第45話 【2052_1107】沈む瀬の行方

 コンテナ船の船首に、人影が見える。


 荷を積むほどでもない広さのそこに、布瀬は天を仰ぎながら、自由に闊歩していた。十六夜の月が、彼女の姿を照らす。


 まるで舞台で1人、スポットライトを浴びて悠々と役を演じきっているようだ。空に瞬く数々の星は、彼女の演技を喝采し、船底を打つ波音も、それに応えて拍手を送る。


 誰も、彼女の世界には、上がってこない。


 下では、自分を慕って集まった者たちが戦っている。後ろに積まれた荷物も、彼女が大切にしてきたものに違いない。


 だが、今の布瀬にとっては、どれも興味をそそるものではなかった。それは、彼女が姿になったからではない。ずっと、彼女は



 そして最も求めているもの……それは、間もなくこの舞台にやってくることがわかっている。後ろから甲板を走る足音が聞こえる。


 そう、間もなく……。



 そして、足音が自分の近くで止まると……布瀬は静かに口を開いた。その姿を見る前から、薄黒い紅が引かれた唇には、彼女の白い歯が覗いていた。そして、ゆっくりと振り返り……



 ――あぁ、やっぱり



「あなたは来てくれるのね」


「……遠くから見つけた時は嘘かと思ったが。今のお前に似合ってるよ、この場所は」



 懐かしい声が聞こえる。


「オロチリンクス」の時とは違う、はっきりとした静間の声が、布瀬に届いていた。


 少し息があがっているようだが、両の眼はしっかりと布瀬を捉えている。その目からは、彼女を二度と逃すまいという執念のような、長らく待ち望んでいた機会を喜んでいるような興奮も感じられた。


 しばらく沈黙が流れる。

 ただ船にぶつかる波の音と、寒風で軋むクレーンの音だけが、舞台を覆っていた。

 


 先に口を開いたのは、静間だった。



「無事に記憶が戻せていたようだな、さすがは私だ」


「そうね、まずはそのお礼を言おうかしら。無事に私をこの世界に戻してくれたこと、大層感謝してるわ」



 気取ったような声色で、布瀬は深々とお辞儀する。

 その芝居がかった所作に、静間はたじろいてしまう。それでも、彼は余裕を繕って続けた。



「だいぶ趣味も変わったようだ。いつぞやのように、ただ生活できれば良いというお前が懐かしいよ。昔のお前が見たら、さぞ涙を流して喜ぶだろうな」



 静間は、彼女の変貌に飲み込まれないよう、虚勢を張る。それが、子どもじみた反抗だというのは、わかっていた。


 だが、どうしても今の布瀬を、心から受け入れることができなかった。


 それを知ってか、布瀬は軽薄な笑いを浮かべると、船首を歩きながら滔々とうとうと言葉を紡いでいく。まるで、彼女だけが知っている台本の通りに、この演目が進んでいくようだった。



「少し昔話をしましょうか。あなたが記憶を戻した6月27日、私は目覚めた。次の日になると……私は27日のことをすっかり忘れていた。きちんと目が覚めて生活できていたのに……。そして、また次の日。今度は28日のことを忘れていたけど、27日のことは憶えていた……」


 

 布瀬は、大げさな身振りを交えながら、話し続ける。初めて聞かされたあの日のことを、静間はただ聞いていることしかできなかった。まだ彼女の本当の目的が読めない。


 なおも布瀬は、続ける。



「それが何日も続いて……徐々に私は自分の中に1が存在していて、元の記憶と1日ごとに切り替わっていることに気がついた。あなたや茂のことを覚えていたはずの記憶……古い記憶とでも言おうかしら。最終的に、その記憶はもうわね、ずっと新しい方が支配するようになっていた。それが、今の私」


 

 彼女の言う通り、かつての静間が知っていた姿とは程遠い布瀬が、そこにいた。外見も然り、話し方も然り……そして、あの腕時計は、どこにもしていない。



「『体験は書き換えられても、感情は変わらない』、その通り。記憶が2つになっても、私の心の中は変わらなかった。ずっと残っていた感情、それは『』という願望だった。昔の私だったら、きっとそれを狭い研究室で履行していたでしょう。でも、今の私は違う。持っていた知識、境遇、そしてココノエ社の支援。そのすべてがあれば、私はもっとこの世界を変えられると思った」



 悠々と語る布瀬の目は、爛々らんらんと輝いて、静間を見つめる。


 その光り方は、静間もどこか見覚えがあった。かつて共に研究を進め、新たな発見に喜んでいたあの時。あの輝きを連想させるものだった。

 

 けれども、目の前にあるのは……濁った薄暗い闇だ。そこに、ただ何かの光が反射しているだけに過ぎない。もう過去の面影はなかった。



「フン、大層な話だな。お前のその歪んだ願望で、この島で何人も犠牲になってるんだぞ。そうまでして自分の欲望をぶつけて、満足したか?」


「知らないわ。世界は変わった、それで終わり」


 

 布瀬は即答する。反射的な言葉ではない、本心から彼女はそう思っているのだ。その声色は、嫌なほど静間に昔を思い出させた。



「……そういうとこだけは、そのままなんだな」


「だってそれ以外は興味ないもの……。でもね、なぜかこういう自分に興味のない話をされた時、私を邪魔をする記憶がある。8年前の……あなたたちと一緒にいた記憶が、蘇る。何度も消そうとしたけど、その記憶痕跡エングラムがどこにあるかわからない。実に忌々しいわ」



