後編『フラニーの帰宅』

   5


 まっすぐな夜の道を夫婦は歩く。


 いいや、この闇は夜のそれではなかったのかもしれない。

 キャラウェイ夫人は……ミセスフランシス・キャラウェイは、そんな風に感じていた。


 優しい闇、不安のない闇。

 そして、隣に愛する人がいるだけでこんなにもときめきと期待に満たされる、そんな特別な闇。


 そうだ。この闇は、映画館のあの闇だ。


 ポップコーンを買う。

 わくわくした気持ちで席に着く。

 まだそうする必要はないのに、声をひそめておしゃべりをする。

 ブザーが鳴って予告編がはじまる。そしてわくわくはさらに高まる。


 ……ああ、何度そんな素敵な時間を経験しただろう。


「たくさん映画を観たわよね。たくさん」

「ああ、たくさん観た。34年かけて……いや、結婚前の交際期間も合わせればもっとか? まあとにかく、たくさんだ」


 あれは恋人たちの為の文化だな、と夫のスコットが言う。

 まったく同感だわ、とフランは思う。


 実にたくさんの映画をこの人と観た。

 何度でも観たくなるような名作もあれば、あまりの出来の悪さに盛り上がれるような愛すべき駄作もあった。

 人気の映画は立ち見になることもあったし、席が空いているのにわざわざ立って見たこともあった。


 一番後ろの闇の中で、ほとんど映画そっちのけでいちゃついたのだ。

 ミュージカルシーンに合わせてタップを踏んだことだってある。


「若かったのよねぇ」

「若かったんだよなぁ」


 若気の至りも、お互いが死んだ今となっては完全に笑い話だ。夫婦は声を立てて笑った。


 そして、また道を進む。


 社会派のキャプラ、娯楽に徹したワイルダー、それに新進気鋭のスピルバーグ……

 様々な時代に二人で観てきた名作たちを再び鑑賞するような気持ちで、夫婦は思い出の情景を共に眺めた。


 映画がクライマックスに迫ったとき、あるいは美しい悲劇的な結末を迎えたときや、文句なしの大団円を迎えたときにも。

 素晴らしい映画の素晴らしい瞬間瞬間に、フランは涙を堪えられなくなることが幾度となくあった。

 そういうときも、映画館の闇はいつも優しかったなぁ、と彼女は思う。


 そうだ、いまようやくわかった。あの闇は、観客の涙を隠す為の装置でもあったのだ。

 ようやくわかったわ。いま、ようやく。


 フランは泣いていた。

 そしてすべてのデートでそうしてくれたように、このときもまた、夫は妻の涙が乾くまで何も言わずに待っていた。



   6



 楽しいこともあった。怒ったこともあった。

 悲しくて泣いた日もあれば、嬉しくて涙を流した日もあった。

 諦めなければならないこともあった。弔わなければならないこともあった。


 だけどあらゆる夫婦が最初にそう誓うように、病める時も健やかなる時も、二人は常に夫婦だった。

 34年の間。フランとスコットの、二人の34年。


 旅路は続いていく。夫婦は長い道を進む。

 共に歩んだ人生を反対に辿って、人生の場面場面を一緒に眺めて、時には立ち止まって長く長く話し込んだりもした。


 人生の答えあわせ。頭に浮かんだそんな言葉がおかしくて、フランは笑う。

 妻の笑顔が夫にも伝染する。

 夫婦は笑い合う。幸せに笑み交わす。


 二人が進む道の上には、時折なにか品物が落ちていた。

