エピローグ
「王子なの?」
アリスは震える声で尋ねた。
「本当に?」
――本当に、本当に……。
「本当だよ」
耳元で王子の声がする。包み込むような、優しい声。
「子孫でも生まれ変わりでもない。俺はお前の王子だ。永遠の愛を誓った、お前の運命の相手だ」
アリスは首を振った。嘘だ、と思った。信じられなかった。
「百年経ったはずです……あなたはもう、この世にはいないはずです」
――ああ、そうか。これはきっと、夢なんだ。
「私、きっとまだ眠ってるんですね。ここは私の夢の中で……」
「夢じゃない、現実だよ」
王子の声。包み込むような、優しい……。
「愛する姫を取り戻すために、俺が選んだ未来だ」
――ああ、やっぱり、これは夢だ。
王子が手を緩めたので、アリスは顔を上げた。二度と見ることはないと思っていた王子の顔が間近にある。二度と触れることは出来ないと諦めていた王子の手が、アリスの肩を抱いている。二度と聞くことはないと思っていた王子の声が、優しく、アリスに語り掛ける。
「王子は森の中にある城へ行き、塔のてっぺんの部屋に姫を寝かせた。そして、魔法使いに命じて城を閉ざし、周りを木々やいばらで覆い、付近の森には人を迷わす魔法を掛けさせた。――そして、姫が目覚める日まで、そばで守ることにしたんだ」
「まさか、王子も百年眠って――?」
「それでも良かったけど、百年待たなくても、お前はすぐ目覚めると信じていたからね」
アリスは王子を見つめていた。彼は本当は、ここにはいない。ほんの一瞬でも目を離したら消えてしまう、幻なのだと思っていた。
「どうしてそんなことが信じられるの? 王子がどんなに前向きでも、楽観的でも、信じる気持ちだけで呪いは破れないよ」
アリスはまだ、これは夢なのだと思っていた。ここにいる王子が本当に王子なら、何らかの方法で、夢の中まで会いに来てくれたのかもしれない。
「呪いは破れないよ。でも、眠った姫を百年より早く目覚めさせることは可能だと思った」
「どうして?」
王子は軽く首を傾げて笑った。
「お前が『白雪姫』だからだよ」
「白雪姫……?」
「この国には物語を再現する魔法が掛かっている。魔女は『眠り姫』の呪いを掛けた。そのままなら、物語は『眠り姫』の結末を迎える。姫が目覚めるのは百年後。でも、『白雪姫』なら……」
――白雪姫なら、そんなに長くは眠らない。そばに置いて守り続ければ、いずれ目覚めるはずだ。
「だから、『白雪姫』の結末に向かうよう軌道修正したんだ。『眠り姫』にも『人魚姫』にもならないように……ラークスパーの力も借りてね。元々『白雪姫』の要素も多かったし、きっとうまく行くと思っていた」
王子は得意げに説明した。はしゃいでいると言ってもいいくらいの、弾んだ声だ。
アリスにもようやくこれが現実であるという実感が湧いて来た。引き換えに、ふわふわした幸せな気分は遠のいて行く。
「それじゃ……」
アリスは恐る恐る聞いた。
「百年、経ってないの?」
「まだ数日しか経ってないよ」
目の前が真っ暗になった気がした。体の力が抜けて、立っていられなくなった。
「大丈夫か?」
アリスの様子に気付き、王子が支えて地面に座らせてくれた。
「呼んじゃいけなかったのに。私は百年眠らなきゃいけなかったのに」
「何を言って……」
「だって……だって! 私が目覚めたら、王子の呪いが……!」
アリスの目から涙がぼろぼろこぼれた。
王子は慌ててアリスの背中をさすった。
「どうしたんだ、魔女。落ち着いて。何の話をしてるんだ?」
「とぼけないで下さい。王子は私を騙したでしょう。私の十六歳の誕生日が過ぎたら、呪いは退けたんだとか言ってごまかして、そして……また、私を置いて行くつもりだったんでしょう」
「え? ちょっと待って――」
「魔女に聞いたんです、私。王子の呪いのこと」
「俺の呪い?」
「私が途中で起きてしまったから、王子の呪いはまだ解けてないんでしょう? 王子の胸には鏡の欠片が刺さったままで、いつか、心臓を……」
続きはとても言えず、アリスは両手で顔を覆った。
「……聞いたことあるな。悪魔の鏡、だったか。その鏡の欠片が心臓に入ると、心が凍ってしまう……そういう物語があった」
「物語の話じゃありません!」
「魔女に聞いた?」
王子はその場に膝を突き、アリスを両手で抱えるようにして顔を近付けた。
「俺の心臓に鏡の欠片が刺さってるって?」
彼の温もりと穏やかな声に、アリスも幾分落ち着きを取り戻した。震えながらも顔を上げ、王子を見る。
「ま、魔女の鏡に映ったんです。魔女と、嘘をつけない鏡の――過去に起こった出来事が」
魔女が言ったこと、鏡の欠片に映った一部始終を、アリスは王子に語った。王子は困ったような顔でアリスを見ていた。どう言おうか考えているのではなく、言うべきかどうか迷っている時、彼はいつもこんな表情になった。
「確かに、俺と弟はそういう遊びをしていた。弟が魔法の力で魔女に化けて、俺を鏡に変えて。そして、俺は南の国の姫と出会って、彼女を好きになって――彼女が一番美しいと言ったのも本当だし、魔女が鏡を割ったのも事実だ。だけど魔女は、俺を殺す呪いなんか掛けなかった」
「え……?」
王子はしゃがんだ格好のまま、確かめるように自分の右足に触れた。
「俺はここに怪我をしただけだ。消えない痛みを残したけど、傷自体は大したことはなかった」
それじゃ、魔女が見せたのは――鏡に映った過去は、嘘だった……?
「鏡に映ったのは真実だろう。魔法の鏡は嘘をつけないんだから」
「でも、王子は……」
「俺じゃない。魔女の呪いを受けたのは弟だ。……跳ね返った鏡の欠片は、弟の胸に刺さったんだ」
「弟……?」
――そうか。双子なら顔は似ている。鏡が映し出したあの少年は王子ではなく、王子の弟だったということか。
「でも、王子の弟は『魔女』だったって……。魔女の呪いを受けたのは『鏡』で……」
「多分、弟は――『魔女』は鏡に向かって呪いの言葉を言ったんだ」
「王子が『鏡』だったんでしょう?」
「俺じゃなくて、鏡に映った自分に呪いを掛けたんだよ。――自分への罰として」
「そんな……」
アリスは無意識に、のろのろと首を振った。わけがわからなかった。
「だったらなぜ魔女は、私にあんなことを? 王子に呪いが掛かってると思わせて、私に……」
「お前に呪いを受けさせたかったんだろう」
答えてから、すぐに王子は言い換えた。
「いや、お前以外の誰かが呪いを受けないようにしたかった、かな」
書いたことが本当になる本の、眠り姫の呪い。
「もし他の姫が眠ってしまったら、俺には呪いを解いてやれない。俺に目覚めさせることが出来るのは俺の姫だけだ。だから俺が置き去りにしたお前を見つけ出し、わざわざこの世界へ連れて来た」
目を閉じ、小さく息を吐いてから、彼は複雑な表情で呟いた。
「すごいな。あいつは本当に、すごい力を持った魔法使いなんだ」
「王子……。王子の弟は……」
アリスは王子の腕に手を置いた。王子はアリスのその手に自分の手を重ねた。
「魔女」
「はい」
「悪魔の鏡の話……少年の胸に刺さった鏡の欠片がどうなったか、覚えているか?」
「え……」
急に言われても思い出せず、アリスは首を捻った。確か、雪の女王だ。読んでもらった記憶はあるのだが……。
「どっちみち、俺に出来ることはない。俺には弟の物語に手出しは出来ない。あいつはあいつの姫を救った。きっと、あいつの姫があいつを救うだろう。あとはあの二人次第だ」
王子は無理矢理笑顔を作った。
「立てるか?」
「あ、はい」
二人は手を繋ぎ合ったまま、ゆっくりと立ち上がった。
「体の具合は? つらくないか?」
「はい。大丈夫です」
アリスはふと、下に目をやった。水の面が鏡のように、寄り添う二人の姿を映している。
「……前はこんなところに、池なんかありませんでしたよね?」
ああ、と言って、王子も池を見下ろした。
「ラークスパーに頼んで作ってもらったんだよ。お前と初めて会った場所を再現しようと思って」
「初めて会った場所? 王子に拾われた公園のことですか? でも、あの公園にも池はなかったような……」
「……思い出せないならいいよ。こうしてまた戻って来てくれただけで充分だ」
王子はアリスの手を引いて歩き出した。そうして庭中を回りながら、アリスが眠りに落ちてから目覚めるまでの間のことを語ってくれた。いばらの城を閉ざし、王子がアリスを待つために、ダークやラークスパーが協力してくれたこと。トロイメンの国の王には王子が駆け落ちしたと思わせたこと。
「考える時間がたくさんあったから、いばらの城やトロイメンの国の謎についても色々考えたんだ。ラークスパーには過去の物語は詮索するなと言われていたけど、つい、ね」
「何かわかりましたか?」
「確信はないが、あれこれ仮説は立ててみたよ」
「仮説、ですか」
「白いウサギのこととかね」
「ウサギ?」
「あの白いウサギが、俺を眠っているお前のところへ……サフィルス王子の部屋へ導いたんだ」
「私もそうです。白いウサギに導かれてサフィルス王子の部屋へ行って、鏡の欠片を見つけました」
「そう。欠片はサフィルス王子の部屋にあった」
王子は言葉を切り、同時に足も止めた。少し遅れて歩いていたアリスは、王子の横に並んでから止まった。
「気になってたんだ。あのウサギ、いばらの城の封印が解かれる前から城の中にいたんじゃないかって」
「あ……私もそう思いました。いばらの城の呪いに巻き込まれてしまったんですね」
「あのウサギはいばらの城に閉じ込められて、百年間眠っていた。確か、同じことを言っていた奴がいたね」
「ああ、あの五人目の王子……」
「そう、自分は眠り姫の婚約者だったクリスタロスだって名乗っていた王子。本当の名前はわからないが……彼は兄のアメタストス王子に呪いを掛けられたと言った。そしてアメタストス王子が王になったと。だがラークスパーの話では、アメタストス王子は王になっていないし、百年眠ってもいないということだ。つまり呪いを掛けた王子も、掛けられた王子も、どちらもアメタストス王子ではなかった。――ということは、森の家に現れたアメタストス王子は、アメタストス王子に成り済ました別の誰かだった」
「魔女?」
「そうかもしれない。でも、ラークスパーはこうも言っていた。王になったのは間違いなくクリスタロス王子。とすると、魔女に呪いを掛けられたクリスタロス王子も、クリスタロス王子に成り済ました別の誰かだったということになる。俺はこっちが魔女だったんじゃないかと思うんだ。アメタストス王子の振りをしていたのが、本物のクリスタロス王子」
五人目の王子によると、アメタストス王子は呪いを掛ける時にこう言った。
『私はずっとお前を恨んでいた。ここにおびき寄せたのは復讐を果たすためだ』
「姫の駆け落ちに協力した魔法使いの娘を、クリスタロス王子は恨んでいた。だから彼女に復讐した。多分、こんな風に言って――」
『追放された兄から手紙が来た。森の家に呼び出されたが、何を企んでいるかわからない。お前が私に変身して様子を見て来てくれないか』
魔法使いの娘は断ることが出来ず、クリスタロス王子に化けて森の中の家に行った。クリスタロス王子はそこで待ち伏せていて、アメタストス王子の振りをして、彼女に呪いを掛けた。
『お前はこれから百年の間眠り続ける。誰かがお前を見つけてもお前だとわからないように、お前の姿を変えて置く』
そして彼女は白いウサギの姿に変えられ、森の中の小さな家で、百年間、眠ることになった。
「つまり、あの白いウサギは魔女で、呪いを掛けたのはクリスタロス王子の方だったと……?」
「魔力を持ったクリスタロス王子なら可能だ。そして、百年が過ぎ、目覚めた魔女は、クリスタロス王子の振りをして俺たちの前に現れた」
「じゃあ、サフィルス王子は? あの人は五人目の王子と結婚の約束をしていたんですよね」
「……ああ。だがサフィルス王子は五人目の王子から逃げようとしていた」
「五人目の王子が百年眠っていたなら、二人はどこで知り合ったんですか?」
「さあ……どこだろう。夢の中かな」
王子は口をつぐんだ。切りを付けるように、軽く首を振る。
「とは言え、これはあくまで仮説だ。真実はわからない。――もうこれくらいにして置こう。ラークスパーに叱られそうだ」
アリスはまだ考え込んでいた。もう少し考える時間が欲しかった。もう少し……。
王子がアリスの手を持ち上げ、自分の唇に当てた。アリスは真っ赤になった。
「王子! 恥ずかしいからやめて!」
「え……誰も見てないのに?」
「……そういう問題じゃないです」
王子は素知らぬ振りをして話題を変えた。
「何か食べないか? おなかが空いただろう?」
アリスは考えてから首を振った。
「いえ、おなかは空いてません」
王子は心配そうな顔をした。
「ずっと何も食べてなかったのに?」
「眠っている間は時が止まってるから、おなかは空かないんですよ、きっと」
「そういうものなのか。おとぎ話の魔法とは不思議なものだな。どういう仕組みになっているんだろう」
「そんなことをいちいち気にしていたら身が持ちませんよ」
「そうか……。でもとりあえず、台所に行こう。ラークスパーが食材をたくさん置いて行ってくれたんだが、調理は自分でしないといけないんだ。準備しているうちにおなかが空いて来るかもしれない」
「そうですね」
頷いたものの、アリスは王子の口振りが気になった。
「あの……私、どれくらい眠っていたんですか?」
「さっきも言っただろう。ほんの数日だよ」
「数日って、具体的には何日?」
王子は首を傾げ、少し迷ってから答えた。
「月が二回満ちたかな」
「それ、数日じゃないです」
「大した違いはないと思うが……」
「ずっと、ここにいたんですか?」
「ああ」
「ここでずっと、私が目覚めるのを待ってたんですか?」
「ああ」
アリスは足を止めた。また泣きそうになった。
「私が百年目覚めなかったらどうするつもりだったんですか。王子はひとりぼっちで、一生過ごすことになったかもしれないんですよ」
「そうはならなかっただろう?」
あくまで明るく王子は言った。
「それともお前は、俺が待ってない方が良かったのか?」
「……待っててくれて嬉しいです」
それは本心だった。けれど、素直に喜んでいいのか――本当にこれで良かったのか、アリスはまだ半信半疑の状態だった。
「私……王子は私のことを忘れて、マルガリータ姫と結婚したんじゃないかって、ちょっと考えてたんです」
「マルガリータ姫って……」
「王子は『世界で一番美しい』って思うほど、マルガリータ姫のことが好きだったんでしょう? 私を選んだのは、私を泡にさせないためで……」
王子がふっと真顔になった。
「――そう来るなら、やっぱり思い出してもらおうかな」
「え?」
彼は少し考え、アリスから離れて湖の縁まで行くと、振り返って手を差し出した。
「踊ろう」
アリスはきょとんとした。
「え……何ですか、いきなり」
「ダンスは好きなんだろう?」
「好きですけど……王子はダンス、嫌いなんじゃ……」
「嫌いなのは舞踏会だ。ダンスは好きだよ」
胸がざわめいた。――こんな会話を、前にも誰かと……。
目の前の王子の笑顔が揺れ、一瞬、もっと幼い少年の姿が重なった。
『君は誰?』
少年が尋ねる。
『私はアリスです』
アリスが答えを返す。
『アリス? それ、本当の名前?』
『ウサギを追い掛けて来たら、あなたに会ったんです。アリスみたいでしょう?』
満月の夜。輝く湖のほとり。月明かりがライトのように幼い二人を照らし出す――。
「俺はあの日、舞踏会を抜け出して、森でバイオリンを弾いていたんだ。そこに南の国の姫がやって来て、声を掛けた」
『あなたは舞踏会に行かないんですか?』
『舞踏会は嫌いなんだ』
『本当に? 私はダンス、大好きです』
『僕もダンスは好きだけど、人がたくさんいるところは苦手で』
『じゃあ、ここで踊りましょうよ』
遠い遠い記憶。ずっと昔の――?
アリスは首を振った。
「違います。あれは……あれは、夢……です」
「夢じゃないよ。お前は俺の手を取って、ワルツを……」
「それは私じゃありません。だって私は小さな黒猫で、王子に拾われるまで、ずっとひとりぼっちで……」
「カラスのせいだよ」
「カラス?」
「トロイメンの城に飛んで来た、カラスの呪いの言葉。あれには続きがあったんだ」
『私は呪いを掛けた。十六歳の誕生日、王子の婚約者は割れた鏡の欠片に刺され、百年の眠りに落ちるだろう』
「そのあとに、こう叫んだ」
『呪いを解く方法は、ただ一つ。愛する人が身代わりになって鏡の欠片に刺されることだ』
「カラスの言葉を知ったトロイメンの国の王は、王子を守るために、国中の鏡を捨てさせ、マルガリータ姫を南の国に追い返し……密かに亡き者にするよう、南の国の王に命じたんだ」
トロイメンの国の方が南の国より力が強い。南の国の王はトロイメンの国の王に逆らうわけには行かなかった。
「南の国の王は国に仕える魔法使いに、姫を森へ連れて行って殺すよう命じた。自分ではとても出来なかったからだ。魔法使いは姫を連れ出したものの、やはり殺すことは出来なかった。殺す代わりに小さな黒猫に変えて、外の世界へ放り出した」
「白雪姫みたい」
アリスはぼんやりと呟いた。
「南の国の王もそれを見越していたのかもしれない。白雪姫の物語になぞらえれば、いつか王子が姫を見つけて助けてくれるだろうと」
「結局、私は誰なの? 眠り姫? 人魚姫? それとも……」
「世界で一番美しい、俺の姫だよ」
王子はアリスを抱え上げ、ステップを踏むようにくるくると回り始めた。
「お前は心に決めた相手がいると言ってたらしいけど……その相手って誰だったの?」
回りながら、青い瞳がアリスを覗き込む。
「え……」
「ん?」
「お、覚えてません」
アリスは困り果てて言った。
「私の記憶はあの雨の日から始まっていて、それより前があったなんて、とても信じられないんです」
「覚えていないのに、どうしてこの世界に戻って来た時、自分は『アリス』だって名乗ったんだ?」
「私が名乗ったんじゃありません。ダークさんが勝手にそう呼んだんです」
「――ああ」
王子はアリスを地面に降ろした。
「まあ、マルガリータ姫だった頃のことは、お前にとっては前世みたいなものだしな。前世の記憶が残っている人間は稀だ。いいよ。大事なのは過去じゃなくて今だから。今は、俺を運命の相手だと思ってるんだろう?」
改めて聞かれると照れくさかったが、アリスはしっかりと頷いた。
「はい」
「俺と生涯を共にしてくれるか?」
「はい。誓います。二度と離れません。ずっと、ずっと、王子のそばにいます」
「よし」
王子は出会ってからこれまでで一番嬉しそうに笑い、アリスを抱き締めた。
「俺たちはずっと一緒だ。それは決まった。あとは、どこに行くかだ」
「どこに行くか?」
「どこに行きたい? どこでも行けるよ。地下の通路を使えば外に出られるし、この世界のどこへでも行ける。この池に飛び込めば、二人で暮らしたあの洋館へ行ける。ラークスパーが外の世界と繋げてくれたからね。ここ――このいばらの城で、死ぬまで二人きりで生きて行くっていうのもいいかもな。百年間、外からは誰も入って来られないし、邪魔される心配もない。時々生活に必要なものを買いに出なきゃならないけど、慣れてるから平気だ。お前はどうしたい?」
――まるで夢のような話だ。そう出来たらどんなにいいだろう。でも……。
アリスは下を向き、また王子を見上げ、決心して口を開いた。
「王子はトロイメンの城に戻って、王にならなきゃ」
「……お前が選ぶなら、それでもいいけど」
「だって、予言が。王子は清く正しい王になるって」
「あの本には、予言が本当になったとは書かれていない」
「下巻には書いてあるのかも」
「下巻なんてなかったじゃないか」
王子は笑いながら続けた。
「もし、トロイメンの国の本の下巻があったとして、そこに書かれていることが本当になるんだとしても、俺は見たいとは思わない。結末まで全部わかっている人生なんてつまらないだろう?」
「それはそうですけど……」
アリスはもごもごと言った。王子は楽観的過ぎるんじゃないだろうか。
「すぐに決める必要はないよ。ゆっくり考えよう。時間はたっぷりあるんだから」
明るく屈託のない笑顔。――でも、私はそんな王子が好きなんだ。
アリスは微笑み、「はい」と答えた。
「じゃあ、とりあえず台所に行こうか」
少し風が出て来ていたが、いばらの城の庭園は相変わらず上天気だった。王子はさっき落としたバイオリンを拾い上げた。
アリスは首を捻って王子を見た。
「そのバイオリンの音色……夢の中で、ずっと聞いていた気がします」
「夢を見てたのか? どんな夢?」
「……忘れてしまいました」
王子は笑い、アリスの肩を抱き寄せた。
――これは夢じゃない、とアリスは思った。私はここにいて、王子も確かにここにいる。
二人は見つめ合い、キスを交わした。
「物語の終わりにふさわしい場面ですね」
「違うよ、魔女。終わりじゃなくて始まりの場面だ。新しい物語がここから始まるんだよ」
――そして二人は末永く、幸福に暮らす。二人が選んだ未来の中で。
トロイメンの国の物語 波野留央 @yumeyuki
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