 彼女がそこまで言い切ると、船の外側から轟音が響いた。同時に静間の足元も大きく揺れる。何かが船体に直撃したのだろうか。


 しかし布瀬は意に介さないように、ただそこに立っている。自分の身が危険に及ぼうが、どうなろうが、それすらも「興味がない」ようだ。


 自分の予想を遥かに上回る変貌ぶりに、静間は混乱し始めていた。


 何をどう進めていけば、今の彼女を戻せるのか……。まるでさっき解いた「記憶迷路」のように、布瀬に辿り着くことができない闇の中に放り込まれた気分だった。


 

「なあ、本当に昔の記憶はもう戻らないのか? 憶えてないか、一緒に茂といた時のこと、和光で2人で飲みに行った時のこと。最後の日に俺が話したことも――」


「あぁ! 憶えてないわよ! あなた、!ずっと何度も何度も質問ばかりして、人のことをあれこれ聞いてくる!」



 「憶えてない」のに、「昔から」ずっとそう――


 彼女の記憶と言葉が一致していない。

 それでも突然激高した布瀬は、なりふり構わず荒々しく叫ぶ。よほど琴線に触れたのか、大きく取り乱していた。


 しかし、その反応を見る静間は冷静だった。今の静間が考えていることが正しければ、恐らくまだ……。


 布瀬は、髪をかき乱して、まだ怒り狂う。過去の記憶が正しく戻らないことになのか、それとも邪魔な過去と離別できない自分の無力さになのかわからない。ただ、彼女の怒りが、そのまま静間にぶつかってきた。



「最初逢った時もそうだった! 下品で乱暴で最低! それに最後の時だって……私と、茂と……静間と……、3人で一緒に……」



 そこまで話すと、布瀬は動きを止める。


 顔は怒りで固まっていたが、ふと頬を伝う冷たさに気づいたようだ。身体が一瞬、この舞台の役から解かれていく……。


 そっと、それをなぞって、濡れた指先をゆっくりと見つめる。


 その様子を見守っていた静間は、確信に満ちた声で、しっかりと布瀬に話しかけた。



「……さっき話を聞いていた時から、ずっとそうじゃないかと思っていた。記憶痕跡エングラムが見つからないと言うが、少なくとも今のお前は、あの時のことを思い出せるし、感情も死んじゃいない。の話を聞いて埋もれた記憶が活性化してるんだ。なら必ず、昔の記憶は取り戻せる……。お前の『記憶迷路きおくめいろ』だって解いたんだ」



 話しながら、静間は布瀬に歩み寄る。


 まだ呆然と立ちすくむ布瀬は、視線だけ静間へ向けるが、何もしゃべらない。白い息が荒々しく吐かれる。脳は「冷静」を装っていたが、まだ身体はついてきていないようだった。


 

 そして、あと1歩で布瀬まで手が届く位置に来る。その目はずっと布瀬から離さない。


 静間は、あの日と同じように優しく語りかけた。



「布瀬。もう一度、同じことを言う。『今度は俺と茂と3人で新しいことを見つけよう』」


「……わ、私……そんなのきょうみ……」


 

 過去の記憶に想起されたのか、布瀬の唇は記憶の通りに、同じ言葉を作ろうとする。


 だが、それは思い通りにならなかった。今の彼女は、過去とは違う結果を導き出そうとしている。


 布瀬の瞳は、暗闇の中でもしっかりと、静間の姿が映っている。そこにいる彼は、変わらず優しい笑顔で、自分を見ていてくれた。


 濁っていた頭の中が少しずつ晴れていく。淀んでいた思考の中に、ある明確な意思が出てこようとしていた。


 そして、布瀬は過去とは違う、新しい言葉を彼に届けた。


 

 ――……そうね



 だが、声が彼に届く直前……。

 静間が、布瀬の口の動きを認識した瞬間、甲板に強い海風が吹いてきた。


 冷え切った風と潮気に、思わず静間は目を瞑って、腕で顔を覆ってしまった。


 そして、何か静間の前を「ヒュン」と風切り音が走った。


 ……ゆっくりと目を開いていく。



 目の前にいた布瀬は……後ろから何かに押されたかのように、よろめいていた。


 恐らく今の風に煽られたのだろう。そっと支えに行こうと身体を動かすが、足元に違和感があった。


 一歩踏み出した靴の先……床が黒く染まっている。

 目で追っていくと、色は布瀬の左肩から伝っていた。そして……


 彼女の肩口は、真っ赤に染まっていた。



「……っ! 布瀬!」 



 ――ゴォオオオン!!



 静間が叫んで駆けるのと同時に、突如コンテナ船が激しく揺れる。


 巨大な爆発音と共に、さっきとは比較にならないほど、上下に地面がたゆんでいた。静間の身体は、大きく甲板から浮いてしまう。

 


 ――それは布瀬も同じだった



 駆ける静間の手は、空を切ってしまう。


 空の暗さと海面の暗さの境界もわからない、真っ暗な深淵に、布瀬は放り出されていった。


 そして、そのまま。


 水面が激しく弾ける音が、耳に聞こえてきた。



 コンテナ船の横から上がる黒煙は、休むことなく、この世界を黒く淀ませる。その黒さは空の黒さとも、海の黒さとも、同じに見えた。


 すべてが混じった、この浮世の黒の中に、ただ男のく声が流れていった。




 それから。







 静間優樹と、布瀬涼を見た者は、誰もいなかった。

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