ジャバウォックのかぎ爪

鈴木亜沙

12月12日

天気:雨 AM2:15 東京都・新大久保近辺にて

 雨が降るところまではまだ許容できた。この程度はもう2ヶ月前に学んだ。解決した。鞄の中の折りたたみ傘を開いて、尺の足りていない持ち手を握って夜の街を歩く。

 だが、それ以上は許容できはしない。一足5,980円のユニクロのストレッチジーンズと(まあこっちはいいけど……)抽選で当てたお気に入りの限定エアジョーダンを水浸しにしていいとは誰も言っていない。


 日本語よりもどこの言語かもわからない言葉の飛び交う(概ね韓国語あたりだろうと推察はつくが、そもそも知識もない国の言葉のリスニングができるほど僕は器用じゃない)街の中で、安っぽいトレンドを追いかける店のネオンが水溜りに反射している。

 スマートフォンの画面を見る。アフィリエイトリンクだらけのしょうもないまとめブログの文字列を追いかけて、またがっくりと肩を落とした。


 ――新大久保で死体発見! ニュースに出ない事件の本当の真実を調査しました!


 被害者の名前も、被害者の性別も、被害者の怨恨状況の一つも書かれていない中身の空っぽな記事。ゴシップ誌すら買い上げないような三流以下のGoogle検索を汚染するためだけにあるような、砂漠の砂ほどある記事の中の一つ。

 はあ、と溜息を溢す。そりゃあそうだ。要するに僕はその三流以下のGoogle検索を汚染するためだけにあるような記事すらも準備できない三流以下の記者ということになるのだろうし、そもそも自分の書いた記事が片っ端から没続きで一切金になってないことを考えれば記者とも名乗れないような気がするし、ただの零細出版社の事務って言ったほうがよっぽど僕の説明をする上では正しい気がする。余計なところで余計に落ち込んだ。名刺には記者って書いてあるのに。


 新大久保のガード下を、誰が描いたかもわからないキャラクターたちに見守られながら歩く。このキャラクターたちに名前はあるのだろうか。もし僕がここで殺人事件にでも巻き込まれたら目撃者はきっとこのキャラクターたちだけなんだろう。……そんなどうでもいいことを考えながら、しょうもない記事デマカセを頼りに都道433号を進んでいく。


 事件現場は西武新宿駅と大久保駅の間。雑多なコリアンタウンの一角で、記事曰く死体が発見されたという。


「……嘘つけ」


 ハングルで書かれた看板。大通りのほうはまだ日本語のフリガナを振る努力はしていたが、一本入ってしまえばそんな殊勝な努力をする店はそうそう存在していない。一体何を売っているのかもわからない、トランプの図柄が配置された看板の店を通り過ぎる。

 

 僕は海外旅行の経験はない。理由なんてただ一つだ。金がないからでも、英語が喋れないからでも、海外に用事がないからでも――まあ、金はないし英語も喋れないし海外に用事もないけれど。ただ一点、外国は怖いからだ。日本と違って治安が悪い。夜の一人歩きをしても、怪しい薬を売りつけられたり観光客狩りをされることもないこの日本という国に住んでいる僕からすれば、海外に自分から行く理由なんてない。この日常を享受することが大事で重要で肝要なのだから。


 だからこそ、この新大久保という街のことを僕は好きになることはないだろう、という確信があった。だってここ外国じゃん。日本じゃないよ。誰に言うでもない弱音を飲み込む。

 この街の夜が、この東京という街の中でも一番嫌いかもしれない、とすら思った。名誉東京都民の千葉県民が言うことでもないのかもしれないが。終電はとうに終わっている。

 僕はこの街でこの夜を越えて、さらには死体を探しながら翌朝を迎えねばならない。気が沈んだ。折りたたみ傘が木の枝に引っかかって、更に気が沈んだ。


 スマートフォンの液晶をスワイプする。右下の割れたガラスフィルムを避けるように縦に指を動かして、記事に埋め込まれた画像に視線を落とす。証明写真機を取り囲むようにして自動販売機が置かれて、古びた電灯が申し訳程度にちかちかと周囲を照らしている。申し訳なさそうについたり消えたりするんなら、もういっそ消えちまえよ。悪態をつこうとして、本当に消えられて困るのは僕なので通り過ぎるときに軽く会釈しておいた。今のは見逃してください、と。


 なぜか置かれているコインロッカーは視界に入れないようにした。暗闇はよくない。人の妄想を掻き立てる。あってないような秘密も暴かれてはいけない事実も、コインロッカーにまとめて詰め込まれている。昔読んだ小説にはそう書いてあった。それ以降、僕はコインロッカーのことが得意ではない。誰でも中に何でも入れられる箱という事実が怖い。

 というかそもそも箱っていう概念が苦手だ。パンドラも箱で、シュレディンガーも箱で、玉手箱も箱で、この世界には開けちゃいけない箱が多すぎる。箱に物を入れることを法律的に禁止してくれればいいのに。そうなればamazonの箱の中に人が入ってたらどうしようなんてしょうもない夢日記を先輩に見られることもなかった。


 意識をコインロッカーから逸らそうとして逸らすのに失敗しながら、点在する水溜りを踏み越えて死体が見つかったという現場にやってきた。

 そこは、別になんの変哲もない路地でしかなかった。あくまで、映画とか漫画とかでよくある「なんの変哲もない」なだけで、僕の基準からすれば普通に(普通にって言う言い方も少なくとも正しくはないと思うけど)怖い裏路地であることに変わりはない。


 スマートフォンのフラッシュライトを点灯させて、辺りを見回す。ネズミの一匹でも僕のほうに走ってきて、僕の足元を通り抜けるでもされたら声を上げて驚いたかもしれないが、そんなことは一切なく。

 目を凝らしたところで、結局血痕の一つも(そもそもこんな都会のど真ん中で人が死んでたらニュースにでもなるに決まってるんだからガセネタに違いない)見つからなかった。

 精々あったのはクリームパンの空袋と最近流行っているエナジードリンクのひしゃげた空き缶数本くらいで(最近の警察の張り込みは、クリームパンとエナドリが相棒なのかもしれない)、手がかりになりそうなものは一つも見当たらなかった。

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