ミシストリマの墓標
雨瀬くらげ
ミシストリマの墓標
空には薄い雲がかかっており、快晴とはいえなかった。何とも言えない天気だな、と思いながら俺は配給所の扉を開けた。ここは街の唯一の配給所だ。あまり大きな街でもないので、ここに来るまでの所要時間は最も離れた家でも徒歩五分程度だろう。その程度の規模の街なのだ。
受け付けは三つあったが、どこも行列を作っていた。皆、いい服を着ておらず、砂が付いている。自分もそうだし、今の時代は仕方がないのだが、それを見ると何だか気分が悪くなったので部屋の隅のトイレに向かった。
蛇口を捻り、顔を洗う。鏡には情けない顔をした男が映っていた。黒いカーディガンに白いティーシャツ。心も見た目も色がない。ダメな人間になってしまったのはアレのせいだ。
《大災害》なんていう陳腐な名前をつけられたアレだ。終わりの見えない豪雨と地震がもたした地球規模の砂漠化。人々は多くの物を失い、生き甲斐さえも栄光の時代に置いてきてしまった。その時代を五つ星レストランのフルコースだとすれば、今の時代はインスタントの味噌汁だろう。レストランなんて言葉はもう死語なのだが。
俺はその味噌汁に浸かっている。生き甲斐を置いてきた人間の一人である。
トイレから出ると、タイミング悪く目の前を通った少女とぶつかってしまった。少女がよろめき、俺は慌てて手を貸す。
「悪い、大丈夫か?」
「うん、平気。お兄さんは?」
問題ない、と答えながら少女をしっかりと立たせた。肩まで伸ばした髪にパーカー、ジーンズと大人びた服を着ているが、よく見ると小学三年生くらいだろうか。それにしても、何で配給所にこんな小さい子が来ているのだろう。
俺が頭を悩ませていると、その少女が一冊の本を手渡してきた。
「お兄さん、落としたよ」
言われてみると、確かにさっきまで持っていた本がなかった。大事な本だったので拾ってもらえて良かった。お礼を言うついでに、さっきの事を訊いてみようと、
「ああ、ありがとな。ところでお前、母さんとか父さんはいないのか?」
自然な笑顔を意識し警戒されないようにした。
「ああ、お父さんはいないんだけどお母さんなら家にいるわ。自宅配給の申し込み用紙をもらってくるように言われたの」
ああ、なるほど。そのような件ならばこれ以上は踏み込んだら駄目だろうな、と思い「じゃあ、これで」の「じ」を言おうとしたら
「もらってくるからちょっと待ってて」
と言われてしまい、俺も特に深く考えることはせずに待った。用紙要求などの受け付けはガラガラに開いており、彼女はすぐに戻って来た。
「どうした?」
「いや、それ何なのかなって思ったの。話聞きたい」
彼女は俺が持っている本を指差した。そうか、もうちゃんと製本された本なんて残ってないもんな。知らなくて当然だろう。しかし、俺は本に興味を持ってもらえた事が嬉しく、配給なんてどうでもよくなった。
「いい場所がある。そこに連れて行ってやる。行く途中で行きながら話す」
俺はこの時、前の時代に忘れたものを取り戻せるかもしれないと思っていた。根拠はないがそんな気がしていた。
配給所を出て、南へ向かう。俺は彼女の歩くペースに合わせた。
「そういえば名前を聞いてなかったな」
「吉野サクラだよ」
「そうか、サクラか。両親は桜が好きだったんだろうな。俺は白川タクヤだ。よろしくな」
「うん。よろしく。サクラってなんなの?」
「花の名前だ。昔、日本ではよく咲いてた」
「へぇ、見てみたかったな」
「今じゃ写真も残ってないだろうな……。まあ、綺麗な花だったよ」
そこで話が終わり、俺は例の本の話を切り出した。
「これはな、本の一種だ。災害前は本を機械で製本していたんだ」
「何について書かれているの?」
「これは小説だ」
「ショウセツ?」
小説は人間が災害前に忘れたものの一つだ。その言葉は声にならず、目内穴に吸い込まれた。。俺の脳裏に災害前の思い出が鮮明に蘇ってくる。あの日々は全てが小説で満ちていた。小説しか好きじゃなかった。一日中読んでいたし。一生読んでいたいと思っていた。そんな大好きな小説という文化は大災害で失われてしまった。
「ああ、文字で物語を楽しむんだ」
「モノガタリ? 難しい言葉がたくさんだね」
失われたのは小説だけじゃない。漫画、音楽、ありとあらゆる文化が失われた。その結果、自然も文化も豊かだった地球は、何もない砂漠になっている。
「物語っていうのはな、人間が想像して作った話の事だ。その作る事を仕事にしている人もいた」
「嘘の話って事?」
「そういう事だ。でもその嘘の話に救われた人達もたくさんいたんだぞ。俺だってそうだ」
周りの建物の数が減ってきて、俺達は街を出た。もうこの先に見えるのは砂漠だけ。俺が吉野を連れて行こうとしている目的地はこの先にある。忘れ去られた小説の墓が……。
「まだ先なの?」
「ああ。でも、もう少しだ」
俺達は、靴の中に砂が入るのを気にせずに再び歩き出した。
「そのタクヤの持ってるショウセツはどんなお話なの?」
「これか?」
心が興奮しているのがわかった。こんな感覚は久しぶりだ。災害前と同じ感情。人に小説について話すことがこんなにも楽しかったんだ、と思い出す。俺はその懐かしく熱い感情に任せることにした。
「世界物語っていう話だ。俺が災害前にしていた仕事をテーマに、自分で書いた話だ」
「へえ、ショウセツのお仕事してたんだ」
「いや、仕事ではないんだ。俺の仕事は……」
ストーリーテラー。人々からはそう呼ばれていた。災害前、小説の世界へ行くことが出来る技術が発明され、『小説世界へ旅行する』というのは定番になった。その旅先への案内、管理をするのがストーリーテラーという仕事だ。元々は小説家を志していたのだが、作品を書くたびに才能がない事を思い知りって夢を諦めた。それでも小説に携わる仕事がしたいと選んだのがストーリーテラーだ。就職してからは幸せな日々だった。小説によって見える世界が変わった、救われた、生き甲斐を見つけられた。そういう人達が実際にその小説の世界から帰って来た時の顔を見るのがたまらなく好きだった。共に泣いたないたお客さんもいたのだ。そこで俺は気づいた。『やはり小説には人を動かす力があるのだ』と。執筆意欲が蘇ってきて衝動に駆られ書いたのがこの世界物語なのだ。ストーリーテラーの女性と人気推理小説の探偵が恋に落ち、様々な小説の謎を二人で解いていく。まったく人を変えることの出来る小説ではない。自分の小説に価値はない。またそう思ったが、『小説の力』を伝えられる作品にはなったと思った。俺の最高傑作だった。その自信だけはあり、色んな人に読んでもらいたくて自費出版をする事にしたが結果としては売れなかったが、しかし、感想をくれた人は感想をくれた人は「とても共感した」「涙が出た」と言ってくれ、それだけで嬉しく、出版してよかったと思った。
災害が起きた後も、この小説は自分の小説への愛を最大に込めた小説としてこうして持ち歩いている。小説という文化があった事を忘れないように。全世界の人が忘れてしまっても、と、自分だけは忘れないように。
「毎週ここへ通うのもその理由だ」
俺達の前に姿を現したのは、一辺が百メートル近くある立方体の岩。砂と風邪で風化が進んでいるが、これは墓標なのだ。災害時、ストーリーテラー達の手で作り上げたのだ。災害を生き延びたのは俺だけだったが……。
「すごい……これは何?」
後ろに倒れそうなくらい反り返って墓標を見上げる吉野。俺は質問で返す。
「俺のこのシャツに書かれている文字がわかるか」
文字が見えるように吉野に近づく。
「わからない。英語じゃないよね?」
「ギリシャ語だ。ミシストリマと読む」
「ミシストリマ? 何て意味なの?」
「小説だ」
俺は再び墓標の方を向き、その岩の壁を見上げた。
「だから、俺はこの岩を『ミシストリマの墓標』と呼んでいる」
「かっこいいね。でも何でギリシャ語なの?」
俺は小さいがスターチスという花のオーナメントがなされた小さいネックレスを見た。
「好きだった人がギリシャ文学が好きだったからだ」
そのネックレスも彼女の遺品だった。忘れてはならない物の一つ。
「案外ロマンチストなんだ」
「小説を書く奴はそういう奴が多い」
俺が墓標に近づくと、吉野も近づいて文字が刻まれている事に気づいたようだった。
「これ何て書いてるの? 表面にぎっしり色々書かれてるけど」
俺は目の前にあった大好きだった作家の、スターチスのネックレスをくれた人の名前を指で撫でながら答えた。
「世界の小説家達の名前だ」
「え、全員分?」
「そうだ。小説を書いて来た世界中の人すべての名前が刻まれている。ミシストリマの墓標だからな」
例のスターチスの作家に指を当てたまま、周りに刻まれている作家の名前を目だけで読む。とても面白い話を書く人ばかりだった。すると吉野が突然、俺が指を当てている作家の名前を見て大きな声をあげた。
「あ!」
「どうした?」
「私、この文字見たことある」
「この漢字はお前にはまだ読めないだろう。それなのに覚えているのか? どこで見たんだ」
思わず前のめりで訊いてしまう。自分が関心のある話になると興奮してしまうのは昔からの悪い癖だ。
「えっと、お母さんがよくお参りしてるお墓に書いてた」
吉野の顔をよく見たら、口元にホクロがある。それを見て、ある日の会話を思い出した。
災害前の他愛もない会話ができる日。
「妹が」
