僕とグリーグ
増田朋美
僕とグリーグ
僕とグリーグ
年末が近くなると、当然の事であるが、学校も冬休みに入る。その前に、授業参観が在ったり、三者面談のようなものが設けられることが多い。三者面談というと、中学校や高校で多いようだが、最近は小学校でも行われている。田沼ジャックさんの息子である田沼武史君の通っている学校でも、三社面談が行われていた。ちょうど、ジャックさんが、武史君と一緒に、三者面談を受けているところだった。ほかの学校と違うところは、校長先生が面談の担当になるということであったが。
「えーと、田沼武史君ですね。お父様、一寸言いにくいことですけどね。」
校長先生は、ジャックさんをため息をついてみた。
「はい、何でしょうか。」
校長先生は、ジャックさんにずいぶん日本語がお上手になりましたな、とまず言った。そして、
「実はですね、お父さんにも、日本の学校のルールというものをわかってもらわないといけません。武史君の授業態度は、目に余るものがあります。もう少し、お父様が、ここがイギリスではなくて、日本である事を、もうちょっと、認識していただいて、武史君によく言い聞かせてください。」
と、いいたくなさそうに言った。
「あの、それは具体的にいうと、武史が何か悪事をしたのでしょうか?」
と、ジャックさんが聞くと、
「まず初めにですね。武史君が美術の授業で描いている絵ですが、とても教室に飾れるような絵ではありません。本人は学校に生えている杉の木を絵にしたのだと言いますが、この絵を見てください。このような言い方は、したくありませんが、はっきり言って、杉の木とはとても思えないんです。」
と、校長先生は、画用紙をジャックさんに見せた。確かに、これは何を描いたのか、ジャックさんも見当がつかない。ただ、大きな木の大きさに感動して描いたのだと武史君は主張しているようであるが、ただ絵の具を落として、たらしこみを重ねてあるだけじゃないかと言えばその通りである。
「あ、ああ、すみません。自宅内でもよく絵を描いているんですが、確かに何を描いているのかわからないという節があります。新幹線を描かせても、新幹線自体を描写したものは全くないですし。」
ジャックさんは正直に言った。
「そうですか。このような絵を描かれては、ほかの生徒たちにも、悪影響を与えかねません。せめて目に映るものをちゃんとその通りに描こうねと教師が幾ら指導をしても、直そうともしない。其れだけではありませんよ。この間の音楽の授業だって。」
校長先生は、ジャックさんにいい加減にしてくれと言いたげな顔をしていった。音楽の授業のエピソードは、音楽の先生からきつく文句を言われているのでジャックさんも覚えていた。
「おわすれじゃありませんね。皆でモーツァルトの交響曲を聞いて感想を述べあおうという授業の時に、彼は、何を言ったか、ちゃんとわかっていらっしゃいますかな。」
確かにそれはよく覚えている。そのことでジャックさんは、学校から呼び出されたのだ。音楽の先生というのは、意外にプライドが高い人が多いから、ひどく感情的になることもある。みんなで、っモーツァルトの交響曲を聞こうとしたら、武史君が、僕はグリーグのほうがいいと発言して、授業をぶち壊しにしてしまったというのだ。音楽の先生は、其れについて非常に怒っていた。幾ら、イギリスでは、自己主張を大事にすると言っても、こんなふうにしてしまうのは、失礼にも度が過ぎると怒鳴っていた。
「そういうわけですから、お父様、もうちょっと武史君について、考え直してください。ここは日本である事はもちろんのこと、この学校が私立の小学校である事を、忘れないでくださいね。学校の先生に任せきりにしておけばいいなんていう考えは、通用しませんから。学校はあくまでも、学問をさせるところですからね。しつけは、家でするということをしっかり頭に叩き込んでもらいたいものです。」
校長先生は、苦虫をかみつぶしたような顔をして、ジャックさんを見た。確かに親が外国人であるというのも、ある意味では教育を受けるうえでネックになるかもしれないが、何だか武史君を特別視しているのではないかとジャックさんは考えてしまった。
とりあえず、ジャックさんは、校長先生に頭を下げて学校を後にした。武史君のほうは、やっと学校が終わったと言って喜んでいた。
一方そのころ、製鉄所ではいつも通り水穂さんが、布団の中で眠っていたのであるが、
「ねえ、右城君ちょっと起きて。武史君たちが一寸相談があるんだって。あたしたち、ジャックさんの相談に乗ってるから、右城君は、武史君と遊んでやってよ。」
と、浜島咲が、水穂さんの体をゆすって起こした。水穂さんは、窶れた体で、よろよろと起き上がる。その姿勢は、何とも窶れた痛々しい風情であった。咲は、右城君、また食事をちゃんととってないのね、何て、ため息をついてそれを眺めていた。いきなりどどどどっという足音が聞こえてきて、
「おじさん!ピアノを弾いて!」
と武史君が、飛び込んできて。水穂さんの体に縋りついた。家庭環境のせいなのか、それともお国柄なのか、武史君はすぐに大人に抱き着いてくる癖がある。
「はいはいわかりましたよ。何を弾けばいいのかな?」
水穂さんが優しい声でそういうと、
「おじさん、グリーグのソナタ弾いて!」
というので咲はまたびっくり。確かにグリーグのソナタというと、咲も一度だけ聞いたことが在る。だけど、決してショパンのソナタなどにあるような、おしゃれな雰囲気もないし、ベートーベンのソナタにあるような、神聖な雰囲気もない。其れよりも、人間的でどす黒い曲と言えばいいのか。そういう雰囲気のある曲であった。
「はいはい、良いですよ。」
水穂さんはよろよろとピアノの前に座って、グリーグのピアノソナタの第一楽章を弾き始めた。そのきれいな和声とは、かけ離れた、気持ち悪いともとれる和音の連発に、咲は違和感を覚えた。
「ああ、すみません。全く、逃げ足だけは早いんだから。おじさんにご挨拶ぐらいしなきゃ。」
と、ジャックさんが四畳半に入って来るが、武史君は、もうグリーグのソナタに聞き入ってしまっていて、返事すらしなかった。
「一生懸命聞いているんですから、そのままにしておいてあげましょう。其れより何ですか。僕に相談って。」
台所のほうから、ジョチさんがやってきた。ああどうも、理事長さんとジャックさんは、ジョチさんに挨拶をする。縁側に出た二人は、ジョチさんが出してきた座布団に座った。咲も近くに座らせてもらう。
「実はですねえ。今日武史の学校で、三者面談がありまして、」
ジャックさんは、校長先生に言われたことをジョチさんに話した。咲は、流れてくるグリーグのソナタのせいで、このお話がより重い話になるような気がした。
「そうですか。そんなことを学校で言われたんですか。日本の国民性と言いますか、全員同じことをしないと、面白くない人間がまだまだ多いんですよね。」
と、ジョチさんは、腕組みをして考えこんだ。
「それにしても、小学校一年生の男の子が、グリーグにはまるというのが驚きです。其れは、何かきっかけがあったんでしょうか?」
「はい、テレビで流れていたのを、武史がきいてしまったようです。」
ジャックさんは正直に答える。
「まあ確かに、このくらいの子供さんであれば、テレビのまねをすることはよくありますよね。其れがたまたまグリーグのソナタだったということでしょうか。」
ジョチさんは、頭を傾げた。
「ええ、ほかのコマーシャルとか、そういう音楽には、まったく興味を示さないのに、なぜかグリーグのソナタを口ずさんでしまうようになって、あの曲のタイトルは何かとしつこいくらい聞いてくるものですから、答えてしまいました。」
と、ジャックさんはそういうことを言った。
「こういう気持ち悪い音楽を好むということは、武史は何か異常があるのでしょうか。病院に行って、脳波でも検査してもらった方が良いのかな。これだけ学校で迷惑をかけているということになりますと。」
確かに、グリーグのソナタはとても気持ち悪い音楽だった。美しい和声とかそういう言葉からはるかにかけ離れてしまっている。咲はそのけたたましい音楽に、余計に嫌な気持ちになってしまうのである。しかも武史君は、ソナタの全楽章が終わると、もう一回もう一回と何度もせがむので、結果としてグリーグのソナタが何回も流れることになり、余計に気持ち悪さが増大してしまうのだった。
「何?ジャックさんの絶望的な顔。」
と、台所から、杉ちゃんがやってきた。杉ちゃんどうしたんですかとジョチさんが聞くと、
「単にお茶が入ったと言いに来ただけだけど?」
と杉ちゃんは答えた。でも、杉ちゃんの事だから、必ず誰かの話に首を突っ込んでくるのだ。そういうところが杉ちゃんである。
「ええ、なんでも武史君が今流れているグリーグのソナタを気に行ってしまって、学校で問題を起こしたそうなんです。」
と、ジョチさんが説明した。
「ああ、ソナタホ短調か。」
杉ちゃんは、気の抜けるような答えを言った。
