楽園

笹月美鶴

楽園

 爽やかな潮風が頬をなでる。

 潮の香り。南海の孤島。

 南の果ての、パラダイス。

 ここはまさに、ユートピア。




 じりじりと焼かれるような暑さ。目をつむっているのにひどく明るくて、眩しい。

 微かに動く指には砂の感触。生臭くもあるぬるい風。服は濡れているのか体に張り付いて重く、不快だ。

 

 ザザーン

 ザザーン


 波の音。音に合わせて足がひやりとする。


 うっすら目を開けると目の前に、足が見えた。

 日に焼けて艶めいた、褐色の足。

 見上げようとして、それきり、意識が飛ぶ。


 ザザーン

 ザザーン


 波音だけが、いつまでも耳に響いていた。






「ゼクタ!」


 大きな瞳を輝かせ、少女が駆け寄る。

 眩しい太陽に焦がされた健康的な褐色の肌。ゆらめく黒い髪。

 その美しい少女はいつも幸せそうに笑っていた。

 その顔を見るだけで、俺の心は満たされた。


 少女の名はイブ。

 この島の、わずか二十人ほどの集落で暮らす娘。

 島に流れ着いた俺を最初に見つけて介抱してくれた少女。


「やあイブ、今日も元気だね」

「ねえゼクタ、見てほしいものがあるの。こっちよ!」

「お、おい」


 少女に腕を引っ張られ、俺はなすすべもなくどこかへ連れていかれる。


 島に流れ着いた得体の知れない男。

 そんな男に娘が夢中になっていたら親が黙っていないだろう。

 だが、彼女に親はいなかった。数年前に亡くなったらしい。

 そんなわけで、彼女を止める者は誰もいない。


 島の者たちはとても人がいい。外から来た俺を快く迎えてくれた。

 俺は集落から少し離れた場所にある、今は使われていない納屋を与えられ、そこを住居として暮らしていた。

 朽ちた壁や室内は島民たちによって修理され、手作りの家具が揃った快適な住まいとなっている。


 地図にない島。

 この島は島民たちによって、ドーデライと呼ばれていた。




 少女に連れていかれた入り江の洞窟。そこにあったのは、筏。乗ろうと思えば十人以上乗れそうだ。

 島に自生している竹で組んであるので浮力も申し分なく、中心には布を張ったテントまである。


「これは立派な筏だな。イブが作ったのか?」

「そうだよ!」

「ひとりで?」

「うん!」

「これ、なにか資料でも見て作ったのか?」


 俺は筏をじっくりと見る。少女が一人で作ったにしてはかなり完成度が高い。構造的にも浮力や強度をきちんと計算されている。とても少女ひとりで考えられたものとは思えない。


「えへ、あれを参考にしたんだ」


 イブが指さす方向に、朽ちた古い筏があった。


「あれはね、私のおじいちゃんとおばあちゃん、そして十人の仲間がこの島に来た時に乗っていた筏だよ」

「乗って来た……君たちは、外から来た人間だったのか」


 俺と同じ、外から。


「そうか、そうだったのか」


 俺はふふっと笑う。


「これならゆっくり釣りができそうだね。俺も乗せてもらえるのかな」

「もちろん! でも、これは釣りをするためのものじゃないの。ねえゼクタ、ナイショの話なんだけど、皆には黙っててくれる?」

「ああ、いいとも」

「私、これに乗って行くの。この島の、外の世界へ」

「外の、世界?」

「この島は好きだけど、とっても退屈。私は新しい世界に行ってみたい。でもこの話をしたら、みんな怒るの。馬鹿なことはやめなさいって」

「そうだな。俺も同意見だ。こんな筏でどこまで行けるというんだ。海は広い。お前が思っている以上にな」

「でも、あの筏でおじいちゃんたちは外の世界からこの島に来たわ。あなたも、ここにたどり着いた。だったら、ここから外にだって……」

「イブ、本気か?」

「外の世界から来た人。服装も、持っているものも、見たこともないものばかり。お願い、私をあなたの国に連れて行って。あなたの故郷。そして、お父さんとお母さんの故郷。あなただって、こんな小さな島で一生を終えるなんて嫌でしょう? あなたの国に、一緒に帰ろう」


 少女の言葉に、俺は顔をゆがめる。


「外の世界はお前が思っているほどいい世界ではない。行きたいなら行くがいい。お前一人で。俺は、行かない」

「本当のおうちに帰りたくないの? 友達とか、家族に会いたくないの?」

「そんなもの、とっくに捨てた。いや、はじめからない。とにかく、俺はこの島を気に入っているから出るつもりはない。そしてお前も、二度とそんなことを考えるな。それがお前のためだ」

「ゼクタも、やっぱり反対するのね。わかった。ごめんなさい。もう外に行きたいなんて言わないわ。ゼクタが一緒じゃないならどこへ行ったって、つまらないもの」


 しょんぼりしているイブに俺はせいいっぱいの笑顔を向ける。


「今度この筏に乗って釣りをしよう。大きな獲物を捕まえて、みんなをびっくりさせてやろう。な?」

「うん、わかった。この筏、もうすぐできるの。ゼクタは竿と網を用意しておいてね!」

「わかった。楽しみにしてる」

「ねえ、ゼクタのいたところって、どんなところなの?」

「それは、話したくない」

「そう……」


 悲しげな瞳でイブはそれ以上なにも言わなかった。

 俺は彼女を後にして、家路につく。




「それにしても、イブは本気でこの島を出ようとしているのか?」


 ここを出ることをあきらめたような言動をしていたが、あの子は思いついたことは実行する子だ。それだけの聡明さと行動力を持っている。

 俺がついていかないと言っても、あの様子ではいつかひとりでこの島を出ようとするかもしれない。


「もしもイブがヤツラにみつかったら、そしてこの島の事を、俺の事を話したら……」


 俺は、自分が震えていることに気付く。だめだ、そんなこと、許さない。阻止しなければ。

 説得しても彼女の行動を完全に止めることはできない。ならば……。


「殺すしかない」


 俺の心は平坦だった。体の震えも収まり、思考は冴える。

 彼女は命の恩人。流れ着いた見知らぬ俺にとても親切にしてくれた。そして、仲良くしてくれた。

 彼女がもう少し年を取っていたら、俺は惚れていたかもしれない。

 だが今は、そんな感情など微塵もなかった。


 彼女を殺さなければ。


 ただそれだけに、集中した。





「どうした、眠れないのか?」

「ゼクタ」


 深夜、岬に佇むイブを見つけて声をかける。


「明日は早いんだろう? みんなと狩りに行くって楽しみにしてたじゃないか。あ、楽しみすぎて眠れないのかな?」

「えへ、そうなの。もうぜんぜん眠れなくって」

「それなら、これを飲むといい」


 ポケットから錠剤を取り出す。


「これは、薬?」

「よく眠れるお薬だよ。水と一緒に飲むんだ」

「外のお薬なの?」

「ああ。だからよく効くよ。すぐに眠れる。ぐっすりとね。あ、ちゃんとベッドに入ってから飲むんだよ」

「わかった、ありがとう!」

「じゃあ、早くお帰り」

「はーい」


 イブは駆けだそうとして、足を止める。肩から提げた袋に手を突っ込んでしばらくごそごそしていたが、くるりと俺を振り返り、竹で作った水筒を差し出した。


「今日ね、ハチミツを見つけたの! それでジュースを作ったんだ。おいしいよ! ゼクタにあげる!」

「俺に? それはうれしいな。俺甘いもの好きなんだ」


 手を振るイブを見送って、俺は岬の先頭に立つ。

 崖の下を覗き込み、ニヤリと笑う。

 イブは泳ぎが得意だが、眠っているところを落とせば絶対に助からないだろう。

 死体が見つかっても事故で済まされる。

 俺とイブが今日ここで会ったことは誰も知らない。


「ひひひ」


 暗い海を見つめながら、俺は笑う。

 手にした水筒を開け、イブ特製のハチミツジュースを喉に流し込む。


「うまい」


