光に包まれて

 九月初めの暑い日――

 大きな深呼吸に続いて白い手が白い扉を叩いた。

 しかし、反応はない。

 少女は戸惑いの顔を向ける。

 呼吸なん拍分かを数えて、ようやく、

「どうぞ……」

 惚けたようなのんびりした答えが返った。

 ……大丈夫、彼は大丈夫だ。

 少女はためらいのあと扉を引き、顔の半分を隙間にそっと差し入れた。

「こ、こんにちは……」

「こんにちは。えっと、初めまして……で、いいんだよね?」

「は、はいっ! ……わたし、瑞希です。加勢梓真の、妹の……」

 扉をもう少しだけ開いて、そこに少女は両足をそろえた。ベッドから全身が見えているはずなのに、頭はうつむけている。

「梓真……の…………妹さん?」

「は、はいっ」

「よく来たね! うん、どうぞ。入って入って」

 声に張りが戻る。以前の彼のような――

 しかし少女の足は、またためらいを見せた。

 もういちど少女は振り返る。先ほどとは打って変わり、にらみを利かせたその目には強い意志があった。

 いっしょに来い、と。

 けれど梓真はその視線を避ける。

「どうかした?」

「いえ、なんでも……」

 横目に映る少女は愛想笑いで病室へと消える。

 扉は閉まり、しん、と静寂が耳を突いた。

 ほかに人の姿はない。古びた建物だが廊下はきれいに改装され、そのぶん味気なかった。漂う消毒液の臭いにうんざりして、窓に目をる。

 まるまるとした入道雲が白くまぶしい。

「……できたんだ。良かった」

 耳をすますと二人の会話が届く。ドアが少しだけ開いていた。

「……はい……」

「……お兄さんとは…………」

「……」

「ひょっとして梓真のこと、あんまり好きじゃない?」

「……嫌い」

「えー」

「あんな奴、大嫌いです!」

 少女の声色ががらりと変わった。もはやもれてくるというレベルじゃない。そして、それを面白がる彼の顔がありありと思い浮かんだ。

「大嫌い! がさつで、頑固なくせに優柔不断で、ぶっきらぼうででくの坊で、機械オタクで、オルター嫌いで、弱っちいくせに不良ぶって、度胸もないくせにええカッコしいで……」

 立て板に水の悪口があふれ出てくる。

(にゃろ……)

 梓真は思わず拳を握った。

「今だって……本当は……」

「用事じゃ、しかたないよ。でも……」

「……」

「元気にしてる?」

「……そこそこ」

「あはは」

 屈託なく笑う声に、今度は輝矢へのいらだちが募る。まるで、あの夜のことを忘れたかのような――

「あず……兄のことより、輝矢さんです」

「あ、そうそう、梓真のこと呼び捨てにするんだってね。前に聞いたよ」

「だから兄……梓真じゃなくて、輝矢さんのお加減はどうなんですか?」

「僕? 僕は、今は……ちょっとだけ頭が痛い、かな」

 輝矢がちょっと、と言うなら相当にキツイのだろう。

「……わたし、今日はもう帰ったほうが――」

「でもそれだけだよ。それ以外はすごくいいんだ。なんていうか、まるで憑き物が取れたような……」

 言い得て妙だ。“憑き物”とは、まさに彼の頭にあった腫瘍を指すのだろう。

 でもそれは事実と違う。彼の摘出手術は不完全なまま終えたずだ。なぜなら――

「僕は大丈夫。だから、梓真のこと聞かせてよ。今までどうしてたの?」

「え、えっと大会が終わって――」

「大会ってなんの?」

「あの、だからSCの――」

「あ、ごめん。その……」

「え?」

「SCって、僕、知らないや。ごめんね、無知で」

 衝撃がシナプスを駆ける。

(……いま、なんて……SCを…………知らない!?)

 停止する梓真の思考に合わせるように、病室にも無言が続いた。

 長い長い呪縛を彼女の言葉が解く。

「……あの……やっぱり輝矢さんの話にしません?」

 揺れる声。彼女も動揺を隠せていない。

「僕? 僕は目を覚ましたばっかりで、別に何も――」

「わたし、てっきりご両親と鉢合わせすると思って、ちょっと緊張しちゃってました。それとお姉さん」

「お姉さん?」

「ええ。あ、でも、お姉さんなら大丈夫かな」

「僕に姉はいないよ」

 ふらり。

 揺れた体が壁にもたれる。彼の言葉が導く答えは一つしかない。

(手術は、予定どおりに行われた……!?)

 彼が命を長らえる唯一の方法――記憶を犠牲にするその儀式が、当初のプランのまま決行されたのだ。

 輝矢は大事なものを守るため、大人たちに挑んだ。そして――

(敗れた、ってことか)

 梓真の目を悲しみが覆っていく。なぜだろう、彼のしたことをあれほど憎んでいたのに――

「あ……ごめんなさい」

 少女の声がいっそうこわばる。

「いいよ。二人はね、午前はいたんだけど、ちょうど今荷物を取りに戻ったとこ」

「荷物?」

「教科書とかノートとか」

「もう勉強、始めるんですか?」

「いや、記憶力のテストにいるんだって、小野先生が」

「……そう、ですか」

 消え入りそうな声にかみ殺した笑いが重なる。

「いや、さっき父さんがね……うずくまって……くく」

「?」

「はやく良くなれ、俺の会社を継ぐんだ、って熱く語り出したんだ。そしたら母さん、父さんの腹に肘鉄かまして……ぷはっ」

「楽しいご両親ですね」

「うん。夫婦漫才そのまんまだよ」

 だが、そこから口調ががらりと変わる。

「……母さんは、ゆっくり回復して、それからやりたいことを探せばいいって言ってくれた。でも……」

 またしても空白の時間が始まる。

 待って、待ち続けて、ようやく彼は言葉を搾り出した。

「それを聞いてからずっと考えてた。でも、僕にやりたいことなんて……」

「……」

「あった……」

「え?」

「あった、気はするんだ。何かを、誰かと――」

 彼が言い終えるのを待つことなく、梓真はその場をあとにした。


「やっぱり……」

 背中ごしの声に、梓真は屋上の手すりにもたれたまま顔を落とした。

 落ち込んだわけではない。目が疲れただけだ。太陽は分厚い雲の向こうにあったが、空は変わらずまぶしい。

「ここ、好き?」

「……」

「……ねえ……」

「さっき……」

「え?」

「下にまこと松本がいたような……見間違いか?」

「今日、松本先生もお見舞いに来るって言ってたから……」

 日本史の松本先生は学年主任を務めている。それならまこ先生のほうがオマケだ。

「見舞いねえ……」

 うつろな会話だ。梓真は頭に浮かんだそのままをただ言葉にしていた。

 そこにぐさりと、刃が突き刺さる。

「それと、あなたのことも相談に来たんじゃない?」

「……」

「……そろそろ、学校来たら? それ着けてたら、普通に歩けるんでしょ」

 耳が痛い。梓真はリハビリを言い訳に、二学期の二日目から登校していなかった。

「注目されるのがイヤ、とか……」

 騒ぎにならないはずがない。梓真の妹が転入してきた、しかも、よりにもよって同じB組に! 休み時間のたび彼女を人だかりが囲み、A組や他の学年からも野次馬がやってきていた。

 梓真が登校拒否を続けている間も、好奇の目を彼女が一身に浴びているわけだ。梓真は少しだけ申し訳ない気分になった。

「あのね、ここだけの話、女子の間であなたの評価、上がってるのよ。男子でもそうじゃないかな」

 言葉を繰り出す彼女。だがそんなもので彼の心は晴れはしない。

 梓真を欺き、理緒に凶弾を放ってまでも守ろうとした輝矢の望みは、結局果たされることはなかった。

 先ほどの会話からすると、記憶の欠損は一部分でしかないのだろう。両親のことは覚えていて、義姉、夕乃と父親の再婚は記憶からそぎ落とされている。

 何より、梓真と力を合わせたあの日々。それをこそ守りたかった――そう思うのは梓真の勝手な思い込みだろうか。

 自分を守ろうと必死に悩み、苦しんだ輝矢は、もう世界のどこにもいない。彼にとって、あるいは幸せなことなのかもしれないが……

 そして梓真を覆う影がもう一つ――

「……おまえは、おまえだよな?」

「え? そうよ。何言ってるの?」

「……輝矢には有機AIが移植された」

「え、ええ……」

 理緒の脳は酸素欠乏による複数箇所の壊死のため、移植に不適格とされ、輝矢の手術は記憶野を含んだ腫瘍の全摘出からクオリティーオブライフを目的とした部分摘出へと変更された――はずだった。彼のもくろんだとおりに。

 しかし、それは阻まれた。

 院長室の小野医師は、面会に応じたものの、むっつりと口をつぐんだ。それがかえって確信させた。

 だとすれば――

 当初予定されていたとおりの手術が行われたのなら、何が彼には移植されたのだろう。

 理緒ではない。彼女の他に、生贄となるオルターが用意されていたのだ。

 梓真には思い当たることがあった。

「始業式の朝礼、おまえも聞いたよな。クレイと、ヴェルのこと……」

「ええ……」

 それはいわゆる“いいニュース”と“悪いニュース”として伝えられた。クレイの修復が完了し復帰する、その一方で、ヴェルの損傷はひどくメーカーへ返還されることとなった、と。

 梓真はその話に違和感を覚えた。

 損傷が頭部に集中したクレイとは対照的に、ヴェルの破損個所はボディだったはず。少なくとも頭部にダメージはなかった。既製品である彼らにとって、AI以外はただの交換部品にすぎない。

 AIこそがオルターの命といっていい。

 不具合があったとすれば、むりやり引きちぎられ、取引の材料として粗く扱われたクレイのはず。

 ではなぜ、ヴェルは帰ってこない?

「……有機AIを奪うため、オルターキラーが二体を襲った……」

「ええ、輝矢と接触のあるオルターたちを手当たりしだいにして。間違いでもかまわず……」

「違ってなかったら?」

「え……?」

「オルターキラー……広敷が、正解を引き当てていたとしたら……」

「まさか……梓真……」

 “同僚”の存在を知っているかも――と彼女を盗み見るが、その顔はただ戸惑うばかりだ。演技とも思えない。

 梓真は手すりを掴んで大きく背を反らした。まぶしさはない。目はかたく瞑っていた。

(クレイが桜を、たしか卒業までに咲かせるとか言いやがって、それから……)

 “楽しみにしててくださいね”

 記憶が、心をえぐる。

 ――失ったもの、手に入れたもの。

 ヴェルだけではない。輝矢の無くしたものは、代償以上の価値があっただろうか。

 思考の迷路をさまよう梓真に少女が割り込む。

「このままじゃ、あなたのいない学校に輝矢だけ登校することになるわよ」

 声はわざとらしくはずんでいる。彼女は攻め方を変えたようだ。振り向くと、その顔はいたずらっぽく笑っていた。

(しゃーねえ、すこしだけ乗っかってやるか……)

 心に晴れ間がさしかかる。

「んなかんたんに退院できるかよ。あれはだな――」

「先生は、見込みは充分にある、年内に回復する可能性もって。でもそれには、一人じゃ……。誰かの手助けがいる……と思う」

「俺のこと言ってんのか?」

「……わたしじゃ、ね……」

 たしかに、梓真の経験が役に立つかもしれない。しかし梓真はあまのじゃくに返した。

「テキトーな。医者でもねえくせに」

「あら、わたしぐらいの専門家はそうそういないわよ。何しろ――」

 少女は手のひらを向ける。

「わたしは……わたしたちは、自己診断用にAIスキャナーを内蔵しているの。ふつうのAIだったら異常やプログラムの流れ、有機AIなら定着率だって読み取ることができるわ」

「……アイツの頭を、読んだのか?」

「隙を見て少しだけ、ね。輝矢は順調よ」

「……」

「信じてないの? 彼の頭に手を、こうして……」

 少女はにやけて梓真にも手を伸ばした。

 よける、と思ったはずだ。

 ところが梓真は動じることなく、真剣なまなざしを少女に返した。

 赤面したのは彼女のほうだ。

「な、何よ……」

「その顔……」

「え?」

「思い出せなかったんだ、ずっと……あの地下室で再会するまで……」

「梓真、それは……」

「ずっと、いっしょに暮らしてた妹の顔なのに……」

 視床に意識が干渉し、視界が歪みを生む。

「小さい、生意気だった頃のことはよく覚えている。喧嘩もしたが、仲も良かった。なのにいつからか口も利かなくなって……」

「……」

「何か、あったはずなんだ。でも、記憶からすっぽり抜け落ちてやがる。俺は……」

「梓真……?」

「瑞希を心配して探してたわけじゃなく、この、心のモヤモヤをどうにかしたくて……。冷てえ、ダメ兄貴さ」

 映像。エピソード。音。感触。匂い。

 脳に分散されたデータは、統合され、はじめてひとつの記録となる。

 それが“思い出”――

 でももし、一つでも欠けたなら……

「拒絶……か。姉さんが言ってたことがわかったよ。こんなモヤモヤを抱えちまったら、まともでいられねえ」

「それ、違うわ……」

「違う? 何が違う!?」

「お姉さんと彼女の脳は親和性が高かった。高すぎたのよ、彼女の意識が流れ込むくらいに。だから耐えられなかった。……犠牲にしたことに」

「俺は……いや……俺には、何も……」

「……シナプスが形成されれば、いずれあなたにも聞こえるはずよ、彼女の声が」

「だが、それで姉さんは……」

「あなたにとって、それはつらいこと?」

「……きっと、俺を恨んで……」

「そんなことない」

「……」

 少女の言葉には力があった。

 その白い手が差し出されるのを、梓真はただ受け入れる。

「怖い?」

「……」

「じゃ、目を閉じて」

 梓真は素直に従った。

 それは賭だ。朋子と同じ変調が、彼の体にも襲いかかるかもしれない。

 それでも梓真は願った。

(失ったもの、手にしたもの……)

 ――

「まだ間に合うわ!」

「……?」

 くずれる彼女を抱きしめるしかない梓真を、姉の言葉が救う。

「病院には間に合わない。でも、ウチなら……」

「ウ、チ……なんのことだ……?」

「地下にまだあるの……瑞希の体が」

「……!」

「心臓の修復はできない。でも、脳を移し替えるだけなら――」

 梓真はふるえる足で立ち上がり、彼女をかかえ、走り出した。

(戻ってどうする……俺にできんのか!? 理緒の頭を開いて、脳を、瑞希の……)

 全速で駆ける足と疑う心。自分の技術、そして残酷な現実を突きつけられてなお、自分を保っていられるのか。

 古い土蔵は秘密の通路の入り口だった。そこを抜け、地下に手術室が現れる。

 幼くして亡くなった瑞希という娘――

 その身代わりとして作り出した機械人形を、人として成長させるため……母に、自分の娘と信じ込ませるには、そんな場所が必要だった。

 そして奇跡が起こる。

 梓真の手で、彼女は覚醒を果たした。


「……運命、とか思ったのか……」

「え?」

「おまえが小野先生のところへ戻った理由だよ。輝矢の……行為を受け入れたおまえが、どうしてそうしたのか、俺には、わからない……」

「……」

「おまえのケジメのつけかただったのか……。もしかして、生きていちゃいけねえ、とか思ったのか?」

「……違う」

「違う、か……」

「オルターは誰かのためにあるから……かな?」

「……」

 輝矢の命のために生み出され、梓真の目的のために戦い、輝矢の意志によって殺害されかかり、そして生き延びると、今度はまた彼のために死のうとした。

 結果、明日をもしれない体となる。

 小野医師は告げた。

 壊死を起こした脳でふつうに動け、話せていること自体が奇跡だ、と。そして回復の手だてはないことも。

 それでも、と梓真は思う。

(ずっと、一緒にいよう。一緒にいたい。俺にとって、こいつは……)

 耳の上をやわらかな手がさわる。

 ……光が、あふれた。

 まぶしい。

 あたたかい。

 なつかしい。

 まるで春の日差しのよう。これが彼女の心……

 なんて、やさしい。

 ――

 わたしも願う。

 卒業の日――

 じゃれ合いながら桜の道を下りてゆく、梓真と、輝矢と、少女の姿を。

「梓真……。瑞希はね、いま……」


                                 ……END

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alter ego 豊 名尾汽 @yyutto

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