扉を開けて

かんな

扉を開けて

 様々に光り輝くガラスの欠片を覗き込み、ベリテは満足げに溜め息をついた。そして目を当てていた円筒から顔を離し、古びたそれに視線を落とす。

 鉄で作られた筒はベリテの小さな手には余った。片方の端にはスライドで開閉出来る覗き窓があり、そこからあの幻想的な光景を窺える。だが、もう片方は硬く塞がれていた。

 十数片のガラスは赤に橙、紫から緑に青に黒まで、色という色を備えて筒の中で光を躍らせる。多種多彩であるにも関わらず、筒の中で色が喧嘩する事はなかった。彼らには彼らの協調性の取り方があるのだとベリテは知っていた。

 からん、と扉のベルが鳴って来客を知らせる。鉄筒をテーブルの端に置き、ベリテは椅子から飛び降りた。

「こんにちは」

 開いた戸口には何者の姿もない。だが、ベリテは笑って応じた。彼には客人の姿が見えていた。

 なぜならここは橋の袂、あちらにもこちらにも行けぬ者たちの案内所。時を逃した者たちに道を示すため、八月末日のたった一日だけ、その扉を開いて待つ。

 客人たちは一様に無口で物静かである。体がないのだから当然で、当たり前のように影もない。しかし彼らには匂いがある。時を逃して留まり続けたせいなのか、彼らの匂いには夏の匂いが混じっていた。瑞々しい植物や水を含んだ土に木、藁を焼いた匂いを伴う者もあり、変わり種では蚊取り線香の匂いをまとって来る者もいる。どれもむせ返るような生気に満ちた匂いであり、ベリテはそれで来客を悟る。

 体のない彼らにとってそれが唯一の手段であり、扉を開けるなどの単純な動作は匂いが全て行っていた。風と似たようなものとベリテは考えているが、詳しくは不明である。

 開いた時と同様に静かに扉は閉まり、ベリテはテーブルの扉側に先刻手にしていた物と同じ筒を、覗き穴が下になるように置いた。ただし、こちらは銀で作られており、鉄のような重厚さは感じられない。

「眩しいですけど、見ていて下さいね」

 ベリテは筒の上を持ち、下を動かないように支える。そしてそれぞれの手を逆方向に回すと筒の真ん中に境目が走り、動きに合わせて筒の上部が引き上げられていった。

 その向こうから待ちきれないとばかりに彩光の洪水が溢れだす。

 銀筒の中にはガラスの筒が収められており、中には色とりどりのガラス片が浮かんでいた。鉄筒を覗き込んだ時よりも鮮やかで、光の強さは室内全てに色の乱舞を映し出すほどである。一つとして同じ色も形もないガラス片は筒の中で宙に浮いており、揺らしてもいないのに自由に動き回っていた。

 ベリテは色鮮やかな光を目で追う。赤はバラの色、緑は朝靄にけぶる山の色、黒は夜明けに残る夜闇の色──客人によってそれらは自在に色を変え、形を変えた。変わりゆく形は馬であったり蝶であったり、時には鳥や魚、散りゆく花の時もある。そして変化した色や形を読み取り、適切な場所に案内するのがベリテの役目だった。

 未だ動き回る光の渦の中でベリテは本棚から分厚い本を取り出し、床の上で開いた。小さなベリテがテーブルにこの本を乗せる事は、大変な重労働なのである。

 使い古された本には色見本やチャート表などが印刷され、読み取った色と分布、動きによって客人の行き先が示される。

 ベリテは藁半紙に自分が見た情報を書きこみ、本の中身と照らし合わせて答えを導き出した。そして鉛筆を置き、本を跨いで筒の横に立つ。

「お疲れ様でした」

 先刻とは逆の動きで筒を回して閉め、光と色の乱舞は金属の向こうへ押し込められた。

 ベリテは藁半紙を折り畳み、何もない空間へ差し出す。

「これがあなたの案内状です。どうぞ、よい旅を」

 力なく垂れるだけだった藁半紙は何者かが掴んだように背筋を正し、ベリテが手を離すと宙に浮かぶ。だがそれも一瞬の事で、次の瞬間には霧散して消えた。客人が了承し、受け取ったのである。