 それらはどれも露骨に、実に露骨に存在していた。

 ほら、ここだよここ、早く拾って。

 そんな風に自己主張しているかのように。


 フランがそれを拾うと、最初のスコップがそうであったように、人生の対応する時間の中へと夫婦は飛ばされた。

 そしてひとくさりの出来事を体験してまた元の場所へと戻ってきたとき、二人は旅してきた時間の中の自分へと若返っていた。


 デフォルメされたピンクのカバを拾った次の瞬間、フランは拾ったばかりのぬいぐるみを使って赤ちゃんをあやしていた。

 赤子は眠そうにしている。自分の子供ではなかったが、自分で産んだ子供よりもずっとかわいいと、そう思った。

 フランがそんな感想を伝えると、彼女が腹を痛めて産んだ長女は「お母さんひどい」と嬉しそうに文句を言った。

 この娘が赤子の母親だった。


 これは初孫が生まれた数日後の場面だった。

 リプレイから戻ってきたとき、フランは48歳の姿と年齢になっている。

 ずいぶん若いお婆ちゃんだわね。そう言った彼女に、あの頃はそれが適齢だったじゃないか、とスコットが笑った。そう言う夫もまた49歳の頃に若返っている。


 ガウンとタッセル帽を拾うと、気付いた時にはそれらを抱えて車の後部座席にいた。

 運転席には夫、ナビシートには晴れ晴れしい表情の息子。これは次男が高校を卒業した日。

 フランは45歳。


 ディナーの招待状。

 長男がはじめてのアルバイトでもらったお給料でプレゼントしてくれた。

 フラン42歳、スコット43歳。あの時のロブスターは凄かったなあ、と夫が言う。


 他にも、ああ、他にも。


 エトセトラは無数に連ねられる。

 登場する品物と時間はそれこそ枚挙に暇がなくて、そしてそれらを拾い体験するたびに、フランは昔の自分へと戻っていく。


 40代が終わり30代に。

 やがて30代も終わり、ついには20代に……。


 真新しいベビーバスケットを拾った。

 その後どんどん使い古されていくことになるけれど、その時はまだ確かに真新しかったそれを。


 そしてリプレイははじまる。


 フランは25歳で、隣には26歳のスコットがいる。

 バスケットの中には二人の最初の子供。

 さっき孫の母親として現れた長女が、0歳の赤子となって眠っていた。


 再現された過去の中には再現された感情があった。

 母親という生き物になったばかりの頃の、あの天国にいるような幸福感が。

 あの、制御不能なほどの愛情が。


「ねえフラン。この子にどう育って欲しい?」


 まだ若い夫にそう尋ねられて、フランは答える。母性の愛のありったけを込めて答える。


「そうね。美しくて、でも少しだけおばかさんに育って欲しいわ」


 答えた瞬間、夢から覚めるようにして過去の再現は終了した。



   7



「あの子は君が願った通りに育ったかい?」


 夫が、スコットが、フランに聞く。


「そうね。親の贔屓目を抜きにしても十分美しく育ってくれた。けど……」

「けど?」

「二つ目の願いはてんでダメ。おバカさんどころか、小憎らしいほど賢い女に育っちゃった」

「賢いなら文句はないだろう。時代がそういう女性を求めてもいたし、それに僕たちはあの子の下に二人も男の子をこさえてしまったからね。愛されるおバカさんでなく頼れるお姉さん、そうなったのは必然だったのさ」


 そうかも、とフランが言う。

 そうとも、とスコットが言う。


 二人はもう老夫婦ではなかった。

 25歳と26歳、まだまだ夫婦が板につききっていない若夫婦となって、その頃の二人では知り得なかったはずの未来について答えあわせをしている。


「スコットってば、自分のことを『僕』って言ってるね。『私』とか『俺』じゃなくて。話し方だってまだ全然若僧だしさ」


 子供や孫たちが聞いたらきっと驚くよ? そう茶化すフランに、「君だって人のこと言えるかよ。そんな娘っぽい喋り方になってるくせに」と反論するスコット。

 新米の母親と新米の父親。いまこの瞬間こそが幸せの絶頂だと、そう信じて疑わなかったころの二人。

 だけどその内に宿る精神は、これから先、幸せの絶頂は幾度となく更新されていくのだと、そんな未来の記憶を所有した二人だった。


 そして新米の母親と父親は、やがて新婚の夫婦に戻っている。

 そして新婚の夫婦は、二人が新郎と新婦として祝福された、結婚式のその当日にまで立ち返る。


「結婚届けを出したのは式の後だったね」

「そうね。あら、ということは」

「そうだよ。君のファミリーネームはまだキャラウェイじゃないんだ」


 結婚式のリプレイ、花束と祝福に満ち満ちたチャペルから帰ったあとで二人は話している。

 ミスタースコット・キャラウェイと、ミスフランシス・バトンは。


 そして。


「さあ、行こう」

「ええ、行きましょう」


 新郎と新婦はさらに、さらに先へと進む。


 小さなジュエリーケース、拾った瞬間にリプレイははじまる。

 予感に満ちた夕食のあとで、フランとスコットは海岸の散歩に出かけた。

 寄せては返す波の音、遠くに聞こえる週末の声とサイレン、季節は夏だった。

 薄闇の中でジュエリーケースが取り出される。予感していた通り、登場したのは婚約指輪だった。

 22歳のフランは、はい、と答えた。


 映画のペアチケットを拾う。はじまるのは何度目かのデートのリプレイ。

 その頃ナンバーワンに流行っていた四時間の大作映画。上映時間の途中に挟まれる休憩時間。互いに興奮して前半の感想を戦わせていると、上映再開を告げるブザーが鳴る。

 揃ってシアターに戻りながら、20年後もこの人と映画を観たいと、強烈にそう願っていた。


 20歳の品物はファンシーな便箋。Eメールなんてなかった時代の、古式ゆかしいラブレター。

 既にお互いを恋人とみなしていて、だけどあらためて文字へとしたためられた告白に胸が震えた。

 イエスを伝えるレターセットを、時間をかけて選んだ。


 19歳。

 はじめてフランと呼ばれた。バトンさんではなく、ぎこちないけれど親しみのこもった愛称で。

 驚いたけれど、その何倍も、何十倍も嬉しかった。

 ずっとこの人がそう呼んでくれるのを待っていたのだと、そう気づいた。


 そして18歳。はじめてこの人と出会った。



 そこで、スコットが不意に立ち止まった。



   8



「どうしたの?」


 18歳のフランシス・バトンが尋ねる。

 19歳のスコット・キャラウェイは曖昧な表情を浮かべて、それから、意を決したようにフランシスを見つめた。


「僕が一緒にいけるのは、残念だけどここまでだ」


 本当に残念そうにスコットは言った。

 フランは、どうして? とは問わなかった。


「……わかってるわ。だってわたしたちは、ここで、この時点ではじめて出会ったのだもの」

「そう。ここから先には……つまり、これより以前の君の人生には、僕は存在していない」


 だから一緒に行けないのね、とフラン。

 だから一緒に行けないんだ、とスコット。


 確認しあうように言って、二人はしばし沈黙する。


 フランとスコットは。

 少女と少年は。


「うん、平気。わたしは大丈夫だから、心配しないで」


 やがて、最初に言葉を発したのは少女のほうだった。


「だってわたしたちは、お別れするわけではないもの。それはもうずっと前に済ませてきたわ。ここから先は、ただ出会う前に戻るだけ」


 だから、だいじょうぶ。フランはそう言って笑った。

 この年齢の少女だけが浮かべられる笑顔に、人生を立派に生き抜いた女性のしたたかさが重なった。


 34年間連れ添った少女のタフさに、少年も負けを認めるように笑みを浮かべる。

 参った、やはりお前には敵わんよ。少年の中のミスタースコット・キャラウェイが、少女の中のキャラウェイ夫人にそう言った。


 それから、彼は彼女に言った。


「いまの僕らはまだ出会ったばかりで、これから時間をかけてお互いを知って、お互いに惹かれあっていく。だから、この時点の僕がこれを言うのは、ひょっとするととんでもない欺瞞なのかもしれない。だけど」


 だけど、それでも、と彼は言う。

 それでも言わせて欲しいんだ、と。


「愛してるよフラン。死ぬまで君を……いや、死んでも君を愛してる」


 また出会いましょう、とフランが言う。

 また恋に落ちよう、とスコットが言う。


 そして二人は、手を振って出会う前へと別れた。



   9



 そのようにして彼女は彼女の案山子さんと別れた。


 フランシス・バトンは……フランは、たった一人で残りの道を進む。

 背中の未来に愛した人を、これから先の未来で愛する人を残して、目の前の過去へと。


 寂しさはある。だけど、悲しみはない。

 だって、悲しむ必要がどこにあるというの?


