第2話
異界の住人となってから半年間、そのうちの半分は語学の習熟にあてる羽目になった。パメラからは、魔術言語というものは自然と魔術師の血に馴染むから習得に一月もかからないだろう、と聞かされていたのだがどうも父親の血の方が濃かったのか、或いは美雲に語学のセンスが無かったのか、パメラの予想は大きく外れた。もっとも語学センスというよりも、魔術師としての素養に問題を抱えていたという可能性も否定は出来ない。語学習得などと言ってもその実態は英会話学習のようなものではなく、魔導書に書かれた文字を指でなぞっていくというだけのもの。その魔導書とやらは全て著者の血文字によって記されているらしい。それをなぞるだけで語学を学ぶというのだから、それも魔術の行使に違いないだろう。それが、こうも習得に時間がかかってしまったのだから、魔術師に不向きなのではないかと疑ってしまうのも仕方あるまい。勿論、パメラは特にそういった態度を示したというわけではなかったけれど、少なくとも美雲自身はそう感じていた。もともと望んでいた進路ではなかったとはいえ、こうも序盤で躓いてしまえば落胆せざるを得ない。
そんなこともあってか、ロンバルディ魔法学校への入学の日が近づくたびに不安な気持ちは募っていった。昼過ぎだというのに、ベッドから出られなくなっていたのも、惰眠を貪っていたのではなく、自己嫌悪に陥っていた思考を少しクールダウンしようと、頭まで布団を被って現実逃避に勤しんでいたというわけだ。
しばらくの間瞼の裏を見つめていると、寝室の窓ガラスがピシッという音を立てた。あまり気にならなかったので放置していると、もう二三度同じ音が聞こえた。
「みくもー、いつまで寝てるのよ!」
閉じきった窓の向こうから、やたらと勝気な声がする。エクセルシオールでの唯一の友人である、セラのものであることは明白だった。美雲はセラほどの美少女を他に知らない。1日で良いからその顔になってみたいとすら思う。肩まで伸ばした黒髪に、小造りな顔に黄金色の団栗眼が彼女の可憐さを際立たせている。しかし、彼女はその美しい相貌にはそぐわない豪快さを兼ね備えてしまっている。部屋は二階だというのにこの声量。はしたない、という認識は件の乙女にはないらしかった。腹から出た声というのはこういうものを言うのだろう。これには思わず美雲もベッドから飛び起きて、窓を開いた。
ゴチン。
「うぅぅ」
「えっ、嘘。当たっちゃった!?」
何度目かの投石が美雲の額に命中し、彼女はその場に崩れるように蹲った。
迂闊だった、としか言いようがない。間髪入れず投げ込まれる小石、窓が開いたからといって都合良く止むわけもない。こういうところが、考えが足らないとよく言われる所以なのだと思い知った。
後悔先に立たず。激痛に耐えながら美雲は自分の軽率さを呪った。
どたどた、と階段を上る音がする。地面を一歩一歩踏みつけるような特徴的な歩き方だ。彼女が来る、と美雲は瞬時に理解した。足音だけで判別できる人物というのは、そういるものではない。そんな足音を美雲は少し嫌っていた。だから音を聞いた途端、胃がきゅうと締め付けられるような感覚になった。やたらと自己主張の激しい足音は階段を上りきると、さらに距離を詰めてくる。部屋の前で立ち止まると、勢い良く扉が開かれた。
「ごめん、みくも! 怪我なかった!?」
「うぅぅ。セラちゃん、だいじょぶだよ」
友人を心配させまいと、なんとか強がってみせたのだが、セラの顔はみるみると青くなっていく。
「は? 大丈夫って、あんた血が………」
「えっ、そんかまさか大袈裟だなぁ」
激痛の根元に右手で触れると、べちょり。嫌な感触だった。
「うみゃあああああああ!!!!!」
尻尾を踏まれた猫のような声が屋敷中に広がった。それを合図に、セラは矢庭にしゃがみ込むと、腹を抱えて声高に笑った。
「酷い! 酷すぎると、思うな!」
怪我をさせておいて笑い飛ばすとは、失礼極まりない。しかし美雲が顔を真っ赤にしたのは、恥ずかしい悲鳴を聞かれてしまった羞恥心の方が大きかった。それを怒りに置き換えることで、なんとか振り払おうと試みた。
「本当に酷いよ! いきなり石投げられるし、頭は痛いし、血みどろだし、こんな訳わかんないとこで暮らさなくちゃならないし、お母さんからは手紙返ってこないし、学校のこととか将来のこととか不安で不安でしょうがないっていうのに!!」
美雲自身驚きがあった。言わなくて良いことを自然と口走っていた。やってしまった、とすら思った。
「ふーん、それで全部?」
セラが挑戦的な視線を投げかける。それには美雲も思わず、ムッとした。
「まだあるよ!」
堰を切ったように、あらゆる不満が口から次々に溢れ出て来た。我に通った時には既に遅かった。こちらへやってきてからの不満は洗いざらいぶち撒けてしまった。
「魔術言語の習得に三ヶ月もかかったのね。それで、才能がないんじゃないかと不安なわけ?」
「この世界でやっていくの不安だよ」
「アホみたいな悩み、ね」
言い返そう、と美雲は立ち上がる。しかし、セラが言葉を続け、それを制する形になった。
「そのちっちゃなおでこから垂れてるのは何? その掌にこびり付いてるのは何? それがアンタの可能性でしょ?」
「可能性?」
「いい? 魔術師は最初の段階からふるいにかけられる。それが血よ。どれだけ努力しようとも、それが無ければ魔術師にはなれないんだもの」
「血がない人は、そもそも魔術師になんてならないんだからいいでしょ」
美雲がそう言うと、セラは一瞬固まってから、深く溜息を吐いた。
「わたしの知り合いで、魔術師の家系に生まれて、当然のように魔術を学ぶものと、魔術学校に入学。それから僅か一ヶ月で退学になったわ」
「退学!? 退学とかあるの? ちょっと不安にさせて、どうするのさ。相談に乗ってくれてるんじゃないの? これじゃあ、余計に眠れなくなるよ」
「大丈夫よ、アンタはそんなことにはならない。可能性があるでしょ、アンタには。その人はね、お母様が魔術師家系の人では無かったんだけれど、どうやら生みの父親の方も外の人だったらしくってね。本人もそれまで魔術師としての素養の無さを疑ってはいたらしいんだけれど、可能性すら無いって知らされたときには相当ショックだったに違いないわ。それでも学校入学まで誰にもバレなかったっていうんだから大したもんよ」
「入学までバレずに?」
「そう。魔術言語も堪能だしね。母親もそれで安心しきってたんじゃないかしら? それにしても、魔導書は当然役に立たなかっただろうし、あれを魔術を行使せずに読み書き出来るようになったんだから大したもんよね」
「そっか、あの文字を本当に何の魔術もなしに会得したんだ。そんなに努力したのに、報われないなんて理不尽だよ」
「そうね、その通りよ。だからこそ、わたしは思うの。可能性のある私たちは、これからもふるいにかけられ続けていく。そこでふるい落とされた時に、こんなに努力しても報われないなんて理不尽だ、そう言えるくらいの努力はしていたいなぁ、って」
そんなことを言うセラの姿は美雲の目には、とても格好良く映った。こんな風に生きたいと、心の底から思ったに違いない。
「そうだね、ごめんね。甘えてたよ、わたし。ダメダメだ」
「そうよ、だから不安だのなんだのってのは、もうお終い」
そう言ってセラは、パンと手を叩いた。さっきまでのどうしようもないモヤモヤは、すっかりと晴れてしまった。まるで魔法のようだな、と美雲は密かに思った。それからセラは、ホームシックの方もなんとかしてあげるわ、と言った。
「いいとこに連れてったげる。入学式が終わったらね」
「うん、楽しみにしてる」
「それから、わたしの足音が怖いってのは、余計なお世話よ!」
わざと怒った風に言ってから、セラはニンマリと笑った。
言わなくて良いことまで喋りすぎてしまったらしい。軽い自己嫌悪に陥る。それと同時に、美雲は目の前の友人のことが前よりもずっと好きになっていた。
「持つべきものは、セラちゃんだ」
騒がしい友人が去ってから、誰にも聞こえないような声で、そんなことを言った。
今宵、魔法は甦る 結跏趺坐 @kekkafuza
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