彼女はそう言って話を始めた。口元にホクロがあって、それが可愛いと有利で私よりモテていた。
なぜそんな話をしたか、なぜこの会話を覚えていたのかはわからない。けれど、そういう事なのだ。
まさに小説のようだ。いや、これは小説なのかもしれない。
ストーリーテラーの資格試験を受ける時、基礎知識としてこういうものがある。
『小説世界へ入るとき、あくまでその世界の住人になる。主人公達キャラクターに合うことはできるが、それはその小説世界のエキストラとしてである』
つまり、小説のキャラクター達は自分達が小説世界の住人である事気づかないのである。だから俺は、俺と吉野達が『自分は小説のキャラクターではない』と証明する方法は一つもないのだ。
吉野は、母親の通うお墓に書かれている名前と、このミシストリマの墓標に同じ名前がある事の重大さを理解していないようだったが、特に理解させる必要はないと思った。
俺は砂が目に入らないようにしながら、墓標の反対側を見た。
この丘からは霞んで見えるが、遠くに災害前に使われていた原子炉が四棟見えた。
俺はあの原子炉は大災害の原因の象徴だと思っている。災害直前の人々は多くが人でなくなりかけていた。感情を殺し、社会で天敵の表情を窺いながら暮らす虫と同じ。仕事から帰ったら飯を食って寝る。感情を失った人々に小説なんて浸透するはずがなく、小説を初めとした芸術文化は廃れていった。大災害は神様がそんな人間達を懲らしめるために与えた罰なんだと思う。だが、そんな罰を与えてられすら人々は失った物に気づかない。そりゃあ、文化は時代と共に変わる。けれど小説は古くから残って来た文化だ。決して忘れ去られていいものではない。昔の人も『小説の力』に魅了され、小説を書きそれが繰り返されてきた。
この災害で途切れてしまうのだろうか? 俺はそれが溜まらなく悲しい。
墓標にもたれて座り込み、まるで先生に怒られてすすり泣く小学生のようにうずくまった。
「あの建物、私、好きなんだ」
吉野もその原子炉を見て言った。
「あの先には何があるのか。誰も行かないから、みんなわからない。向こうも砂漠が続くだけっていう人もいるけど、私はその先に何があるのか想像するのがすごい好きなの」
太陽を隠していた雲が晴れ、光が砂漠を照らす。そしていつもに増して蒼い空が見えるようになった。
俺は顔を上げて彼女を見る。
「空って綺麗。まるで私の想像力のように深い青だ。どうかな、私も結構ロマンチスト?」
吉野が歯を見せて笑っているのは初めて見た。でもその微笑みは俺の知っている言葉じゃ言い表せない意味が込められているように見えた。
「どういう意味だ?」
振り返った吉野の顔は逆光で見えない。でもきっと吉野が発した言葉から、俺が初めて小説に感銘を受けた時と同じ顔をしているんだろうな、と思った。
「私も、ショウセツ書けるかな」
吉野は話を続ける。
「想像して遊ぶのすごく好き。タクヤの話を聞いて私の想像で誰かを救えるかもしれないって事を知った。だから、私もショウセツを書いてみたい」
俺は世界物語の表紙に付いた砂を払い、立ち上がった。そしてその本を彼女に差し出す。
「小説はほとんど残ってないからな。これをお前にやる。参考にするといい」
吉野は俺の言葉に目を丸くして言った。
「でも、さっきこの本はショウセツを忘れないための大切な物って言ってたじゃない」
俺は久しぶりに心からほほ笑んだ。涙が出そうだったがそれは堪えた。
「俺だけが覚えておく必要がなくなったようだからな。それに俺にはこいつもあるから大丈夫だ」
スターチスのネックレスを見せ、俺は吉野の手に無理やり世界物語を握らせた。
「いい小説が出来たら俺に読ませてくれ」
約束だ、と彼女の頭を軽くポンポンと叩いた。
俺達はさっき来た道を引き返し、街へ戻る。
神様の《大災害》に意味はあったのだ。
小説の火は消えずに、新たな酸素で再び火力を強めようとしている。やはり、どんな事があってもその火が消えることはない。そして再び誰かの心を動かし、救い出すのだろう。その火は吉野の小説かもしれないのだ。
俺はあの感覚が蘇るのを感じた。どんな新作を書こう? 新たな小説文化を作れる小説を書けるだろうか。
とにかく小説の力が強い作品を書きたい。スターチスをテーマにするというのは我ながら良い発想だ。早く帰って書きたい。
そして、今の俺達の生活がもしも小説だとしたら。誰かの心を動かせていることを、人生の光となって救えている事を心の底から願う。
ミシストリマの墓標 雨瀬くらげ @SnowrainWorld
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます