Last Way Home ―フラニーの帰宅―

東雲佑

前編『わたしのカカシさん』

 キャラウェイ夫人の正確な死亡時刻は誰にも分からなかった。老婦人は真夜中にひっそりと息を引き取ったのかもしれないし、最後の朝日に見送られながら旅立ったのかもしれない。

 ともかく、正午を前に孫娘が様子を見に来た時にはもう、寝床の中の祖母はすっかり冷たくなっていた。その死に顔はあくまでも安らかだった。

 数日後に行われた葬儀はそれほど厳かなものにはならなかった。なにしろ夫人はすでにかなりの高齢だったし、普段から毒もなくお迎えの話をしては家族を苦笑させてもいた。

 葬列に加わった誰もが夫人の死を悲しむと同時に、その大往生っぷりを理想的な幕引きであると評した。


 キャラウェイ夫人はそのようにしてこの世を去った。

 だからここから先は、死のその先の物語だ。



   1



 気がついた時、キャラウェイ夫人は真っ暗な闇の中にいた。

 光のない闇。しかし気がかりや息苦しさもまた少しも感じさせない、奇妙に居心地のよい闇。


「あれまぁ、とうとう死んじゃったねぇ」


 キャラウェイ夫人は確かめるように独り言を言ってみた。声の響き方は生前と同じか、むしろ死ぬ前よりも張りがあるように思えた。

 やれやれ、と夫人は思う。

 自分が死んでしまったことはすでに受け入れているし文句もない。

 だけど、私はこれで97年も(はて、98年だっけ?)生きたんだ。最後に自分の葬式を空から眺めるとか、そういうちょっとした余禄はあっても良かったんじゃないかい。ねえ、神さま?


 闇の中、夫人は深々とため息をつく。呼吸も生前よりずっと楽になっている気がした。

 と、次の瞬間。


 唐突に、闇の中に光が灯った。

 ポッ、ポッ、ポッと街路灯がひとりでに点灯して、夫人の目の前に伸びる長い長い一本道を照らし出したのだ。


 そのときようやく、夫人は自分が車椅子に腰掛けていたことに気付いた。

 その車椅子が、ゆっくりと動きだす。

 車輪の回転が、夫人をいましも現れた道へと押し出して、運びはじめる。


 ひとりでに、ではない。

 誰かが車椅子を押している。

 だからつまり、誰かが自分の背後にいる。


 夫人はそのことに気づいていて、だけど、少しも取り乱したりはしなかった。


 取り乱す必要はないのだと、優しい気配が物語っていたから。

 暗くて姿は見えないけれど、そこにいる誰かは自分にとって好意的な――とてもとても好意的な――存在であるのだと、そう理解していたから。

 だから、夫人は安心して車椅子の振動に身を委ねる。

 車輪の回転と優しい誰かの介助に任せて、キャラウェイ夫人の旅ははじまる。



   2



 なんだかオズの魔法使いみたいだわ、と夫人は思った。

 道の様相はどこにでもある田舎道だったけれど、まっすぐに続く一本道を辿る旅は、子供の時に読んだ児童文学をキャラウェイ夫人に思い出させた。

 思えばあれがはじめて自分で読んだ物語だった。あんなに大好きだったのに、どうして今まで忘れていたのだろう。


「黄色いレンガ道じゃないのが残念ね」


 姿の見えない介助人に夫人は語りかけてみた。

 返事はなかったけれど、闇の中の沈黙はやっぱり肯定的で優しかった。


 この人を私のカカシさんと呼ぶことにしよう、とキャラウェイ夫人は決めた。

 私の旅の案内人。行き着く先はエメラルドシティでもなければ懐かしの我が家でもないだろうけど(だって私は死んだのだから!)、でも、この人が連れて行ってくれる先なら、きっと悪い場所ではないだろう。


 優しい闇の中を優しい案内人に運ばれて、キャラウェイ夫人は進んでいく。

 すると、変化はやがて現れた。


 闇の中に情景が浮かび上がってきたのだ。道の脇に広がる闇をスクリーンにして。


 浮かんでは消える情景は夫人の記憶だった。

 幾度となく繰り返された日常の風景があり、特別な日の特別な景色があった。

 もう忘れてしまったはずの思い出もあったし、けっして忘れられない思い出もあった。

 そうした数々の思い出が、時系列とは逆順に現れては消えていく。


 あたかも追憶を巡る旅だった。

 これまで生きてきた人生を、立派に生き抜いた人生を、反対に辿る旅。


「お葬式を空から眺めるのもありがちな発想だけど、これだって同じくらいステレオタイプよね」


 夫人が苦笑してそう言うと、彼女のカカシさんは同意するような気配で応じてくれた。



   3



 キャラウェイ夫人の旅はそのようにして続いていく。

 記憶の風景の中を通過して、いくつもの思い出を通り過ぎて。


 足腰の立たないお婆ちゃんから、それよりはまだ少しだけ元気なお婆ちゃんへ。

 浮かんでは消える場面の中で少しずつ若返っていく自分を見るのが、なんだか嬉しくもあり照れくさくもあった。


 そうこうするうちに、転機はまたも訪れた。


 道に、なにかが落ちていた。

 横脇の闇の中にではなく、夫人が運ばれて進んでいく道の上に。


 スコップだった。


 車椅子はスコップの手前で止まった。

 言葉はなくてもわかる。カカシさんは夫人にそれを拾うよう促しているのだった。


 夫人はスコップに手を伸ばす。手を触れる。

 その瞬間、世界はひっくり返った。



 気がついたとき、夫人はそれまでとは違う場所、違う時間の中にいた。

 夜のような闇ではなく、曇り空の午後に夫人は立っていた。

 スコップを手にして。


 大往生を遂げた98歳の老婆としてではなく、56歳の真新しい未亡人として。


 ああ、忘れるもんですか、と夫人は思う。

 長い人生の中で一番悲しかった日に夫人は立ち返っていたのだ。


 周囲にはたくさんの人たちがいる。人々は一様に黒い服を着ている。中には夫人の息子や娘たちもいて皆涙を流しているか泣かずとも沈痛な面持ちをしているがしかし孫たちは、まだ小さな孫たちは、状況が理解できないのか(あるいは死という概念も、また)きょとんとしている。


 人々が取り囲んでいるのは真新しい長方形の穴だった。穴の底には棺が収まっている。

 だからつまり、それは墓穴だ。


「さぁ、奥さん。旦那さんに土をかけてあげてください」


 聖書を胸に抱いた牧師が夫人に促した。

 夫人は首を振る。嫌よ、嫌。そんなことをしたらあの人は本当に死んでしまう。私たちの元から永久にいなくなってしまう。

 そんなのは嫌、そんなのは認めない。


 未亡人の聞き分けのない様が、葬列の人々の涙を誘う。ある男性は深く俯き、ある女性はハンカチで目頭を抑える。

 それから、夫人の息子たちが前に出てきて、母の肩を抱いて諭す。

 ねえ母さん、父さんは……。


 そこから先は聞き取れなかった。なぜなら夫人は泣いていた。声を上げて泣き出していた。

 泣きながら、ようやく夫人は穴の底の棺に最初の土をかけた。



   4



 そしてまた気がついたとき、夫人はあの真っ直ぐな道の上に戻っていた。

 あたりには再び安らかな闇が満ちて、夫人を優しく包み込んでいる。


 闇の中で、夫人は泣いていた。


 夫人が旅したのは夫の葬儀の日だった。

 人生で一番悲しかったあの日。愛する人を葬ったあの日。


 一歳年上の夫とは大恋愛の末に結ばれた。お互いに相手の長所も欠点も知り尽くしていて、長所も欠点もひっくるめて相手のすべてを愛していた。

 結婚から30年が過ぎても愛情は少しも目減りせず、だからこそ悲しみは深かった。


「こんなのってないわよ!」


 怒りにまかせてスコップが放られる。


「あんなに悲しいことは二度とないと思ったのに、よりによってその悲しみの日にまた、また戻されるなんて!」


 こんなのってあんまりよ!

 夫人は泣きながら神さまに文句を言った。


 すると、そのとき。


「そんな風に言うものじゃないよ。神様は確かに残酷なお方ではあるが、あれはあれで私たちを愛してくれてるのだから」


 それまで一言も口を利かなかったカカシさんが、夫人に語りかけてきたのだ。


 はじめて発されたカカシさんの声は、しかし、はじめて聞く声ではなかった。

 声は、夫人の中に生じた良くない感情をいっぺんに浄化する。


「……ああ、そうなの。そうだったのね」


 感極まって、夫人がまたも泣く。

 しかし今度のそれは、悲しい涙ではなかった。


 怒りはもうない。

 神様への怒りは、同じ相手への限りのない感謝で塗り替えられていた。


「……わたしのカカシさんは、あなただったのね?」


 震える声で夫人が言うと、優しい手がその肩に置かれた。


 ずっと一緒にいてくれたカカシさんの正体は、夫人の亡くなった夫だったのだ。


「どうして? どうして今まで黙っていたの? どうして話しかけても返事をしてくれなかったの?」

「仕方がないだろう。なにせ私はこの時点までは死んでいたのだから」


 車椅子を押してやっただけでも特大サービスなんだぞ、と夫は言った。


「この時点?」

「そうとも。だってお前は、お前の人生を逆に辿って来たんじゃないのかね?」


 ああ、そういうことか、と夫人は思う。

 でも、でもだとしたら。


 ここまでは、という言葉の影に、まるで双子のように浮かび上がる別の言葉があっった。


 だとしたら、ここからは。


「ああ、そうだ、車椅子といえばな」


 キャラウェイ夫人が胸に湧き上がった疑問(そして、期待を)を口にしようとした時、夫は夫人の背後から正面に回った。

 そうして明らかとなった夫の姿は、亡くなった頃の年齢そのままだった。


「もうそんなものはいらんだろう。それにな、車椅子を押すというのは、あれでなかなか疲れるんだ」


 だから、この先はお前も自分の足で歩きなさい。


 そう言われて自分の姿を検めてみれば、夫人もまたいつのまにか、98歳の老人から56歳の頃へと若返っていた。

 もう若くはないかもしれないけれど、しかしまだまだ現役の奥さんだったあの頃に。


「一緒に、歩いてくれるの? ここから先は、一緒に行ってくれるの?」


 夫人はそう夫に問う。また泣きそうになりながら。

 そんな妻に対して、当たり前じゃないか、と夫は答える。我々が34年も添い遂げたのはお前さんも知っての通りだろう、と。


「さぁフラン、行こうじゃないか」


 夫は妻に手を差し出す。

 キャラウェイ夫人は……ミセスフランシス・キャラウェイは、差し出された夫の手を取る。

 ミスタースコット・キャラウェイは妻の手を引き立ち上がらせ、そのまま少しだけ抱きしめる。


 抱擁が交わされる。何十年ぶりかの抱擁が。


 それから、夫婦は手に手を取って長い道を歩きはじめた。

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