天気:雨 AM3:02 東京都・新大久保近辺にて
話を聞くに、(彼ら酔っぱらいの妄想でなければ)浮浪者のような見た目をした、白髪交じりのセミロングの男は、自分のことを
どうやら彼はやはり、というか日本人ではないようで、イタリア出身だと僕に言った。やたら拘りがあるのか、自分の目の前に並んだいくつものワインボトルを自慢気に見せながら、「これはイタリアワイン」「これはイタリアワイン」「これはイタリアワイン」と全部イタリアワインの紹介をしていた。僕が「全部イタリアワインじゃないですか」と指摘するよりも早く、彼は既にバーカウンターに突っ伏し、豪快にいびきをかいて眠っている。
作戦成功、と、すぐにこの店を出ようとした僕の背中に声が掛けられたのは、ついさっきのことだ。ちっともこちらを見ようとしなかったロングヘアの男が、猫のように目を細めて視線を僕に寄越した。
この店にいた人間の少なくとも2分の2がこういう不躾な視線を一見の客(望んだか望んでいないかはひとまず置いておいて)に寄越すということがわかった時点で収穫だったのかもしれない。……もしかすると、僕が知らないだけでこういうバーに来るような人間は全員そうなのかもしれないけれど。
僕からすれば酒といえばストロング缶や18時までの1杯150円の薄いサワーが関の山で、そもそも酒を飲みにバーなんてところに来る人間のことは少しもわかってたまるかという気持ちになるけれど。
「やあこんばんは。ワインなら好きに飲んでくれて大丈夫だよ」
「……大丈夫です」
「では」
「いや、そういうのではなくですね。えーと、結構です。必要ないです」
浮浪者のような男の飲みかけのボトルを差し出してくるロングヘアの男に、このご時世ですから、と流れるように告げたときは、嫌な落ち着きが僕を満たしているのがよくわかった。世間では感染症だなんだと、今日も感染者の数が最大数を更新しただのとそれ一色だというのに、この時勢で知らない人間(しかも中年の男)との間接キスを勧められたところで結構です、以外に言う言葉はない。他人にそれを勧める神経も明らかにどうかしていると思うが。
この男性が使っているマッチの箱に描かれたイラストは、この店の前に掛けられていた図柄と一致する。トランプの図柄。つまり彼は少なくとも常連か、もしくはこの店の店員から手渡されているであろうことはわかる。先の言からして、少なくともこの酔い潰れている男とは既知だと考えて差し支えない……と思う。
「それで、さっきから携帯鳴ってますけど気にしなくてもよろしいんです?」
「……、すいません、ちょっと」
座らされていた席から立ち上がって、眉間を軽く揉み解す。このまま電話を装って店の外に出て、このまま逃げおおせよう。ついでにツイートも消して、冗談でしたということにしておこう。多少炎上なりなんなりするかもしれないが、アカウントごと消してしまえばそう問題にもなるまい。……それこそ、まとめサイトにでも見つかる前に消しておかなければ。
倒れていた女子高生……が死んでいたにせよ生きていたにせよ、自分の顔が写り込んでいる写真がインターネット上に永遠に漂うことになるのは嫌だろうと思う。少なくとも僕は嫌だ。
例えば、アダルトサイトの広告に使われている写真の大半は、女性が男性へと信頼の証として送った写真だといわれている。そういった写真が世の中に出回っているということは、少なからずそういうことをする男性とはその女性が関係を断つことができたということであり、それは喜ばしいことだと思うのだが。
僕のしたことは、そういう『可愛げ』のある話の範疇を越えている。だからこそ、冗談にならないしそのへんのハメ撮りアカウントなんかよりもRT数が伸びて、今こうして四桁目前になっている投稿を消そうとしている。まだ取り返しがつく。四桁なら冗談で済む。アカウントを消せば許される範疇だ。
だから、店を出て。
「――……、」
出ようとした。深夜の新大久保の路地裏に、人影があった。……というよりも、影ではない。人が立っていた。影みたいに真っ黒で、まるで葬式の帰りみたいな顔色をした、黒いネクタイをしめた背の高い青年が。バケツで几帳面に塗りつぶしたような黒髪は雨に濡れて、僕のことを見てもいない黒い瞳は僕の背後へと向けられていた。
「また挙がりましたよ」
「――死体が?」
僕の生活において、死体が上がるなんて言葉が脳裏に浮かぶことは、この26年間で一度もなかった。なのに、今はこんなにもするりと浮かぶ。それが自然であって、それが当たり前だとでも言うように、口をついて出た。「あれ」が死者だったのか、生者だったのか。どうしても確かめたかったのかもしれない。答え合わせをしたかったのかもしれない。
その言葉にはしばらく返事がなかった。トタンを叩く雨音だけが深夜の路地裏に響いていて。傘も差さずに、ずぶ濡れのままで突っ立っている青年の視線が、こちらに向けられたことだけはわかった。
「見たんですか?」
その返答で、答えがわかったような気がした。ああ、あれは。死体だったのだな、と、未だに震えるスマートフォンをポケットの中で握りしめる。
一瞬だけ遅れはしたものの、平静は取り繕えていたと思う。いやに気持ちが落ち着いていた。雨音のせいかな、と少し思ったけれど、それが一体何のせいでも構わない。一つわかるのは、僕は「それ」に感謝をするべきだということだけだ。神様でも悪魔でも、今はなんだってよかった。
「何をですか?」
普段の僕なら、多分「見てないですよ」と答えていた。質問に質問で返すことができたのは、思ったよりもこの青年が幼く見えたことが要素の一つとして大きかったようにも思う。172cmあるかないかくらいの僕より、視線が明らかに低くて――そうだ。声も。青年というよりも、少年めいた印象があったから。
「……いえ、失礼しました」
青年は、頭を下げて店へと入っていった。ずぶ濡れの人間が入っても許されるっていうのはでまかせじゃなかったんだな、と思いながら、安っぽい建て付けの扉が閉まるのを見る。
ポケットの中で振動を続けるスマートフォンが、防水性をこうしてアピールしていてくれてよかったな、と、この日以上に思うことになった日は未だにない。今後、海に行く予定もなければプールに行く予定も、ずぶ濡れになる予定だってない。
リツイートの件数は概ね1200件前後で止まり。引用リツイートではヤラセだの合成だのというありがたい文言が追加され、悪趣味にもあの写真に対してハートマークを押した人間は900人程度いたことになる。
記念に(という言い方が悪いのは僕だってわかっているが)、スクリーンショットを一枚だけ撮ってツイートを消した。ついでに、62人の顔も知らないフォロワーと210人をフォローしていたアカウントも消してしまった。元から、これを一つ消したところで僕の生活が変わることはないだろうな、と漠然と理解していたようにも思う。
言ってしまえば、ああいう炎上スレスレ(というか、そのものと言っても僕の中では過言じゃない)のことをしても、フォロワーを20人しか増やせないんだな、と思うと、ほんの少しだけ罪悪感が薄れた。
他人は、死んだ誰かに興味があったとしても、死んだ誰かを見た誰かには興味を持たない。出版業界で未だにゴーストライターが蔓延る理由を思い出した。他人が興味があるのは記事の中身だけで、その記事を書いたのは誰だっていい。読者に必要なものは、センセーショナルな事件だけだ。その真偽すらも、そう大して意味がない。
それがフィクションであり続ける限りは、読者は他人事のように振る舞うことができる。それがノンフィクションとして目の前に現れたらどうするかといえば――、
「はは……」
実に、笑える話だ。結局、悲しいほどに他人事である。さっきまでの罪悪感も、アカウントを消したことで許されたような気すらしてくる。悪い夢でも見ていたかのように思う。
もしかすれば、酔い潰れた僕が見ている明晰夢なのかもしれない。僕は、そう思うことにした。それを現実だと認めなければ、それはGoogle検索を汚染するためだけにあるような記事と大差ない。
でも、僕のツイートが少なくとも1200人に見られていたという事実は、僕の気分を高揚させるには十分以上の効能を齎してくれたように思う。
ジャバウォックのかぎ爪 鈴木亜沙 @a_sa_o
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ジャバウォックのかぎ爪の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます