素敵な時間を

麒麟屋絢丸

素敵な時間を


 その店には、少し気だるげなクラシカルな音楽が流れていた。

薄暗い照明が、店内を琥珀色のブランディ越しの世界のように見せている。

どこかアンティークな古びた空気が、流れる時を柔らかに包み込んでいた。


路地裏に構えたその店は、外から見ると店内のみかん色のあかりが、暗闇にポカンと浮かんだ、不思議な別の世界に見えた。

月の登らないつごもりの夜に、月が空から降りてきて店を開いているような、そんな感じのする灯りだった。


その暖かな灯りに誘われるように、花乃子かのこは店の扉を押した。


 経年で飴色になった板敷きの床は、歩くたびに足元でギシギシと小さな音を立てた。

案内のウエイターの後に続いて店の奥へ向かっていた花乃子は、ふっと足を止めた。


「あの……」

「はい、なんで御座いましょう。」

お仕着せの黒い服を着た、色白の背の高い男は、無表情にすら見える笑顔で振り返った。


「あの席」

花乃子は胸の前でそっと、その席を指差した。

(もし良ければ、なんだけど)

そんな控えめな雰囲気をことさら意識して、ほんの少しだけ首を傾げて笑顔を作った。

「あそこの席は、ダメかしら?」

「いいえ、どうぞ。」


ウエイターは、やや大きめな二本の前歯を見せながら微笑むと、きびすを返して花乃子が指した窓際の隅の席へ向かった。


できるだけ客同士の視線が合わないように工夫が凝らされているが、その席は壁際に置かれた観葉植物とチェストの陰に隠れて、まるで隠れ家のように見えた。


腰を下ろすとソファーは沈んで、ギィと小さな軋んだ音を立てた。


すぐに、細めのグラスに入った赤ワインとチーズが運ばれてきた。

テーブルに灯された蝋燭ろうそくの炎が、息づくように揺れる。


(お疲れ)

指先でグラスの脚を摘み上げると、窓のガラスに映った自分にそう言って、花乃子はワインに口をつけた。


(ん〜、フルティーで美味しい)


ガラスの中でこちらを見ている自分に、そっと微笑みかける。



 店内はあらかた埋まっており、皆、誰かと一緒に会話を楽しみながら、夜のひと時を過ごしている。

彼らの楽しげな声は流れる音楽に紛れて、まるで潮騒のようなざわめきになり、沸き起こり消えていく。

テーブルの一つ、一つに置かれた蝋燭の揺れる炎が、ガラスに反射してゆったりと波打つ光の海に見える。

蝋燭の穏やかな灯りは、どこか人肌に触れているような温かさを心に感じさせた。


(こんな良いお店があるなんて、気がつかなかったな)

店の優しい雰囲気が、花乃子の心に染み渡っていく。


随分と昔からありそうな古いレトロな作りが、お洒落な今時の店と違って、気取らない安堵感を与えてくれる。


(私、疲れてたな)

特に、何がというわけではない。

仕事も人間関係も、そこそこ上手く行っている。


(そう、そこそこ)


花乃子は32歳。

全方位で中途半端な年齢だ。


仕事は、部下もいて大きな仕事も時々任される。

恋もしたくない訳じゃないけど、その先にある結婚生活の嫌な側面も見えて、二の足が踏まれる。

というのか、そういうのを抜きにして情熱的に恋ができないお年頃だ。

そして周囲からは、ギリギリ「できない」じゃなくて、まだ「しない」と思われている。

親も、現役バリバリじゃないけど、介護はまだ先。


沢山の分岐点がまだ残されていて、どれもこれもプラスもマイナスも見える。暫しの人生の猶予期間で、足踏みをしてひたすら現状維持に努めている、そんなひととき。


(最後の夏休み……みたいな)


「こんばんは。」

「え?」

突然頭の上から柔らかな低音が響いて、花乃子は驚いて顔を上げた。


「お待たせしました。」

それは、白皙はくせきの品の良い同年代の男だった。

今時珍しい着物姿だが、着慣れているのか違和感も嫌味さもない。

襟元の純白の平襟が、清潔感を醸し出している。

面長な顔は、最近観た映画に出ていた俳優に似ており、美形イケメンといっても良い。


「え、あの……」

(お間違えでは)

「ご注文はお決まりでしょうか。」

花乃子が言葉を発するよりも早く、先ほどのウエイターが促すように注文を聞いて来た。

花乃子は困惑して、目の前に腰を降ろした男とウエイターをオロオロと見比べた。


「あの……」

ウエイターが下がると、思い切って花乃子は男に話しかけた。

「申し訳ありませんが、どなたかと、お、」

「ええ、分かっていますよ。そんなに戸惑わないでください。」

男は優しく微笑んだ。

「分かって?」

花乃子は、首をひねった。

(何かの、詐欺とか勧誘?)


「ええ。あなたは御影裕子さんのお友達の方ですよね?僕は西原和夫の代理の者です。」

「ええ?あの、やっぱり人ちが」

「しっ。」

その男は、口の前で人差し指を立てると、楽しそうな瞳に花乃子を捉えた。キラキラ、芳醇な琥珀色の瞳の中で、花乃子の心のように蝋燭の光が揺らめく。


「ほら、あそこ。」

男は花乃子を見つめたまま上目遣いになると、片手でもう片方の手を隠しながら、窓の外を指差した。

「角の影です。」

「え?」

「あ、いけませんよ。」

窓の外を覗き込もうとした花乃子の頬に、男は白くて長い指をそっと添えた。男の指先はシンと冷たくて、そこからジワリと熱が出てくるようだった。そのほんのりとした熱が頬から顔全体、それから体へと広がっていく。

「あ……」

「ごめんなさい。」

花乃子がビクッと体を強張らせると、男は目をつむって謝る仕草をした。

男にしては長い睫毛が、白い頬に影を作る。


ゆらゆらと蝋燭の炎が影を揺らめかせ、まるで男がまぶたを震わせて悲しんでいるように見せて、キュンと胸が痛む。

(もう、これだからイケメンは……)

擦り切れ気味だった乙女心が、花乃子の胸を勝手にざわめかせる。


「さり気なく、そっと。」

男の指が頬からゆっくりと去っていくのを、花乃子は不思議なほど、名残惜しく思った。

「は、はい。」

花乃子はガラスに映る蝋燭の炎に見惚れるふりをしながら、男が言ったあたりに視線を向けた。

ほの明るい店内から暗い外の様子は見えにくいが、光が届くギリギリの所にこちらを伺っている影が見えた。


「あれは……」

「御影家か西原家の関係者でしょうね。」

「どうして?」

「裕子さんと和夫くんが、この時間にここにいるのを確認するためでしょう。」

「ええ?どうして?」

男は、フッと破顔した。まるで月が雲に隠れたような、どこか悲しげな笑顔だ。


「人にはそれぞれの役割があって、まるで劇のように、現実という舞台でそれを演じなければいけないのですね。」


(ど、どういう意味なのかしら)

「あのう、やっぱり、私。」

花乃子は居心地悪そうに身じろぎをし、立ち上がろうとした。


「あ、待ってください。」

男の手が、テーブルの上に置かれた花乃子の手を包んだ。静かな低い声が耳に優しい。

「もし貴女が裕子さんのお友達でなかったとしても、ほんの少しだけ、僕と一緒にここにいて下さいませんか?」

「で、でも……」

「貴女がこの店のこの席で僕とお話しすることで、それが誰かの幸福の手伝いをするとしたら?」

「誰かの幸せの……?」

「ええ、貴女がこの役を、僕と一緒にしてくださると助かるんです。」

「役?」


時が止まったようなレトロな店の雰囲気も、静かなざわめきを演出する客たちも、そして目の前の男の存在も全てが用意された舞台のようだ。奇妙な魔法がかかった、不思議で魅惑的な空間……


「そう、ほんの2、3時間のことです。せっかくですから、僕と素敵な時間を過ごしませんか?」

男は、優しく微笑んだ。

「素敵な……時間を?」

なんとも言えずアンティークで、昭和初期、あるいは大正時代のショーか小説のタイトルのような響きだ。

花乃子の物問いたげ瞳に、男は優しく微笑んで、視線を受け止めた。

「ええ、できる限り二人で素敵な時間を。」


花乃子も魔法にかかったように、ゆっくりとソファに腰を降ろした。テーブルの上の花乃子の手を包んでいた男の手は、僅かばかりの暖かさを残して、去っていった。

(まぁ、害はなさそうだし、たまにはこんなハプニングも良いかも)

花乃子は腹を括って、このひと時を楽しむことにした。


「着物、珍しいですよね?」

改めて座った花乃子が笑顔で聞くと、男は恥ずかしそうに頷いた。途端に、仔猫のような愛らしさがにじむ。それまでのどこか哀しさを内包したような笑顔とは違う無防備な笑顔だ。

