乱戦

 私たちは藪の陰に隠れて、しばらく戦況を見守っていました。

 私たちが隠れている藪の向こうに陣取っているのは、織田軍の中軍の織田信光の隊です。そこへ、小豆坂を上って攻めかかっていた先鋒の織田信広の隊が下がりながら吸収されようとしています。

 信広隊は、敵に押されているように見せかけながらも、きちんと隊列を組んで、余裕を保って下がっているようです。待っていた信光隊は、あらかじめ示し合わせていたように左右に広がりながら信広隊を取り込んでいきます。

 勢いに乗って坂を下ってきた今川軍は、待ち構えていた織田軍の中軍に取り囲まれる格好になってしまい、隊列が乱れ始めました。混乱は、続いて坂を下ってきた第二陣の松平隊にまで伝わり、織田勢に押し返されています。このままでは、今川軍が総崩れになってしまいそうな状況になってきました。

 すると、信光隊の後方で、突然鬨の声が上がり、隊形が崩れ始めました。亥兄が後ろから回り込んで攻めかかったようです。

「今よ!」

 わたしが叫ぶのと同時に亀兄も立ち上がり、足軽たちの方を向いて両手を挙げました。「よし、叫ぶぞ!」

「えい、えい、おう! えい、えい、おう! えい、えい、おう!」

 初めは少し声が小さい者もいましたが、三回目には、みな声が張り裂けそうになるまで大声を出しました。

 後ろからの突然の襲撃に慌てていた織田の兵たちは、こんどは横からも敵の大軍が迫っていると勘違いして、大慌てで混乱しはじめました。下がってくる信広の隊を吸収するはずだった信光隊が右往左往し始めたので、信広隊にも混乱が伝わっています。それまで整然と隊列を組んでいた兵たちの足並みが乱れ、今川軍に突き崩され始めました。


 乱戦の中で、ひときわ目立っているのは、間違いなく亥兄です。筋状の馬鎧をつけた黒馬にまたがり、朱縅の伝統的な鎧をまとい、兜にはひときわ大きい猪の前立てをつけた格好で、縦横無尽に敵を切り裂いています。

「おいおい! 俺たちの役割は、敵の陣形を崩すだけだったはずじゃないか。もう敵は完全に浮き足立っているのだから、引き上げてくれば良いのに。あいつは目立ちすぎだぞ!」

 亀兄は、獅子奮迅に戦っている亥兄を目の当たりにして、居ても立ってもいられなくなったようです。

「おい、小春。おまえはここに居ろ! よし、俺たちも戦に加わるぞ! 俺に続けぇ!」 亀兄は紙筒を投げ捨てると、わたしが止める間もなく、足軽たちを引き連れて混戦の中に突入して行ってしまいました。

突入したものの、亀兄では亥兄のようなわけにはいきません。すぐに敵の傭兵隊の強豪たちとぶつかって取り囲まれてしまいました。敵の中で一段と美しい鎧をまとい、大きな馬に乗っているのは先鋒の大将の織田信広に違いありません。混乱の中でも、信広とその周りの兵たちだけは、規律を保っているようです。

 信広は馬上から槍を伸ばし、がむしゃらに攻めかかかってきた亀兄を軽くあしらっています。亀兄に従ってきた足軽たちが、次々と敵に突かれて倒れていってしまいました。

「このままだと、亀兄が危ない!」

 わたしは、とっさに、葛籠の中に入れてあったもう一つの秘密道具を取り出しました。漆塗りの板の上に薄い錫箔を貼った『陽かえしの錫板』です。

 幸い、太陽がかなり高い位置で輝いています。わたしは、すぐに藪から出ると、陽の当たるところまで走っていって、錫板を太陽の方向と敵将の位置の真ん中に向けて、陽の光を反射させました。

「ピカッ」

 錫板で反射された光は、狙い通りに馬上の信広の顔に命中しました。

 槍を繰り出そうとしていた信広は、一瞬の目くらましで視力を失い、狙いを外してしまいました。亀兄は、伸びてきたその槍の中程を掴んで強く引っ張ります。信広は、あやうく馬から落ちそうになりましたが、なんとか立て直し、槍を放すと、そのまま後方に退却していってしまいました。


 先鋒の大将の織田信広が退却したことで、織田勢の先鋒と中軍は次第に押されがちになっていきました。ついには総退却となり、後詰めの織田信秀の本軍とともに、矢作川を越えて安祥城に引き上げていきました。

 今川勢の大将の太原雪斎様は

「今回の出兵は織田信秀の攻勢から岡崎城を守ることが第一目的」

ということで、深追いはせず、織田勢が安祥城にまで引き上げたことを確認して、兵を引くことにしました。


 乱戦の中で興奮し、退却する織田勢になおも追い討ちをかけようとしていた亀兄は、亥兄にうながされて我に返り、矢作川の手前でようやく引き返してきました。

 亀兄は、敵将の織田信広から奪った槍を大きく掲げながら、自慢げにわたしのところへ戻ってきました。

「小春、俺の活躍をちゃんと見ていたか? すごかっただろう! 信広のやつ、俺に槍を奪われて、恐れをなして逃げ帰っていったわい!」

 わたしが錫板で反射させた光で、危ないところを救ってあげたのを、亀兄は気づいていないようです。確かに、亀兄の背中側から光を当てたので、無理もありません。

「そう? 結構危なかったように見えたけど。運が良かっただけじゃないの?」

 わたしは、あえて助けてあげたことは言わないことにしました。

「うむ。まあ、運も味方したかもしれん。信広のやつ、突然馬の上で体が傾いたようだった。その隙を見逃さず、おれが槍を掴んで振り回したら、慌てふためいて逃げ出したのだ」 亥兄も亀兄も無傷でしたが、岡部家の家臣の内の一人が、敵の槍を受けて重傷を負ってしまいました。二十人いた足軽たちも、戻ってこれたのは十五名だけでした。


 戦は、織田勢の侵攻を食い止めたということで、一応今川方の勝利と言えますが、先鋒の織田信広隊と刃を交えた朝比奈様の隊は、かなり多くの負傷者や戦死者が出たようです。わたしたちが横やりを入れず、あのまま信広の策略通りに進んでいたら、朝比奈隊ばかりか松平隊まで、坂を下りたところで織田勢に取り囲まれてしまい、さらに大きな被害を被っていたに違いありません。


 後年「小豆坂の戦い」と呼ばれたこの戦いの結果、それまで何度も三河に侵攻していた織田信秀の勢いは弱まり、最前線の安祥城だけを残して尾張との国境付近まで後退することになりました。

 ただ、安祥城には織田信広が五百人の傭兵隊とともに城主として残り、後日の巻き返しを図る拠点とするようです。今川軍は、この安祥城を落とさない限り、三河の支配を確実にしたとは言えませんでした。

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