第97話 番外6 冬を乗り越えて 

 辛く、長い冬だった。


 イストラーダの古い記録を見ても、こんなに厳しい冬についての記述はない。

 降雪こそ例年並みだが、昼間でも氷点下の日がひと月近く続き、空気は肺を指すように冷たく乾燥していた。

 狩りに出ても、痩せたウサギやシカが僅かに獲れるばかりで、新鮮な肉は手に入らず、人々は秋の間にたくわえた干し肉や魚を食べるしかなかったのだ。

 民も動物たちも、耐え忍ぶ冬だった。

 そこに流感インフルエンザが発生する。


 最初、それは旅の商人が、北方の領土に持ち込んだものだった。

 流感は、またたく間にイストラーダと、その周辺の領地で猛威を振るった。

 容易に出歩けぬ厳寒の中、閉鎖された空間で病魔は次々に人々に蔓延し、体力のない年寄りの中には命を落とす者が出た。

 死者を埋葬しようにも、地面は凍りつき、墓も建てられない。

 イストラーダでは、領主エルランドの命令で、死者を森の中まで運び、そこで火葬に付された。遺体から新たな病が発生するのを防ぐためである。

 死者の頭に巻きつけた金属の札が、個人を見分ける目印となった。

 都から迎え入れた医者も数人はいるが、個別に家家を訪問することは困難である。このままでは流行がおさまらぬと考えたエルランドは、病人を城に運び入れることに決めた。

 イストラーダの大広間は、一時病人で溢れ、体力のある者が看護にあたった。彼らは、リザが考案し、城中の女たちで縫い上げた香草入りの口布を目から下に巻きつけ、薬湯に浸けた皮手袋をして、四時間ごとに交代しながら病人の世話をし続けた。

 兵士も、文官も、農民も、商人も、陶工も、ここでは皆同じ扱いだった。衝立で男女の空間を仕切っているいるだけだ。

 広間にはあちこちで湯が沸かされ、患者の衣服や敷布の消毒に使われた。エルランドが植林し続けた鉄樹により、燃料だけは不足しなかったのである。


 そして数週間の後──。

 エルランドが都から呼んだ若い医師達と、リザの持つ薬草の知識のおかげで、城の広間では、わずか四人の重症患者を残すまでになっている。熱が下がり、峠を越えたものはそれぞれの自宅で療養中だった。

 流行の峠は越えたのだった。

 村人たちは領主夫妻の献身に深く感謝した。命を落としたものは出たが、他の地方に比べると、イストラーダでは死者の数は半分以下だったのである。

 しかし──。

 エルランドの顔は誰よりも暗く、苦しそうだった。

 薬草を煮出したり、敷布の消毒を手伝っていたリザが罹患し、未だ回復しないのである。


「リザは!?」

 なんとか持ち直そうとしている領地の見回りを終え、急ぎ戻ったエルランドは、迎えに出たコルに向かって問うた。

 聞く間も慌ただしく階段を登っている。

「はい。奥方様の呼吸はだいぶ落ち着かれました。ですがまだお熱が高うございます」

「くそっ! こんなことなら、子ども達と一生に離れの塔に閉じ込めておくんだった!」

 リザの二人の子ども、ウィラードとアリアは、村の子供達と一緒にイストラーダ城の一番南の塔のある、建屋の暮らしを余儀なくされていた。

 感染の危険から守るためである。

 子ども達の世話役はターニャと村娘達だ。エルランドの厳命で、彼らは完全に食料や日用品の補給以外は、細心の注意を払って他の者達と隔離されていた。

 最初、母を恋しがって泣く子もいたが、ひと月近く経って、今ではほとんどの子が聞き分けている。

「子ども達の様子は?」

「はい。ウィラード様もとアリア様もお元気です。ターニャの話では、他の子ども達も元気にしているということで、南の建屋内での暮らしにすっかり慣れてようです。もう数日もすれば、村に返してやれるかと」

「そうか、会いたいな……」

 エルランドは小さくつぶやいた。他の親達と同様、エルランドも、もう何週間もウィラードとアリア、自分の子ども達と会えていない。

「リザ!」

 現在、二人の寝室は別々だった。

 エルランドは多くの人と関わる自分から彼女に感染するのを恐れて、流行の初めから部屋を分けたのだ。結果は、彼の願いとは逆になってしまったが。

「リザ! 俺だ!」

 そのままコルが止めるのも聞かずに、部屋に飛び込む。居間の奥に寝室がある。

 しかし、寝室の扉の前には、アンテが仁王立ちになってリザを守っていた。

 いつも黒服の彼女は、黒い口布をして手袋をはめていた。そのため、そこらの平兵士よりもよほど威圧感がある。

「エルランド様、入ってはなりません!」

 アンテは大きな体で観音扉の前に立ちはだかった。王女を守る最後の騎士のようだ。

「なぜだ! やっと巡回がすんだのだぞ!」

 自分がどんなに心配し、会いたかったか、この女にはわかっているのか!

 エルランドがアンテを押しのけ、強引に推し進もうとするも、アンテが再び割って入る。

「リザ様がそうおしゃっているからです」

「何? それほど悪いのか! リザ! リザ! 俺だ!」

 エルランドは、リザが眠る寝室に向かって怒鳴った。

「御領主様、落ち着いてください! リザ様は大丈夫です!」

「熱が高いと聞いた!」

「はい。でも、それは病との最後の戦いなのです。お薬も飲んでおられます。この熱がおさまればもう大丈夫です!」

「お、収まらなかったら……」

 エルランドは思わず口に出してしまい、自分の言葉にぞっと身を震わせた。

「収まります! 私たちがお守りします!」

「俺だって守る! 押し通るぞ!」

 エルランドは苛立って怒鳴った。

「いいえ! リザ様を困らせたいのですか?」

「ナニ?」

「いま、リザ様は流感でやつれておられ、その姿をエルランド様に見せたくないとおっしゃっているのです。エルランド様が強引にお入りになれば、リザ様のご病状が悪化するかもしれませんよ」

