引き金
梓真は玄関を飛び出した。
ポボスがそれを追い越す。古い小道からアスファルト、そして大通りへ。街の灯が輝きを増してゆく。ここまでは通学路と変わらない。違うのは南北に続く商店街をまっすぐ北へと向かったことだ。
(やっぱり……)
そのずっと先には小野医院がある。
「タクシーは使ってないんだな」
潜めたつもりでも、声は驚くほど響いた。
ポボスが振り向く。
「到着は俺たちとどっちが早い?」
「……彼女。ポボスだけなら追いつくわよ」
「くそっ!」
梓真は足の回転を速めた。途端に補助具の連動が損なわれ、倒れかける。
「お姉さんからの忠告。ガンバリもほどほどに。あっくんはいっつもそう」
「ふん」
「追いつかなくてもいいじゃない。最悪、病院で……あ」
「なんだよ?」
「曲がった」
「どっちに?」
「西」
「西って、あんななんもねえ住宅街……」
「何もないこともないでしょう。アレがあるじゃない」
「……あ」
「とにかく、行くしかないわ」
「ああ、行こう」
街に人の姿は皆無といってよく、ポボスはただ一つの反応をまっすぐに
夜空が飲み込む四条の光は、街のあらゆる場所から眺めることができた。梓真が思い出せなかったのは、目障りな存在そのものを否定してきたからだ。
とにかく、そこが理緒の目的地だった。
遠く日本海へと流れ込む川はゆるやかで大きい。それを渡す平凡な橋に公園が作られたのは、川がかつての四市を分ける境界の一つであり、橋はその中心にほど近いからだ。
南側の歩道は広い舗装を施され、中央には噴水が設置された。モニュメントをぐるりと囲んで発射される無数の水は、幾通りかの複雑な絡み合いを見せつけたあと、宙に四つ、太い束を作る。それは夜も休むことなく、むしろ日が暮れたのちに高くそびえ、四色の強い明かりに照らされた。
碑にはこうある。
“これは星の光と人の作り出した光、自然と文明融合の証である”――と。
しかし星はかき消されていた。強すぎる照明が夜天を覆って、背後の街明かりをもか細くしている。
あるのは、漆黒に昇る四つの束だけ。
けれど、今だけはその強烈さに救われた。目に痛いほどの光は、遠目にも彼女をくっきりと浮かび上がらせている。
他に
と、そこへ――
「よかった。来てくれて」
彼女ではない。少年の声だった。
「来ないと思った?」
「いや……」
「約束、だもの」
「うん」
光の前にゆっくり、もう一つの影が姿を現す。
見覚えのあるその輪郭は梓真を納得させた。
彼女には会いに来るだけの理由が、彼にはその資格がある。
だが、かすかな違和感もあった。
「何か……ある?」
「このこと、梓真には……」
「わかってる、うまくやるよ。……それだけ?」
「それだけ」
「梓真……」
傍らのポボス――朋子が耳打ちする。
「何か変じゃない?」
言われるまでもない。胃を握られたような気色の悪さがこみ上げてくる。
しかし行動に移すことはできなかった。尾行の挙げ句の、逢い引きの盗み見。その後ろめたさが二の足を踏ませる。
二つめの人影が形を変えても、梓真は物陰に潜み続けた。
まさか、という思いで。
銃を向けている――影の構えはそうとしか見えなかった。がっちりと伸ばした両腕は反動に備えている。
胸の鼓動が響きを増す。それでも――
(ありえない……そんなことは……)
「じゃあ……理緒……」
「さよなら、輝矢」
せせらぎはかき消え、虫の声も止む。
夜気を裂いたその音は、梓真の知る銃声とは違っていた。だから、またしても飛び出しは遅れる。梓真がアスファルトを蹴り上げたのは、理緒が大きくよろけたあとのことだ。
そのあいだにも、咆哮は続く。
「輝矢ぁ!!」
意気込みほど足運びは速まらなかった。それどころか、転ばなかったことが奇跡といっていい。
噴水が花開き、彼のガンバリを称えて迎える。梓真はますますこれが嫌いになった。
二つの影も姿を変えている。
輝矢は右手を押さえ、ポボスと重なり合っていた。とっくに追い抜かれていたらしい。
「梓真……」
「……」
その手にもう銃はない。それだけ確認して、梓真は理緒の下へ踏み出した。
地に血を散らし、力なく横たわっている。真っ赤だ。辺りも彼女も。
銃痕は頭部に集中し、抱き上げると、目の片方が抉られていた。
「……彼女を、つけてきたんだね」
「輝矢……」
「……」
「なんで……なんで!」
梓真の言語野は混乱の極みにあった。
「……なんで……? そうだな……」
「……」
混乱から、だけではない。言葉を待つだけの絆が二人の間にはある。少なくとも梓真は、まだそう信じていた。
それは報われ、仰向けの友が言葉をつむぐ。しかしその意味はまるで理解できなかった。
「理緒はね、いなくなる運命だったんだ。僕がこうしなくても」
「……なんで、何を……わっかんねえよ!」
「彼女の脳が僕に移植される――そういう予定だから……だったから」
梓真は初めて顔を上げた。
「おまえの手術って……」
「そ。僕にできた新たな腫瘍は、前頭葉のずっと奥。発見された時には取りきれないほど広がっていて、脳幹を侵していた。先生に言われたよ。取り出せば生きていけない、……普通なら、って」
「……なん……それ……」
「だから、移植手術さ」
「……だって理緒は……オルターで……人の……高校生の……」
「違うよ、梓真。……人とそっくりのオルターの体。……それが有機AIの移植に重要だったんだ。彼女の人のフリは、移植後の、いわば予行演習だったのさ」
「……わかんねえ……」
鮮血に染まった肢体へ梓真は目を落とした。
輝矢はひと息おいて、また言葉を並べる。
「調べたんだ。有機AIの移植は、これまでに四回連続で失敗してる。命は長らえても、寝たきりだったり、意識が戻らなかったり。……それで、偉い先生たちは考えたんだ。最初に成功した一例に
「……」
「その成功例に使われた有機AIは、オルターの体に人とそっくりの外見を備え、そして、被移植者と非常に近しい間柄だった……んだそうだよ」
激しい衝撃が梓真を襲う。
「嘘じゃない。僕のハッキング技術は知ってるだろ? いくつかのクラウドに同様の資料があった。さすがに個人名は隠されていたけどね」
「……」
恐怖を抑え、梓真は言葉を返した。
「じゃあ理緒は、おまえのためにこの街に、学校にやってきて……」
「僕に近づいた」
「じゃあ! なんで殺す!?」
見開いた目が、輝矢を見据える。
「それは……」
「それなら、理緒はおまえの救世主だろ、違うか!? 殺す理由なんかかけらもねえだろうが!!」
「手術を中止させるため……」
「……?」
「僕はこの手術を拒絶する」
「だったらそれを先生に言やあいいだろう! 同意書に署名なしで――」
「サインはしてない!」
「してないって……」
「両親が決めた! 未成年だからって! 混乱してる、腫瘍のせいで判断力をなくしてるんだろうって!」
「……」
「だから、僕は……」
「……だから、ずっとこうする機会を待ってたのかよ」
「最初は気づかなかった。崖で君を助けたあの時までね」
「それから、ずっと……!」
「……」
「SCに出場させて、殺そうって――」
「それは! ……違う……」
「嘘つけ!!」
そこに梓真の腕を握る感触があった。
「理緒……?」
「……梓真、違うの……」
「無事で……生きてる……のか?」
「出場したのは、わたし自身の意志……。わたしたち、協定を結んだの……。いっしょに、梓真を優勝させましょう、って」
「……」
「信じて……輝矢を」
「く……」
信じたい。でも梓真には、今の彼がわからない。わからなくなっていた。一番の友達だったはずなのに――
「言い訳はしないよ。僕は、僕のために生み出された理緒を、僕のために破壊しようとした。それだけが真実さ」
「輝、矢……」
理緒は、残された輝きを少年に向けた。
「無事なんだね。残念だよ」
そのセリフに、梓真は歯を軋ませる。
「……わたしの頭、本当に特別製みたい……ね。これほどとは、わたしも知らなかった」
輝矢はおどけて、両腕を広げてみせる。
「お手上げ、か、拳銃が効かないんじゃ。こっそり持ち帰るのはそれが精一杯だったんだ」
銃はすぐそば。理緒の白い手がそれに伸びる。輝矢に取られないため――梓真はそう思った。
すっ、と重い銃を拾うと、暗い口をじっと見つめる。
「理緒……?」
「でも、急所ならわかる。わたしの、脳を生かすためだけの心臓……」
銃が逆向きに握られ、親指が引き金に掛かる。
「理緒! 何して――」
取り上げようにも銃口はびくともしない。血で染め上がった胸に押し当てたまま――
「やめろ! 嘘、だよな……」
「約束したの。もし大会を終えて無事に帰ってきたら、こうするって」
「理緒!! り……」
轟音が公園を揺さぶった。
反響の中、足下にペットボトルが転がる。これがサイレンサー代わりだったのだろう。
「――、――!」
叫んでいるはずなのに声が聞こえない。彼女の声も同じだ
「――! ――!!」
「――ず、ま……」
「理緒!!」
その目にもう、あの強い輝きはない。
梓真は真っ赤な体を抱えた。
「待ってろ! 今すぐ病院へ、先生なら――」
「ムリ……間に合わない」
(なんでそんな顔ができる……?)
腕の中の笑みを梓真は呪った。
「血液の供給は……完全に止まったわ。五分で……脳細胞の壊死が始まる。人間と一緒……」
「そんな……ダメだ……」
「梓真……。輝矢を……恨まないで……。彼が守りたかったのは……あなたとの…………」
「り……」
梓真は叫ぶのも忘れ、星のない空を仰いだ。
川面の音が戻るころ、輝矢の姿も消えていた。
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