がわたしを抱きしめると、獣のような俊敏な動きで飛び上がった。さっきまでわたしたちの居た位置からわたしのベッドに渡り、銃痕が撃ち込まれていった。


「飛び降りる、堪えてくれ」


 男がわたしを抱きしめる手に力を込める。この男との距離がこれほど密着したのは、あの船上でナイフを突きつけられた時以来だ。


 上空からまた何かが近づいて来たらしく、天井が激しく振動する。男は窓を突き破り、四散するガラスの破片と共に外へと身を躍らせた。


 二階の窓から飛び降り、空気を切る音が耳を急速に通り過ぎ、着地の際の重く鈍い衝撃が全身を突き抜けていった。男はどれだけ強靭な身体をしているのか、何事も無かったかのように正面玄関まで駆け抜けた。


「先生、早く」


 男が叫んだ。


 町医者――今までわたしに見せたことのない、老いているとは思えないほどの身軽さで、あの老人が駆け付けた。


「匂いを嗅ぎつけてきたらしいな。かみお、一旦、南方の拠点にまで撤退するぞ」


「わかりました」


 わたしが抱きかかえられたまま状況を呑み込めないでいる中、二人は息の合った動きでその場を後にする。


 上空では戦闘用ヘリ――ベンガルがけたたましい轟音を響かせながら機銃を掃射している。道端に転がっている死体を避けながら、二人の男は疾走していった。


 二人が目配せをすると、頃合いを見計らって、路地裏へと飛び込んだ。急な方向転換の衝撃で、傷ついているわたしの全身がまた、酷く痛む。数秒後に、表街道の上空をベンガルが通り過ぎていった。


 路地裏の曲がり角に来たタイミングで、わたしを抱えている男と並んで疾走する老人が、わたしの様子を横目で確認しながら、口を開く。


「大事な孫娘だ。もっと、丁重に扱ってくれんかね?」


 「孫娘」というのがわたしのことを指していると気づくのに、左程時間はかからなかった。 

 

「すみません、これが精いっぱいです」


 男が謝罪する。確かに、男のわたしに対する扱いからは、けが人への労りも感じられた。ただ、この鬼気迫る状況の渦中でより深く思考する余裕は、わたしには無かったのだ。


 地上より、何か火の玉のような物が撃ち上げられる。花火のような音であったが、それは花火よりも遥かに過激で、極めて強い殺傷力を備えていた。


 上空で火を噴いたベンガルが、狂った旋回をしながら、こちらに急降下で突っ込んできた。明らかにコントロールを失っており、わたしたちを道連れにしようとしている。


「誰かが仕留めそこなったな」


 老人が苛立たし気に舌打ちをする。地上の政府軍がベンガルを撃ち落とそうとしたのだろうが、半端な一撃は、わたしたちにとってはとんだ災難となる。


 すぐ傍らで爆音が轟き、続けて建物が崩れ始めた。頭上で土埃が舞い、砕けた鉄骨とコンクリートの雨が降り注いできた。


 老人の身体が、煙に呑まれ、見えなくなる。わたしを抱えていた男が振り返り、声を張り上げた。


「先生」


 しかし、その声はおそらく向こうまで届くこともなく、轟音にかき消された。新たに現れた三機のベンガルが、編隊を組んで襲い掛かってきたのである。


 男は老人の消えた方に背を向け、駆けだした。わたしを抱きかかえる手に、先ほど窓から飛び降りた時ほどの力が込められる。それは、何が何でもわたしの命を救わねばならないという決意の表れでもあったのかもしれない。


 逃げるだけでは対処しきれないと踏んだのであろう。男は左腕でわたしを抱えたまま、右手で銃を引き抜き、銃口を上空のベンガルへと向けた。


 続く、二発の銃声。ベンガルの操縦者の断末魔が聞こえたような気がした。見ると、それぞれが二人組で操縦している三機のベンガルの内、一番近い機体の操縦席が朱に染まり、相方が慌てて制御をしようと躍起になっている様子が目に飛び込んできた。しかし、動力部も同時に撃ち抜かれているらしく、既にもう一人の命運も決した。


 墜落するベンガル。男の銃口が再度空へ向けられると、残る二機のベンガルが急上昇を始めた。このたった一人の男が恐ろしいというのだろう。男は暫しの間、上空のベンガルへ威圧の眼差しを向けていたが、瞬時に状況を見極めたのか、弾かれたような素早い身のこなしで駆けだした。


 二機のベンガルが、追跡してくる。男は振り向きざまに、もう一発の弾丸を撃ち込んだ。途端に一機のベンガルが火を吹き出し、わたしたちの頭上を通り過ぎていく。


 もう一機がこちらに突進しながら照準を定め、機銃を発射してくる。男は異常なまでの素早い身のこなしで、横に飛び避けた。改造手術を受けているわたしから見ても、やはり人間技とは思えない。


 三機目のベンガルが旋回し、Uターンする。その背後で、先ほど撃ち落とされた二機目のベンガルの爆風が広がっていく。炎と鉄片が間欠泉の如き飛沫を上げた。


 ベンガルの操縦者もまた、この男の化け物じみた強さに恐れを抱いたのだろう。攻めあぐねている様子だったが、腹をくくったのか、我武者羅に突っ込んで来た。結局のところ、それは自らの死に向かって身を投げたのと同義であった。


 二発の銃声。キャノピにぱっと咲く、二つの鮮血の花。最後のベンガルもまた、あらぬ方向に飛んでいき、墜落した。鼓膜を突く轟音が街中に響き渡る。


 暫しの静寂。


 やがて、戦闘が終わったことを悟った町の住民たちが、建物の影から恐る恐るといった様子で顔を出し、こちらを覗き込んだ。皆、敵が居なくなったことで安堵はしていたが、男に対する露骨な視線は、戦いの中で生きる者すべてに等しく向けられる畏怖と軽蔑の入り混じっているもの。わたしだって幾度も感じてきたから、それが痛いほどによくわかった。


 男は近場の歩道に備えられていたベンチを見つけると、わたしの身体をするりとその上に下ろした。


「すまない。先生の様子を見に行ってくる」


 男はそう言うと、走り出す。先生――あの町医者を営んでいた老人は瓦礫の下敷きになってしまったのだろうか? 


 老人はわたしの命の恩人だった。わたしに未来を与えてくれた人。彼の無事を祈るのは、とても自然なことであるはずだった。それなのに……未だに実感が湧いてこない。


「ちょっと、良いですか?」


 背後からの声。振り向くと、政府軍の軍服を着た、二十代ほどに見える若い男だった。


「さっきのは、あの……いつつさん、ですよね」


 いつつ……あの男の、苗字だろうか。


 わたしが返答に窮していると、相手は相手なりに事情を察したらしかった。


「すみません、市民の方に聞いてしまって。……でも、あの腕前、間違いない。あの人が来てくれるなんて、我々が耐え忍んできたかいもあります」


 耳に痛いほどの、はつらつとした声。市民……という言葉が、妙なくらい耳に残った。


 程なくして、あの男――いつつが戻ってきた。政府軍の若者は逸る気持ちを抑え切れないと言った様子でいつつに声をかけようとしたが、機械の如き男の冷たい眼光に気圧されたのか、出かかった声は言葉にならなかった。


 いつつはわたしの方へまっすぐ向き直った。やがて、抑揚のない声で告げる。


「瓦礫の下敷きになり、手遅れだった。先生……きみのお爺さんを、助けられなかった。すまない」

 

 彼からは感情が欠落しているように思えた。

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