 扉が来た時と同じにベルの音だけを鳴らして静かに開けられ、名残を残してゆっくりと閉じていく。

 まだ三十一日は始まったばかりだというのに、訪問が随分と早い。今年は忙しそうだな、とベリテはあの鉄筒にちらりと視線を投げかけたが、その暇を突いて今度は乱暴に扉が開かれた。

「あ、こんにちは!」

 暴れ狂うベルの音に被さるようにして、ベリテの挨拶が響く。どんな時でも挨拶は丁寧にしっかりと、それが案内人としての礼節だ。

 忙しそうだ、という予感の通り、来客を告げるベルは鳴り止む事がなかった。



 案内所の外はいつでも明るいが、時の経過は何となしにわかる。ひっきりなしにやって来る客人の相手を務めて午前中が過ぎ、簡単に昼食を取った後には更に多くの客人が訪れ、目を回しそうな忙しさだった。いくら機会を逃したとは言え、これは多すぎる。天や地の底の住人が仕事を怠ったにしてもこれは異常だと思った時、ベリテはふと、先だって届けられた郵便を思い出した。今年の仕事に対する奨励が書かれたいつもの内容で多くを読まなかったが、もしかしから、と本棚の引き出しから引っ張りだすと案の定である。お盆以降は天地共に夏休みと書いてあった。

 ベリテは手紙に溜め息をぶつける。

「……皆勤っていうのもよくないのかなあ」

 休んでもベリテがいる、という甘えが手紙の端々から見える。お土産でも請求したかったと後悔した時、再びベルが鳴った。

「……こんにちは!」

 慌てて挨拶する声にも元気がない。こんなに疲れる三十一日は初めてだと思いつつ、それもあと数時間の辛抱である。三十一日は暮れようとしていた。

 筒を開け、光の踊りを見つめ、本と照らし合わせて藁半紙に書きこむ。その時小さく引っ掛かるものを覚えたが、ベリテは疲労のせいだと思い直した。

 ずっと開きっぱなしの本を跨いで藁半紙を渡し、それで完了する。そのはずであった。

「……あれ?」

 差し出した藁半紙を掴んではいる。しかし、いつもの様に霧散しない。ベリテは藁半紙を一度返してもらい、内容を確認した。中身に不備はなく、筒を確認してみたがおかしな所はない。試しにともう一度渡してみるが、同じ事だった。案内が完了しない。

「……どうしよう」

 心中の呟きを口にして、ベリテは混乱する頭をどうにか律した。終わらない限りはここから出る事も出来ない。客人は再び迷う事を恐れるからだと言うが、実際に目にしたのはこれが初めてだった。案内が出来ないなど前代未聞である。

 ベリテは取り急ぎの処置として無地の藁半紙を取り出し、「しばらくお待ち下さい」と大きく書いて扉の外に貼りつけた。外でひしめき合う匂いに震えが走り、様々な匂いが濃度を増して、ベリテは慌てて中に戻る。

 室内も客人の匂いが漂って無臭とは言えないが、外に比べれば良い方だ。リセットされた鼻はちくりと、ベリテの記憶を刺激した。

 天と地に連絡を取ろうにも、夏休みで責任者がいない。彼らの事だから代わりになるような者も置いていないだろう。そもそもお盆という極東独特の風習にこちらが合わせる理由もない上、夏休みなどという制度を取り入れる必要が彼らにあるとは思えない。毎日が勤勉というわけでもないのに、とベリテはむかむかするのを抑えられなかったが、客人の存在に気づいて我を取り戻す。いくら焦っていても、礼を失しては客人に対して失礼というものだ。慌てたいのは彼らも同じである。

 それでも、経験の浅いベリテには難問であった。考えをまとめようと、室内を何度も往復する。こつこつと靴音が響き渡り、そのお陰で静寂が際立って存在を主張し始めた。

 そろりと客人がいるだろう場所を窺うも、変化はない。彼らに自由意志があるのか否かはベリテの仕事に必要のない事だった。ただし、それもこれまではの話であり、今は意思表示の一つでもしてほしいとベリテは密かに願った。客人と長時間に渡って同席したことなどなく、極めて特殊な現状では、存在を主張しだした静寂と伴って居心地の悪い事この上ない。

──そもそも、僕の不備なのだろうか?

