あなたの感情、買い取ります。

太刀河ユイ/(V名義)飛竜院在九

第1話 臆病と寂しさと……

 人間の感情を吸い取って、商品にしている人物がこの街に存在する。

 俺――前園照まえぞのてるがそんな噂話を思い|出したのは、とある日の残業中の出来事だ。


「先輩、コーヒーどうぞ」

夕霧ゆうぎり? まだ帰ってなかったのか、自分の作業終わったんだろ?」


 残業の疲れを感じさせない笑顔を向けながら、持っていたコーヒーを俺のデスクに置いてくれた。

 夕霧彩矢あや。残業続きの暗い部署には眩しすぎる笑顔が似合う女性で、こうして気も遣える。男性社員からの人気も高い。

 身長は百五十前後と小柄で髪も短くまとめ、童顔も相まって恋愛対象や部署内のアイドルとして見られている。

 俺と夕霧は付き合っているなどと噂にもなったが、仕事で一緒になる時間が多かったからだ。今のように。


「先輩とやる事が被っていましたから、お手伝いしようかなと」


 後輩に残業の手伝いをさせる訳にはいかない。

 そんな台詞が喉まで出かかっていたが、今日ばかりはその言葉に甘えたかった。


「悪い。頼めるか?」

「まっかせてください! 部長もひどいですよね。先輩ばかりこんなに押し付けて」

「俺がもう少しガツンと言える性格ならいいんだけど」


 そもそも、俺が「このスケジュールでは到底無理だ」と強く発言した上で上手く部長を納得させられれば、ここまで苦労する必要はない。


「そういえば、夕霧ってあの噂……知ってる?」


 先ほど思い出した噂話について聴いてみた。こういった噂話は女性の方が詳しいはずだ。


「人の感情を商品にしているってアレですよね、聴いた事はあります。自分の不要な感情を一部または全部を相当な額で買い取ってくれるとか」


 その話が本当なら、臆病とか遠慮とか、部長への考えを取っ払ってもらいたいと心底思う。


「興味あるんですか?」

「ないと言えば嘘になる。自分の性格、あんまり好きじゃないし」


 俺はキッカケを求めていた。

 転職する機会も、勇気もなく、ただ職場に残り待つだけの俺が求めていた変化に繋がるかもしれない小さなキッカケ。

 この噂話がその変化に繋がる予感があった。


「本当にいるのかな?」


 俺はその商人に会ってみたかった。

 つまらない日常からの脱出口になり得ると思えた直感。それが俺の心を騒がせていた。


「いるらしいですよ、本当に」

「……えっ」


 俺は夕霧の言葉に、わかりやすく反応してしまう。


「友達から詳しい場所も聴いていますけど、行ってみますか?」


 迷いはあった。それも一瞬の間だった。気付けば、俺は首を縦に振っていた。


 ●


「先輩、そろそろですよ」


 彼女がそう告げたのは会社から二駅ほど移動して、夜にも関わらず明るい通りを歩いて十分ほど。とある裏路地への入口に差し掛かった時だった。

 ネオンの看板に照らされたその場所を指差して、夕霧はそのままの足取りで裏路地へと歩いていく。


(なんか、夕霧のやつ……慣れてないか?)


 夕霧はスマホで道を確認しながらここまで歩いてきたが、今度はライトに切り替えてスマホで足元を照らしだした。

 もしかしたら、一度来たことがあるのかもしれない。

 さっき話していた友達と来たのか、それとも自分が利用したのか。


 すれ違うのがやっとの裏路地では街灯などない。

 道なりに進んで行くと道を抜けて建物の間、少し広い場所に出た。

 四方には裏路地へと繋がる通路があり、俺達はそこから出てきた形となる。

 その広場の真ん中に彼はいた。


「おや、お客さんですか。今日はツイてますね」


 裏路地から現れた俺と夕霧を交互に見て、ポツリとそんな言葉を呟いた。

 顔は見えなかった。グレーベージュのローブに身を包み、フードも被っていて体全体がほとんどその色に覆われている。

 ローブの下に伺えるのは、短いヒゲの生えた口元と、暗闇に溶け込むような黒いスーツ姿だけだ。


「あ、あの」

「ああ。お嬢さんでしたか」

「夕霧? ここに来た事あるの?」


 怪しげな商人とも顔見知りと判明して、思わず問い正す。


「は、はい。私は付いてきただけだったんですけど……」

「彼女は、ある常連の方がよく一緒に連れて来られていた方ですよ。最近は姿を見せなかったのですがね」


 それで案内が板に付いていたのか。


「さてさて、あなたは」


 チラリと、フードから瞳を覗かせる商人。

 目が合うと小さく微笑んで、頷くように顔をゆっくり下に動かした。


「自分に自信が持てないタイプの方でしょうか?」


 動揺する俺とは顔を合わせないが、商人は俯いたまま右手で顎ヒゲを撫でている。


「ああ、そうでした。申し遅れました。私は『エモートスティーラー』と申します。今はこちらで感情や記憶の買い取りをしております」


 明らかな偽名。直訳すれば『感情を盗む者』か。


「不要な感情を買い取ってくれると聴きました」

「その通りでございます。システムについてのご説明の前に、本当にそのような事ができるのか証明した方がよろしいですね」


 エモートスティーラーと名乗る商人は、その落ち着いた雰囲気を保ったまま淡々と語りかけてくる。


「では、ここでお嬢さんを実験台にしてしまうと、お客様もサクラではないかと疑ってしまうと思いますから……」


 吸い込まれそうな怪しげな瞳がローブの下からチラリと夕霧を一瞥してから俺と目を合わせると、商人は一歩ずつ俺に近づいて来た。


「まずは直接体験してもらいましょう」

「え」


 返事をするより早く、俺は左の頬に衝撃を感じて顔を商人から逸らしていた。

 いや、逸らされた。ビンタされた?

 次の瞬間、フッと目の前が暗転する。

 まるで自分の中の何かが削ぎ落とされたかのような感覚があったが、視界はすぐ元に戻った。


「何をするんで、すか?」


 そう口に出した時には、痛み以外の何も感じていなかった。


「せ、先輩! だ、大丈夫ですかっ!」

「え? うん、大丈夫だけど」


(頬を叩かれただけで、なぜそんなに動揺しているんだろう)


「だって、先輩? 怒らないんですか、こんな事をされて?」

「いや、別に。驚きもしないけど」

「動揺。怒り。あと、これは恐怖? そんなところでしょうか。お嬢さんはこの実演を見るのは初めてでしたね。大体こんな感じですよ?」


 話しかけられている夕霧はまだビックリしたと言わんばかりに口を抑えて、俺の隣でオロオロしているだけだ。そんな商人が俺に向き直り、小さく頭を下げる。


「突然申し訳ございませんでした。感情もお返ししますので、どうかお怒りを鎮めてくださいませ。こちらはお詫びです」


 商人は手を差し出し、俺の掌に何かを滑り込まされた。綺麗に折り畳まれた一万円札だ。


「あの、これは……」

「ですから、お詫びも兼ねた感情のお代ですよ」


 受け取った瞬間、突然ビンタされた時の動揺と、理不尽に対する小さな怒りが湧きあがってきた。

 待て、俺は今まで何を考えていた?


『ビンタされただけで驚きもしなければ怒ることもない?』


 冗談だろ、そんな考えになる訳がない。そうなる訳がないのに、そうなってしまっていた。


「感情そのものはすべてお返ししましたのでどうかご安心を。これが感情の買い取り……とは少し違いますが、大体の流れと『証明』です」


 両手を前に出しながら俺を鎮めるようなジェスチャーをしつつ、丁寧に説明してくれる商人を見ながら俺はこの商人が本物である事実だと確信した。

 この人は『人の感情を吸い取る能力』を持っている。

 夕霧は軽く俺の袖を掴んで来て、商人と向かい合う俺の影に隠れるように後ろに回ってしまった。


「今回のように感情はお返しできませんが、買い取りは一部分だけが主になっています」

「今はビンタされた瞬間の怒りとか動揺とか、それを全部?」

「はい。文字通り、感情を盗ませていただきました」


 まるでファンタジーの世界に迷い込んだような錯覚。

 自分自身に起きた変化を受け入れるのは少し時間が必要だった。


「あなたがいらないと思った記憶と感情を私が買い取って、お金を支払います。どの感情をどれくらい、と言うのはお客様が決めていただけます」

「一部だけって言うと、例えばその日の嫌な記憶とかを忘れられる?」

「そういったコースもございます。ですが、一部の感情となりますとニュアンスが異なります」


 記憶を抜き出す芸当も可能。嫌なものを見たら完全に忘れられる、そんな風に利用する客もいるのだろう。


「怒りっぽい御仁が、少しだけ温厚になる程度のものとお考えください」

「ちなみにその人が、完全に『怒り』の感情を抜くとどうなります?」

「怒らなくなりますね。言葉通り、その『怒り』がないのですから」


 人によって怒りを覚えるラインは異なるものだが、それを取っ払うのが可能だと商人は発言している。商人の声は、淡々と事務的に告げてくる。


「もちろん、そういったコースもございますがオススメは致していません。額はそれなりのものをお支払いしておりますが」


 その商人の言葉に引っかかったのか夕霧が口を挟んできた。


「過去にいたんですか? その、どれくらいの額で買い取るんです?」

「はい、そういう希望をされるお客様もいらっしゃいます。ただ……」


 商人は微かに見える顔を隠すように背けると、顎ヒゲを左手で弄りながら静かに息を吐き、これまた事務的ではあったが諭すように告げてきた。


「金額は言ってしまうと安易に心が揺らいでしまう方がおりますので、言わない事にしております。どうか、ご了承ください」


 買取価格が高額なら、金に目が眩んで自分の感情を一つ丸ごと差し出す者もいそうだ。


「この力が本物であるとわかった上で、お聞かせください。あなたにいらない感情はございませんか? もしよろしければ私が買い取らせていただきます」


 右手を胸に当てながら軽く一礼し、商人はあくまで俺の意志を聞いて来た。


「一つだけいいですか?」

「なんでございましょう」

「あなたに何の得があるんです?」


 感情を奪う力が本物なのは実感できた。これで金儲けに利用するならわかるが、逆に金を支払う理由がわからない。

 この一万円札もそうだ、気前が良すぎる。


「ただの道楽、と言っても信じないでしょうねぇ。もしも、あなたから感情を奪う事が目的であれば先ほど私は『理性』や『判断力』に繋がる感情……『不信感』や『疑心』をあなたから奪っておりましたよ?」


 感情を奪われた時、俺は自覚がなかった。ただ視界が暗転したような感覚があっただけ。

 その気になれば、俺はこの商人をなんでも聴くような人形にさせられたかもしれない。

 怒りと動揺、恐怖が消えただけの俺は感情を奪われた自覚はあったものの、現象のすべてを理解するまでには至らなかった。


「これは私にとっていわば楽しみの一つ。私は娯楽に対してお金も支払う立場にある」


 理不尽に感情を奪ったり、騙したりするような行動も考えられた。でも、なぜかこの商人は約束などを無下にしない人間のように思える。


「わかった。感情を買い取ってほしい」

「ありがとうございます。どのような感情を、いかほど?」


 少しだけで感情を受け渡しても、実感が湧かなければ意味はない。全部渡すのは論外だ。


「臆病の感情を、半分」

「なるほど。臆病……いや慎重ですね」


 わかっていたように、首を上下揺らす商人を俺は細目で見つめていた。


「半分となりますと、これほどの価格になります」


 ローブから電卓を取りだし、複数回叩いたものを俺に見せつける。


「な、七百万……? お、おい俺の年収より多いぞ……?」

「人の感情には、それほどの価値があります。それを半分ともなれば、これほどは当然」


 感情を丸ごと買い取らせたら、恐らくケタが一つ増える。

 確かに値段を先に聴こうとしたら、商人が金で目を眩ませるかもと警告していたのもわかる気がした。


 俺と商人の契約は『臆病の感情半分と現金七百万』で成立した。

 肝心の現金七百万は、商人が直接手渡してきた。どこから取り出したかは、ローブの中からとしか言えない。


「そのローブの下、どうなっているんだ?」

「企業秘密です。では、臆病の半分をいただきます」


 フフッと怪しい笑いを浮かべ、商人は俺の顔をじっと見つめてきた。それが『合図』だったのか――。

 暗転。

 一言でいえば、雁字搦めになっていた鎖がゆるんだような感覚だった。


「しばらく私はこの街におりますので、何かありましたら訪ねてください」


 商人はそう告げて、商人は俺と夕霧に別れた。

 残ったのは、去り際に手渡された現金のみ。俺はそれをカバンの中にしまい、夕霧と共に無言で路地裏を出た。

 駅まで一緒に隣を歩いていた夕霧は、どこか寂しげな表情を浮かべていた。この時の俺は文字通り、周りが見えていなかった。


 ●


 臆病な感情を半分取り除いた後、俺は自信を持って仕事に励んでいる。

 上司へ意見し、無理矢理進めていたプロジェクトに納期の少しだけ余裕をもたらした。上司は顔を真っ赤にしていたが、部署内の同調もあってついに折れた。

 臆病さが半分なくなり、自信をつけて少しずつ仕事の成果をあげている。


 一週間後。それは起きた。

 俺は、気が付けば階段から足を踏み外し、そのまま下の階に転げ落ちていた。


「前園先輩! だ、大丈夫ですか!」


 夕霧の声に意識を引き戻される。視界が歪んでいるような感覚だ、頭を打ったらしい。


「痛いけど、たぶん大丈夫……」

「人を呼びますからじっとしていてください!」


 上司に逆恨みで階段から突き落とされた可能性も考えたが、今は外回りで不在だ。単なる疲れかとも思ったが、そうじゃない。

 心当たりがない訳ではなかった。慎重さを欠いた結果がこれだ。


 臆病さの半分ないから、注意を払わずに足を踏み外して階段から転げ落ちた。

 車の運転中に危険を感じ、ブレーキを踏むタイミングがある。それは、脳が送った信号がそうさせている。

 なら、それを判断する『感情』はどれだ。

 不安や恐怖。臆病さに繋がっている感情だ、その欠けていた臆病さが俺にブレーキを踏むタイミングを見誤らせたのだ。

 夕霧はハンカチで俺の顔についた血を拭き取りながら、心配そうに覗きこんでくる。


「……かすり傷だよ。夕霧、ちょっといいか?」

「は、はい」


 俺は、この日会社を早退した。


 ●


 商人がいた裏路地にある小さな広場。そこには、先週と変わらない様子で商人が立っていた。


「そろそろ来る頃だと思っておりました」


 ニヤリと怪しく笑う商人は、転んで怪我をした俺の傷を見て小さく一礼した。


「お久しぶりです。大事にならなかったようで、何より」

「何言っているんですか! 下手したら死んでいたかもしれないのに!」


 夕霧は挨拶してきた商人に、いきなり声を荒げた。


「気持ちもわかるけど、落ち着け」

「でも、前園先輩!」

「俺を睨むなよ」

「……すいません」


 夕霧は振り向いた後も怒りを露わにしていたが、俺の言葉で自分が冷静さを欠いていると気付いてくれた。宥められながら、小さな声で謝ってきた夕霧には脇へと移動してもらい、俺は商人と対峙する。


「とにかく、俺が話すよ」


 臆病の半分。それがなくなった効果は絶大だった。

 理性が働く程度には私生活に支障はなく、躊躇していた上司に意見する機会が増えた。

 他の社員達から夕霧が噂を聴く限り「前園さんが、ついにキレた」と噂していたようだ。


「臆病の半分を買い戻したい」


 問題になったのは、臆病さを欠いて注意力に影響が出た点だ。

 怖いと感じなくても、本能的に人間は咄嗟にブレーキを踏む人がある。危ないからゆっくり進もうとか、そんな何でもない注意。

 それが今の俺には半分以上、欠けている。

 だが幸いにも、買い取ってもらった際に受け取った現金七百万には手を付けていない。


「買取価格よりは価格が上昇してしまいますが、よろしいですか?」

「いくらで戻せる?」


 軽はずみな気持ちで感情を売ったのを後悔しながら、商人に自分の感情の値段を尋ねた。実際こうなってみると自分の思慮の浅さを嘆くしかない。


「買取価格の二割増し。八百四十万といったところでしょうか」

「な……」


 夕霧がまた声をあげそうになったので、無言で制しながら俺は深呼吸。

 こいつがこういう男なのは、薄々わかっていた。


「わかった。なら、別の感情を売りたい。それで差額分を埋めたいんだが」

「なるほど」


 臆病さは命に関わる感情だ。それを取り戻す為なら別の感情を受け渡すしかない。


「ですが、何を買い取りましょう? 差額の百万以上ともなりますと同じように特定の感情を半分、といった例が主になってしまいます」


 臆病の代わりに差し出せる感情。私生活に支障の出ない感情の見分け方。ここに来る途中で考えていたが、見当もつかない。

 自分のいらないと思っていた臆病さの半分を失って、俺は階段から転げ落ちる結果になった。これは笑えない話だ。

 臆病さがない所為か、どの感情を差し出そうとも躊躇はしない。

 だが今の俺は、恐怖を感じない自分に恐怖していた。


(どうする。どの感情を渡して差分の金額を支払えばいい?)


 下手をすれば取り返しがつかなくなる。臓器を売るようなものだ、慎重にならざるを得ない。

 臆病さを取られていなければ、俺はこのプレッシャーに失神していると思う。


「前園先輩」


 そんな俺の不安を察してか、夕霧が切り出してきた。


「私の感情で、どうにかなりませんか?」

「……は?」


 我ながら、気の抜けた返事だった。


「ここに連れて来てしまった責任を感じていたんです。……だから、私が」


 俯いて声を震わせる夕霧に、俺は全力で反論しようとした。


「ちょっと待て。なんでお前がどうにかするって話になる?」

「だって、先輩がこのままだと……」


 俺の声に顔を上げた夕霧の顔は、雨でも降ったのかと思えるくらいに涙で濡れていた。


「私がこの人に会わせなければ、こんな事にならなかった……先輩が階段から落ちる事にもならなかった。もう、誰かが私の前からいなくなるのは、嫌なんです」


 言葉が、出なかった。

 夕霧は数ヶ月前、仕事でとある理由で欠勤している。

 地元の両親と弟の葬儀。交通事故だった。

 夕霧は一度に三人の家族を失っている。そんな彼女が職場で明るく振る舞っているのが強がりなのは、誰の目から見ても明らかだった。

 そんな彼女が、決壊したダムのように崩れかけている。


「お前にそんな事をさせるわけにはいかないんだよ」

「……私」


 裏路地の向こうから、喧噪が途絶えたような気がした。

 錯覚だと思う。正確には、その言葉を聞き漏らさないように俺が彼女の言葉に耳を傾けていたから。


「私、前園先輩が好きです」


 夕霧から突然好意を打ち明けられ、俺は固まっていた。


「寂しくてどうしようもなかった私が立ち直れたのは、先輩のおかげなんです。だから、私も恩返しがしたい」


 涙を拭いながら、夕霧は商人を猛禽類のような鋭い瞳で睨みつけた。


「私が前園先輩を好きな気持ち。この好意を受け渡したら、差額分を埋められますか」

「夕霧!」


 思わず、叫んだ。

 それはやってはいけない。背筋が凍るような感覚があって、咄嗟に叫んでしまった。


「ほう。なるほど」


 商人は、品定めでもするように夕霧を視線で舐め回す。


「いいでしょう。ですが、条件がございます。その恋愛感情と記憶のすべてをいただきましょうか」


 嫌な予感は的中した。


「わかりました」

「ダメだ。ダメだぞ、夕霧」


 口を挟み、俺は二人の間に割って入った。


「自分の感情を丸ごと渡すなんてやめろ。それはやっちゃいけない」


 そんな言葉が自然と出てきた。俺でさえ臆病さの半分だったから、そんな軽い理由じゃない。ただ本能で『全部はダメ』とわかってしまった。

 こうなったら、覚悟を決めるしかない。


「おい、代金はキッチリ払う。臆病の半分を返してくれ。前金にこの七百万だ」

「いいでしょう」


 紙袋に入れて見えないように保管していた現金を商人に渡して、俺は『それ』を待った。

 意識が一瞬だけ暗転する。

 その瞬間、自分がした決意に身震いしたが、なんとか持ち直す。


 自分の臆病さが戻って来た。ああ、今なら自分の感情を誰かに買い取らせるなんてさせたくないし、したくもないと思える。思考は正常だ。


「俺も、夕霧の事は好きだ。だから、お前にそんな真似はさせられない」

「え……」


 夕霧は、驚いたとばかりに目を見開いていた。


「エモートスティーラー。賭けをしないか? お前の好きな道楽だ」

「と、申しますと?」


 目を瞑り、微笑みながら彼は俺に聞き返してきた。


「俺が持つ夕霧への恋心。それを差額分になるように引き抜いてくれ。その状態で俺がまた夕霧の事を好きになれたら、全部無償で返してほしい」

「前園先輩、どういうことですか!」


 夕霧をいつから好きだったのか、それはよくわからない。でも、今日ここに来てわかった。


「言っただろ。お前にだけ危ない真似はさせられないって」

「よろしいのですか? あなたの好意を吸い取ってしまえば、それがまた芽生える補償なんて――」

「好きになる。俺は、また夕霧彩矢を好きになる」


 振り向いたその先で泣いていた女性に、声をかける。


「先輩? ぅあ……ッ!」


 放心している夕霧に近づいて、腕全体で寄せるように抱きしめる。短く悲鳴のようなものが聴こえたが、気にしてはいられない。


「今こうしている事を忘れても、俺はお前を必ず迎えに行く」

「あ、あの先輩」

「突然で驚かせて悪い。寂しい想いをさせるかもしれないけど、できるだけ早く戻る」


 俺の決意。臆病さを返してもらってからの、初めての決意だ。


「それで、どうなんだ」


 肝心の商人は返事をしていない。賭けに乗るかどうかの返事、それがすべてを決める。彼は優しく微笑み、こう告げやがった。


「もちろんです、乗りました」


 百万以上の現金をすぐに用意するのは無理だ。時間を空ければ夕霧が無茶をする。

 なら、俺がこうするしかない。


「実行する前に。私は後ろを向いておりますので」


 クルッと軽快に俺達へ背中を見せる。

 この間に逃げろと言っているわけではないよな。


「しばらく、お別れだから」

「……はい」


 抱きしめていた力を緩めて、夕霧の――いや、彩矢の目をじっと見つめる。察してくれたのか、彩矢は静かに目を閉じてくれた。

 彩矢の唇は少しだけ開き、震えていた。

 それを塞ぐように、また抑えるように自分の唇を重ねる。


(なんだろう、懐かしい)


 その余韻を感じる間もなく。ふと、意識が暗転した。


「あれ」


 先に声をあげたのは、彩矢だった。


「先輩、私……」


 彩矢はまだ泣いている。

 あれ、俺はなぜ覚えている?


「お気づきになられましたか、前園さん」


 後ろを向いたままの商人は、今にも笑い出しそうな声で話しかけてきた。


「え?」

「まずはお返ししますね、そう……『一度目』の記憶を」


 また暗転。それと同時に記憶の波が押し寄せてきた。


『彩矢が泣いている。放ってはおけなかった』


 これは俺の記憶だ。


『こいつを助けてやってほしい。例えば……寂しさを奪ってやるとか』


 俺は、彩矢を助けたかった。家族を失った寂しさを埋めてやりたかったが上手くいかずに商人と引き合わせた。


『寂しさなんていりません。全部、買い取ってください』


 一瞬のフラッシュバック。凝縮された時間から引き戻された時、俺は尻餅をついていた。


「夕霧さんは、寂しさをすべて私に買い取らせました。そして、一度壊れてしまったのです。寂しさを感じないのに、家族を失った悲しみはなくならない。この感情の矛盾は、彼女の心を完全に歪めてしまいました。そこで、あなたはこう持ち出したのです」

『賭けをしないか? お前の好きな道楽だ』

『俺がまた夕霧の事を好きになれたら、全部無償で返してほしい』


 そうか。今回は『二度目』だったのか。


「あなた達は同じように記憶を売り、心を歪め、愛に賭けた。さあ、お約束通り、すべて無償でお返ししましょう」

「嬉しいけど、なんでお前はそんな律儀に?」

「ふふふ……」


 俺の質問がおかしかったのか、我慢しきれないと商人はクスクスと笑いだした。


「違いますよ。私はあなたの『勇気』を買ったのです」


 別に感情を取られた訳じゃない。この商人は、最初から全部知っていた。


「前園先輩! 寂しかった……もう、恋人に戻れないかもって!」

「お前は、覚えていたのか?」

「い、いえ。恋人だった記憶もなくなっていたんです。でも、あの商人の事だけは覚えていました」


 最初に彩矢が道案内に手慣れていたのは、俺の案内で来ていたからだった。

 商人は、その答え合わせをニヤつきながら傍観していた。


「日常にお帰りください。前園さん、楽しませてくださってありがとうございました」


 屈託のない、皮肉を含まない商人の笑顔。だが、訳も分からない内に振り回されていたのには腹が立って仕方がなかった。


「本当にもう全部返してくれたんだよな」

「もちろんです。またどこかでお会いしましょう」

「遠慮しておくよ。もう自分の感情を売るなんて懲り懲りだ。じゃあな」


 商人に別れを告げ、未だに泣き続けている彩矢を裏路地の出口へ連れて行く。


「彩矢、大丈夫か?」

「はい。ちゃんと寂しさの感情も戻っています。馬鹿な事をして、ごめんなさい」

「俺の方こそ。寂しくならないように、一緒にいよう」

「ふふ。はいっ!」


 もう間違えない。肩に抱く温もりに誓いながら、俺は彩矢と一緒に帰路についた。

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