第2話 追憶

 幼稚園に通っていた頃、わたしはごく普通の女の子だったと思う。ただ、あまり同じクラスの子たちと遊んだ記憶はなく、自由時間も外で遊んでいる子供たちの声を聞きながら、玩具のブロックを弄っていた。

 

 一人、特別仲の良かった髪の長い女の子。でも、この頃は、まだ肩の辺りまでしか伸ばしていなかった気がする。あの子は休む日も多かったし、一緒に居られる時間は少なかったけど、あの子とだけは二人で遊んだ記憶が鮮明に残っている。ブロック弄りの他にも、おままごとみたいな遊びをしたこともあったかな。


 小学生になってもあの子は特別だったけど、この頃にはわたしの交友関係も広がっていた。男の子は苦手だったから、女子同士で集まってお絵描きをしたり、外に出てソフトボールなどもやった。思えば、友だちが増えるにつれ、随分と活発な遊びをするようになっていった。


 他方では、社会情勢の変化が際立っていた。テレヴィのニュースでは物騒な話題ばかり続いていたけど、幼いわたしには実感なんてまるで湧かない。時代錯誤な軍服を身につけた男たちの演説は、戦争映画を観ているような印象だった。


 あの子――腰の辺りまで髪を伸ばしておさげにしていたな。一番仲が良かったのはもちろんその子だけど、友だちが増えるごとに段々距離をとるようになっていたのも事実だし、高学年になるとそれも顕著だった。


 そして、あの子からある相談を持ち掛けられたのが小学五年生の時の話。ある男の子と仲良くなりたいって言う、要するに恋愛相談だった。わたしにはチンプンカンプンだったから、適当に相槌を打って、当たり障りのないことだけ話した。


「もう、いい」


 彼女の声が耳元で反響する。放浪していた意識が急に収束され、度々思い出されてはわたしを苦しめた体験が、圧倒的な現実感を伴い、闇夜に似た暗闇の中で浮き彫りとなる。


 中学生になると、あの子との溝は深まっていた。当時のわたしは、それでもあの子が一番の親友なんだと思っていたけど、あの子の方ではもう違っていたみたい。


 中学二年生の、ある冬の日。夕日で朱に染まっている、放課後の教室。椅子の置き方がどうにも乱雑で、机の下にしまわれていないものが多かったのも覚えている。


 一言、「大事な話がある」とあの子に言われて、呼び出されたわたしは、何一つ疑いを抱くこともなく、教室の中で待っていた。中には、数人の男子が屯しており、妙にそわそわしている。わたしは、この時点で不自然だと気付くべきだったのだ。


 教室の引き戸が音を立てて開かれ、三人の男子がたて続けに入ってきた。最後の一人が、後ろ手で戸をぴしゃりと閉める。


 特に会話をしたこともなかったが、見覚えのある面構え。上級生だった。


 異変を感じたわたしは、上級生たちが入ってきた戸のほかにもう一つ備えられていた戸から教室を出ようと、足早に距離をとったが、それまで屯していた男子たちが、目の前に立ちはだかった。その一人が、思わず悲鳴を上げそうになったわたしの口を抑え、他の男子たちも一斉に掴みかかってきた。


 わたしは両手足をばたつかせながら、抵抗した。抵抗したが、男子たちが悪態をつきながら、わたしの腹や尻を力任せに殴りつけた。何度も何度も、殴打された。床に叩きつけられるように押し倒され、見知った同級生の男子たちが、教室の床に転がっているわたしの身体を幾度も蹴り、踏みつけた。弾かれて倒れる椅子や机の音が、耳に甲高く響く。


 やがて、耐えられなくなったわたしは、観念して、抵抗するのを止めた。その後もしばらくの間、男子たちは暴力を振るうことを止めなかったが、上級生の一人の合図で、ピタリと収まった。


 これで終わりだろうか……。わたしがそう思ったのは、まだまだ幼い思考から脱し切れていなかったからであり、甘かった。


 上級生の一人が、倒れているわたしの制服の中に、手を忍ばせてきた。わたしはまた悲鳴を上げたが、男子の一人が中靴の裏で顔面を踏みつけてきたので、押し黙るしかなかった。


 上級生は、わたしのへそを、教室に差し込んでいる、燃えている夕焼けの下にさらけだし、指でへそを弄り回してきた。他の一人の急かす声が聞こえると、その上級生はわたしの胴体を鷲掴みにして、押さえつける。背骨が固い木の床に押し付けられ、骨が折れるかと思った。


 上級生の一人がわたしの全身を固定しているうちに、他の一人がわたしの頭の方に周り、乱暴に制服を引っ張り出した。さらにもう一人が、スカートをはぎ取る。


 下着一枚になったわたしを見て、周りの男子たちの歓声が教室に木霊した。はやる気持ちを抑え切れないといった風に、わたしの肌の至るところを、横から触る者もいた。


 そして、わたしの身体を保護していた最後の下着もはぎ取られる。布の破れる音が響いた。


 ……それが、わたしの初めての性体験だった。後で知ったが、あの子は他の生徒や教員が近づいてこないように見張っているという名目で、ずっと教室の前の廊下に立っており、事の一部始終を見ていた。狂った喜びと性への衝動に支配されている男子生徒たちの中に混じって、あからさまな侮蔑の念の籠った視線が注がれているのを、わたしは感じ続けていたが、あの子のものであったのだろう。


