新たな密命

 小豆坂での戦いは、織田勢の侵攻を食い止めたという意味では今川方の勝利と言えますが、織田方の最前線の拠点である安祥城は健在で、城主の織田信広が傭兵隊を率いてしっかりと守りを固めていますので油断はできません。

 今川軍総大将の太原雪斎様は、安祥から矢作川を挟んで一里半ほど離れたところにある岡崎城に松平広忠や松井宗信などの二千の兵を残して織田方の動きを警戒しつつ、残りの八千の兵は一旦解散してそれぞれの土地に帰すことにしました。

 わたしたちも、朝比奈様からお借りした足軽たちを返したあと、父上や久綱兄のいる遠江国曳馬の玄忠寺へと引き上げました。


 玄忠寺では、久綱兄の病気がまた悪くなっていて、布団から起き上がれない状態になっていました。それでも床の中で、わたしたちの活躍の様子を嬉しそうに聞いてくれました。

「今回の戦の一番手柄は、朝比奈隊の先鋒の松井宗信殿だと言われているが、松井殿が活躍できたのも、坂の下で待ち構えていた織田隊に俺たちが横やりを入れたからなんだぞ」

 亀兄は、自分たちこそが一番手柄のはずだと言い張っています。

「朝比奈殿や松井殿には御屋形様の感状が届いているというのに、なぜ俺たちには何もないんだ?」

 そう憤る亀兄を、亥兄が落ち着いてなだめます。

「だが、貞綱。おぬしは素晴らしい戦利品を手に入れたじゃないか」

「おう。織田信広の槍のことか。あと少しで討ち取るところだったのだが、俺を恐れて槍を捨てて逃げていったのだ。、惜しいところで討ち漏らしてしまった」

「そうか、残念だったなぁ」

 久綱兄は相づちを打って答えていますが、やはり話半分で聞いているようです。じつは、本当の話はわたしが既に話していますから…


 それにしても、わたしたちが総大将の雪斎様のご命令通りに敵に奇襲をかけて隊列を崩したことで、今川軍の勝利を導いたのですから、恩賞とまではいかなくても、なにかお褒めの言葉があってもよさそうなものです。

 ただ、織田信秀との戦いは、これで終わりになるはずはありません。雪斎様は一旦駿府に帰って戦の様子を御屋形様に報告したあと、すぐに三河に戻って敵の拠点の安祥城を攻略するための準備をするはずです。わたしたちも、しばらく曳馬に滞在して、いつでも三河に出陣できるように心がけていました。


 小豆坂の戦が終わって、一月ほどたった頃、わたしたちが滞在している玄忠寺に、思わぬお方が訪れてきました。

「これは、雪斎様! このような片田舎の小寺までようこそおいでくださいました」

「玄忠どの、息災であったか? 先の戦では、ご子息たちが参陣して活躍をしてくれたが、玄忠殿は体調がすぐれぬと聞いて、心配しておったぞ」

「ありがとうございます。無理をすれば参陣することもできたのですが、庶子の五郎兵衛元信が成長いたしまして、わたしが行かなくとも十分に任せられますので……」

「そうであったか。確かに、元信も貞綱も立派に活躍してくれた。礼を言うぞ。それよりも心配なのは常慶殿のご病状だ」

 常慶というのは久綱兄のことです。

「ご心配いただいて、ありがとうございます。一時期はかなり回復した時もあったのですが、やはりまた熱が下がらなくなってしまいました」

「そうか……。菊寿丸が元服するまでは、少し難しいか……」

「はい、なんとも……」

「岡部家に陰の仕事をしてもらうために、そちたちをつらい目に遭わせてしまっているが、菊寿丸が元服した暁には必ず岡部家を再興して本領を復活させ、今川家の重臣として取り立てるつもりじゃ。ただ、庶子とはいえ、元信という男はなかなか頼もしそうではないか。あの男に家督を継がせるという手もあるが……」

「いえ。たしかに元信は文武に秀で、将器もありますが、家督は菊寿丸にと決めております。元信たちは雪斎様にお預けしますので、このまま陰の仕事をさせるなり、将として取り立てるなり、今後の処遇はすべてお任せいたします」

「おう、そうか。そう言ってもらえるとありがたい。実は、彼らにやってもらいたい仕事があるのだ」

「左様ですか。何なりとお命じください」

「では、元信、貞綱、小春の三名をここに呼んでくれ」


 わたしたち兄妹は、そろって頭を下げ、雪斎様の待つ座敷に入りました。

「岡部五郎兵衛元信、岡部忠兵衛貞綱、並びに岡部小春の三名。このたびの小豆坂での戦ではよく働いてくれた。礼を言うぞ」

「お褒めにあずかり、ありがとうございます」

「おまえたちの今回の参陣は、今川家からの正式の依頼によるものでは無かったため、恩賞の沙汰が遅れてしまって申し訳ない」

「とんでもございません。雪斎様からお褒めの言葉をいただけて嬉しゅうございます」

 亥兄がお礼の言葉を述べますと、その横で亀兄が我慢しきれなくなって口を挟みました。

「それでは雪斎様、俺たちにも恩賞がいただけるのですか?」

「そうじゃ。今から申し渡す」

 雪斎様は懐から書き付けを取り出して、目の前で広げると読み始めました。

「岡部五郎兵衛元信殿。去る三月十九日の三河国小豆坂における戦いにおける活躍は見事であった。よって、遠江国勝間田、桐山、内田荘および駿河国矢部荘を恩賞として与える。

天文十七年四月十五日」

「これは……。過分な恩賞を……。ありがとうございます」

 このたびの戦は、織田勢が侵攻してきたのを押し返しただけなので、新たな領土を手に入れたわけではありません。勲功第一と言われた松井宗信さまでさえ、領地のご加増は無く、御屋形様からの感状と、ご愛用の短刀を一振りいただいただけと聞いています。まさかわたしたちが、遠江と駿河に四箇所もの荘をいただけるとは驚きました。


 雪斎様は書き付けを折りたたんで脇に置くと、驚きのあまり呆然としているわたしたちの方に向き直って、再び話し出しました。

「うむ、実はこの恩賞には裏があるのじゃ。おまえたちにやってもらいたいことがある」

「それは……、やはり、横地氏の残党に関することでしょうか……」

「さすが元信、察しが良いのう。その通りだ。遠江国の勝間田のあたりには、七十年以上前に今川に反抗して滅ぼされた横地氏の残党の子孫が残っておって、何かと騒動を起こしておる。それを取り締まるなり一掃するなりして、人々が駿河から三河までの街道を安全に通ることができるようにしてほしいのだ」

「なるほど、左様ですか。横地氏は、御屋形様の御祖父にあたる今川義忠さまに滅ぼされ、その恨みから義忠様の行軍中に襲いかかって死に至らしめたと聞いております。その残党の子孫が未だに恨みを残しているとは、やっかいな事ですね」

「うむ、一筋縄ではいかぬかもしれぬ。おぬしの才覚で、なんとか鎮めてもらいたいのだ」

「分かりました。で、もう一つの駿河の矢部荘の方は……」

「おう、そちらは貞綱に任せたい。矢部荘は江尻の湊に近く、田畑や森にも恵まれておる。おぬしは矢部を拠点にして、今川水軍を作り上げて欲しいのだ」

「え? おれ……いや拙者だけで一から水軍を作るのですか……」

 亀兄は急に不安になったようで、声が尻すぼみです。

「はははっ、心配しなくても良いぞ。今川では、すでに庵原、興津、由井といった土豪たちがそれぞれに小規模な水軍を作っておる。それらを統合して『今川水軍』として動けるようにして欲しいのじゃよ。庵原氏はわしの実家でもあるので、既に話はしてある」

「そうですか……。とにかく、頑張らせていただきます……」

 亀兄の返事は頼りなさそうですが、雪斎様は全然ご心配なさっていないようです。

 亥兄と亀兄がそれぞれ別の命令を受けて動くということですので、

”わたしは、どちらについて行こうか……”

と思い巡らせていたところ、雪斎様は最後にわたしの方を向いて話しかけてきました。

「そして、小春。苦労をかけるが、そなたには尾張に行ってもらいたい」

「え? おわり……」

「うむ。これまで尾張での工作は久綱にやってもらっていたのだが、あの病状だとこのまま続けるのは難しそうだ。既に、久綱が地固めはしてあるとの事だから、そなたに後を引き継いでもらいたいのだ」

 井伊家の事件のせいで離ればなれになり、三年たってようやく一緒に過ごせるようになったわたしたちでしたが、わずか四ヶ月で、また別々の任務を帯びて、それぞれが違う所へ向かうことになってしまいました。

        (第一章 おわり)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

天翔猪~武将 岡部元信伝~ 桜枝 藍 @oueai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