午前五時

@Nagasuka

午前五時

外は水色と桃色が混じった空で近くの森から鳥が起きてきている。澄んだ夏の匂い。

あと3本の煙草を取り出して、ほの暗い部屋にそこだけ火が灯る。

吸うと、肺の末端がピリッと痛くなって、空気を循環してる感覚になる。元々肺が弱いから、これで生きてる実感を得る。

痛いって生きてるってことなんだよ。

美大の二年。怠惰で、煩雑で、色鮮やかで、馬鹿馬鹿しくて、そこら中に感情が飛び散ってて、贅沢な時期。

私はその中を深海魚みたいに、地球の底の暗い隅っこで蹲ってる。水圧が高過ぎて呼吸ができない。

深海魚は何も悩まないか。


着信履歴はいちごからだった。電話が2件にメールが5件。昨日の講評会のことだろうか。

生徒の3割は行かない授業なのに私に来いって注意するのはなぜ?

あの先生の講評は何言ってるかわからない。作品を批判してることだけはわかる。

いちごは他の生徒の講評もノートをとって最前列で受けてるから、先生も気にいるだろうな。

何ていうか、いちごには若さとエネルギーがある。

人より真面目で大変そうだけどその分充実してる。


昼の十二時

窓辺の席で学食のカレーを食べながら話す。

「桃子、なんでこなかったの…? 一緒に画材も買いたかったん、だけど…。」

「もうあの授業には出られないって言ったよね?」

「だって、桃子あれ落としたら留年じゃん! 一緒に卒業したくないの?」

いちごの顔に太陽が降り注いで、姿勢も美しくて、指先の所作もすらっとしてて、陽の中にいる人間ってことを証明している。

いちごへの返事を濁して、カレーを食べる。半分残して微かに吐き気を感じる。

「もう、次の近代美術論は一緒に行くからね。」

いちごの真っ当さにうんざりしながら少し救われる。

自分と比較しようがないくらいまともで真面目で正しい人だ。

そう、比較のしようがない。


私の家庭は腐っている。表面は湖面のように滑らかで美しい。

大黒柱でしっかりした父、優しく、なもだもろい母、穏やかな祖父に教育熱心な祖母。

実際は小学生頃、私は祖母からの虐待もどきを受けていた。

計算集を1問でも間違えると耳の近くでヒステリックに怒鳴られ、教育委員からの推薦指定のない本を読むと図書館でふざけるなと叫ばれ、近所の同級生と比べられ、何もできない、弱虫と蔑まれた。

何より、優しい祖父が怒鳴られ、痛めつけられているのが苦しかった。自分よりも大好きな人が傷ついているのに、私は何もできなかった。祖母の行為は時には暴力にまで及んだ。

学校、職場、地域のコミュティなどの社会から玄関を隔てると、家は異空間だ。

家族と社会のモラルは違う。異常な状態を母に伝えても見てみぬふりをされ、鬱陶しいと払い退けられた。

父は気づいてすらいないだろう。

全員何も考えていないようで、この状況を見ておらず、餌を求める鯉のようにただ漠々と口を動かしていた。

幼い私が小さな頭で考えた唯一の論理は、暴力をしないことだった。

暴力をすると、こちらが加害者になる。これまで受けた理不尽が全て帳消しになる。

最後の審判を待って、最後に復讐をするのだ。

しかし審判はこない。

早く濁った泥沼から抜け出したかった。水草が絡みついて、今では呼吸もできなくなってしまった。


午前十時 南キャンパス

「園崎さんの作品は荒いしぐちゃっとしてるしドロドロで、だけどなんだか光があって、そこが人間味だよねぇ。」

ピンクとブルーと緑と赤と白と、とりあえず浮かんだ色全部。その真ん中に何かがいて、こちらを見ている。

次の県展への作品だった。

野口先生は私なんかの浅すぎる作品を少しは認めてくれる。

私の感情の込めた部分を見つけてくれる。

教室の生徒三十人が先生を囲んでいて、曇りなのにみんなの熱気で暑い。

教室は先生の趣味で植木や木の実や花々で溢れかえっていて、隣の生徒の頭に花弁が降っている。

黒板は葉っぱで覆い隠され、机や椅子にはツタが絡みついている。箱庭みたいでいいな。

人工的な白い蛍光灯がそれぞれの油絵を映し出している。

いちごは対角線上にいて、どんな絵か見えない。後で見てきてやろ。

「いちごさんはデッサンは完璧だけどもう少し外してもいいんじゃない? 小さな失敗はたくさんしておくに限るよ。あはは。」

言われてやんの。失敗するっていいよね。楽になれるし。

この授業は深く呼吸ができる気がして好きだ。


数ヶ月後

人工的に作られた自然の中で絵を描く。

指先から重い油と絵具の香りが揺れる。

油絵は九割出来上がった。油絵を完成させるにつれ、自分と向き合う苦しさ、心の安定、それと蟠りが溶けていくのを感じる。

油絵は一種のセラピーだな。芸術がないと生きていけない人もいるだろうな。

絵を描く日はご飯が人並みに食べられる。いちごに心配をかけなくて良い。

今日は日光が暖かく感じられて、生きてる感じがする。

「桃子が元気に生きてくれるなら、毎日絵を描いてよ。」

隣で弁当を食べながらいちごが言う。弁当箱にはサンリオのキャラクターが描かれていて可愛い。

絵を描かないと以前より息苦しさが増して、もう最近は起きてる間ずっと教室で描いていた。

おかげで私の体から常時油の匂いがするようになった。私にとっては落ち着く匂い。

最近の癒しは絵と、植物と、いちごの不安そうな笑顔だけだった。

不安定に成り立つ安定の日々は、いきなり消える。


手紙は故郷から

真っ白な便箋に無垢な字でつらつらと書いてあった。

内容はもやがかかっていて思い出せない。思い出したくないな。

一面だけだったのにそれのせいで動けなくなった。今は朝か夜かわからない。

空腹も感じないし眠気も感じない。

痛みを感じないようにできてんのかな。

学校に行かなくなって1週間は過ぎている。


「起きてる? え、死んでない?」

誰かの声がする。

「あのさ、迷惑かけないでよ。心配するのも大変なんだよ!」

「何があったのか知らないけど、毎日にくるから! それと、桃子留年確定したから!」


「いる?メーター回ってるから生きてるよね」

ストーカーみたい。

「桃子の絵、先生褒めてたよ。 展示会出さないのもったいないよ! 悔しいけど!」

その人が置いていってくれたゼリーを、吐きながらだけどなんとか食べた。


「桃子綺麗だからさ、中原くんが心配してたよ。話さないだけでいろんな人から愛されてんだよ。」

「ゼリー食べた? 生きなさい! あと、煙草やめてね!」

今日は一瞬窓を開けて煙草を吸った。痛くて心地よかった。


「今日いる? 元気? 

今日カレー持ってきた! あと展示会申し込みまで1ヶ月だから急ぎなさいよ!」


「いい加減出てきてよ。いつまでニートしてんのよ」


その人は毎日来て、それだけが私の日付感覚になった。

その日は雨で、よく来たなってくらいの土砂降りだった。

雨でほとんど聞こえなかったから無視してたら、えずく声がした。


「あっ」

無言で見てたら、いちごは途端に喋り出した。

「寒い中ずっと待ってたんだけど! なんかめっちゃ痩せてない?幽霊みたい。

心配かけたんだから土下座してよね。

桃子が何かしら抱えてるって入学当初から知ってたよ!あんたの油絵に描かれてるの、あれ桃子でしょ。

苦しいのも食べられないのも知ってるよ!

それが羨ましいの!だからあんたは絵に凄みがあるの!

それを絵に昇華するのがあんたでしょ。あんたは表現がないと生きられないのよ!」

いちごの背後で雷が光っている。いちごの髪はもうぐしょ濡れだ。

「私の上位互換がいすぎて存在価値がないっていうか…」

「うるせぇバカがよ!」

「テメェの人生はテメェがひらけや!

あんたの家族のことも、子供時代も、全部描けよ。

描けないなら死ねよ。

描くことがテメェの勝ちだろうがよ。

あんた澄ましてるのがむかつくのよ!」

いちごは小さな肩を震わせて、眼鏡を光らせて爆発していた。

土砂降りの中、彼女は鬼神みたいだった。

「今ならいい絵が書けるでしょ、桃子。」

顔に雨がびたびた当たって気持ちいい。ひんやりしてみずみずしい空気が溢れてて、澄んだ水の中に私たちは浮かんでいる。

雷が遠くで光ってて、目がピカピカする。

肺の中で痛いくらい冷たい粒子が溢れる感覚がした。


午前五時

外は紫色と藍色が混じった空で近くの森から鳥が起きてきている。澄んだ冬の匂い。

私は藍色の部屋の中、深海魚みたいにのそりと蠢いて、タールを増やした煙草を吸う。


私はまた描き始める。自分の延命処置のために。

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