第一章

漂泊の騎士と村娘



 今のわたしはわたしではない。

 祈りを介してわたしの中に入ってきたが、わたしの魂に溶け込んで、わたしを作り替えてしまったから。

 わたしは以前のわたしがどのようなわたしだったのか、どうしても思い出すことができない。

 記憶としては知っている。

 知識としては、より深く識っている。

 しかしそれらの情報には実感が伴わず、他人事のようで感情の宿らない無味乾燥なものでしかない。

 わたしはそのことが、堪らなく哀しい。

 今のわたしとして、哀しい。

 以前のわたしが今のわたしの状態を知れば、やはり同じように哀しく思ってくれるだろう。

 わたしはそう信じている。

 わたしは失われてしまった以前のわたしに共感し、同情した。

 だからわたしは決意する。

 どうにかして、以前のわたしを取り戻さなくては。







     ♯♯♯






 深い森と谷に囲まれた小さな集落があった。

 首都レジーナからはさほど離れてはいないものの、主要街道から大きく逸れたこの集落を訪れる者はほとんどいない。

 世間から忘れ去られた閉じた集落にて、数少ない娯楽といえば、時折訪れる旅人の持ってくる外の話。

 自分たちが一生目にすることのない異境の冒険譚。

 どこまでも広がる広大な外の物語に、老若男女問わず耳を傾け、聞き入り、夢中になった。


「そこで俺は言ったのさ! 『我こそは【火の聖女】旗下の一の騎士オリオっ! 我が聖剣〝ヴァリアブロス〟のびになりたいヤツはいるかっ!』」


 集落の中央、共同井戸の傍にある広間で、一人の青年が台に座って大きく声を張り上げていた。

 男が語るのは異境の冒険、異境の戦い。

 男の存在は、世間から隔絶されたかのようなこの田舎の集落にすら風に聞こえてきたあるヽヽ大事件の、生きた証だった。

 男が大きな声を上げる度に驚きのどよめきが広がり、大きな歓声が上がる。

 青年が天に突きだした剣は、轟々と燃えるたき火の明かりを受けて、赤く輝いている。

 静かなる集落の中、中心に立ち照らされた青年は、まるで遙かなる神話を告げる英雄のように、村人たちの目には映っていた。

 決して吟遊詩人のように優雅な語り口ではないが、荒々しくも単純であり、それだけわかりやすい。青年がどこか神秘的な異国の血が混ざったエキゾチックな容貌を持っていることもあって、真実味も増していた。

 青年の周りには老若男女が集まり、青年の冒険を囃し、それ以上に称えていた。


 遠い東の国、ヴィンダリア大陸のほぼ中央部。崩壊と復興の地。アエテルニア帝国。

 集落の存在するここ【聖王国】とは国交もなく、普通の村人たちは名前だけしか知らないような、遠い遠い異国の話。

 周辺小国家群を次々と飲み込み巨大化する帝国にて、国を二分する内乱が勃発したのは二年前、時の皇帝が病気で倒れたことに端を発した。

 実質的に帝国を運営していた『皇弟』と、後継者に指名されている『皇太子』――そして、それらをそれぞれ支持する有力貴族たちの権力争いである。

 はじめは表に出て来ない暗闘から始まった争いは、次第に地方での領主同士の小競り合いに移行し、皇太子が帝都を追われ、東方にて挙兵することを切っ掛けに本格的な内乱へと発展した。


 国交がないとは言っても、そのくだんの帝国は隣国であり、国境を接している。

 国境を国軍が固め、【ハルモニア教会】の【聖堂騎士団】も守護に当たっているとはいえ、平時とは違う不穏な空気はゆっくりとこの国ヽヽヽの中にも侵蝕してきて、人々を飲み込もうとしていた。

 その状況が劇的に変わったのは半年前のことである。

 内乱は元々『皇弟派』と『皇太子派』に、それぞれに有力な貴族が付くことによって激化していたのだが、ある時ある瞬間、それまで見向きもされなかった『皇女』の下に一人の【聖女】が訪れ、若手貴族たちをまとめて一大勢力を築き上げ、瞬く間に『皇弟派』と『皇太子派』を駆逐し、内乱を纏めてしまったのだった。

 勢力と言えるほどの勢力を持たなかった幼い『皇女』が、【聖女】の力を借りて戦乱に荒廃する『帝国』に平和をもたらす。

 その奇跡とも呼べる活動の軌跡は、第一級の物語として瞬く間に大陸中に広がり、最も新しい伝説として歴史に刻まれようとしていた。

 先日も【聖女】が【聖王国】レジーナの首都レジーナにある【九柱の女神ハルモニア大神殿】を訪れ、正式に史上四人目の【聖女】として認定されたばかりだという。

 炎と共に剣を振るい、騎士として戦ったというその【聖女】――【騎士姫】ネーデリアの名は、『皇女』や『剣聖子爵』の名前以上の速度で世界中に広がり、人々の憧憬を一身に背負う存在となっていった。


「『聖女様っ!』 声を上げて俺は走った! 敵の剣がネーデリア様の背中に迫る。聖女様も気付くが、聖女様の前に立つのは魔に魂を売った暗黒騎士! 背を向けるわけにはいかない! だが、危機一髪。俺は体ごと敵に体当たり! 敵のバランスは崩れ、俺も一緒に倒れる。聖女様の剣が光る。敵の首が飛ぶ。暗黒騎士は逃げる。助かった!」


 大げさなほど両手両足、いや体全体を使って表現する青年の語り口は決して上手くない。

 何を言っているのか、時折よくわからない部分も含まれている。

 けれども娯楽に飢えている村人たちにはそれだけでも十分だったのだろう。

 青年の言葉を勝手に解釈して勝手に頭の中で話を組み立てて、勝手に青年を、聖女と共に戦った英雄の一人だと、決めつけていた。


「おおっ、兄さんは聖女様の命の恩人なのだな!」

「すげえぜっ! 俺たちには想像もつかない世界があるんだなぁ」


 そして時には黄色い声も上がる。


「きゃあっ、素敵ですっ!」

「騎士様かっこいい……」


 青年は美男子というほどの顔でもない。日に焼けている所は精悍さがあるようにも見えるが、戦士というにはどちらかと言えばひょろっとした体格で、とても戦うことを職業としてきた人間には見えない。どちらかと言えば文官――文章を書いて生計を立てるような、頭脳労働者に見えた。けれどもここら辺ではあまり見ない顔立ちであることは間違いなくて、その事だけで青年はどこかミステリアスに見え、村の娘たちには魅力的に見えてしまうのだろう。


「すっげぇ、兄ちゃん!」

「お、俺にも剣を教えてくれよっ!」


 話の内容はよくわからないながらも子供たちも周りの雰囲気に乗せられて、素直に青年に対して尊敬の目を向ける。

 青年は時折話を止め、豪快に笑いながらも目の前に差し出された飯を食い、酒を飲み、人々の相手をしていた。


「おうおう、お前らっ! 明日には剣を教えてやるぞっ!」


 気をよくした青年も、纏わり付く子供たちの頭を乱暴に撫でながら大きく笑う。

 片手に持ったカップに満たされた酒を一気に飲み干して、大皿に積まれた肉料理を手づかみで取り、頬張る。

 普通だったら意地汚い、ひょろっとした体型には似合わないアンバランスな態度なのだが、この場の空気の成せる業か、豪快、闊達という風に好意的な印象を周囲に与えてしまう。そして、長い栗色の髪を持った一人の少女が、頬を上気させ青年に近づいてきた。


「素敵です、騎士様! ささっ、お酒をお注ぎいたします!」


 お酒がたっぷりと入った大きな瓶を、少女は軽々と抱えて青年の前までやってくる。瓶の口を危なげなく青年のカップに近づけて、とくとくと注いでいく。


「おおっとととっ」


 急に重量を増したカップのバランスを取ろうと、青年は体を傾ける。少女の体が近づき、ふわりとした甘い香りが鼻孔から侵入してきた。

 ちらりと少女を見る。かなりの美少女だ。着ている服は簡素な麻のワンピースでとても地味だが、こんな田舎村にいるのがもったいないほど整った顔をしていた。化粧っ気は全く無くて、しかし酒精に酔っているのかほんのり赤みを帯びた頬が、健康的な色気を醸し出していた。


「おおぅ、悪いな!」


 にかりと爽やかに笑いかけると、少女はおっとりと微笑んだ。

 混じりっけのない、清純な感じの微笑みだ。しかし、不意にその笑みの性質が、どこか小悪魔めいた、悪戯っ子を思わせるような少し妖しい雰囲気を帯びた。

 青年は一瞬脳裏を撫でるような嫌な予感に震えたが、それを自覚するより先に少女はその気配を消して、青年にしな垂れ掛かるように体を寄せてきた。酒の入った瓶を目の前の豪勢な料理が並べられたテーブルの隅に置いて、少女は青年の右腕にしがみつく。柔らかな胸の感触が腕を包み込み、青年はすぐにその予感を忘れた。

 少女の胸は青年の好みからするとやや小ぶりだったが、その容貌は文句の付けようがないほど完璧のように思われた。少なくとも、こんな田舎村じゃあ、これ以上のいい女には出会えないだろう。少々揉み応えの足りない胸など、何の問題にもならない。


「よーしよし、ねえちゃん、ありがとうな。お前、なんて名前だ?」


 気をよくした青年は、少女の顎に左手を掛け、真っ直ぐ青年の目を見るように向けた。少女は少し驚いたように目を丸くして、程なく照れたように頬を赤らめて、呟くように口を開いた。


「……ネ、ネルと言います」


 恥ずかしさで身を捩らせる様子は、青年の好みに合致した。

 青年はネルの耳元に口を寄せ、彼女だけに聞こえるように、そっと囁いた。


「今晩、来なよ? 二人っきりでじっくりと冒険の話をしてやるぜ」


 びくりとネルの体が小さく震えるのを青年は感じた。

 顔を放し、正面から見るとネルは顔を俯けていた。

 その表情は見えない。

 けれども小さいが確かに、ネルの頭が縦に一度上下するのを見て、青年はにんまりと口元を笑みに歪ませるのだった。






     ♯♯♯






 夜も更け、子供たちは皆家に帰り、本格的に大人だけの酒宴が始まろうとした頃。

 一人の村人の言葉によってわずかに宴の空気が変化した。


「いやぁでも、これで安心だなぁ」


 大声で笑う酔っ払いの言葉に別の酔っ払いが同意の声を上げる。


「んだんだ。聖女様のお供をされた騎士様だもんな。魔物なんて一捻りだ!」

「聖剣バナナジュースの錆の力だんべ」


 聖剣……って、全然名前似てない、と思いながらも青年は首を傾げた。何の話をしているのだろうか、と。

 青年はすぐ傍で、散々飲み食いをしている少女――ネルにそっと尋ねた。


「おい、何の話をしてるんだ?」

「ほえ?」


 ネルは青年の胸に寄りかかったまま、ぼんやりと顔を上げた。酒精に酔った顔は一見艶めいているように見えなくもないが、楚々としていたはずの少女は第一印象をかなぐり捨てて、青年の前でかなり自由奔放に飲み食い散らかしていた。今もよく見ると、右手には骨付き肉を握ったままで、口元は肉の脂でか、かなりてかてかと光っていた。なんか、汚い。いや、少女の美少女ぶりはもちろんそのままなのだが、何だかだらしがなくて、夢を壊されたような感じがして台無しだ。まあいくら素材が良くても所詮は田舎娘だ。こんなものだろうと青年は、なんとなく上から目線で妥協する。


「あらやだ騎士様。この村近辺で、最近魔物を目撃したとかで、ここ数日騒いでいたのですよ? 村長さんが、都の聖堂騎士に退治を依頼したとも仰ってまして……騎士様はその先遣で入らしたのではなかったのですか?」


 下から眺めるように青年を見ながら告げるネルの疑問に、青年は一瞬ぎくりと体を強張らせた。

 だがすぐに気付く。固まっては拙い。早く応えなければ。

 一呼吸の内に青年は気持ちを落ち着かせ、口を開いた。

 だが開いた口から言葉が零れ落ちるより先に、ネルはさらに言葉を零した。


「……あら? 村長さんが魔物退治を依頼したのは『ナーザの冒険者』だったかしら?」


 思わず言葉を飲み込む。

 するとネルの言葉を聞き付けた別の村人が、大きな声で口を挟んでくる。


「『冒険者』だぁ? あんにゃ胡散臭い連中に、何を頼むってえんあぁ?」

「村長が決めたことら。従うべきだ」

「んにゃあ、あんなもんに頼まなくても、ここには騎士様がいるだ!」

「そーだそーだ! 騎士様、ぜひ魔物を退治してくだせぇ!」

「お願いだっ、騎士のあんちゃん! 俺たちの村を守ってくれよ!」

「おう、騎士様騎士様っ!」

「へいっ、きーしっ! きーしっ!」

「キーシッ! キーシッ!」


 なぜか村人一斉に「騎士」コールが始まってしまう。

 青年は引きつりそうになる表情を抑えながらも立ち上がって、腰の剣を抜く。

 酒のせいか、わずかに足下が覚束ない感じだが、それでも何とか格好が付いた。

 剣を上げて高らかに宣言する。


「我が聖剣ヴァリアブロスは魔物などには負けんっ! 必ずや一太刀の下に斬り捨てて、この村に安寧をもたらすだろうっ!」


 言葉と共に拍手が飛ぶ。広がる拍手は、この夜一番の賑わいを誘った。

 力強い言葉は強い信憑性を呼ぶ。

 言い切った者の勝ちだ。

 青年はよくその事実を知っていた。

 かがり火が煌々と広場を照らす中、赤い明かりを反射させて輝く剣を抱えた青年の姿は絵になっていた。

 まるで本物の英雄のように。

 物語の中の登場人物のように。

 青年は気付かなかった。

 カップを手に持ちちびりと酒を口に含みながら、観察するような目を青年に向ける少女、ネルの視線を。

 誰も気付いていなかった。






     ♯♯♯






 深夜、空気まで寝静まったかのような村の中。

 広場で燃えさかるたき火の明かりを避けるように、影に隠れて村の外へと向かう者があった。

 騎士、オリオである。

 宴の時に見せていた、ある意味豪放な振る舞いなどまるでなく、大きめの体の内に隠して、背を縮めて、足音を殺して村を抜け出す。

 息を殺して、宴が原因か、村の入り口の門には誰もいない。足早に通り過ぎ、村の明かりが届かぬ山道へと進む。明かりのない夜道は危険だが、幸いにも今夜は月も大きく、慣れればどうにか道が見える程度には目が慣れてくれた。安堵するが、足は止めず、だが慎重に山道を歩く。さらに一刻ほど進み、村の明かりも小山の陰に隠れて見えなくなったころ、ようやくオリオは足を止め、目についた街道沿いの大岩の上に腰を下ろす。


「ふぃぅ。やべえやべえ。あのままだったら無理やり魔物退治なんかさせられるところだったぜ」


 水筒の水を飲み、息を吐き出すと同時にオリオはそう吐き出す。

 どっしりと胡坐をかいて座る様は粗野で、とてもではないが「騎士」という言葉のイメージから想像される振る舞い――いわゆる礼儀作法からは程遠い態度だった。

 魔物退治を依頼されるのはまだ別に良い。

 調子よく請け負ってやれば単純な村人はきっと感謝して、礼金もある程度前払いなんぞしてくれるだろう。

 そうすればオリオは、村人たちに見送られながら揚々と魔物退治に出ればいいのだ。

 愛剣を片手に、勇ましく。

 そうして村を離れ、そのまま旅に出るのだ。


 オリオは初めから魔物を退治する気など、全くなかった。

 というか、騎士でもなかった。

 聖女なんて会ったこともないし見たこともない。

 当然、アエテルニア帝国の内戦にも参加しているはずもない。

 では何なのかと問われれば、オリオは少し考えてつぶやくのだ。


「まあ……作家、かな?」


 疑問符が付くところからしてオリオ自身も信用していない肩書きである。


「……吟遊詩人的な何かだろうか?」


 楽器など持ったこともないが。


 つまりは、この夜、オリオが村人たちに語った物語はすべてが創作であり、ようするに嘘なのだった。


 純朴な村人たちを騙してオリオは宴によって歓待され、タダで飲み食いしたわけだが、オリオには特に悪いことをしたという意識はなかった。

 娯楽の少ない村に一晩、物語を提供し、宴まで主催して楽しませてやったのだ。村人たちはオリオの作った物語に喝采を浴びせ、歌い踊って楽しんでいた。オリオが手にしたのはタダ飯と旅道具、そしていくつかの金銭。欲張ってなどいないし、これくらいなら正当な対価だと思っている。

 しかしこう、夜逃げのように出てきてしまったのは不本意な結果だ。

 予定では一晩過ごした後、村人たちに盛大に見送られ、旅立つ予定だったのだ。日の光の射す、明るい見通しの良い道を、堂々と。


 こんな危険な夜道を走る羽目になってしまったのは、最後に宴の様子が予期しない方向へと進んで行ってしまったからだ。


 魔物退治を騎士オリオがするような流れになった時、まず魔物退治の依頼金を前金で貰うことを思いついて、思わぬ臨時収入にこっそりとほくそ笑んだ。

 けれども話はさらに思わぬ方向へ進んでいく。オリオにしなだれかかるように縋っていた女の一人が言ったのだ。


「魔物に一人立ち向かう騎士様はすごくて、何もしない村人は情けない」


 いや、女の口から出た言葉はもっとオリオに媚びるような口調で、その反面、村人を貶すような言葉だったように思う。

 もうその頃はだいぶ呑んでいて、酔いも回ってよく覚えていないのだが、すごく良い気分になったことを覚えている。

 だがその後の展開がいけなかった。


「騎士様一人だけに任せるのはダメだ!」

「オラたちも共に戦うだっ!」


 何やら魔物退治に同道すると主張する声が若者を中心にたくさん上がってきたのだ。

 冗談ではない。

 ついてこられたら、魔物退治に行くふりをしてこっそり逃げ出すことができなくなるではないか。


「お前らの手を借りるほどのことじゃねーよ」

「怪我しないように大人しく家で吉報を待ってな!」

「俺の仕事の邪魔をするんじゃねーよ」


 つまり、足手まといになるからついてくるな的なことを色々とオブラートにくるんだりして、自信満々に応じてオリオ一人に任せておけば問題ない的な空気を作り出したりもして、とにかく言葉を継ぎ足してようやく一人で魔物退治に向かうことを納得してもらえた頃には、もう村人の半数以上が酔いつぶれた後のことだった。


 そして与えられた宿の部屋に戻り、オリオは気付いた。

 オリオ一人で魔物退治に行くことを、村人たちは本当に納得したのか?

 あの様子では、こっそり跡をついてくる奴らが何人か出てくるぞ?


 そうなってしまえばオリオが端から魔物を退治する気なんてないことなど、あっさりと露見してしまうだろう。

 そう確信してしまったオリオには、村が寝静まった後、こっそり夜逃げのように抜け出すしか選択肢は残っていなかったのだ。


 一息つきオリオは水筒の水で喉を潤し、バックからカンテラを取り出して火を点ける。もう村からは見えないだろう。そんな判断は理性よりも暗闇の恐怖から逃れようとして出た希望的観測なのだろう。一応、冷静にそう考えたりもしたが、それでも闇の恐怖は強い。村人たちばかりではなく、森の獣からも見つかってしまうという、そんな恐れも確かにあったが、いくら月明かりが強いとはいえども、これ以上闇夜を進むのは不可能に感じていた。これから先、道はもっと険しくなる。周囲の樹木林が深くなれば、その分だけ月明かりもオリオの下まで届きにくくなる。休んでいる暇はない。早く森を、山道を抜けなくては。

 逸る足と共に息が上がる。登り降りを繰り返し、ただ無心で足を動かす。

 遠くに響く野鳥の羽ばたき。どこかの何かの遠吠えが小さく木霊する。風が木々を激しく揺らす音。そして、小さく聞こえてくる水の流れる音。

 水の音が少しずつ大きくなり、山道は小川を横切る。

 水だ。

 少し道を外れて奥の方を見ると、湧き水らしきものも見える。

 ほっと足を止めて、息を吐く。

 ようやく人心地つける。

 背負った荷物を下ろし、コップを取り出して、湧き水へと伸ばす。

 その背後から、唐突に声を掛けられた。


「お待ちしておりました」


 静かな女の声だった。

 ぎくりとオリオは硬直した。

 何の気配もなかった。

 自分以外の誰も。

 湧き水を見つけた瞬間、気が緩んだのは確かだが、荷物を下ろす時にはもう気を引き締めていて、周囲の気配を探ったのだ。

 辺りに危険な生物はいないか、慎重に。

 その瞬間には確かに何の気配も感じなかった。だから安心して、荷物を下ろして休憩する気になったのだ。

 なのに、この声は何なのだ?


 声を掛けられた。その事実だけが頭の中を占めていて、その言葉の意味はまるで入ってこなかった。

 恐る恐る振り返ると、進行方向の街道の奥からゆっくりとした足取りで一つの影が近づいてきていた。


「だ、誰だっ!」


 声が震えていることを隠すことはできなかった。

 暗闇の中からその声の主はゆっくりと足音を立てて近づいてきた。

 カンテラの灯りに照らされて、意外なほど華奢なそのシルエットを浮かび上がらせる。

 華奢な女である。

 人気の無い山道の中、あるはずもないその存在に、違和感に、ありえなさに、足元から競り上がるような震えが奔る。

 心臓が自然と高鳴り、オリオは自分が恐怖を感じ始めていることを自覚した。

 やがてカンテラの灯りは、女の顔を照らし出す。


「お、お前はっ……っ」


 見たことのある顔だった。

 それもついさっき。

 訪れた村の、宴の中で見た顔。

 名前は忘れたが、たしかネリーとかなんとか、村人らしい素朴な名前をした可愛らしい少女だった。

 宴の間ずっとオリオに寄り添い、うっとりとした視線を向けしな垂れかかっていた少女だった。

 だが今は、その表情にはどこか皮肉気な、不敵な笑みが湛えられていて、オリオを挑発するかのように真っ直ぐな視線を向けていた。その視線の中には、戦乱を戦った物語の騎士へ向けるような崇敬の色など欠片も見えなかった。


「どうしてここにいる?」


 ここにきてオリオは初めて、村の宴の中でこの少女が見せていた態度はすべて演技だったのだと気付かざるを得なかった。

 初めから疑われていたのか。実はオリオが、騎士でもなんでもなく、ただの詐欺師であることに気付いていて、監視されていたのか。そしてオリオが逃げ出すのを確認して追いかけてきたのか。

 疑念が一気に膨れ上がり、しかし同時に、ならばここにいるのは何の力もないような少女一人ではなく、周囲には密かに村の男たちが隠れているのだと悟る。そうでなければおかしい。

 だが少女は慄くオリオを見て、なぜか視線の力を緩めて表情を和らげた。そしてどこか慈愛の含んだ声音でささやくように言ったのだ。


「何をおっしゃって? 騎士オリオ様。後で貴方の下へ参るようにおっしゃったのは、貴方様の方ではないかしら?」


 わざとらしく驚いたような表情を見せる少女の言葉の意味が、一瞬オリオにはわからなかった。

 けれどもすぐに思い出す。


 ああ確かに宴の中、オリオはこの少女を抱こうとして、あとで自分の部屋に来るように言ったのだ。


 そんなこと、すっかり忘れていた。

 だがそんなやり取りなど、今この状況になってしまえば皮肉にしかならない。


「お、お前っ」


 オリオが忌々しげな視線を向けると、少女は途端に弾けるように声を上げて笑い始めた。


「茶番は止めにしましょう。オリオさん? 貴方の物語、大変面白かったですわ。村の皆も楽しんでいましたし、一泊の宿と盛大な食事。対価としては、ちょっと不足かもしれませんね?」

「どういう意味だ?」

「でも、初心な村娘の純潔を奪おうというのは、ちょっと貰いすぎじゃないかしら? そう思って、邪魔させて頂きました」


 のんびりと説明する少女だったが、オリオにはその意図がさっぱりわからなかった。

 少なくともオリオを糾弾しに来た様子ではない。けれども何を意図しているのか、話の行く先がどこへ向かっているのか、オリオにはさっぱり想像が付かなかった。警戒しながらオリオは少しずつ足をずらすように下がっていく。どうにか隙を見つけて逃げなければ。だがそんなわずかな行動すらも見透かすように、少女はオリオを見て笑った。


「警戒しなくてもいいですわ。私は、村の者じゃありませんし」

「…………はっ?」


 何を言っているのか、それこそ理解不能の言葉だった。

 村の宴の中、少女の存在に不審がる者はどこにもいなかった。普通に宴に溶け込んで、飲み食いしていたように思った。


「村長が騎士様のために町から呼んだ商売女……そういう位置付けだったのですわ」

「んな、馬鹿な」


 そう思い、思い返してみると、浮かんだ情景の中では、誰も少女に声を掛けている者はいない。名前を呼ぶ者もいない。


「飲み食いした代金は、まあ、村娘が詐欺師の毒牙にかかることを阻止した……ということで帳消しにしてもらいましょうか?」


 笑いながら堂々とした態度で言う少女の顔を見て、オリオは唐突に理解したように思った。

 こいつは、悪党だ。

 何者だか知らないが、オリオと同じ、人を騙すことに対して自分だけの勝手な理屈で正当化し、自分の罪悪感を誤魔化す術を日常的に行っている、小悪党同類だ。

 オリオの中でそう理解が満ちると、一瞬前まで感じていた不気味さは掻き消え、途端に共感めいた気分が沸いてくる。

 オリオは息を吐き、にやりと顔を上げた。


「お前、何者だ?」

「あら、名乗りましたわ。『ネル』と。そもそもこんな美少女が、あんな田舎村にいるわけないでしょう?」


 くすくすと小さく零れるような声を少女は漏らす。

 ああそうだった。この少女の名前はネルだった。

 堂々と言い放つ言葉は、とても小気味が良いものだった。


「ご存じありません? かの聖女様は『ネーデリア』と、言うのです」


 聖女の名前は『ネーデリア』。つまりは愛称として『ネル』。

 その言葉の意味するところは明らかのように思えた。

 少女は初めから語っていた。

 ――いや、騙っていた。

 この少女はよりにもよって聖女様を騙ろうと言うのだ。

 ぞくりとしたものが背中を奔った。けれども今度は恐怖からのものではない。壮大な騙りをさらりと流す少女ネルの言葉に、オリオは言い知れぬ興奮を感じていた。


「さあ、騎士オリオ、貴方は誰?」


 ランタンの灯りの中でネルはオリオに向けて右手の甲を差し出す。

 とても演技くさい動作だった。

 オリオは小気味良い気分のまま、その演技に乗ることを決めた。

 騙るのならば、言うまでもない。

 少女が聖女を騙り、その口でオリオを『騎士』と呼ぶのならば、答えはもう決まっていた。

 オリオはその場に跪き、少女の右手を掲げるように取り、宣言するのだった。


「もちろん聖女様の騎士です。わが剣は貴女のために……」


 茶番に満ちた儀式に吹き出しそうな笑いを耐えながら、オリオとネルは表面上は真面目に見つめ合い――そしてほぼ同時に吹き出して、笑った。






 これが二人の出会いだった。



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アヴァロンには帰れない ―火の聖女編― 彩葉陽文 @wiz_arcana

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