 酒ならなおよかったが、それに見合う味だ。そう、これは祝杯。

 失うものか。この世界を。この、


「ユートピアを」







 俺の目が覚めたのは、太陽が照り付ける昼下がり。

 みすぼらしい布がかけられた見知らぬテントの中。


「どこだ、ここは……」


 体が揺れている。俺は、酒を飲んだのか? 酔っているのだろうか。いや、そんなはずは。


「目が覚めた? ゼクタ」

「イブ?」


 俺はのそりと起き上がる。頭が痛い。いったい俺は何をしていたんだ。


「ここは?」

「筏の上よ」

「筏……?」


 その言葉を聞いた瞬間俺は全身が総毛立ち、血の気が引く。


「まさか、そんな」


 這うようにテントの出口に向かい、転がるように外に出る。

 目の前に広がったのは、海、海、海。

 どこまでも広がる、大海原。そこに、大地は見えなかった。


「ジュースに薬を入れやがったな、お前は……、なんてことを……」

「ごめんなさいゼクタ。どうしてもあなたと一緒に行きたかったの。新しい大地へ」

「ふ……」

「ゼクタ、私、あなたのことが……」

「ふざけるなあああぁああああぁああああぁぁ!!」


 少女の細い首を掴み、思い切り床にたたきつける。イブは額を打ち付け、血を流しながら困惑と怯えの表情を俺に向けた。


「ゼク……タ?」


「よくもやりやがったな! こんなところまで来てしまったら、ヤツらに探知されてしまう!」

「やつら、って」

「あの島がこの世界で唯一の探知圏外だったのに! くそう!」

「何を、言ってるの?」


 イブは身を震わせ、恐怖におののいている。


「終わりだ。お前は取り返しのつかないことをした。俺まで巻き込んで、なにもかも終わりだ」

「どうしたのゼクタ、私はただ、外の世界が見たくて……。一人じゃ心細かったからあなたを連れてきてしまったことは謝るわ。だからそんなに怒らないで、怖い……」

「もう遅い。ヤツらはもう、俺たち、いや、俺を見つけてる」


 懐から取り出したのは、拳銃。弾は一発だけ残している。こんな時のために、残しておいた。

 俺は戻らない。

 戻るくらいなら、死を選ぶ。


「やっとみつけたのに」


 涙が一筋、頬をつたう。


「俺の理想郷……ユートピアを」

「ゼクタ、船だよ!」


 大きな、船の影。いや、戦艦。逃れようのない、武力の塊。

 拳銃の引き金を引こうとして、指が、動かなくなった。



「市民ゼクタ・アダム。ようやくみつけたよ。脱走は反逆だ。わかっているね」



 耳障りな声。

 船首に立つ、顔は若いのに真っ白な髪の男がニヤリと笑う。

 赤い瞳が俺を見据える。

 指が、体が、動かない。

 もうだめだ。死ぬことすら、許されない。


「よく見ろイブ、これが、これから起こることがお前の招いたことだ。お前は望み通り外の世界にたどり着く。今後お前に自由は与えられない。管理され、生きるしかないんだ。それがお前が夢見ていた外の世界」

「外の、世界?」

「喜べ。あれがお前の望んだ世界へ連れて行ってくれる。お前が望んだ、外の世界」



「ようこそ、ディストピアへ」







 楽園の住人は、自分が楽園にいることに気付かない。


 自由は、退屈に。

 家族の愛は、煩わしさに。

 労働は、苦痛に。


 食事に、文句を。

 住居に、不満を。

 人生に、絶望を。


 誰も、気付かない。



 自分が楽園にいるということに。

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楽園 笹月美鶴 @sasazuki

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