最終話 〈19〉

〈19〉


 性急な朝がボクらを急かしていたけれど、雨上がりでぬかるんだ大地によって『解放の子供たち』の三輪トラック三台は足止めを食っていた。まばらに灌木が転がる荒野のただ中だ。地平線に近いところに、小高い盛り土を成された線路が寝そべっている。

 教会は上も下も、銃弾だらけだった。悲鳴は意外と少なくて、運悪く巻き込まれた一般市民のものくらいだった。もっとも、夜明け前から町をうろついている一般市民は教会側にいわせれば不信心者らしく、教会兵士たちは彼らを『解放の子供たち』と区別なく撃っていたようだ。

 これ以上無関係な人々を巻き込むわけにもいかず、ボクらは早々に町を脱していた。朝月の説明によれば最初から、作戦に参加した『解放の子供たち』の全員が警備の手薄な隣町の駅から各地に散る予定になっていたそうだ。

 小集団に別れての逃避行だから、ボクと朝月、それにヒナコを入れてもこのグループはせいぜい二十数人といったところだ。

 トラックの荷台には景気よく泥が跳ねていたけれど、まだ目を凝らせば町の象徴たる教会の大きな尖塔が窺えた。

 もっとも、町の外れに用意されていた逃走手段を見たときから、ボクにはこの惨状が予想できていた。ボクだって、だてに町から町を渡り歩いているわけじゃない。

 でも雨にぬかるんだ荒野を往くことを危惧したわけじゃない。どちらかといえば、乾き切った町ですら客を三人も乗せれば息も絶えだえになる三輪トラックに、銃を抱えた人間を積んだ荷台を引かせようと思い付いたことこそが、問題だろう。

 大地にめり込んだタイヤを掘り出そうとする『解放の子供たち』を見ながら、力仕事を免れたボクとヒナコは三輪トラックの荷台に並んで座っていた。

 ボクらを積荷としたトラックは平和に地表をつかんでいるのに、ボクら以外の同乗者は泥に捕われたトラックを救出する作業に行ってしまっている。肩を痛めて右腕を布で吊っている朝月でさえ運転席に着いて、後方を窺いつつアクセルをふかしていた。

 不思議なことに、人間世界では怪我人よりも女性が大切にされるらしい。皮肉な話だ、と唇を歪めて、ボクは隣で蹲るヒナコの背に視線をやる。

「どうして言わなかったの?」

「え?」

 唐突な問いかけに驚いたのか、ヒナコの肩が大きく震えた。いや、初めから震えていたのかもしれない。折りたたんだ膝と肩から吊るした銃を両手で抱えた彼女は、町を出てから一度だってボクを見ようとしなかった。吹きさらしの荷台が寒いのかとも思ったけれど、彼女は分厚い防砂ジャケットを羽織っている。

 湿気た寝巻一枚のボクのほうが余程寒々しい恰好だ。もっとも、体の深い部位に負った傷を修復している真っ最中のボクに、寒暖を感じている余裕なんてない。

 ボクはヒナコから眼を逸らして、三輪トラックの荷台に並べられている銃を見る。泥にはまった仲間を掘り出している男たちが置いていったものだ。

「焦の、ことだよ。朝月は知らなかった」

 教会の稀人狩りから逃れた地下下水道で、ボクとシュンを撃った男だ。限りなく敵に近いけれど、あの段階ではまだ朝月の仲間であったあの男を、ボクもまた撃っていた。

 それなのに朝月は、あの男の話題に一切触れなかった。話がこじれて時間をとられることを恐れた故に知らないフリをした、という反応じゃなかった。でも彼は、ヒナコの居場所を知っていた。つまりヒナコは、ボクが焦を撃った後に朝月に会っている。言葉を交わしている。朝月だけじゃない。他のメンバーからも、ボクは焦の件を問われていない。