(これはギャップ萌えだぞ)

花乃子の乙女心が、ワクワクしている。


「そうですね。今時、こんな格好の男は、珍しいですよね。実は僕、香が趣味でしてね。」

「あ、私も!元々はアロマが好きで。そこから、お香にも興味がでてきて。」

「え、本当ですか。香が趣味の人に会えるとは奇遇だなぁ。」

「そうですね。私の周りの人もあまりそういうの興味ないみたいで、アロマはまだしも、おばあちゃんみたいな趣味ねって言われるんです。」

「そうですよね、僕なんて『麻呂』って、あだ名を付けられまして。」

男はクスクスと、おかしそうに笑った。

「え、それ、酷い。普通に嫌ですよね。」

花乃子の言葉に、男は驚いたように目を見張った。

「そうかな……趣味が趣味なんで、仕方ないかと思ってました。」

「いえいえ、人の趣味をとやかく言うなって感じですよ。別に迷惑かけてない訳だし。」

「ああ、何だか、そう言ってもらえると、嬉しいですね。」

男は、心の底から嬉しそうな顔をして笑った。

先ほどから男の笑顔はベールが剥が落ちて、素顔がのぞいたように感じられて……

(あらまぁ嫌だ。この人、可愛いわ)

きゅん、きゅんと、花乃子の乙女心が大騒ぎをする。

(ホルモン・バランス、大丈夫かしら。明日は肌ツヤツヤかもね)

何とか高鳴る鼓動を抑えようとして、花乃子は自分を茶化してみる。


「普段は、どんなお店に行かれいるんですか?私は……」

花乃子は、スキップする胸のそのままに、身を乗り出した。

「そのお店、知っていますよ。よく行きます。

こん、いえ、こんな所で同じ趣味の人に会えるなんて本当に嬉しいです。」

「ええ、本当。」


二人の視線が絡まり、言葉にならない思いが伝わっていくようだ。

(不思議だわ。ドラマで見たことあるけど、こんな感じ、本当にあるんだ)


「偶然は何一つないと言いますが、それなら僕たちの出会いは、何か意味があるのでしょうか。」

男は視線を外すと伏せ目がちになり、言葉を噛みしめるように呟いた。

その顔は、とても魅力的で美しく見え、花乃子もまた頬が熱くなって俯いた。


 楽しい時間はあっという間に過ぎていく。


3時間ほど経つと、男は、ワインのグラスをテーブルに静かに置いて、じっと花乃子を見つめた。


「今日はありがとうございました。とても楽しかったです。

僕が先に出ますので、貴女は10数えてから、店を出てください。」


「え……もう?あの……また、お会いできるかしら。」

花乃子は男に聞かずには、いられなかった。

「きっと。」

男は、見返した。

「また会いましょう。今度は身代わりじゃなく。」


男は見えなくなるところで立ち止まり、振り返ると、ジッと花乃子の姿を脳裏に焼き付けるように見つめた。

花乃子も、男の姿を食い入るように見返した。


連絡先を聞きたいけれども、あまりに儀式めいた出会いで、それを聞いたらいけないような気がした。まるで、そういうシナリオがあるように。


(今度、出会った時には)

お互いがそう思っていることが、花乃子には分かった。


男の後ろ姿が視界から消え、花乃子は10、ゆっくりと数え終えると、立ち上がった。

店を出ると、路地裏には静かな闇が広がっていた。あの角の人影も、男について行ったのか消えていた。



 あれから花乃子の心に、あの男の影が住み着いてしまった。

(会いたい)

でも

(今度会えば、恋が始まる)

花乃子は分かっていた。

だからこそ、その店に行くのは躊躇ためらわれた。


何かを捨てなければ、何かは得られない。

このまま居れば、冷たく冷めていくだけと分かっていても、ぬるま湯のような現状から、出るのを先延ばしにしてしまう。


(この歳で恋なんて……難しすぎる)


それに不思議な夜は、あの時だけの奇妙な魔法だったのかもしれない。

そう思うと、彼もいくと言っていた趣味のお香の店へも、怖くて行けなくなった。

もし出会って、すげ無くされてしまったら、酷く傷ついてしまうだろう。


(でも……)


花乃子は、鏡の中の自分に問いかけた。

「偶然は……何一つないって、本当かしら。」

(彼と会ったのは、必然だったら。それなら……)

「信じてみようかな。」

(何が起こっても、何とかなるって)


心の声に押されて、花乃子がその店を訪れたのは、奇遇にもまた、夜空に月のないつごもりの夜だった。

やはり店は地上に降りてきたように、ホワンとみかん色の明かりを灯して、そこにあった。


「いらっしゃいませ。」

あのウエイターが花乃子の姿を見ると、ニッコリと微笑んだ。

「お久しぶりでございます、お客様。お相手の方がお待ちかねでございます。」


「え!あの、あの人が?」

花乃子は高鳴る胸を抑えて、その席に向かった。


「あの、こんばんは。」

花乃子は上ずった声をかけると、男は驚いたように顔を上げた。


花乃子は、息を飲んだ。

(彼……じゃない)


「ご注文は、お決まりでしょうか。」

先ほどのウエイターが、立ち尽くす花乃子を促すように、注文を聞いて来た。

目の前の男は困惑して、花乃子とウエイターをオロオロと見比べた。


花乃子は、彼の言葉を思い出した。

「人にはそれぞれの役割があって、まるで劇のように、現実という舞台でそれを演じなければいけないのですね。」


(そうね、今日の私は、この役を演じるのだわ)

ストンとそれが、当たり前の事実のように腑に落ちて行った。


今夜も気だるげな音楽が、静かに店内に流れている。

あの日と同じように、人々のざわめきが、潮騒のように聞こえる。あたかも、ずっとそこで話をし続けているようだ。


ウエイターが去ると、花乃子は困惑している男にニッコリと微笑んだ。

あの夜の彼のように。

「ええ、分かっていますよ。そんなに戸惑わないで。」


頭にシナリオが入っているように、不思議なほど言うべき台詞がすらすらと出てくる。


「は?あの。分かって?」

男は、あの日の花乃子のように、不可解そうに首をひねった。


「ええ。あなたは西原和夫さんのお友達の方ですよね?私は、御影裕子さんの代理の者です。」


頭の中で誰かが花乃子に教えているように、勝手に言葉が紡がれていく。

(操り人形みたい)


「ほら、あそこに。」


そっと角の人影を指す。

「いいえ、そんなに見てはダメ。」

テーブルに置かれた、男の手の甲に触れて、注意を促す。

ところが、好奇心が強いのか、男は尚もガラス越しに覗き込もうとする。

(あら、困った人だ)


「ダメ……気づかれてしまう。私たちは今夜は、西原さんと御影さんのふりをしなければいけないのよ。」

花乃子が語気を強めて、嗜めると、男は恥ずかしそうに首をすくめた。


「あ……すみません。俺、いつも無神経なとこがあるって、上司に叱られるんです。でも、どうしてですか?」


「そうね、今度会った時に教えてあげるわ。」

「えっ……あ、それって……」

途端に、男は顔を赤らめた。


不思議な舞台の監督は、どうやら、ほんのすこしのアドリブは認めているらしい。

(なるほど。臨機応変に。でもストーリー自体は変えられない)

花乃子は、その不思議な感覚を楽しんだ。

(そうね。出来るだけ素敵な時間にしましょう)


相手の男は、最初は戸惑っていたようだが、段々と話に引き込まれその時間を楽しむことにしたようだ。

(まるで、気の合う従兄弟と話しているみたいね)


 非日常的な楽しい時間は、あっという間に過ぎた。

3時間ほどすると、丁度ワインのボトルが空いて、終わりの時間が来たことが分かった。花乃子はグラスをテーブルに置くと、男の顔に微笑みかけた。


「私が先に出ます。貴方は、10数えてから店を出てください。」

花乃子がそう言うと、男は名残惜しそうな顔をした。


「また、会えますよね?」

「ええ、きっと。」

花乃子と男は、見つめあった。

「ここで、また会いましょう。」


花乃子は、男が見えなくなるところで、振り返って、もう一度微笑んだ。あの彼もこうして、自分をあの時見たのだと思うと切ない。


男も、花乃子を見返してくる。

「必ず、ですよ。」

花乃子は、微笑みながら頷いた。

(もう2度とない)

そう思いながら。


そして、扉を押して店を出た。

外の空気はシンと冷えている。花乃子は足早に、現実へ戻っていった。



 それから、花乃子は変わらないぬるま湯のような現実を、男の面影を引き摺ったまま過ごしている。

穏やかで、平和で、何事もない生温い生活だ。


(あれは夢だったのだ)


何度目かの晦の夜の度に、人を替えて繰り返される不思議な茶番劇。

始まると思っていた恋は、演出された偽物の恋だった。


(一体、いつから繰り返されていたのだろう)


しかし、茶番劇の恋と分かってもなお、最初に出会った男の面影が、あの夜の置き土産のように心から消えない。


(何のために?)


