第6話 背後の悪意

 次に書く短編のネタがなかなか思い浮かばず、気分転換に近所を散歩してみることにした。日差しに照らされて火照った頬を冷たくなり始めた空気が撫でていくのが心地よくて、ついついぼんやりしてしまう。

「黒井さん?黒井さんでしょう?」

 そんな状態で声をかけられたので思わず肩が跳ねた。

「ごめんなさい、驚かせたみたいね」

 慌てて声の方を振り向けば、そこには知らない女性が立っていた。垢抜けた印象のその人は大きく膨らんだ腹を摩りながら私を見ている。

 心当たりがなくどう返事をしていいのか分からずオロオロしていると、女性がくすくすと笑い出した。

「田原よ、田原亜美。小学校の時一緒だったでしょう?」

 田原亜美。その名前を聞いて私は思わず身構えた。田原は小学校の同級生だったが、悪い印象しかない人物だ。クラスの女子が「〇〇君が好き」と言えばその男子にちょっかいを出したり、誰かが珍しいものを持っているといつも羨ましがり貸してほしいと騒いだり、自分が気に入らない人間がいればその人に聞こえるように悪口を言ったり──。本当に挙げればきりがない。私も彼女の気に入らない人間の一人だったようでよく悪口を言いふらされた。私の場合は他の同級生からも嫌われていたので特に被害はなかったが、それでも悪口を聞かされるのはいい気分ではなかった。

 そんな彼女が何故私に声をかけてきたのだろう。あの頃していたことは忘れてしまったのだろうか?

「黒井さんは相変わらず実家に住んでるの?私は里帰り中で……」

 田原は訊いてもいないのにベラベラと自分語りを始めてしまった。

 ダラダラと長ったらしい話を纏めると、田原は職場の上司と交際しており、その上司との間に子供ができたためそれを機に上司と入籍したらしい。今は妊娠を理由に仕事を辞めて、地元で里帰り出産するために実家へ戻っているそうだ。

「黒井さんは……昼間からこんな所でぶらぶらしてるなんてもしかして無職なの?」

「フリーランスってやつですねー」

 作家業については周りには伏せているのでもちろん田原にも教えない。まぁ、田原に話したところで信じてもらえるかは分からないが……。

「ふーん、そう」

 田原はいやらしい笑みを浮かべながら私を見ている。私がフリーランスと言ったのは無職を誤魔化すため、とでも思っているのだろう。ここまで露骨に顔に出ているといっそ清々しいものだ。

 そんなことを考えながらぼんやり田原の顔を眺めていると、いつの間にか田原の後ろに誰か立っていた。立ち話をしていたせいで通れなくなってしまったのかもしれない。

「黒井さんってずっと一人で寂しくないの?」

 田原のすぐ後ろに立っているというのにその人を気にすることなく話を続ける。

 よく見るとその人は女性で、髪も服も乱れている。何かされてそうなったというよりも、整えることをしなかったからそうなったという風に見える。女性は何故そのような姿でここにいるのだろう。

「私はとっても幸せ!素敵な人と結ばれて、それに赤ちゃんも」

 そう言って田原は愛おしそうに大きな腹を撫でた。その様子を後ろの女性が見ている。最初女性は俯きがちに田原を見ていたが、そのうちブルブル震え出し、顔を上げて田原を睨みつける。顔のパーツが全て中央に寄ってしまうのではないかと思う程顔を歪ませて、頬や瞼がピクピクと痙攣していた。これはどんな人が見ても女性が怒りを露わにしていることが分かる。田原は一体何をやらかしたんだ?

「この子のおかげであの人を手に入れることができたの。本当に感謝してるの」

 渇いた笑いしか出てこない。こんなに睨まれているのに全く気付かないとはどれだけ浮かれているのだろう。なんておめでたい奴だ。

「そうなんだ、おめでとう!じゃあ私はこれで!」

 早口でそう言うと急いでその場を走り去る。これ以上関わり合いになりたくない。

「ちょっと!待ちなさいよ!」

 後ろから田原の叫び声が聞こえるが私は振り返らずに走る。


「ねぇ、私のこと見えてるの?」


 耳元で声がした。

 いる。私のすぐ近く。背中にピッタリとくっつくようにして、それはいる。

「ならあの女に言ってよ、全部返してって」

 聞いてはいけない。

 返事をしてはいけない。

「あの人は私のものなの!今すぐ私に返してよ!」

 背中が熱い。

 いや、本当は熱くなんかない。今そう感じているだけだ。反応するな。

「返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せぇぇぇぇっ!」

 叫びは無視して、ひたすら走る。

 触れられた所に痛みがあるように感じているが、それも本当ではない。けして痛がってはいけない。

走り続けてやっと家が見えてきた。

 何故か家の前に清がいる。

「黒井先生、どこ行ってたんですか?ずっとここで待っていたんですよ!」

 清は不機嫌そうな顔でこちらを向いたが、すぐにギョッとした顔に変わる。

 気付いてしまった。

 背中の痛みが消えると同時に私の前に女性が現れる。

 次の狙いが決まってしまった。

「清!」

 女性は清に手を伸ばす。

「貴方、私が」

 女性がそう言うか言わないかのところで、清が左手で女性の顔を掴む。清の左手が触れたところからジュージューと音が鳴り、煙も立ち始める。

「痛い痛い痛いっ!」

 清は無言のまま冷たい目で女性を見ている。

「止めてっ、止めてぇっ!」

 どろり、と女性の顔が崩れ始める。それは首を伝い体へと流れていき、上から順々に全身を溶かしていく。

 そして、全てが無くなってしまった。

「──おぇっ」

 清は俯くと、そのままそこで吐いてしまった。足元に広がる吐瀉物を見て今日の朝食は卵料理が出たようだとぼんやり考えた後、ハッと我に返る。

「清、ごめん!大丈夫?」

「ごめんなさい……急に気持ち悪くなって……」

「綺麗にしよう。歩ける?」

「はい……」

 清を支えながら吐瀉物を避けて家の中に入る。

「ごめんね、清」

 顔色の悪い清を抱きしめながら、私は唇を噛み締めた。



 後日近所の人達に聞いた話では、田原の夫は離婚したばかりで、妻だった女性は離婚した後も彼に執着していたらしい。田原も嫌がらせを受けており、危険を避けるために実家に帰ってきていたそうだ。

昔の印象から田原が何かしたと勘違いしてしまったことを恥じる。

 清はというと──。

「黒井先生ー、先日見てもらえなかった物なんですけどー」

 相変わらず変なものを持ち込んできている。元気になって何よりだ。

「何見てるんです?」

「別にー。これからオムライス作るけど食べる?」

「食べます!」

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黒井先生、ネタですよ! カチ りょうた @katumi30

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