 ヒナコが、焦とボクが撃ち合った事実を伏せているからだ。

「ああ」ヒナコはため息で頷く。「言えなかっただけよ。戻ったら、もう稀人狩りが来てて」

「それだけ?」

「他になにがあるの?」

「ボクへの同情、とか」

 ヒナコは鋭く息を吸い、けれど強い呼吸はボクを視界の端に捉えた辺りで曖昧な抑揚へと変化する。

「違うわ」と続く声が、荒野を渡る朝風にさらわれていく。「それは、ない。絶対に」

「絶対、ね」

 ヒナコは抱えた膝の間に額を埋めた。きっと頷いたのだろう。

「あなたに同情なんて、しない」

「本当のところ」ボクは彼女の項の細さを間近に見下ろす。「焦の死は、君にとっても好都合だったんだろ?」

 勢いよくヒナコが顔を上げた。眉を寄せて眼を見開いて、半開きの唇からヘビのように威嚇の風音をもらす。

「最初は疑いもしなかった。でも、焦はボクを『ノーベンバー』と呼んだ。どうして彼がボクの、ヘレブでのコードを知っていたんだろうね」

「それは……きっとユエさんが」

「朝月はボクをノーベンバーとは呼ばない」

「なら所長が」

「うん、彼女は知っていた」

 緩みかけたヒナコの呼吸を見透かして、ボクは「でも」と最小限の毒を注ぎ込む。

「焦は所長を脅していた。あの腕を斬り落としてやるって喚いてた。そんな二人の間で情報交換が成立する? ならもっと、よっぽど可能性の高い相手がいる」

 ヒナコの指先が首元を彷徨い、死を司る女神から逃れるための黒いリボンをつかみ締めた。

「君だよ、ヒナコ」

 ヒナコは、かわいそうなくらい体を強張らせていた。ぞうぞうと濁った呼吸音が、辛うじて「どうして」と紡ぐ。

「……どうして、わたしが……」

「星大哥」

 不吉な死神がその姿を現したように、ヒナコが凍りついた。空を睨む眦にかすかな涙が浮かんでいる。

「アララトに踏み込んできたあの男は、ノーベンバーというボクのコード知っていた」

 アララト教会から少し離れた診療所にまで、あの男が撒き散らす落雷めいた銃撃音は届いていた。そして慌てて駆け戻ったボクらは、硝煙と血煙の奥で喚き散らすあの男を目撃した。歯を剥いて、人を喰いそうな形相でボクのコードを叫ぶ、人間を。

「それなのに、あの男はボクの顔を知らなかった。ちぐはぐなんだよ。ボクはアララト教会で、一度も自分のコードを名乗らなかった。アララトだけじゃない。それまでだって、一度だって外で自分のコードを口にしたことはなかった。でも、じゃあどうして、稀人がアララトに潜んでいると密告した奴は、ボクをノーベンバーだと特定できたんだろう? どうしてあの男に、あいつがノーベンバーだと囁かなかったんだろう? 理由はね、一つしかない。密告者自身があの男を怖れて、近付けなかったんだ」

 ヒナコは応えなかった。呼吸をつなぐ唯一のものが銃の肩ベルトだとでもいうように、彼女は首のリボンを捨ててそれに縋る。

「密告者は、ボクの顔とコードの両方を知る、ヘレブの関係者だ」ボクは弾が尽きている自分の銃を引き寄せる。「君、だよね?」

 弾かれたようにヒナコは銃を構えた。荷台に座り込んだまま、隣のボクを見ることもなく正面に広がる荒野を狙っている。まるでそこにアララト教会で虐殺を繰り広げる『解放の子供たち』がいるように、彼女は銃口で左右を探っていた。

「どうして……、どうして、わたしが……。ナミコが、殺されたのに……ナミコを殺して連中を、わたしが……」

「そうだね。だから別の方向から考えてみたんだ。君がアララトからボクを、稀人を追い出したかった理由だよ。君はこの町で、ボクが来てから『解放の子供たち』がおかしくなったと言った。稀人に感化されている、と。当時の君は、アララトでも同じ危惧を抱いた。慈雨・ナミコのようにアララトの人たちが稀人を受け入れ、その存在を隠さなくなることを。アララトに稀人がいるという噂が教会を出て、町に流れ出すことを。そして誰が稀人なのか特定できないまま教会が軍用探知犬を連れて突入してくることを、一番恐れたんだ。だからボクのコードだけを、密告した」

 彼女自身が項垂れるように、ヒナコの銃口が下がっていく。そして声が、落ちる。

「あなたが、あの日いなくなったから……あなたさえ、あそこに留まってくれていれば、ナミコは死ななかったのに」

「子供たちを犠牲にしても自分の居場所を護りたかった?」

「あなた一人で済んだはずだったのよ」

「それなら確実に、自分の手でボクを捕えて引き渡すべきだったんだ。自分の手を汚したくなくて、そのせいで君は自分の大切な人と場所を失った」

「あなたに!」ヒナコの激高が、背を丸めた彼女の腹に吸い込まれていく。「言われたくない! 自分の手を汚したくなくて、ですって? あなただって、ただ逃げ回ってるだけじゃない! 誰かを犠牲にしてでも自分の幸せを護りたくて、なにが悪いのよ。あなただって、ユエさんだって、みんなを裏切って自分の居場所を護ってるじゃない!」

