天気:雨 AM2:21 東京都・新大久保近辺にて
さっさと帰ろう。タクシーを捕まえる金もない。こんな外国みたいな街でフラフラしながら夜を越えるなんてことは考えたくもない。
「……カラオケで時間潰――」
駅前にあったナイトパックだと深夜から朝まで2,400円くらいだったな、と思いながら踵を返そうとした瞬間だった。踵を返した瞬間だったかもしれない。
多少の時系列の前後に関しては僕も自信がないけれど(なんせ、その時は本当に死ぬのかな、と思ったし、とりわけ特徴があるわけでもない自分の平凡な人生の走馬灯すら見えていたから)、ただ一つ間違いないのは、カラオケで夜を越そう、と思ったのと……同時に「ちょうど」人くらいの重量感のあるなにかが落ちるような音がしたのを聞いたこと。
そして、振り返ったらそこに制服を着た女子高生の死体(かどうかはわからない)が転がってたってこと。
黒髪ロングの髪が雨に濡れていて、セーラー服の制服越しに濃い下着の色が透けていて、投げ出した腕の先はぴくりとも動きはしない。――いっそマネキンって言われたら信じられるくらいに現実味がなくて、キャスティングだけ豪華で中身の安っぽいホラー映画に出てきそうだな、なんて思ったのも束の間。
「……ッ」
人間が本当に怖いものに出会ったときにどうするか、みたいなのは人によって全然違うのだろうけど、少なくとも僕が真っ先にやったことは、ポケットの中に入ったひび割れガラスフィルムのスマートフォンを取り出すことだった。ホラー映画だったら真っ先に死ぬタイプだとも思う。そして、おそらく何よりも恥じるべきことではあるけれど。
僕は、何よりも先にスマートフォンのカメラのシャッターを押した。
二時間以上そうしていたような気さえする。スマートフォンの分数表示自体は変わっていなかったはずだから、1分以内の出来事だったとするのが事実だと思う。そこで、僕は警察を呼ぶという判断もできずに。自分のツイッターアカウントに、その女子高生らしき誰かの写真をPostした。センセーショナルに見えるようにキャプションまでつけて、他人の興味を唆れるように――それこそ、僕がここまでやってくる原因になったアフィリエイトブログみたいに。誰かの死体(かどうかもわからないもの)を、自己顕示欲を満たすための材料として使った。
分数表示が変わった瞬間――恐ろしくなって、スマートフォンをポケットにしまって、差していた傘を取り落したことにも気付かずに駆け出した。水溜りに足元を取られそうになりながらも、自分が犯人ではないですとアピールするかのように走った。ただただ一目散に。
どこに逃げようとしたかも定かではない。ただ、そこにはいられなかった。
エナドリの空き缶を蹴飛ばした。クリームパンの袋に足を滑らせた。ただ、誰にも知られず、誰にも見られずに僕という人間がここにいたことを明らかにはしたくない。今後は悪いこととか一切しませんから。だから今だけ見なかったことにはしてもらえませんか。お願いします。見なかったことにしてください。
ただ、それだけを考えながら、僕は大通りへと走って、走って、走った。ただ走った。
「……ッて」
「す、スイマセ――」
「悪いなァ兄ちゃん。……なに、人でも殺してきたみたいな顔して。生きてるか?」
ハングル文字だけの看板の店から出てきた中折れ帽を被った、浮浪者のような見た目の男にぶつかるまでは、手を差し出されるまでは。……そこまでは、僕の計画は完璧だった。計画といっても、ただその場から逃げ出すというお粗末なものだけれど。
千鳥足の男がとんでもないことを言うまでは、誰にだって気付かれていなかったはずだ。でも、ここに一人おそらく目撃者だろう男がいる。どこで見ていたのかは知らないが。
「ははは……いや、その、そんなわけないじゃないですか……すみません、だ、大丈夫ですか?」
声が震える。別に自分が人を殺したわけじゃないはずだ。別に自分はただの目撃者で、実質的にはほとんど関係がない他人で、いやまあ写真は撮ったけどそれだけで、罪に問われるようなことは決してしていないはずだ。本当に。
「大丈夫じゃねェのは兄ちゃんだろーが。こんな時間に? こんな場所で迷子か?」
男の青い目が、舐めつけるように僕を見ているのがわかった。薄ら笑いを浮かべながらも、ああ、この人は外国人で、日本人らしくないアクセントで喋っているな、とか、僕よりも年上というかなんなら両親くらいの年齢だな、とか。最近帰省してないな、とか。それ以上に、この好奇心じみたなにかで話しかけてくる男のことが不愉快だな、とか、無視するのが正解だったかな、とか思っていた。
しどろもどろになりながら、僕は適当に言葉を並べ立てる。言い訳にならないように、世間話みたいに――なんて。警察でもなんでもないこの男にあれやこれやと聞かれる義理は僕にはなかったけれど、ここで本当のことを言っても、僕のみっともない恐怖心と自己顕示欲が白日の下に晒されてしまうようで嫌だった。
「まァ入れや。ずぶ濡れでいたって、どこの店も入れちゃくれんだろ。濡れ鼠に水浸しにされても文句言わん店なんて今から探すほうが大変なんだから」
断ったはずだ。何度も何度もそれなりに断って、勘弁して下さいという意思を伝えたにも関わらず、こうだ。結局僕は、逃げられずに甘ったるい匂いのする、古びて狭苦しいバーに連れ込まれている。
少なくとも、警察に見つかるよりはこの浮浪者のような男に捕まるほうがよっぽどマシだ。諦めるのはうまくなった。いつだって考えうる最悪と比べればまあワースかな、なんて甘えた考えをしながら、こうしてなあなあに流される。僕の人生と同じだ。なあなあに流されて、下を見てまああれよりはマシ、と思いながら生きていく。自己欺瞞を繰り返して生きていく。
そうでもしなければ生きていけない世の中が全部悪い、と言えたら、僕は今頃こんな新大久保のバーなんかじゃなくって、渋谷のライブハウスの近くのホテルにファンの少女を連れ込むバンドマンになれていただろう。そうではないのは事実が証明している。
まあ、僕が悪い。あの場で通報しなかった僕が悪いし、その場の勢いでPostしてしまった――。
Post?
あの場から逃げ出してから、僕は一切スマートフォンの画面を見ていない。冷静になれば、カジュアルパーカーのポケットからは小刻みにバイブレーションの音が聞こえる。
「……通知」
「あ?」
男に軽く会釈してから、ポケットの中のスマートフォンを取り出して、ツイッターを開く。画面の四分の一をオシャレを目指していそうな新機能に占領された上部から下へと視線を滑らせ。通知を知らせるベルの横には、すでにカウントを止めた数字の姿があった。
ああ。なるほど。これが『バズり』ってやつか。
思い切り息を吸い込んで、噎せた。よくよくちゃんと辺りを見てみれば、この男以外にもこのバーに客はいた。背の高い、日本人らしくない男……恐らく、男。髪の長い男だ。眼鏡を掛けて、白衣を羽織った赤い髪の男。この不快な甘ったるい匂いの出どころはその男の手元の葉巻で、目の前で面白おかしく僕に話しかけてくる男の息はアルコール臭くてたまったものじゃない。
それならば店主は、と思って視線だけでこの店を見回しても恐らくそれらしい人間は見当たらない。じゃあ一体ここはなんなんだ? 店か? それとももっと良くない組織のなにかなのか? なにもかもがわからない中、ただポケットの中で通知音は鳴り続けている。
事情を説明しようと思った。人が倒れていて、パニくっちゃって、どうしていいかわからなくなった。これでいこう。時間は遡らないんだな、と、体で理解したのは初めてだった。
つい10分前には何もなかったはずなのに。10分前にはコインロッカーこええ、なんてしょうもないことを考えていたはずなのに、もうあの瞬間には戻らない。生殺与奪権(肉体的にも、社会的にも)を他人に握られては怯える時間が続く。
もう戻れない一線を踏み越えた僕は、まともな頭だったら出てこないような発想がちゃんと浮かんでくるようになっていた。
ああ、そうか。この人達が酔っぱらいなら、記憶を失うまで彼らを酔っ払わせればいいんだな。飲み潰れて、僕がいたことも夢だったんだと思わせて逃げるのが一番だ。誰にも何も言わずに、適当に隙を見てツイートを消そう。嘘乙で終われるはずだ。
雨の中で倒れる誰かを見て見ぬ振りができるような人間のことを、横断歩道が渡れずに困っている老人を見て見ぬ振りができるような人間のことを、いじめられている亀を見て見ぬ振りができるような人間のことを、まともでないと思っていた。
少なくとも、それを選び取れるような人間はまともではないな、と、他人事のように確信した。
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