ミスフォティアにさよならを。
花倉蛍
プロローグ
姉の脱いだパジャマが明後日の方向に飛んでいくのを横目に見て、僕は深いため息をついた。熱したフライパンに生卵を落としながら、振り返って声を張り上げる。
「姉さん! 洗濯物はちゃんとカゴに入れてって言ってるだろ!」
指摘された当の本人は、下着姿のまま他人事のように首を傾げた。右手に持ったリモコンで、テレビを見ないまま器用に電源をつけた。その行動にすら苛立ちがこみ上げる。
「え、ちゃんとカゴに向けて放り投げたよ〜?」
「方向全然違う! 北海道と沖縄くらいには逆だから! というかそれ以前に投げないでって言ったよね!?」
苛々しながら指摘すると、うそ〜? ごめんね〜、と間延びした返事が返ってきた。どうしてそう関係なさそうな返事をするんだろう。直接言ってるのに。姉は、特に気にする様子もなくそのまま冷蔵庫を開け、一番上の棚からいくつかの瓶や箱を取り出した。
「わたしはマーガリンとシナモンとりんごジャムと……弓弦は〜? いつものやつでいい〜?」
「あーもう! ハイハイいいよ! ありがとね! その前に制服着てくれる!?」
卵とベーコンに綺麗な焼け目がついた。食欲をそそる香りが辺りに広がる。ジャムの瓶を無造作にテーブルに転がし、姉は「はぁい」と歌うように返事をした。大きな欠伸をしながら自室へ向かう足取りは、まだ寝ているのかと疑うほど覚束ないものだった。
姉が着替えてくるまでの間に、フライパンで焼いたものを皿に盛り付け、食パンをトースターに放り込み、姉のパジャマを回収して洗濯機を回す。家事ができない、というよりやらない姉に代わって、毎日の炊事洗濯はほとんど僕の役割になっていた。まだ自身はパジャマのままだったが、朝食を食べ終わってから着替えても十分学校に間に合うと思い、着替えは後回しにした。
そうしてバタバタと朝の支度を終える頃に、姉がリビングに戻ってきた。今時の女子高校生にしては長いスカートがふわりと揺れる。もう目は覚めたようで、四方に跳ねていた髪はきっちりポニーテールに纏められていた。
「ありゃ〜、また間に合わなかった。今日こそ洗濯くらいはやろうと思ったのにぃ」
あからさまに肩を落とす姉。小鳥が歌うような、独特な節がついている。本当にそう思ってるなら少しくらい早起きしてよ、とは言わなかった。
「別にいいよ、そんなに量なかったし。ほら、座って」
「へへ、ありがと。わぁ、やっぱり弓弦のご飯、美味しそ〜!」
並べられた朝食を見て歓声を上げた。こんがり狐色のトーストに、目玉焼きとベーコン。適当に野菜を盛り付けたサラダと野菜ジュース。姉が無造作に転がしたジャムやマーガリンはきちんと立てて置いてある。そこまで豪華な朝食には見えないのだが、姉はいつも、宝物を見つめる子供のようにきらきらと目を輝かせている。幼い頃からずっと。
「はい弓弦、手を合わせてー!」
これも幼い頃からのルーティン。揃ってご飯を食べるときは、必ず二人で手を合わせて「いただきます」をする。向かい合ってテーブルにつき、僕はあかぎれだらけの手をゆっくりと合わせた。
「せーのっ、いただきまーす!」
花が綻ぶような、明るく優しい笑顔と声だった。
姉、
弟である僕、矢島
これは、僕たちが生まれ、共に育ち、手を取り合って、時には喧嘩して、そして──お別れをするまでの、少し不思議な物語だ。
ミスフォティアにさよならを。 花倉蛍 @hanakura
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ミスフォティアにさよならを。の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます