第46話 【2052_xxxx】その先の記憶

「うんうん、良かった良かった。では、またお時間がある時にいらしてください」



 診察室のモニターに映されたカルテを見ながら、老人は答える。

 

 眼鏡のフレームからはみ出したふさふさの白い眉毛が、痩せた頬と一緒になって、ゆっくり動く。そうしてできた、にこやかな表情で、彼は優しく振り向いた。


 向かいに座る男性はそれを聞くと、パァっと笑顔で顔を輝かせた。沈んでいた瞳にも、希望の光が宿り始める。


 彼は深々とお辞儀をすると、丁寧にお礼を言った。



「本当にありがとうございました。もうずっと色々な病院をたらい回しにされて……本当にもう、ここが最後で……」


 

 表情は明るかったが、その声は震えていた。思わず潤んでしまった目元を、サッと隠すように手で覆う。


 老人は、ここに来るまでの彼の苦労を察すると、肩に手を置いて励ました。



「うんうん。大丈夫だよ。まだ若いんだし、これから戻ってくから。僕が保証するよ」



 その後も繰り返し頭を下げながら、彼は「ありがとうございました」とお礼の言葉を絶やさず、診察室を後にした。


 ひどく丁寧すぎる姿勢とも思われたが、老人にとっては、に来てからは日常的な風景だった。だからといって、老人の為すべきことは、昔と変わらない。


 2本の人差し指だけでキーボードを打ちながら、彼のカルテに追記していく。「カチ……カチ……」と、心地よい打鍵音だけんおんが部屋に鳴っていった。


 記入が終わると、老人は窓の外に目を向ける。

 の南部を広く見渡せる大きな窓だったが、今日はまだ明るい陽光に出会えていない。


 今朝は、朝から厚い雲に覆われて、パラパラと小雨が窓を叩いていた。雨の雫が、ガラスに跡を残して走っている。粒の大きさからして、少し強くなってきたのかもしれない。


 座っていた椅子を「キィ」と鳴らしながら、老人は身体を預けて目を閉じる。


 ……雨音は、たえなる調べを奏でている。他の処置室から「カチカチ」と器具を鳴らす音も聞こえてきた。外の廊下を歩く足音もあるようだ。


 昔の自分がいたところに比べると、随分ここは多くの人が動いている。

 しかし、そんな喧騒も悪くなかった。



 ――……ルル、プルル、プルル



「……おっと、はいはい。いま出ますからね」



 一本の内線が、老人の意識を現実へ引き戻した。ちょっとばかり、その音に驚いた様子だったが、すぐにデスクにある受話器を取って答えた。


 向こうからは、ここの看護師の声が聞こえてきた。



「……おはようございます、先生。先週来た患者さんなんですが、さきほど目が覚めまして……」





 * * *





 ――コンコン

 


 病室のドアを、2回ノックする。


 普段から慣れていた所作だったが、ほんの少しだけ、老人の心は揺れていた。周りには看護師や他の患者達の話し声も聞こえたが、今はこのドアの向こう側の反応が欲しかった。

 

 数秒後。



 ――……はい



 待っていた声が聞こえてくる。期待していた明るい調子も、声から伝わってきた。


 そこまで聞いて、老人はわずかに身体の緊張を緩めた。そして、静かに病室のドアを開く。


 真っ白いカーテンに真っ白い壁。最新の医療器具が取り揃えられた個室の、真っ白いベッドの上に、彼女はいた。


 用意されてたグリーンの入院着に身を包み、上半身だけを起こして、こちらを向いている。しっかり休んで血色の良くなった顔は、優しく笑顔を繕っているが、老人を見つめる目は「不安」で震えて、湿っていたように見えた。


 老人は、彼女の警戒心を煽らないように軽くお辞儀をしてから、彼なりの最高速度で部屋に入っていく。右手に持った杖と両足で、ゆっくりゆっくり。



「……あっ! あの、大丈夫ですか?」



 ベッドの上から、心配そうな声が響いてくる。声の勢いそのままに、彼女はベッドから飛び出さんと、掛け布団を「がばっ!」っとめくっていた。


 だがそれも、ここに来てからの老人にとっては日常茶飯事だ。慣れたように「平気平気」と左手を挙げて、彼女をその場に押し止める。


 ようやく、ベッドの近くのスツールに座ると、老人は部屋に入った時と変わらない微笑みで、彼女と向かい合った。



「ふぅ……すまないね、おまたせして」


「い、いえいえ! 大丈夫です! というか、私もすいません……なんかずっと眠ってたみたいで……」



 申し訳なさそうに、彼女は顔をしかめて恐縮する。

 

 確かに、彼女がここに運ばれて来てから長い時間が経っていた。

 普通の患者ならば、心肺や筋肉の機能低下が危惧されたりと、様々な問題が出てくる。


 だが、「ここ」に来る患者はそうではない。



「ああ、いやいや。それでいいんだよ。今はそれで大丈夫」


 

 老人は穏やかな口調で、彼女の言葉をフォローする。看護師の言う通り、自意識と時間間隔に問題はなさそうだった。


 「うんうん」と優しく頷きながら、老人は個室の窓の外……「令和島」に目を向ける。さっき診察室で思った通り、やっぱり雨足が強くなってきた。 



「それで、気分はどうかな? どっか痛いとか、気持ち悪いとかはない?」



 老人は、彼女の体調を伺う。


 何の変哲もない、些細ささいな問いかけだったが、老人が知りたいのはだった。


 彼女が思いのままに語る、何気ない言葉の端々にこそ、容態を判断する「きっかけ」が含まれている。ここに来る患者は、みんなそうだった。

 


 彼女は少しだけ難しい顔をして、考え込む。自分の体調と相談してるが、どんな言葉でそれを伝えようか悩ましい……老人にはそんな風に見えた。


 やがて……彼女は「うん」と自分に返事をするように、頷く。

 頭の中の気持ちをこねくり回して、変に脚色するよりも、そのまま正直に伝えた方が良いと決めたのだろうか。


 少し視線を落として、小さな口でぽつぽつと、彼女は話し始めた。

 


「よくわからないです、まだ……。なんだか遠い所へ旅に出て、久しぶりに家に帰ってきた後みたいな。タイムマシンで過去に行って、今戻ってきたみたいな。まだ身体が、ふわふわしてます」


「……いいよ、続けて」


「でも、すごく『楽しかった』です。あと悲しかったり、嫌だったことも憶えてます。そういう気持ちになったなぁって憶えてるんですが、どこでそんなことが起きたとか、何してたかは……ちょっと思い出せないんですよね……」



 そして彼女は、真っ白い部屋に掛けられた時計と、ベッド横に置いてあったカレンダーを見て、苦笑いした。



「そ、そりゃあ1も寝てたらそうなりますよね……! すいません……」



 それだけで充分だった。



(あぁ……そうか、この子は)


 

 窓を叩く雨粒のように、冷たいものが老人の胸にも落ちてきた。わかりたくはなかったが、わかるしかない。


 今の彼女は、恐らく



 老人は、その言葉を聞く前と同じ、暖かい微笑みを彼女に注ごうとする。それでもきっと、どこか欠けた表情ができてしまっているだろう……。


 一瞬、自分の心が、ざわめくのを感じた。

 決して彼女の言葉を遮らず、笑顔も崩さない。今の彼にできるのは、こんなことくらいだ。


 申し訳なさそうに頭を掻く彼女を見ながら、彼はまた、ふさふさの白い眉毛をゆっくり動かして、ようやく、にっこりした表情を作る。



「平気だよ。僕が1ヶ月も寝てたら、頭もボケちゃって上手く働かないかもしれないけど、あなたならきっと元に戻る。今はまだ先のことは考えないで、ゆっくり休むといいよ」


「ふふっ……ボケちゃってなんて……。でも、ありがとうございます」 



 彼女の笑い声に、老人はどこか救われたような気持ちになってきた。しかし、それが現実をまだ知らない、仮初めの表情だというのはわかっていた。


 少しだけ俯いてから、老人は白衣のポケットを漁る。ずっしりと重くそこにあったものは、今は別の重さで彼の手を邪魔してきた。


 これで、今日の自分の役目は終わる……最後にほんの一瞬でも、何か彼女に戻るものがあれば……。


 そんなすがりつくような緊張感が走る。


 そして、それを手のひらに乗せて彼女に見せた。しわくちゃの手の上に、大きくはみ出すそれを、彼女はベッドの上で、じっと見つめている。



「……これは、鍵ですか? 随分大きくて古そうですね……大きい門でも開けるんでしょうか?」


「うん……。あのね、あなたが運ばれて来た時から、ずっと側にいた女の子がいてね。『目が覚めたら渡してください』って預かったんだ。すごいキレイな白髪で、眼も青くて外国人みたいだったよ、かわいい白衣も着てたね」


「……? う~ん、誰でしょう……。プレートにある名前もわからないし、会社の人かな……」



 彼女は、その鍵を手に取ると、まじまじと眺めている。


 付いていた金属製のネームプレートを見ても、ピンと来ていないようだった。顎に手を当てて、思い当たる節がないか、記憶の隅々を漁っている。

 

 だが、老人には、その答えがわかっている。

 かつて共に研究した部下の名前だったが、今の彼女には、彼に辿り着く記憶はもう無いのだから。


 それでも彼は何も言わずに、頷く。



「ふふふ……ゆっくりと思い出せばいいよ。急ぐことはない」



 老人は、窓の外へと視線を向けていく。この様子だと、今日の雨は止みそうにない。きっと多くの人の身体を濡らして、冷やしてしまうだろう。


 その冷たさは、静かに記憶の間に広がるように、織り重なった淀む瀬を流していくように……。



「……きっと、これから戻っていくからね」






 * * *





 古く大きな屋敷だった。


 白い木目が美しい。雨に打たれて濡れる屋根瓦にも汚れ1つない。庭に広がる木々や灯籠も、しっかりと手入れがしてある。家主の手入れが行き届いているようだ。


 だが、この家に入る門は硬く閉ざされている。錆びが見える鍵穴と錠は、もうしばらく開けられてなかった。

 

 重厚な金属製の黒い門は、人の背の高さはあるだろうか。家の周囲を囲う白い外壁も相まって、まるでここだけ時間が止まっているようだ。


 空は雨雲で暗く覆われているのに、家の灯りはなかった。


 その家のリビングから、微かな稼働音が聞こえる。

 ダークブラウンを基調に、上品な調度品が飾られているこの部屋……音は、その先からだった。


 整然と調理器具が揃えられている広い調理場で、1体のサポート・ドールが座っていた。


 アンティーク調の装飾が施された背もたれのある椅子。ワインレッドの革張りも美しいが、そこに座っているサポート・ドールの秀麗しゅうれいさは、それらを凌駕りょうがしている。体のパーツには一分の隙間もなく、頭髪から足先まで、精巧な美しさが宿っていた。


 しかし、サポート・ドールは、活動を停止しているように見えた。

 ピンと背筋を伸ばして、礼儀正しく座っているが、身動き一つ取らない。


 ……その眼だけはあおく光っている。なにか対象を捉えている訳ではなく、ただ稼働中を示すために、彼女のまぶたが開かれているだけだった。


 稼働音に合わせて、瞳のあおはチリチリと点滅する。


 そして、主のいないこの屋敷で、彼女の内側には小さな稼働音が走っていく。



《......行動ログ初期化:【成功】.....ユーザー認証設定......所有者の登録を解除.....初期化:【成功】......新たな所有者の登録を開始します......登録名......》



 まばゆいあおが、最後に輝いた。





《山野芽衣》

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メモリア・デザイナー おとき @otk05

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