朋子
病室を出た直後だった。
「……もう、こんなになって……」
「母さん……」
ふい打ちの抱擁に、梓真は戸惑う。化粧気のない母の匂いが記憶から呼び起こされた。
抱き返そう。――よほどそう思ったが、すると永遠にこのままのような気がして、梓真はおそるおそる細い肩を押し返した。
それが思い違いをさせてしまう。
「ごめんなさい。痛かった?」
「いや、んなこたねえよ。……ええっと……」
「先生から連絡を貰って! 梓真さん……本当に、良かった……」
「母さん……」
「タクシーを待たせてあるの。さ、帰りましょう」
「母さん、実は――」
脳裏に理緒の顔が浮かぶ。
――彼女を連れていっては駄目だ。
偽りの幸福にピリオドを打つのは、今、この時をおいて他にない。
そう、理性は訴える。
けれど感情が否定した。悲しむ母を見たくない。
(なんて切り出しゃいい……?)
しかしそれは杞憂に終わる。
「さあ、瑞希ちゃんも」
「はい、お母さん」
振り向くと、理緒が笑顔を向けていた。
「り――」
思わず飛び出そうになる彼女の本当の名を、梓真はあわてて飲み込んだ。
「二人とも、本当に心配させて……」
夏休みの昼下がり。それが違和感を与える。車窓に流れる商店街には、徒歩の家族や自転車を漕ぐ小学生たちがいた。
変わらないのは、そこで働くオルターたちだ。
接客、給仕、清掃、運搬、警備。とっくに街の一部と化している。特別なことでもなんでもない。
“千億の個”。人に奉仕し、進化を促す者たち。玲亜の言葉を信じるなら、人をゆりかごで揺らす彼らは、すでに人の先を行く高次の存在となっている。
……不安が
本当に、梓真と理緒を諦めたのだろうか? 何かがトリガーとなり、また狙ってくるのでは?
するとまた別の疑問が浮かぶ。
梓真たちを見つけたのは広敷教授であるという。つまり、彼ら千億の個のネットワークをもってしても、有機AIの製造元や製造手法、送り先を見つけられなかった――ということになる。
だとすれば、外部からの干渉を完璧に閉ざす秘密の研究所が存在するのだろうか。
それなら――
(……親父はそこにいる。たぶん瑞希も)
思いを巡らせる梓真。
その目に、振り返った母の顔が映る。
「ねえ、やっぱりお買い物していかない?」
「母さん……」
「本当に、なんの準備もしてないのよ」
「母さん、疲れてるんだ」
「でも……」
(これくらいのわがままは、高校生としてまあ適当だろう)
……梓真は、母に対していつからか、計算づくで子供を演じるイヤな子供になっていた。
それに疲労だけではない。輝矢との会話が心に苦みを残していた。
「母さん――」
「お母さん、わたしも……」
理緒が割り込む。
「え?」
「わたし、いつものお母さんのごはんが食べたい。ごちそうなんかじゃなくていい」
「……でも、それじゃ……」
「ね、いいでしょ、お母さん」
「う……ん……。あなたまでそう言うなら……」
(ふう……)
ほっとする梓真。
ともかく今日はゆっくりできる、あの家で。そう思い、また街並みを眺めた。
(間違いない。俺は帰ってきたんだ……)
脳にセロトニンが溢れる。
幸福を心の底から感じた瞬間だった。いずれ訪れる終幕も忘れて――
病院で理緒との別れを考えたのは、家庭の事情からだけではない。小野先生がこれ以上の奔放を許さないと思えたからだ。無許可で危険な大会に駆り出され、キズモノになって戻ってきたのだから。
彼女の正体、目的がなんであれ、高価で貴重なオルターであることは間違いない。人として学校に、社会に溶け込む――いずれ壮大な実験・研究のために生み出されたのだろう。
梓真だけが救助されたことにすれば、ともかく母に対して言い訳は立つ。
「そんなことしたら、あなたがお母さんに責められるでしょう?」
「まあそうだが、それは――」
「それに、嘘はもうこりごり。これが最後」
受け取った母宛ての手紙を裏返すと、しっかり「恩田理緒」と記されていた。
「なんて書いたんだ?」
理緒は足をスニーカーへ押し込み、だめ押しとばかりにつま先を土間に叩く。
「わたしはあなたの娘じゃありません。騙してごめんなさい、って。……本当は直接言えればいいんだけど……」
それはそれで面倒を引き起こすだろう。巻き込まれただけの彼女に、これ以上の負担を押しつけるわけにはいかない。
これは本来、梓真の役目なのだから。
「……本当に行くのか?」
「ええ」
「聞いてんだろ? 明日……いや、もう今日か、輝矢の手術なんだ。せめて、そのあとに……」
「……残念だけど」
「……ポボスの塗装を手伝ってほしかったんだがな」
感情が馬鹿なことを言わせる。
「一人でやんなさい。あ、輝矢に手伝ってもらったら? 退院を待って」
「……それもいい、か」
「ね」
「……」
「世話になったわね」
「……ああ」
「でも、それ以上に世話してあげたでしょ?」
「ああ、もちろん」
梓真から彼女に与えたものなどない。一方的にもらっただけだ。
「じゃあね」
「……じゃあ」
あっさりとした彼女につられ、梓真も軽く手を振った。
――想いは、微塵もない。
引き戸が閉じ、磨り硝子の白い影も消える。
心のうちには、笑顔と、梓真の惹かれたあの強い瞳が焼き付いていた。
別れってこんなもの?