「だから、ボクがヒート・ミールで働いていると密告したんだね」

 ヒナコはもう、これ以上小さくなれないほどに四肢を畳んでいた。荷台に擦り付けられた額が前髪を巻き込んで嫌な音を立てている。砂だらけの荷台に掻く彼女の爪は、それでもまだ銃に触れていた。

「朝月がボクに気付けば『解放の子供たち』を、君の今の居場所を、捨てると思った? それとも単純に、アララトで殺し損ねたボクを消し去りたかったの?」

「……ち、がう」

「だろうね」

 あっさりと頷いたボクに、ヒナコは強張った顔を上げた。

「初めて会ったとき、君はボクの頭を撃った。射撃練習では胴を狙っていたのに。君はボクを見た瞬間、ボクがアララトから逃げたノーベンバーだと気付いたんだ。だから心臓を壊さないように、顔を撃った」

「……偶然よ」

「ボクを朝月に逢わせてくれて、ありがとう」

「……っがう! 違う! わたしは! あなたのことなんて考えてなかった。ただ、どうしてナミコが殺されたのか、それが知りたかっただけよ。あなたがどうしてナミコを見殺しにしたのか、訊きたかっただけ……」

「それでも、君のお陰で朝月と逢えたことは事実だよ」

 ヒナコは銃に額をつけて、不明瞭な言葉を漏らす。三輪トラックを押す男たちの怒声に紛れてしまったけれど、それが謝罪だということは理解はできた。

 だってボクらは、同質だから。

「正直、今でもボクは君が稀人だと確信できていないんだ。ここに漂う臭いが君のものなのかボクのものなのか、ボクの服についた儀大人の血からくるのか、わからない。いつだって、君は巧妙に自分の臭いを隠していた。下水の悪臭だったり所長の腕だったり」

「……いつ、気付いたの」

「確信したのは、この三輪トラックに乗ってからだよ。『解放の子供たち』の誰も、ボクに焦のことを訊ねない。だから、その理由を考えて、この結論に至ったんだ。でも」

 ボクは無為にボクの銃の安全装置をいじる。

「本当はもっと早く気付くべきだった。違和感はもっと前からあったんだ。『解放の子供たち』の事務所に探知犬が来たのはボクのせいかと思ったけれど、朝月はボクが来る前から何度か踏み込まれていると教えてくれた。所長に反応しているんだ、と彼は言ったけど、軍用探知犬は石の心臓を持つ稀人にしか反応しない。彼らの鼻は、所長の腕から溶け出た程度の稀石には反応できないはずなんだ」

 ヒナコは唇を噛みしめて銃を手放した。両手の指先を組み合わせて、祈る。

 ごぼっ、と泥に絡められた三輪トラックが化石燃料の黒煙を吐き出す音がした。荷台と連結されたお尻を降って暴れている。苦しげな唸りは軍用探知犬のようだ。

 反射的に風向きを確認した。いい風向きだ、ボクらは町の風下にいる。

 もっとも、『解放の子供たち』の全員が本気で逃走しているわけじゃない。稀人狩りに踏み込まれて散りぢりになった『ネズミの煙突掃除』のメンバーだって、教会の襲撃には無関係だと主張するように、昼には何事もなかったようあの事務所に出勤する算段になっているらしい。

 いつも通りの生活を装うために、夜が終る前にいつもと違うメンバーを町から追い出す。

 そのためだけの強行軍だったから、濃くなる朝の匂いを嗅ぎ取った男たちには焦りが滲みはじめていた。三輪トラックを叱りつける語調がどんどん荒くなっている。

 本気で逃げるべきボクはといえば、この逃避行が遅々として進んでいないことを歓迎すらしていた。

「わたしが」とヒナコが祈りの下から声を押し出す。「憎くないの? わたしのせいで、二人が」

「わからない」

 ヒナコは緩慢に顔を上げた。思わぬ方向から呼びかけられた仔ネコのように目がまん円になっている。

「本当に、わからないんだ」ボクは苦笑の下から呟く。「今はまだ、わからない。でも」

 そっとヒナコの背中に視線を送る。仄明りを地上に注ぐ星のように、黒い服のあちこちから彼女の肌が覗いていた。

「これだけは言える。あのとき、あの下水道で、シュンを庇ってくれて、ありがとう」

「あなたは……ユエさん以外、どうでもいいの?」

「君が慈雨・ナミコに執着したように?」

「ナミコは……家族になってくれたのよ。わたしが死んだ妹に似ていると……たとえお下がりだってよかった。ヒナコという名をつけて、呼んでくれた。『おはよう』や『いってきます』や『ただいま』って言葉を教えてくれた。たくさん、いろんなことを教えてくれたわ。コードしか持たなかったわたしが、ただの実験体だったわたしがヒナコに、人間になったのよ」

「君、ひょっとしてボクより高位のナンバーを持っていた?」

 ヒナコは二呼吸、視線を彷徨わせる。そして、祈りを解いた手で再び膝を抱き寄せた。

四番目エイプリル

 ずいぶんと高位じゃないか、と唇の端が皮肉に歪んだのを自覚した。四番目なら、銃創なんて穿たれた端から塞がっていくだろう。ひょっとしたら体内に食い込んだ弾だって、盛り上がった肉が勝手に排出してくれるのかもしれない。

 だから、ボクが「エイプリル」と口を開いたのは、ただの嫉妬からだった。ボクと同じ恐怖を彼女にも持ち続けてほしいという、醜い足の引っ張り合いだ。

「儀大人は、下水道に落ちたよ。彼は生きながら、心臓に稀石を埋め込んだ。考えたくないけど、きっとまだ生きてる」

「儀、大人」ヒナコがその名を噛み締める。「儀大人もユエさんも、全部あなたが持っていく。下位コードのあなたが。わたしはそれに嫉妬していたのかもしれない。でも、もうどうでもいいわ。昔のことよ」

「よかった」本心からの言葉だった。「君が今を大切に思ってくれていて、よかった。ボクはね、ヒナコ。ヘレブにいた仲間たちがどうなったのか、知らなかったんだ。みんなヘレブの幻影に囚われたまま、イオナで実験体として扱われているのかと思っていた。でも、君は外の世界にいる。人間の中で暮らしている」

「……わたしは、人間よ。人間で、いたいの。だから、稀人を狩るの」

 ボクは淡く笑う。その願いを素直に口に出せる彼女が羨ましかった。未来を悲観して諦めてしまうボクとは全然違う、その生き方がとても眩しいものに思えた。

「朝月に」

「ユエさんは知らないわ」

「だからこそ、だよ。朝月は稀人と人間を区別したりはしない。人間だと思われているから人間扱いされるのと、稀人だと知られているのに人間扱いされるのとでは、全然違うよ。所長だって、君の正体を知ったって態度を変えたりはしないはずだ」

「それで、またアララトのようになったら?」ヒナコは過去から吹いた死臭から自分を護るように、提げた銃ごとその肩を抱きしめた。「ユエさんや所長を、また失うの? わたしはまた、ユエさんや所長の仇をとるために稀人を憎んで、殺し続けるの?」

「ボクは『解放の子供たち』を、アララトで稀人とそれを庇った人間を区別することなく殺した組織を、信じていない。支部とか責任者とかが違っていてもボクにとっては君も所長も、朝月さえも『解放の子供たち』の括りにいる。稀人の敵である人間集団として、ね」

「ユエさんは」

「もし」甲高くなったヒナコの声を、遮る。「朝月がボクとともに『解放の子供たち』を離反したら、きっと殺される。君だって知っているはずだ。稀人への誤解はすぐに殺意へと昇華する」

 ヒナコの喉元で黒いリボンがそよいだ。きっとボクらはその色に同じ相手を想っている。

「勝手な言い分だけど、ボクは朝月が『解放の子供たち』にいてくれるからこそ、彼との関係を正しく保てるんだ。君は、朝月を殺させないだろ? きっと所長も」

「当たり前よ」と言いたげに開かれた彼女の唇は、けれどどんな音も生まなかった。

 夜の裾を漂わせて薄紫色に揺らぐ空を見上げる。一晩で砂漠を荒野へと変えた雨雲はもうどこにも見当たらない。地平線の奥には凄烈な太陽の影がある。きっと、このぬかるんだ大地も明日には砂漠へと戻ってしまうはずだ。