 だから、後ろは振り返らない。未来は振り返らないで、進むべき過去へと歩みを進める。


 旅の終わりが近づいていることを、はっきりと予感しながら。



 17歳。またもやタッセルとガウンが登場した。

 だけど今度のは、子供たちのではなくてわたしの、わたしの卒業式。

 もうこれで一人前よ! と義務教育を終えたばかりの17歳のフラン。

 とんでもない、ようやくあんたは半人前になったのよ。少女の中の未来たちが口を揃えて笑う。


 16歳。叩き返された文庫本、再現されるのは一番の親友と喧嘩をしたあの日。

 売り言葉に買い言葉で投げつけた、自分の言葉の鋭利さに少女は傷つく。

 もう二度と関係の修復は不可能と絶望する16歳の自分を、結局次の週には仲直りしたんだけどねえと未来のフランは苦笑いで懐かしむ。

 大丈夫よ、あんたとあの子は70年先まで親友なんだから。


 旅の終わりは近づく。

 フランは立ち止まらない。

 未来の記憶を思い出として所有した少女は。


 この道はどこに辿り着くのだろう、とフランは思う。わたしはどこに帰るのだろう。


 ……帰る?



 15歳。はじめての恋人。おままごとのような短い恋愛。

 14歳。ハイスクールに入学。

 13歳。ティーンエイジャーの仲間入り。



 未来はどんどん過去になる。あたかもカウントダウンするように。

 旅はもう終わる。



 12歳。

 11歳。

 10歳。

 

 9歳、8歳、7歳……。



   ※



 そして、闇を抜けた。

 気がつくとあのまっすぐな一本道は終わっていた。

 夕暮れ時だった。


 6歳か、5歳か、それとも4歳?

 フランは遊び疲れた子供になって、通い慣れた近道を歩いている。


 いや、フランではない。

 まだ少女ですらない女の子だったこの頃、フランはまだフランにはなっていない。

 フルネームのフランシス・バトンもまだ馴染みが薄くて、フランシス・キャラウェイなんて遠い未来の見知らぬ他人だ。


 彼女はこの頃、まだフラニーだった。

 彼女を100パーセントの愛情で包み込んでくれる人たちは、この女の子をそう呼んでいた。


 フラニーは通いなれた道を急ぐ。

 時刻は夕暮れ時、子供はもう帰らなければいけない時間。


 駆け足で原っぱを通り過ぎる。

 小さな林をくぐり抜ける。


 するとなだらかな丘の上に、赤い屋根の一軒家が見える。


(ああ……!)


 フラニーの中で、キャラウェイ夫人が感極まった叫びをあげている。

 懐かしさに、涙を流している。


(やっぱりこれは、オズの魔法使いだったのね……!)


 帰ってきたのね、私は、帰ってきたのね。

 こんなにも心安らかな時代に、もう記憶の中からも失っていた、あの頃に。


 あの家に。



 フラニーは駆け足で丘を登る。

 お腹はペコペコで、体はくたくた。

 だから、はやくかえらなくちゃ。


(それにあの家には、あふれるほどの愛情を込めて私をフラニーと呼んでくれる人たちが待っているのだから)

 

 やがて丘を登りきる。

 そしておうちにつく。


 呼び鈴は鳴らさない。

 ノックをする必要もない。

 だって、扉はいつも開いているのだから。


 扉はいつも開いていて、私が/わたしが/あたしが帰るのを、待っていてくれるのだから。



「ただいま!」



 元気よく叫んで、フラニーはお家に飛び込んだ。



 ――おかえりなさい。




 優しい声が娘を出迎えた。


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Last Way Home ―フラニーの帰宅― 東雲佑 @tasuku_shinonome

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