 自殺を考えた。実際、わたしはあれから一か月近くの間、妊娠の恐怖におびえており、本当に身ごもってしまっていたら、間違いなく自らの命を絶っていたと思う。


 やがて、あんなクズ野郎どものために死ぬというのが馬鹿らしく思えてきた。自分が死ぬくらいなら、ああいったゴミを一人でも多く殺した方が、よっぽど有意義だ、と。


 わたしの素行が世間的に悪くなっていったのがこの頃。誰かに刃物を突き付けてカツアゲをするなんて日常茶飯事で、実際に人を刺して怪我を負わせたこともあった。幾度も問題を起こし、警察にお世話になったことも数知れない。


 一昔前までなら、そのまま警察の厳重な監視下に置かれていただろう。しかし、その頃には、既に日本政府を揺るがす新興勢力の台頭が、社会を騒がせていたのだ。


 法は腐り、日本の神は死んだ。口々に唄う武装勢力たち。都会では日々銃声が轟き、積み重なった老若男女の死体の山がテレヴィで報道されていた。


 不良になったわたしを、わたしの両親は見捨てた。わたしのことを失敗作だとのたまい、まだ小学生になったばかりだった妹を連れて、北の方に疎開していった。


 育ての親からも見捨てられ、死体の転がる路上でベンチに腰を下ろしていたわたしの傍に、あの子が近づいてきた。あの時の仕打ちを鮮明に覚えていたわたしは、当然のように彼女を問い詰める。


「今のあんたならわかるよね。昔のあんたの甘え腐った性根が」

 

 そう言うと、不気味な笑みを浮かべる彼女。


 彼女もまた、ある組織に与していた。一員というより、予備軍といったところで、やっていることはチンピラのそれだった。だが、ゆくゆくは組織の幹部に昇りつめて、腐った国を立て直す中核を担う女になるのだと嘯いていた。


 あの子は、わたしを組織に勧誘してきた。今のわたしなら、一緒に昇り詰める資格があるのだとも言った。


 わたしは一切迷うことなく、彼女の申し出を承諾していた。他に当てがなかったし、この狂乱の時代を生き抜くには、ひとまずは食い扶持がなければ始まらなかったからだ。


 そして、わたしたちは『あま瓊矛ぬほこ』の一員として活動を続け、数か月後には女戦闘員として、正式に雇用されるに至ったのだ。


 主な標的は、旧政府の復興と国家の防衛、混乱している国の再編、新時代の妨げとなる害獣たちの駆逐、そういった主義を掲げている政府軍であった。新興勢力である『あま瓊矛ぬほこ』はまだまだ発展途上であり、目下の目標は、この政府軍を滅ぼすことだ。


 そこからの政府軍の戦闘と諜報の記憶は、目まぐるしい速度で展開していった。何度目かの戦闘で、あの子は戦死した。政府軍の拠点となっている施設を制圧する作戦を決行した際、最初に放たれた銃弾がわたしのすぐ横をかすめる。一緒に進軍していたあの子の顔面が柘榴の果実のように潰れ、血飛沫が宙を舞った。


 あの子が死んだ時、わたしは肩の荷が下りたことを実感していた。吹っ切れたわたしの特攻で、敵の防衛線が破られ、匿っている民間人を守りながら戦っていた政府軍は脆くも崩れ去った。わたしたちの快勝だった。


 生き残りは捕虜にし、未だ政府にすがる民衆への戒めとするために、そのすべてが処刑された。処刑の様子は、乗っ取ったテレヴィ局を介して、未だにテレヴィ放送を視聴する環境を持っていた政府側の人間に公開した。


 わたしが最初に疑念を覚えたのは、この公開処刑を目の当たりにした時だ。『あま瓊矛ぬほこ』の方針は、腐った政府の打倒と日本の復活のはずだった。しかし、実際は、各々が闘争本能と欲望を満たすためにだけ戦っている気がしたのだ。


 組織の上層部というのは、反乱の芽になり得る者に対して、異常なほどに目を光らせていたのだろう。ある日、わたしは海上での戦力を主な活動内容とする赤蛇士官の部隊に編入された。


 ここでのわたしの役目は、何のことはない、赤蛇を始めとする男たちの妾だ。わたしと同じで、妾として部隊に組み込まれた女戦闘員は三人ほどいた。少しでも反抗的なそぶりを見せれば処罰される身分であり、隠し事をすれば連帯責任を負わされる。わたしを含めた四人は、互いを監視し合っていた。


 そんな状況下でも、奇妙なことに、統制は保たれていた。あの、化け物じみた男が一人で襲撃してくるまでは。


 夕焼けの海。首都を破壊する爆弾の輸送任務の途中。狂った戦闘機の轟音。激突。炎上。女の悲鳴。断末魔。続く戦闘。取るに足らない雑魚のように蹴散らされて、血と肉の花を咲かせる同僚たち。


 襲撃してきた男に刺され、生にしがみつこうともがくわたしに、同僚の撃った弾が当たる。ベンガルの操縦者の、潰れた柘榴を思わせる血飛沫が、あの子の死に顔とオーバーラップする。爆発。血と硝煙と機械油の入り混じった悪臭。塩の痛み。不完全な走馬灯は、わたしの死へと向かい、急速に早まっていった。


 わたしは死んだ。


 ……死んだ? 


 死んでいるなら、今、こうして考えているわたしは……なんだ?


 生涯の最後の光景はあの夕暮れ。わたしの一生を狂わせた教室と同じ、狂気の薄暮。そこから先は、生気のない、闇夜への転落。


 でも、わたしはこうして……まだ、思考している。


 わたし、わた、わたしは……。


 朱に染まる視界。でも、これは夕日じゃない。朝焼け――生者にのみ訪れる、陽の光。わたしの意識は、急速に白熱していった。

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