 ベリテは原点に立ち戻って考えた。必要な道具や手順に不審はない。何か変化があるかと室内を見回してみるが、本棚とテーブルと椅子、ベッドにささやかな台所はベリテ仕様に小さなサイズで作られており、目覚めた時と変わらぬ顔を主に向ける。別室にはトイレと洗面所と風呂場があるが、彼らが反乱を起こした事はない。

 変わらぬ風景、変わらぬベリテ、変わらぬ仕事──たった一つ違うのは、案内出来ぬ客人のみ。

 いよいよ困った事になった。

 ベリテは癖っ毛の茶色い髪をかきむしりたい衝動に駆られたが、すんでの所で思いとどまる。

「……お茶、飲んでもいいですか?」

 客人を、しかも飲み食い出来ない相手を前に言う台詞ではないと承知の上だが、言わずにはいられなかった。実際、喉は乾いていたし、とりあえず落ち着かないことにはどうしようもない。

 早々に気づくべき所へようやく帰結したベリテは、和らいだ客人の匂いに礼を述べ、手早く二つの湯呑を用意する。円筒形のそれも、淡い緑色をしたお茶も極東の品物であり、ベリテはどちらも好きだった。特に湯呑はベリテの小さな手でしっかり掴めるのがいい。

 椅子を一脚引き寄せて座り、飲めないだろうが匂いは感じられるだろう、と客人の前にもお茶を置く。香ばしいながらも微かな甘みと渋みを伴った茶はベリテを落ち着かせるのに充分な働きをしたが、ふと、それをいつものように美味しいと感じられない自分に気づいた。

 疲れているからか、と三度飲んでみるが、やはり味はおかしい。茶葉はまだ新しく、茶器は常に綺麗にしてある。水の可能性も疑ったが、だとすればお茶を入れた時点で気づくはず、と鼻を動かした時、お茶の匂いに混じって微かな薬品臭がした。

 首を傾げてもう一度空気に溶ける匂いを辿ると、確かに薬品の匂いがする。これがお茶の匂いを妨げ、味を隠したのかと納得すると同時に、どうしてそんな匂いがするのがベリテには一瞬わからなかった。しかし、匂いとくれば連鎖的に思い起こされるのが姿のない客人であり、ベリテは顔をあげる。

「……どうかしましたか?」

 匂いは客人が有する唯一の意志表示だ。

 先刻までベリテが感じていた客人の匂いは正体不明ながらもいい匂いだったが、今漂う匂いは明らかに薬品臭である。

 それも、これまで様々な匂いを嗅いできたベリテでさえ不快に思うような匂いだった。

──なんだろう、これは。

 客人に内心を気づかれぬよう、ベリテは苦笑を浮かべつつお茶をすする。匂いと混じったお茶の味はもはや通常の美味さとはかけ離れた味へ変質していた。

 ベリテのこめかみに汗が流れる。案内人であるベリテ自身にまで影響を与えるほどの匂いの変化となると、相当なものだ。外で濃度を増していく客人たちの匂いなど生易しい。これほど意志を豊かに表せるにも関わらず、どうして客人はここへ招かれたのだろうか。

 どうして、と疑問に思った時、ふとした発見がベリテの脳裏に光明を差す。

 ベリテは客人を見つめ、ことん、と湯呑を置いた。

「……もしかして」

 ベリテは仕事の邪魔にならないよう、端に老いた鉄筒へ目を向ける。それから姿のない客人の方を向き、わずかに視線を落とした。

 数秒、黙して考えた後、ベリテは残ったお茶を飲み干し、湯呑を置いて椅子から飛び降りた。そして銀筒をテーブルから下げて黒布の袋に放り込み、本棚の引き出しにしまう。替わって客人の前に差し出されたのは、ベリテが覗きこんでいた鉄筒だった。

 しかし、そうするベリテの動きは緩慢で、仕事中のきびきびとした姿からは似ても似つかない。誰にも見られたくない宝物を見せなければならないことに躊躇しているようであり、実際、ベリテは義務感と本音の板挟みにあっていた。

 椅子に戻ったベリテは膝の上で手を握りしめ、それを見つめた。手の中にあるのがベリテの心であるかのように、揺れる気持ちを定めるように注意深く小さな拳を見据える。

 汗が滲むほど握りしめた手を微かに緩め、その中を風が通り抜けて熱を取り去ってくれるのをベリテは感じた。

 顔を上げたベリテは「お待たせしてごめんなさい」と微笑んだ。

「あなたは他の人と違うみたいです。だから案内することが出来ませんでした。僕が未熟者で気づくのに時間がかかって、本当にごめんなさい」

 ベリテが頭を下げると、鼻を刺激し続けていた薬品臭がすう、と引いていく。そして奥から恐る恐る現れたのは、訪れた当初から客人をまとっていた匂いだった。

──ああ、これは。

 今ならよくわかる。この匂いの正体が何であるか、ベリテには痛いほどよくわかった。

「ただ、最後に一つだけ確認させて下さい。その筒が何かわかりますか?」

 匂いがわずかに薄くなる。ベリテは予想を確信に変えた。こういうことが稀にあると聞くが、まさか自分が案内を務める時に来るとは思いもしない。

 逸る鼓動を抑えるように、ベリテは深く息を吸い込んで吐いた。

「それは記憶の筒と言って、リボルビングランタン、極東では走馬灯って言うんです」

 本当は、とベリテは苦笑した。

「仕組みをお話ししちゃいけないんですけど、今回は特別です。そうしないと、あなたを案内する事が出来なさそうなので」

 ベリテは早口にならないよう、努めてゆっくりと話す。

「ここへ来るお客さんは皆、行くべき時に行かなかった人たちで、最初はそんな人たちの為に道標があるんですが、それも時間と共に薄れてしまいます。ほら、死者をあまり思うなって言うでしょう。道標はその人自身やその人に関わる記憶で出来ているので、思い続ける事でその人を縛るというのは道理なんです。だって、いつまでも消えない道標があったら安心するじゃないですか。ああ、まだ大丈夫、まだいられるって」

 どれだけ複雑な道程でも、ちゃんとした道標があれば安心出来るのは当然で、そう思えば、安心に胡坐をかいてしまうのもやむを得ない。例え進まなければならない道であっても、遺したものを思う気持ちが強いほどその歩みは遅くなり、やがては止まる。

 生者であっても死者であっても、それは同じ事だった。

「……だけど、記憶は記憶です。生きている人はまだしも、実体を持たなくなると記憶って水みたいに溶けだしてしまうみたいで、そうすると道標が消えてしまうのは当然ですよね。だから迷う人がいて、案内する為の場所と人がいる」

 ベリテはにこりと笑って自分を指さした。

「それがここで、そして僕です。でも、ここへ来る事になったお客さんたちは、皆そうして記憶が溶けだしてしまっているからとても存在が希薄です。僕らはその溶けた記憶を匂いとして感じるんですが、溶けてしまった物を新たに集めて道標として固めるのはとても難しい。どれだけ人知を超えた方々でも、記憶だけは扱うのに困る代物なんです」

 ベリテの知る人知を超えた存在は、全員揃って凄まじい力だが、大雑把な力でもあった。従って、記憶のように千差万別、数で表すのも億劫になるほどの多様さを持つものに対しては、その威力を発揮出来ない。要は繊細な仕事が出来ないというだけの話だが。

「一人一人案内するにも、残念ながら僕らにそれは出来ません。お客さんの道は本人にしかわからないようになっていて……理由は僕にもわからないんですけど」

 困ったように笑って、ベリテは鉄筒を持った。

「これは溶けだした記憶に色んな光を当てて、その色と形で道標を定める為の道具なんです。だから走馬灯って言ってもちょっと違うんですけど……お客さんたちは皆、これが自分の記憶の手がかりだと知っています。進まなきゃっていう意志をこれが呼ぶみたいで、銀で出来た方はそういう声が強いとも言います」

 でもあなたは、とベリテは鉄筒を持ち替えた。

「これが何かわからなかった。つまり、あなたには溶けだした記憶も、進まなければならないという意志もない。あなたは本来、ここに来るべき人じゃないんです」

 匂いが更に薄まる。

「そういうお客さんに、銀筒の方を見せても意味がありません。だって、投影する記憶がないんですから。僕が読み取ったのは多分、前のお客さんの名残と光そのものの色形で、そこで見抜ければ良かったんですけど……」

 ベリテは雑巾を絞るように鉄筒を握った。

「だから、あなたにはこれがいいかなって。これは銀の方と違って、記憶そのものが入っています。誰かの記憶を見て、あなたが自分の体に置き忘れた記憶を刺激すれば、あなたは帰れると思うんです」

 匂いが揺らぎ、ベリテは頷いた。

「そうです。あなたはまだ生きています」

 言いながら、ベリテは筒を勢いよく捻った。銀よりも重い動きで開いた先からは、淡い色の光が溢れだす。

 それは水面のように揺れ、室内を青い光で満たした。水中の中にいるかのような揺らぎはその幅を段々と大きくしながら静まり返り、やがて白い光の炸裂と共に色彩が塗り替えられる。

木漏れ日のような緑の光が辺りを包み、その間隙を縫って白い蝶が舞う。所々では橙色の光が眩く点滅し、ベリテはそれを太陽に手を透かした時の色だと感じた。

 だが、それだけであった。

 客人の記憶を透かし見るように、多くの事を感じ取ることが出来ない。色彩と光の渦の只中にあって、ベリテは何の感動も呼び起こされないことに微かな痛みを感じていた。

──だって、これは僕の記憶だから。

 だが、その仔細をベリテは見ることが出来ない。どれだけ美しく周囲を回り照らしても、ベリテの中に響く事はなかった。

 それが案内人になる条件だからである。

 記憶を預け、忘れてしまうこと。それには当人の承諾が必要なのは勿論で、ベリテはどうして自分が承諾したのかも当然の事ながら覚えていなかった。ただ、忘れたくなるような記憶だろうことは想像に難くない。

 それも自身の体の小ささを顧みるに、ベリテは幼い頃に命を落としている。

 家族の加護に包まれていた歳に鬼籍に入り、その家族さえ忘れてもいいと思える状況など、これまで数多の記憶を見てきたが、それらと照らし合わせてもさほど良いものとは思えない。

 光は穏やかな色から明暗のはっきりとした色へと変わり、基調となるのは赤や黒など心の奥をざわつかせる配色が増えた。それらは暴れ狂う馬の形を取って壁を駆けずり回り、激しく嘶く馬の隣で力尽きる馬が現れる。そうして一頭ずつ数を減らしていき、やがて最後の一頭が引き摺りながら進めていた足を止めた瞬間、それまでの濁った色合いを払拭するかのように再度、白い光が炸裂して辺りはしんとする。

 ベリテは深呼吸して逸る鼓動を抑えた。やはり直接見るのは堪える。あの覗き窓から見える狭い世界の方がベリテには優しい。切り取られた記憶だからだろうか、とベリテは考えながら口を開いた。

「気分はどうですか?」

 テーブルを挟んで向こう側に立つ妙齢の女性へ向かって、ベリテは微笑む。ここで客人の姿を現実に見るのは初めてで、ベリテは緊張する心を見せないよう努めていた。だが、女性はそんなベリテの動揺を見透かしたように微笑み、ベリテは思わずどきりとする。

 すると、女性の体がふわりと浮かび上がり、肩で切り揃えた黒髪が揺れて穏やかな表情を縁取った。ベリテが驚きつつも見上げていると、女性は浮かび上がろうとする力に逆らうかのように両腕を伸ばし、ベリテの小さな頬を包み込む。思いがけず触れる他人の温もりにベリテが体を硬直させていると、女性は顔を寄せた。

「ありがとう。あなたはとても素敵な子ね」

 女性にしては低く落ち着いた声でそれだけを言うと手を離し、自身を引き上げる力に導かれるまま浮かんでいく。その間も彼女の青い双眸はベリテを見つめて微笑んだままで、ベリテもまた、その瞳から目を逸らすことが出来ずにいた。

 女性の体は天井をすり抜けていき、完全に見えなくなったところでベリテは詰めていた息を吐いた。途端、両目からぽろぽろと粒のような涙が零れ落ち、ベリテはびっくりしながら服の袖で拭い取る。

 袖に滲む涙の染みを見つめながら、ベリテは震える喉をなだめるように深呼吸を繰り返した。

──僕はあの匂いを知っていた。

 女性から微かに滲み出ていたあの匂い。生者であるが故に、その匂いは不安定でベリテにも最初は何なのかさっぱりわからなかった。しかし、今はもうわかる。

 あれは人の匂いだ。

 ここでは嗅ぐ事の出来ない、生きた人の匂い。巡る季節の中で育まれてきた温もりの香り。もはや遠い物として思考の淵にも引っかからずに来たものを、意図せず味わうことになった驚きを表す言葉はベリテの中にはまだなかった。

 それが驚きだけではなく、喜びだったのか、悲しみだったのかさえも、今のベリテにはわからない。表しきれない感情が唯一、出口として選んだ両目は、素直にそれに従った。

 ベリテの頬を濡らした涙は温かかった。

 ベリテは鼻をすすりながら涙を拭き、気持ちが落ち着くのを待った。

 椅子に腰かけ、何度も深呼吸を繰り返す。胸一杯に空気を吸い込んで、体の中に滞る物を吐き出した。それを繰り返していく内に喉の震えも治まり、涙の名残も目の赤さのみに留まる。

 ベリテはテーブルの端で沈黙する鉄筒を取り、捻ってそれを閉じた。ほのかに香る鉄臭さが及び腰の現実を引き寄せる。

 慰めのつもりか、それともいつ辞めてもいいようにとの暗示か、鉄筒はベリテの記憶を押し込めてすぐに手渡された。どう扱ってもいいが壊してはいけない、無闇に他人に見せてもいけない、この家から出してはいけない、と制限は多かったものの、八月三十一日のみの特別な仕事に就くベリテからすれば簡単な話だった。そもそも今日以外は方々で小間使いよろしく手伝いに走っているのだから、この家に入る暇すらない。だが一年のたった一日だけ、ベリテは案内人としてこの家に入り、失った記憶の断片に触れる事を許される。それが天からの許しなのか、地からの罰なのか、ベリテにも誰にもわからない。

 これは星の石で出来ているんだという言葉をベリテは不意に思い出した。誰に言われたのかも曖昧で、聞いた当初はさして興味を引かれる内容でもなかった。だが、今にして思えば言い得て妙な素材の選択である。

 星の石とはつまり隕石。落ちてくる際、大気中で気化せずに残った星の欠片だった。

 その意味合いについて深く考えてはこなかったが、改めて考えてみれば腑に落ちる部分がある。

 一方で、鉄筒について想像力を働かせるのは楽しい作業である反面、やはり疑問は巡って原点に戻って行った。

──忘れたいような記憶。

 それに思いを馳せるのはこれが初めてではない。しかし、稀なる客人に出会った事で揺さぶられたベリテの心は、新たな音を響かせるようになっていた。

 握りしめた先から体温が鉄筒へ移っていく。疑似的な温もりでも伝わっていくものなのかと妙に感心しながら鉄筒を見つめ、ベリテは大きく息を吐いて机の端にそれを置いた。

 それから椅子を飛び降りて洗面所に赴き、顔を洗って戻ってくる。さすがに目の赤いままで出向くことは憚られた。

 二つの湯呑を片づけようとした時、手のつけられていないお茶が冷めきっているのを眺めてから流しに置く。台拭きでテーブルを拭き、黒い袋から銀筒を取り出して所定の位置に据え置く。

 瞬く間に仕事の空間へと戻った室内を眺め、ベリテは両手で頬をぱしんと叩いた。

「よし」

 八月三十一日はまだまだ終わらない。例年になく客人の多い日なのだから、自分の事にかまけている暇などない。

 ただ、今日が終わったら少しは自分の事を考えてみよう。去年までのようにぼんやりと眺めて終わるのではなく、しっかりと見たら変わるものがあるかもしれない。

──ちょっと怖いけど。

 臆病風も背中に受けてしまえば追い風になるだろう、と多少、思考に上方修正をかけておき、ベリテは顔を洗うようにこすった。

 ベリテの中にはあの女性の声で「素敵な子ね」の言葉が響いている。思い出すだけで温もりが胸に広がるそれは、ベリテの勇気に翼を与えた。

 ベリテは跳ねるように扉へ駆け寄り、そっと開けた。外でひしめき合う匂いは更に濃度を増しており、ベリテは出来るだけ空気を吸い込まないように息を詰めて、扉の貼り紙を剥がす。途端、密集していた匂いが蜘蛛の子を散らすように広がり、ベリテは安堵の息を吐いて言った。

「お待たせしてすみません。次の方どうぞ」

 扉を開けて待つベリテの前を、姿なき客人が通り過ぎる。

 彼らがまとうのは彼らの記憶。彼らを育み、守り、ここまで導いてきたもの。

 そんな彼らを導くのは、記憶を預けた幼い少年。今まで何も響いてこなかった記憶の太鼓を、ようやく自分で打つことを始めた。

 数多の思い出が交錯する家で、ベリテは客人を待つ。

 小さな扉が、八月三十一日に開いて待っている。



終わり

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