白縄の惹き合い

白木錘角

第1話

 その日は満月だった。月光が割れた窓から静かに入り込み、暗い部屋に光の道を作る。

 部屋の隅で1人、その様子をぼうっと眺めていたるいは、おもむろに立ち上がると窓の前に移動する。訳もなく急に、月が見たくなったからだ。

 昔から、月は人を狂わせると言う。―—ならば、今からする事も月のせいなのか? 否、月に魅入られるまでもなく、最初から自分は狂っていたのだろう。月も太陽も、夜も昼もなく、自分はずっと狂い続けていた。その事を認めるだけで、幾分胸の動悸が収まるようだった。

 不意に、部屋の隅から音がした。この場にそぐわない軽快な電子音。この期に及んで、未練がましく持っていた携帯がメールを受信した音だった。


しずく……?」


 メールの差出人は浜村雫。件名にはただ一言、「ごめんなさい」とだけある。


「は……はは……」


 ブラックジョークにしても許されない、不謹慎極まりないメールだったが、今の泪にはそれに怒る気力すらなかった。それどころか、このメールがジョークでなければ、などと下らない事すら考えてしまう。

 だが、いくらそう考えたところで現実は変わらない。彼女のメールを受け取る事はもう出来ない。彼女は……自らの手でその生を終えたのだから。







 泪が初めて雫と会ったのは、大学2年の時。所属していたサークルが新入生歓迎会と称した飲み会を開催した日だった。

 他の1年生に混ざって快活に自己紹介をする彼女を見た瞬間、泪の体には電流が走った。

 彼女は美人だった。毛先だけを青色に染めたべリーショートに、わずかに紅のさした頬。切れ長の目に高い鼻。そして笑うと八重歯が見える小さな口。その全てが、彼女にまだ10代とは思えない美しさをもたらしていた。

 だが、泪が引き付けられたのはそんなものではない。彼女の心の奥深く、普通なら決して覗き込めないその場所に眠る何かが、強烈に泪を捕えたのだ。

 シンパシーを感じるという言葉では足りない。まるで魂同士が共鳴し合っているような、今までに感じたことのない感覚が胸の奥から湧き上がってくる。

 それは彼女も同じだったようだ。彼女は泪を見るや周りに群がる男たちをはねのけ、まっすぐ泪のところに向かってきた。その目の中には、やはり泪を強烈に引き付ける何かが輝いている。


「先輩、良ければ名前を教えてもらっていいですか?」


 泪と雫はその日のうちに連絡先を交換し、近いうちに会う約束を取り付けたのだった。





「何でか分からないけど、似てますよね私たちって。先輩もそう思いません?」


 数日後、買い物に付き合ってほしいという雫の誘いで街に出た泪は、1人では絶対入らなかったであろうお洒落なカフェで雫と向かい合っていた。

 泪は無難にコーヒーを一杯、雫はシロップのたっぷりかかったパンケーキを頼む。届いたパンケーキを切り分け、口に運んだ後、最初に雫が発したのがその言葉だった。


「まぁ……ね。もしかしたら何か共通点があったりして」


 一瞬、運命という言葉が出かけたが、泪はそれをぐっと飲みこむ。素面でそんなロマンチックな言葉が出せるほど、泪は女子との付き合いには慣れていなかった。


「共通点があるってのとは少し違う気がするんですよねー。言葉にするなら、そう……運命の出会い、それか運命の赤い糸」


 先輩、私と付き合いましょうよ。そう恥ずかしげもなく言った雫はいたずらっぽく笑い、パンケーキを一切れ、泪の方に差し出した。

 断られる事など微塵も考えていないようなその言動を裏打ちしているのは、彼女の美しさか、はたまた運命とまで言い切った自身の感覚か。どちらにせよ、泪にそれを拒否する選択肢は無かった。




 それからの1年間は、泪が生きてきた中で最も幸福な時間だった。大学ではお互いの予定があえばいつも一緒に行動し、休みになれば車で遠くに出かけた。下宿先が近かった事もあって、泪が雫の家に夕食を作りに行く事もしばしばあり、また反対に、朝が弱い泪のために雫が朝食を作って持ってきてくれた事もあった。

 一緒にいない時間の方が少ないという、周りからすれば少し過剰な付き合いだったと思うが、不思議とその関係に嫌気がさす事はなかった。

 

「ねぇ、私といて幸せ?」


 雫はよくそう聞いてきた。泪が首肯すると、彼女は嬉しそうに笑い、それを見た泪もまた、嬉しくなるのだった。



 そんな関係が1年続き、付き合い始めて1周年の記念はどこに行こうかと話していた時の事。


 大学から帰ってきた泪を迎えたのは、彼女の訃報だった。

 自殺だったという。

 実家の自室で、首を吊っていたらしい。

 机には彼女が書いた遺書が残っていた。中には両親や友達、そして泪への感謝と謝罪が綴られていたそうだ。ただ、自殺の理由だけは書いていなかったという。

 自殺する理由がない事から他殺も疑われたが、争った痕跡がない事や事件に繋がるようなトラブルは無かった事、そして残された遺書が決定打となり、最終的に自殺という事で片付いたそうだ。

 これは雫の葬式の後で聞いた話だ。いや、その前にも聞いていたはずだが、当時の泪の心には、それを受け止めるだけの容量が残っていなかった。遺書も見せてもらったとは思うが、そこに記されていた内容は何1つ覚えていない。


 



 彼女の死から1ヶ月が経ち、皆が普段の生活に戻っていく中、泪の心に残されたのは大きな穴だった。その穴を埋める事ができるのは彼女――雫だけだ。他の何かで埋める事は出来ないし、埋める気もない。

 気が付けば指が勝手に動き、メールを開いていた。

 本文の最初には「H・Sより、S・Rへ。愛を込めて」と書かれている。浜村雫から、瀬野泪へ。彼女がメールをする時に、必ず最初につけていた文だ。


『H・Sより、S・Rへ。愛を込めて。

 このメールを泪君が読んでいるなら、私は死んだって事だろうね。最初に言っておくと、これは浜村雫本人からのメールだよ(最初の部分で分かってくれたかな?)。今はメールも進化してて、このメールは予約機能ってのを使って送ってるの。すごいよね。今は会話と言えばアプリだけど、メールも案外捨てたもんじゃないって思ったりして。

 それで、私が何でこんなメールを送る事にしたのか。そもそも、何で死ぬことにしたのか。多分泪君は知らないと思う。遺書には自殺の理由を書かないつもりだから。本当は誰にも言うつもりはなかったんだけど、の泪君には、伝えておくべきだと思ったの。これを見た泪君がどう思うか、私には分からないけど……泪君なら理解してくれるって、信じてる。

 私はずっと死にたかった。小学生くらいの頃から、この世界に私は生きていちゃいけないって感情が胸の中で燻っていた。

 それじゃあ何で今まで生き続けてきたんだって泪君は思ったはず。そこは私のわがままというか、ただ死ぬのは嫌だったんだよね。死ぬにしても、私の存在を誰かにずっと覚えていてもらいたい、この世界にいた証拠を残したいって……あはは、矛盾しているね。この世界に私はいらない存在なんだって自分で思っておきながら、この世界から消えるのは嫌だなんて。

 でも本当にいるのかな? 私の存在をいつまでも覚えていてくれる人なんて。人間、いつまでも悲しめるようにはできていないんだってさ。わんわん泣いたら涙と一緒に悲しみも流れちゃう。タンスの奥に古い物を突っ込むみたいに、私の死もやがてしまい込まれちゃう。それは、なんか嫌だな。

 そうやってダラダラ生きてきた時に、泪君と出会った。あんな感覚初めてだったよ。君は私とそっくりな人間だって、理屈じゃなくて本能がそう言っている気がした。あの時は冗談めかして言ったけど、私は本当に運命の出会いだと思った。それと同時に思ったんだ。この人なら、私の事をずっと覚えていてくれるはずだって。

 1年間、色々な事をしたよね。あの時間は本当に楽しかった。少しでも親密になる事で、私を、泪君にとってより大切な存在にしたいって打算もあったけど……。それでも、私は楽しかったよ。

 泪君、ごめんなさい。そして、ありがとう。君がいるから、私はようやく死ぬ事ができた。身勝手なお願いだっていうのは分かっている。けど、どうか君が死ぬその時まで、私の事を覚えていて。

              それじゃあ、さようなら』



「……あぁ。そうだったのか」


 あの時雫に感じたシンパシー。それはこういう事だったのか。

 携帯をしまうと、泪は薄く笑う。


(雫……君は、そうやって死ねたんだね)


 バッグから取り出した白い縄を、泪は手際よく天井の照明に結びつける。ほどけないよう複雑に、しっかり結ぶ。練習しておいた甲斐あってか、そう時間をかけずに作業は終わった。

 泪は、ずっと死にたかった。この世界に自分は不要であるという感覚が常に身にまとわりつき、その不快感と言ったら今すぐにでも死にたくなるほどだった。

 しかし、今まで泪は生き続けてきた。ただ死ぬのは嫌だ。自分が死ぬに足る理由が現れるまで死ぬわけにはいかないという、矛盾した、それでいて強い思いが心に巣食っていたのだ。

 相手を利用していたのはお互い様だ。雫は自分を特別な存在にするために、泪は2人に何かがあった時、その出来事をよりに、互いの距離を詰めていた。

 だが雫が言っていたように、その全てが打算だったかと言えばそうではないだろう。泪がすぐに雫の後を追わなかったのは、突然の彼女の死に、悲しみの方が先行し本来の目的を忘れてしまっていたからだ。そういう意味では、2人の間には確かに愛があったのかもしれない。




 月はすっかり上りきり、窓から入ってくるのは少し湿気を帯びた生暖かい風だけだ。

 

(運命の赤い糸。君はあの時そう言ってたっけ)


 運命の赤い糸は小指に結ばれているのだという。


(なら僕らを繋ぐ白い縄は……きっと生まれた時から首に結ばれていたんだろう)


 さようなら、雫。

 静寂を取り戻した廃墟の中、そんな声がした気がした。

 

 

 






 

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