「まあ確かに、きれいな曲ではありません。其れははっきりしています。其れを好むというのは、異常ではないかという、ジャックさんの心配もわかりますし、学校から呼び出された理由もこのソナタで答えを出してくれています。」
ジョチさんが説明すると、
「まあそうかもしれないけどさ。誰でも教育を受ける権利というのはあるはずだ。学校の先生が変な奴だと言って来たら、生徒に対して何を言うんだと答えればいいんだよ。」
杉ちゃんは、耳の痛い話を始めた。
「だって、武史君が、あのソナタを好きであるのは、しょうがないことだろ。個人の好みだもの。それは、何も変えられないことだよね。其れをどうするか、をまず考えなきゃ。もし異常があるんだなと思うんだったら、調べてもらえばいいし、それでもし、学校を変われと言われたら、学校を変わればいいんだ。其れでいいんじゃないの?」
「しかし杉ちゃん、異常な子供を見てくれる学校なんてどこにあるんですか。」
ジャックさんがそういうと、
「いや、そういう風に病名がはっきりついた方が、新しい学校を見つけやすくなるかもしれませんよ。例えば、これを言うのは失礼ですけど、ダウン症の子どもさんに特化した保育園などもありますしね。」
と、ジョチさんが言った。
「そうですが。武史を、どこの病院に連れて行ったらいいのかもまったくわかりません。気持ち悪い絵をかいたり、グリーグのソナタを夢中になって聞くなど、それが症状にあたるのかもわからない。」
「そうですね。そういうことは、治療者の方にいえばちゃんとわかってくださると思いますよ。ほかに、学校の先生に叱られたことをメモ書きして話すなどと工夫をしてみてはいかがですか?」
ジャックさんの言葉にジョチさんは、リーダーらしく言った。
「もしよければ、あたしが影浦医院に連れて行ってもいいわ。あたしも、武史君のことはお手伝いするわよ。」
咲も、ジャックさんを励ますように言う。
「とにかくね、あたしは素人だからよくわからないんだけど、まず病院で見てもらって、学校を変わっても良いと思うの。武史君のことを悪く言うだけの学校じゃ、きっといい教育者にはなれないわよ。それよりも、武史君のことを一生懸命見てくれるところをさがさなきゃ。」
「そうそう。はまじさんいいこと言う。この上でまた学校を変わるのかと思うかもしれないけど、こういう子供をもってしまった以上、学校をコロコロ変わるのは、仕方ないと思ってよ。そして、一般的な日本人とは、かけ離れた人生を送ることを覚悟することだな。」
杉ちゃんもデカい声でそういうことを言った。
「もしよかったらの話なんだけど、学校というより、フリースクールみたいなところに一寸預けるのはどうかしら。ジャックさんだけではなく、外部の人を頼ってみるのも又いいかもしれないわよ。」
と、咲は、スマートフォンを出して、富士市内の施設を探し始めた。
「ほら、今はこんなに施設があるわ。そこに手当たり次第に当たってみたら?」
咲が指さした画面には、子供の支援施設がたくさん載っていた。田舎町ともおもえる富士市なのに、支援施設はたくさん建てられているのだ。
「昔の寄宿学校のようなところも在るし、通所型のところも在るけど、誰かの手を借りることも必要だと思うの。」
「そうですねえ。一寸それも考えなければいけないかなあ。」
とジャックさんは、心配そうに言った。
「とりあえず、事実はあるだけでさ、問題は何も変わらないんだってことを、忘れないで頂戴よ。それさえ忘れなければ、大丈夫だから。」
と、杉ちゃんがいうと、みんなもああそうだねと言って、大きなため息をついた。いつの間に、ピアノの音は消えて、せき込む声に変わっている。武史君がおじさん、おじさんと言っている声も聞こえて来た。ジャックさんはすぐに武史を叱らなきゃと立ち上がったが、
「いや。武史君が気が付いてくれるまでまとう。」
と杉ちゃんが言った。確かにそうさせるべきだと咲も思ったが、その前に水穂さんを早く寝かさなければならないとおもった。
「大丈夫だよ。武史君は、他人が苦しんでいるのを放置するようなバカじゃない。そのグリーグの曲を好んで聞くところが動かぬ証拠じゃないか。」
杉ちゃんはそういっている。杉ちゃん、そんなこと言って、水穂さんの事ほっぽらかしでいいのかと咲が言いかけると、ふすまがガラッと開いた。ふすまの向こうには武史君が立っている。その顔は涙で真っ青になっていた。
「どうしたんですか?何かありましたか?」
と、ジョチさんが優しく聞くと、
「お願い!おじさんを助けてください!」
と武史君は逼迫した顔で言った。水穂さんは、ピアノの譜面台に顔をつけてせき込んでいる。口元には赤い液体が見えた。ジョチさんは、水穂さん大丈夫ですかと言って、無理やり水穂さんをピアノから離すと、何とか布団まで歩かせて、強制的に布団に寝かしつけた。そして、枕元に在った吸い飲みを取り、ほらどうぞと言って、中身を飲ませた。飲んで少しすると、せき込むのは止まってくれたのあるが、その代わり猛烈な眠気を催す成分があったのか、水穂さんはそのまま眠ってしまうのであった。
「武史、おじさんには、限度というものがあるんだ。それは守らないと、」
とジャックさんが言いかけると、杉ちゃんが黙ってなと言ってそれを止めた。
「大丈夫だよ。武史君は、雰囲気で十分理解できる男さ。だからこそ、グリーグのソナタを好んだりするんだから。」
と、杉ちゃんがジャックさんの耳元でつぶやく。
武史君は、いつまでも泣いていた。おじさんをああいう風にしてしまったのは、自分だと思ってしまったのだろう。
「武史君、人に迷惑をかけた時はなんていうんでしょうか?」
と、ジョチさんはクイズ番組の司会者みたいに、そういうが武史君はそれを言うよりも、大事なおじさんが逝ってしまわないかを気にしているようであったので、
「大丈夫ですよ、おじさんは幸い鎮血の薬が効いたので、もう心配はありません。ただ、眠ってしまうのはしょうがないことです。」
ジョチさんは、武史君に言ったが、武史君は発言するのも怖いという顔をしている。
「武史君。」
ジョチさんが一寸強めにそういうと、武史君は恐る恐る、
「おじさんは助かるの?」
といった。もしかしたら、おじさんは死んでしまうの?と言いたいのかもしれないが、それを隠している様子が見られる。
「だから、大丈夫ですと言ったでしょ。薬を飲ませることができたから、とりあえず安心してくれて結構ですよ。」
ジョチさんはそういうことを言うが、
「子供だから、そんな難しいこと言ってもわかんないんじゃないの。其れよりも、大丈夫だよ、と一言だけにしてやった方がいい。武史君、大丈夫だよ。」
と、杉ちゃんが強く言った。
「おじさんが、目を覚ましたら、ちゃんとごめんなさいっていうんだぜ。それは当たり前の事だからね。」
「はい。」
武史君は、六歳の少年らしくそういうことを言った。
「でも、好きだったグリーグ、弾いてもらってよかったね。」
と、咲は思わず言ってしまった。なんだか六歳の男の子に、こんな重い謝罪をさせるのはかわいそうな気がした。
「それに武史君は、一寸不自由なところも在るんだし。ちゃんと気持ちを伝えれば、其れでいいわよ。」
「いや、はまじさんね。其れこそ究極の人種差別。それでいいじゃなくて、ちゃんと謝罪をさせることも、人種差別から解放させるテクニックだと思うよ。」
咲の話に杉ちゃんが口をはさむ。ジョチさんは、ああなるほどね、杉ちゃんよく言いますねという顔をしているが、ジャックさんは何かわからないという顔をしていた。
「障害があるとか、そういう事で謝罪を免れると言ったって、其れはダメだぞ。ちゃんと謝罪は指せないとね。それは誰でも同じ。」
杉ちゃんは、口笛を吹いてそういうことを言った。
「はい。分かりました!」
と武史君は言っている。ということは、ちゃんと杉ちゃんの言っていることを理解したのだろうか?それから数分して、水穂さんの目が動き始めた。もうそろそろ薬の副作用もきれて、目が覚める時刻だった。
「おじさん。」
武史君は、水穂さんに声をかける。水穂さんは、まだ意識がもうろうとしているのか、半分だけ目を開けた。
「おじさんごめんなさい。僕、悪いことをしてごめんなさい。」
武史君は水穂さんに頭を下げた。
「そして、弾いてくれてありがとう。」
この発言には、そこにいた全員、びっくりしてしまう。武史君がそういうことを言うことができるなんて、予想もしていなかったのだろう。
「そうか、其れが言えるんだったら、武史君、お前さんは、多少異常なところがあるのかもしれないけれど、学校で生活できるだろう。よかったね。」
杉ちゃんがカラカラと笑った。確かに、其れができるとできないとでは、学校生活できるかの上で、大きな違いかもしれなかった。
僕とグリーグ 増田朋美 @masubuchi4996
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