出陣
吉田城に集結した今川勢は、遠江の朝比奈様の率いる軍勢を先頭にして、織田方の安祥城をめざして進軍を開始しました。
遠江の朝比奈様というのは遠江国掛川城主の朝比奈泰能さまのことで、今川家の重臣です。わたしたちを岡部郷から追い出した駿河国朝比奈城主の朝比奈親徳さまとは遠い親戚に当たるそうですが、別の人です。もう五十歳を越えるお年ですが、とても明るくお元気な方で、今回の編成の中では、副将格で前線の指揮をとられます。
わたしたちにもとても優し接してくれて、たった十六名しか率いていない亥兄を、きちんと一軍の将として扱ってくれます。しかも、私たちが遊軍として敵の横腹を突くということを知り、
「二十名足らずでは少々不足であろう」
と言って、自分の足軽の中から十名を私たちに回してくれました。
総勢二十七名となった岡部勢は、本体と離れて南へ大きく迂回しながら、決戦場となる予定の上和田方面へと向かいました。
今川軍が出陣したとほぼ同時に、安祥城の織田軍は、約四千の兵で城を出て矢作川を渡り、上和田に陣を敷いています。先鋒は織田信広率いる傭兵隊を中心とした約千人。中核に織田信光の千人。そして、後詰めとして大将の織田信秀の二千が控えています。
これに対して今川軍は、上和田の東側の丘の上に集結した後、朝比奈勢四千が先陣を切って小豆坂と呼ばれている坂を下っていき、織田勢に攻めかかりました。
私たちは、小豆坂から少し離れた高台の茂みの中に姿を隠し、戦の様子を見守ることにしました。
先鋒同士の戦いは、すぐに織田勢が今川勢に押されて、少しずつ後退し始めました。
「なんだ。傭兵隊はものすごく強いと聞いていたが、さすがに四倍の数の兵が相手では分が悪そうだな。このままだと俺たちの出番がなくなってしまうぞ」
背伸びをしながら戦の様子を見ていた亀兄がそう言うと、亥兄は、
「いや、そうでもないぞ、貞綱。よく見てみろ。織田勢は押されているように見えるが、陣形は全く崩れていない。倒れている者もほとんどいないじゃないか。それにひきかえ今川勢は、少しずつ陣形が崩れて間延びしてきている」
「うん? と言うことは、織田勢はわざと後退しているのか?」
「どうやら、織田信広という男は、かなりの軍略の遣い手のようだな」
「そうか? ただ押されているだけのようにも見えるが……」
「おそらく、この小豆坂を戦場に選んだのも、あの男の謀に違いない。見てみろ、今川勢が下っている坂の幅は二間ほどしかなく、両側は泥田になっている。今川は大軍だが、このままでは一度に敵に当たれるのは先頭の数十名だけだ」
「だが、今川が坂の上から、織田が下から進んできたのだから、今川が有利だろう」
「うむ。だが、そう思わせておいて、敵を坂の下までおびき出し、そこで、中軍や後詰めの軍も集めて一気に逆襲するつもりに違いない」
「そうかぁ。なるほど……」
「よし。俺たちのが突入する場所は決まったぞ。小豆坂を下りきったところだ。そこに、必ず敵の主力が集中しているはずだ。小春、例の道具を準備しておいてくれよ」
「はい。もちろんです!」
いよいよ私の秘密道具の出番です。私は道具の入った葛籠を背負って、亥兄が乗るクロの後を追いかけていきました。
小豆坂の下まで近づくと、亥兄が予測したとおり、織田勢の中軍が槍の穂先を並べて待ち構えているのが見えてきました。
「おう、元信。どうする? いつ攻めかかるんだ?」
「まあ待て。早まってはならぬ」
今にもかけだしていきそうな亀兄をひきとめながら、亥兄は落ち着いて戦況を見極めています。
「ところで、小春。例の道具はいくつ用意したのだ?」
「あ、そうか。私たち十七人だけで戦うつもりだったから、十七個しか…」
「うん、それだけあれば十分だ。よし、兵を二手に分けるぞ。貞綱と小春は朝比奈様から預かった足軽を率いて、ここに潜んでいてくれ。俺は、岡部の兵と曳馬から連れてきた足軽を連れて反対側に回り込んでおく。俺が敵に攻めかかるのが見えたら、ここから小春の秘密道具を使って大声で鬨の声をあげるのだ」
「え? 何だって? 鬨の声を上げるのは良いが、秘密道具って何だ? 鬨の声を上げた後は俺たちも敵に攻めかかれば良いのだな?」
「道具については小春に聞いてくれ。鬨の声を上げれば、敵は間違いなく総崩れになって退却を始めるはずだから、おまえたちが攻めかかる必要は無い。後は朝比奈様に任せておけ」
「え? 声を出すだけで攻めかからないのか? それでは……」
「貞綱、頼む。ここを任せられるのはおまえしかいないではないか。時間が無い。後は頼んだぞ」
亥兄はそう言うと、岡部家の家臣五名と浜松から一緒にきた足軽十名を連れてすぐに移動を始めました。
「小春ぅ。秘密道具とやらを出せよ」
亥兄が去ると、すぐに亀兄がわたしに声をかけてきました。
「あ、うん。これだよ」
わたしは、葛籠の中から折りたたんでしまってあった道具を取り出しました。
一尺ほどの長さの和紙をくるりと丸めて筒状にしたものでなのですが、片方の端がもう片方よりも三倍くらい広くなるように斜めに巻いてあり、竹籤で補強がしてあります。
「なんだ? これは?」
「うん。この細い方の端を口につけて声を出すと、筒を向けた方向にだけ声が伝わるのよ。普通に叫んだときよりも五倍以上は大きな声が届くはずよ」
「ん? 本当か?」
亀兄は、畳んであった筒を広げ、細い方の端を口につけて何か叫ぼうとしました。
「あ、亀兄。まだ、だめよ。今叫んだら、潜んでいるのがばれてしまうわ。亥兄が敵に切り込んだ時に、みんなで一斉に叫ばなくちゃ」
「うーん、そうかぁ。一度試してみないと不安なのだが……」
「大丈夫よ。同じ物を河越の戦の時に試しているから。相当離れたところにいる敵もびっくりしてあたりを見回すくらいだったわ。名付けて『音運びの紙筒』という道具よ」
わたしは、朝比奈様からお借りした足軽たちにも道具を配り、使い方を説明しました。「さあ、亀兄。あとは任せたわよ。何て叫べば良いか、ちゃんと指示をしてね」
「ん? 鬨の声だろ。ただ大声を出せば良いじゃないか」
「そうだけど、みんなそろって同じ事を叫んだ方が、より効果的よ」
「そうかぁ。じゃ、俺が合図をしたら、みんなそろって『えい、えい、おう』と三回叫ぼう。そのあとは、それぞれで適当に大声を出せば良い」
まあ、亀兄が思いつくのそれくらいでしょう。それでも、きっと効果はあるはずです。
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