「なんだど! どんな姿でも俺のリザだ。姿など関係ない!」

 その時、扉が薄く開かれ、ニーケが半身を差し出した。彼女も口布で顔を覆っている。

「おお! ニーケ! リザは! リザはどうだ!」

「奥方様のお言葉をお伝えします」

 ニーケは静かに言った。

「おお! なんだ、俺に会いたいか! 欲しいものがあるのか? リザ! 俺はここだぞ!」

「うるさい」

「……え?」

「うるさい、と言っておられます」

 ニーケはエルランドを睨みつけた。

「……な、なんでだ?」

「せっかくお眠りになっていたのに、この騒ぎで目を覚まされてしまいました。リザ様には睡眠が必要なのです」

「し、しかし……ひと目だけでもっ……」

「なりません。そうですね。後二日。二日お待ちください」

「二日も! その間に何かあったら」

「万が一、そんなことになったら(なりませんが)すぐにお伝えします。絶対に大丈夫です。峠は越えられました。だから、御領主様、今はどうかお引き取りを!」

 扉はエルランドの鼻先で無常に閉められた。


 翌日。

「お館様、おはようございます」

 今は侍従となったファルカが顔を出した時、げっそりやつれたエルランドがぼんやりと部屋に座っていた。

「ちょっと! 寝ておられないんですか?」

「……」

「昼間あんなに仕事をされているのに、不養生が過ぎますよ。せっかく流感が収まってきているのに、御領主様が罹ってしまってはお話になりません」

「俺はそんなものに罹らない」

「あ、それ。奥方様が一番嫌いな言葉です!」

「なんだと!」

 意外な言葉に、エルランドは目を剥く。

「流感は人を選びません。屈強な兵士でも寝込むこともあるし、小僧っ子が軽くて済むこともあります。だから怖いって奥方様が」

「リザがそんなことを?」

「はい、目に見えない病の元に対して、根拠のない自信を持つのが一番厄介だって。だからエルランド様も御用心なさって、休養栄養をしっかり取って、対策をしてください」

「……」

 使用人達から立て続けに正論攻撃を受けて、エルランドはすっかり黙り込んでしまった。

 しかし、彼も反省したようで、それからは食事も睡眠もとり、人と関わる仕事をする間は口布を巻き付け、しつこいくらいに手を洗った。

 彼の努力の成果かどうか、この後の二日間で広間の患者はいなくなり、子ども達も次々に親に引き取られて行った。

 エルランドもようやく二人の子供達に会うことを許され、昨日からほとんど一緒に過ごしている。

 彼がリザに合うことを許されたのは、さらに二日後の夕方だった。


「リザ……」

 ほとんど一週間ぶりに見た妻は、ひとまわりも小さくなっているようだった。

「やっと会えた!」

「ごめんね。心配させて」

 小さな妻はすっぽりと枕に収まっている。

「本当にそうだぞ! 悪い妻だ……違う、嘘だ。良くなって、本当によかった」

「ええ。もう昨日から熱はないの、さっき体を拭いて、髪も洗ってもらったのよ。だから少しは見られるようになったかな」

「俺のリザはいつも綺麗だ……抱きしめてもいいか」

 その答えは伸ばした両腕だった。強く握ると折れそうなその手首を、気をつけて握りしめ、エルランドは妻を抱きしめる。

「ああ、暖かい……」

「そうね。エルは少し痩せた?」

「……」

「まぁ髪も髭も伸び放題ね。あなたの方が病人みたいよ」

「リザのいう通り、用心していたのだがな」

「そんなあなたも素敵だけど」

「だったら、キスしてくれ」

「……」

 リザは柔らかい唇をエルランドの削げた頬に押し付けた。

「頬?」

「もうしばらくはね。あとでほっぺを薬草湯でぬぐってね」

「そんなことはしないぞ」

「してね」

「……」

「子ども達にも明日には会えそうよ。よかったわ、ずっと心配でたまらなかったから。特にウィラードはよく辛抱していたみたい。手紙をこんなに」

 リザは毎日届いた四歳の息子からの手紙を、エルランドに見せた。そこには幼い文字で母への想いが綴られている。二歳のアリアからは、庭で積んだ冬の花が届けられていた。

「ああ、ウィラードもアリアもよく頑張った。さすがリザの子供だ。辛抱づよい」

「あなたの強さも受け継いでいるわね」

「今夜は声を聞かせてやろう」

「ああ! うれしいわ!」

「ああ、リザ。俺はこの病にうまく立ち向かえただろうか!?」

 エルランドはしっかりとリザを抱き込みながら呟いた。妻の香りはいつも彼を安心させ、また失う不安も連れてくる。

「もちろんよ。アンテは皆感謝していると言ってたわ」

「こんな恐ろしい思いは二度とごめんだ。春になったら、村に大きな薬草園を作ろう。都から厚遇で指導者を招いて、この地で技術者を養成しよう。新しい書物も入れなければ。これからは受け身ではなく、積極的な手段で打って出なければな!」

「エル……あなたってやっぱり素敵!」

「本当か? じゃあやっぱり唇に口づけを……」

「はいこれ!」

 リザがエルランドの口に押し込んだのは一粒の飴だった。蜂蜜で練られたそれは甘いが薬の味がする。

「喉のお薬よ。私が考えた試作品、アリアに作ってもらったの」

「むぐ……今だけはこれで我慢しておく。だが、すっかり治ったら覚悟をしろよ。一晩中泣かせてやるからな」

「エルったら……」

 少し小さくなった頬が一気に赤く染まる。

「リザ、本当によかった……愛してる、愛してる。ずっとそばにいてくれ」

 エルランドは、もしかしたら、本当にもしかしたら、永久に手放してしまったかもしれない、愛しい人の体を抱きしめた。


 窓の外に冬の夕陽が落ちていく。

 それは小さく冷たく見えるが、明日の晴天を約束していた。

 春は近い。


 かくして人々は厄災を乗り越えたのだった。



     *****



ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。

よければ他の物語も読んでくださると嬉しいです。きっとお気に召すものがあるはず!


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(書籍化・コミカライズ)置き去りにされた花嫁は、辺境騎士の不器用な愛に気づかない 文野さと(街みさお) @satofumino

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