きっと、なんでもなかった……彼女と過ごした二ヶ月という時間も、老人になって懐かしく思い出すだけの、甘く、苦い記憶の添えものに過ぎなかった。
……本当に?
(……楽しかった。それで充分だろ?)
梓真は下駄箱に手紙を置き、サンダルを突っかけ、左手で鍵を掛けた。怪我のない右の手に感覚が戻らないのは、皮肉というほかない。
「さて……」
彼女とはこれっきり。夜が明ければ面倒が目白押しだ。小野先生には毎日の通院を厳命されているし、輝矢の手術には絶対に付き添いたい。
それに、理緒の手紙。母に真実を告げるという一大事が待ち受けている。
「ま、なるようになるさ」
自分に言い聞かせた。そう思い込まなければ一睡もできないだろう。寝坊は許されない。
母を起こさないよう、廊下の明かりは点けていない。きびすを返した梓真は、玄関のスイッチに痛む左手を伸ばして階段だけを照らす。
――すると、何かが廊下に浮かんでいた。
黒い何かが……
「うああっ!」
「シー……」
音? いや声だ。それも聞き覚えのある――
梓真は腰を抜かしそうになりながら、あわてて口を押さえる。
「お、お、お、おま、それ……」
ぼんやりと浮かんでいたのはポボスの首、それだけだった。しかし梓真には、頭部を取り外した覚えも、浮遊機能をつけた覚えもない。
だが、やがて――
首の下に輪郭が現れ、ついには記憶どおりのニューポボスへと変貌した。
梓真の呼吸がようやく戻る。
「び……っくりさせんなよ……。なんだよ、それ」
「カメレオンボディー。シリウスノステルス迷彩。コノ機能、ツイサッキ発見シタ」
ポボスの体が、今度はゆっくりと景色に同化してゆく。元からのポボスの頭だけが取り残されていた。
「背後の映像を体に転写してんのか、俺に向けて。なるほど、興味深いな。……って、今見せる必要ねえだろ。おまえには母さんを――」
「オ母サン、グッスリ寝テル」
「だからって――」
「話、聞コエタ」
「あ?」
「塗装、イラナイ」
ポボスはボディーカラーを一瞬で銀色から黒へと変える。
「ああそうかい」
梓真はそれを無視して、階段へと足を向けた。手紙も忘れない。
ところがその行く手にポボスが立ちふさがる。
「……なんだよ?」
「話は終わってないわ」
ボイスチェンジャーがオフになる。真面目な話を始める合図だ。
梓真はうんざりしながらも、
「……疲れてるんだ、座らせてくれ」
ため息まじりにそう言うと、彼女のリアルアバターを押しのけ、階段に腰を下ろした。
「話……話か。俺もちょうど、聞きたいことがあったんだ」
「なに?」
正面にポボスも腰を落ち着ける。
「あの洞窟での、六角と玲亜とのやりとり。あれ……」
「直接は聞いてないわ。通信は遮断されてたんだから」
「ああ、だよな」
「でも、センサーはしっかり捉えてたみたいね」
「じゃあ……」
「ポボスのメモリーには残ってたわ。漏らさず、ね」
「なら……教えてくれ! 姉さんが一時、回復に向かってたってのは本当か!?」
「……今のあなたよりは動けていたわ」
「それでどうして、また……」
「自由が効かなくなったのか?」
「……」
「それを、知りたいの?」
「……そうだ」
「……拒絶したから」
「なんでだ!? 拒絶反応が出ないのが有機AIのウリなんだろ?」
「体じゃなく、心が、よ」
「わかるように言えよ」
「……言えない」
「なんで!?」
「……あっくんには、まだ回復の見込みが残ってんのよ。それを台無しにしたくない」
「わっかんねえよ!!」
「シー! 静かに。お母さん、起こすつもり?」
「……」
「とにかく、これ以上言えないわ。この話はこれで終わり」
「姉さん!!」
「……」
釈然としない。が、粘っても、無駄に骨を折るだけだ。姉の性格を梓真は知り尽くしていた。
遠く関西の地にいても、その姿がありありと浮かぶ。
そのまま外出もできそうなラフな部屋着、頭には脳波スキャナーのないごくありふれたヘッドセット。暗い部屋でモニターの前に座り、ポボスの複雑な操作を右手一本で行っているのだろう。
大脳新皮質に保存されたはずの事故の瞬間を、梓真は再生することができない。防衛本能のなせる技だろう。ドライブレコーダーの映像もついに見せてもらうことがなかった。信号待ちをしていた姉のクルマが追突されたことも、その時、前のトラックに積まれた鉄筋がフロントガラスを突き破ったことも、あと聞きの伝聞に過ぎない。
記憶にあるのは、真っ白い部屋で目覚めた自分が右半身を動かせなかったこと。見舞いに来た姉が左半身を不自由にしていたこと――それだけだ。
「それより、あっくんのことよ」
「俺の……なんだってんだ」
リハビリの末、姉は不自由なまま先に退院すると、梓真だけが体の自由を取り戻した。
それを見届けて、姉は関西の大学へと復学する。心に傷を負った彼と母を残して。
その決断の裏にどんな意味が込められていたのか知るすべもなく、梓真は朋子をただ薄情と決めつけ、恨んだ。今でも恨んでいる。こうして日々、見守ってくれているにもかかわらず、その苦悩も知らず――。
そんな影をおくびにも出さず、姉は明るく言った。
「まったく、歯がゆいというか、聞いてらんなかったわ」
「何が?」
「さっきの、あなたと理緒ちゃんのやりとりよ」
「耳ふさいどけよ。てえか、盗み聞きしてたんだろうが」
「あれがお別れ? あれでいいと思ってんの?」
「……」
「あそこは、抱き寄せて熱いベーゼよ」
「アフォか」
どちらが寄っていったのか、引き出しのワードが真琴に似ている。友達とはそういうものだ。
「そうかしら?」
「引っぱたかれんのがオチだ」
「理緒ちゃんは、待ってたかもよぉ」
「んなこと――」
「ま、嫌がりはしなかったと、お姉さんはみてるんだけど」
「……」
「せめて、想いはちゃんと伝えたら? 今なら間に合うわ。急いで追いかけて――」
「んなの、自己満足だろ」
「そんなこと――」
「姉さん……」
「何よ?」
姉弟の口調も似る。
「理緒は、この先どうなるんだろうな……」
「どうって、研究施設に戻って、実験データを取るんじゃないの? なんの研究かまでは想像もつかないけど……」
「……廃棄の可能性は」
「そんな……あんな高価な体、簡単に処分したりするわけないわ! 研究者ならもっと――」
「じゃあなんで、SCなんかに出場するって言い出したと思う」
「そりゃ、あっくんのため……」
姉の歯切れが悪くなる。
「そうだよ、貴重な体だ。実験は終わったのかもしれねえが、あんな破壊上等の大会になんで出る気になったのか……」
「それで、廃棄? データを取り終えて、彼女は用済み?」
「ああ。だから……」
「だから?」
「俺の一方的な気持ちなんて、なんの意味も、価値もねえんだよ」
「もしかしたら処分されるまでの時間かもしれない。でも彼女が、あなたを受け入れてくれたら――」
「それこそ重荷にしかなんねえ。未練を残すだけの。……違うか?」
「……」
「これからいなくなる身にすりゃあ、んなもん――」
「違う、と思う」
「違う? どう違うんだ?」
「……たとえ世界からいなくなるとしても、あなたの想いは決して重荷にはならない。それは彼女の生で得た糧で、宝物よ」
「……知ったふうなことを。死んだこともないくせに……」
「お互い、死に損なったじゃない」
「俺は……」
強がりを言おうとして、言葉に詰まる。痛みと不安から、病院のベッドでは長く眠れない夜を過ごした。そんなことは姉にもお見通しだろう。
「それにね……」
「……?」
「それにね、自分のことだけじゃない、もういない、もう戻らない人のことを考えるの。もし最期に声を掛けることができたら、どんなに嬉しかっただろうって。まして、それが重荷……なんて……」
「そりゃ……誰の……」
「……」
「……いや、いい」
思い当たるのは一人だけ。問いつめる余裕は今の梓真にない。彼女に刻まれた傷の深さなど、想像したくもなかった。
「大事なのは嘘のない、本当の気持ちよ」
「……気持ち、俺の……」
「平静を繕ったり、本音を隠したり……そんなの、彼女は望んでない。それに……」
「……」
「あなたはどうしたかったの? どうしたいの? それが一番じゃない?」
「俺、は……」
「今、胸に詰まってる物を、一生抱えていく気?」
(俺の胸の、理緒への想い……)
今を逃せば、伝える機会は二度と訪れないだろう。
心のまま、足が梓真を立ち上がらせた。
「あっくん」
「……今から、見つかるかな」
「“この子”の能力をお忘れ?」
「そうだった」
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