男の指が残した微かな温もりが、花乃子の心にみかん色のおこりを灯してしまった。

(あの店の灯りが、胸に移ったようだわ)

その熾りは、男のことを思う度に掻き立てられ、花乃子の胸を焦がす。

(あれは夢のひと時だったのよ。一体、何ができるというの?)

溢れた涙が、あの日の男が触れた頬を濡らしていく。


 ある月の昇らぬ晦の夜、花乃子はあの店に行けば何かわかるかも知れないという期待にすがって、ついにあの店に足を運んだ。。


薄暗い路地裏に、みかん色の明かりがホワンと浮かんでいた。


しかし、いざ店を目の前にすると花乃子は足がすくんで、扉を押すことが出来ない。

(もし彼が居たとしても、もう私が相手役ではないかもしれない)

彼が別の女性と役を演じているのを、傍観者として見るのを想像すると、それだけで涙が出そうになってしまう。

(でも姿だけでも見たい)

花乃子は路地裏の影に隠れて、みかん色の明かりを灯す店を見つめた。


 あの夜と一寸も変わることなく、今夜も選ばれた善男善女たちが、笑いさざめきながら窓辺を飾っている。

花乃子は羨望に満ちた視線を、窓に彷徨わせた。


自分たちが座った席に男女が座り、楽しげに話しをしている。

「あ!」

その男の横顔に、花乃子は見覚えがあった。先日の男だ。


ガラスの中の女が窓の外を見ようとし、男が女の頬に手を伸ばした。

ガラスの向こうで、二人は見つめ合い言葉を交わす。

今夜も静かに劇が進行している。


もう花乃子の関係のないところで。


女が目を伏せると、ゆっくりと長い男の指が、女の頬から離れていく……

あの夜の花乃子と男のように。

花乃子は自分の頬に、そっと指を滑らせた。自分の指先は冷たいばかりで、ほのかな温かさを胸に伝えてはこなかった。


女がさりげなく、窓の外に注意を向けている。

あの日の花乃子のように、ガラスに映った揺れる火影を眺めるふりをしながら、注意深く探る目を外に向けている。

女の視線は路地裏の影をさまよい、最後に花乃子の影を捉えた。


「え?私……」

(あ、じゃあ、私があの男と見た、あの時の人影は……彼だったの?)

まだ茶番劇の中にいる自分に気がついて、花乃子は小さく声をあげた。


全て仕組まれた茶番劇は無限のループの中、人を替えながら、延々と繰り返されていく。

(何のために?)


永遠に続く一つの筋書きの中で、もし二人が本当の恋に落ちたなら、どうすれば良いのだろう。

(そうだ。あの日の会話には、シナリオ以外の台詞がたくさんあった)

そう、許される僅かなアドリブの中で、もし彼が伝えようとしてくれたかも知れない。

(思い出して!思い出すのよ!)

もし彼も同じ気持ちならば、彼の言葉の中に必ずヒントがあるはずだ。

(店の中の二人の劇が終わるまでに、思い出さなければ)

そうしなければ、この恋は成就しないような予感がした。


窓辺の男は女を見つめながら、最後のワインをグラスに注いだ。

花乃子は、必死であの夜のことを脳裏に浮かべた。

(私の台詞と違う言葉が、あの夜はあったはず)

女がゆっくりとグラスを空ける。

(ああ、お願い)

花乃子は、店の月のような灯りを見つめながら祈った。

(この茶番劇を終わらせて!)


男が女を見つめて、別れを告げている。


その時、彼の台詞が蘇ってきた。

「そのお店、知っていますよ。よく行きます。

こん、いえ、こんな所で同じ趣味の人に会えるなんて本当に嬉しいです。」


(言い換えた言葉は「今度、一緒に行きましょう」あるいは「今度、その店で会いましょう」?)


身代わりではなく。

本当の自分たちとして。


(何一つ偶然はない)

カチリと、パズルのピースがはまった。


花乃子は薄闇の中、身を翻すと大通りへと走って行った。

本当の二人の出会いをするために。



パリンと何かが割れる音がした。





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