「あなたは」ヒナコのくぐもった声だ。「ユエさんと一緒にいたいと、ユエさんの隣を守りたいと、思わないんですか」

 ボクは声もなく笑った。思わないはずがない。

「慈雨・ヒナコ」

 三輪トラックの悲鳴が応えた。

「朝月を、お願い」

 ヒナコが訝るのを頬に感ずる。けれどボクは、彼女を見なかった。

「お願い」

 再び、一方的に呟いてボクは緩やかに息を吐いた。会話の終焉を告げる音だ。

 肺の深いところまで朝の匂いを吸い直してから、立ち上がる。銃が重たく腰骨の辺りで揺れた。キヨカさんに着せてもらった寝巻はもう、埃だの汚水だの血だのにまみれて元の色がわからなくなっている。解けた裾から垂れ下がった何本もの糸が、湿度を含んで膝に絡んでいた。

 逃げ出してきた町の影が、雨の名残に烟っている。その中に、淀みがあった。冷たく硬質であるはずの心臓が、どくりと脈を打つ。それを悟られないように苦労して、ボクは平坦な声を作った。

「行くよ」

「え?」

 ヒナコの疑問には応えず、ボクは荷台から飛び降りる。

 三輪トラックの運転席でアクセルを吹かしていた朝月が、いち早くボクに気付いた。当たり前の顔でハンドルを手放すと、仲間の不平と罵倒を無視して降りてくる。泥沼から半分ほど浮いていたタイヤが、再び沈んでいくのが見えた。

「どうした?」

「迎えが来たんだ」

 朝月の反応は、素早かった。荷台の銃を右手で、左でボクの手首をつかむと、ヒナコが立ち尽くす荷台にボクを押しあげようとする。どうやらこの三輪トラックを奪ってボクたちだけで逃走する気らしい。追手がかかったと判断したのだろう。

「違うよ」ボクは彼の軽挙な振る舞いに苦笑する。「そうじゃないし、こんなに頼りのない馬車はお断りだ」

 妙な空気を感じ取ったのか、三輪トラックを囲んでいた男たちが一人、またひとりと集まってくる。

 排気音がした。雨雲を追いやろうとする風の呻きにも似た、緊張感の欠けた音だ。

 ボクはゆっくりと歩き出す。朝月の手を振り解かずに、けれど彼が離れていくならばそれを邪魔しないように注意して、逃げ出してきた町の方へ数歩戻る。

 最初に気が付いたのは、ヒナコだった。肩から吊るした銃を構えて、けれど膝が砕けたのか荷台に頽れる。

「軍か」という誰かの声が、一呼吸で伝播した。

「軍だ!」

「追って来た!」

「トラックに乗れ!」

「動かないやつは捨てて行け」

「銃を、早く!」

 ボクはゆっくりと上げた銃口を彼らに滑らせる。町と追手を背に、ぎょっと眼を剥く彼らに鈍い笑みを向けて、忠告する。

「動かないで、銃は不得手なんだ。どこを狙えば死なないのか、わからない」

「お前……」

 ざわりざわりと、配管を泳ぐ『彼ら』の雑談を彷彿とさせる不協和音が『解放の子供たち』を包んでいる。

 その間にも、排気音は近付いてくる。湿った大地の香りと甘苦い排気ガスの匂い、そしてかすかに嗅ぎなれた、死臭が雑ざっていた。

 でも、まだわからない。激しく拍動する心臓に目眩がする。

 重たいエンジン音がすぐ傍で轟いている。三輪トラックとは違う堅牢さだ。

「ノーベンバー」

 エンジン音の下から呼ばれたボクのコードが、失望感と喪失感を生む。足先から稀石の冷たさが這い上がってくるようだ。

 それでも無様なところを見せるわけにはいかなかった。今のボクは、人間を圧する立場にいるんだから。

 ボクは顔の半分だけで振り返る。

 三本の剣を組み合わせた教会軍の紋章を掲げたトラックが、五台。『解放の子供たち』の三輪トラックなんか撥ね飛ばしてしまえそうな重厚な装甲を持ち、荷台には幌までかかっていた。三台目の幌の隙間からは、場違いな子供たちが手を振っている。

「お前が!」と人間の誰かがボクを糾弾した。「裏切り者だったのか」

 先頭の一台から男が降りてきた。ヘカトンケイルの前で別れた、稀人兵士だ。続いて各トラックからも、護衛気取りなのか対稀人用の銃剣を抱えた稀人兵士が降車する。

「何人来てくれたの?」

「稀人狩りの仲間はあらかた連れてきた。人数までは把握してない」

「争いになった?」

「いいや、そこまでバカじゃない」

「オーガストは?」

「行ったときには誰もいなかったぞ。アイオーンたちは連れてきた」

「全員?」

「いや、三人死んでたんで、起きてた四人と……寝てるのも一応連れてきた」

「教会の子供たちは?」

「来たのは二人だけだ。他は世話係の女と一緒にいるってきかなくてな。無理やりにでも連れてきたほうがよかったか?」

 ボクは黙って首を振る。

 それでよかったんだ。オーガストを失ったイオナがあの子たちを実験体として連れて行ってしまうかもしれないし、アイオーンたちのかわりに血を抜かれるかもしれない。

 それでも、あの子たちが人間とともにいることを選択したなら、それでよかった。たとえ慈雨・紅花があの子たちを護れなかったとしても、たとえイオナに差し出してしまったとしても、きっと誰かに変化をもたらすはずだから。

「ケイ」朝月の手は、まだボクとつながっていた。「俺を置いていく気か」

 ボクは薄く笑う。できるだけ軽薄に見えるように眼を細めて、ボクらを窺う『解放の子供たち』を見据えた。

「焦・アーサーを、君たちの仲間を殺した」

 どよめきが、すぐに敵意へと変換される。肌がじりと焼けつくような視線を浴びながら、それでもボクは笑みを消さない。

「ボクは、稀人だ。彼らもまた、稀人だ」

 銃を握っていた数人の『解放の子供たち』が素早く反応した。

 けれど、稀人兵士たちの行動は彼らを上回る。最新式の銃を上げて『解放の子供たち』を威圧する。

 ボクは片手を上げて稀人兵士を制する。ほとんど同時に、体ごと振り向いた朝月が『解放の子供たち』からボクを庇うように腕を広げていた。

 おかしな光景だ。人間が、人間から稀人を庇っている。

 ボクは誰にも表情を見られないように俯いて、苦笑する。朝月らしい行動だ。きっと今顔を上げれば、白衣の幻が見えるだろう。

 だからボクは、ボク自身の甘えを噛み潰す。人間のフリをすることに馴れきったボクを呑み下して、感情の全てを削ぎ切って、顔を上げた。

「君たちが望んだことだろう。徒党を組んで人間に反旗を翻す、こういう稀人を、君たちが望んだんだ」

 どの顔も納得していなかった。反駁と反発と苛立ちが複雑に絡み合って、憎悪と敵意を編み上げている。

「ボクらを造り出したのは人間だ。たった一人を生き返らせるために、うっかりたくさんの死体を野に放ってしまった。その咎を、人間自身の手でなんとかしたいって気持ちはわからなくもない。でもね、ボクらはもう、一個体として生き返ってしまったんだ。君たちと同じように傷を負えば痛いと感じるし、死ぬのは怖いし、誰かを愛おしいと思ったりもする」

 人間の何人かが、怯んだように頬を歪めた。きっと彼らは、稀人を人間の皮を被った機械かなにかだと考えていたのだろう。ヘレブ社の受付にいた、アンドロイドと同じだと。

 ボクは自分の表情を調節して、柔和な笑みを湛えて人間たちを見廻す。

「ボクたちは、人間とは違う。でも、人間と同じように考えて感じて、生きてるんだ。だからね、自分たちのことは自分たちで決める。人間の勝手は、もうたくさんだよ」

 大地の果て、稜線を輝かせる線路を教会の高速列車が切り裂くのが見えた。遅れて吹き寄せた風が、ボクらの間を緩慢に抜けていく。

 生臭い風だ。稀人から抉り出した心臓を内包した、走る棺桶だ。線路の悲鳴が聴覚に爪を立てる。

 ヘカトンケイルを壊されたことを知った教会の上層部が、慌てて駆けつけたのだろう。

 けれどもう遅い。巨大な稀石は砂に還して下水に流した。施設を稼働させていたオーガストも、たぶんあの研究者と逃げた。

 教会に残った新世代の稀人の子供たちだけが気掛かりだったけれど、彼らの血には新たな稀人を生み出せるほどの稀石濃度はないはずだ。

 教会列車の残像を見送って、その残響の中で「ボクは」と宣言する。

「人間たちが持つ稀石の全てを、人間たちが造りだした稀石の全てを、壊すよ」

「なら!」朝月の昂揚は、すぐに萎えた立ち木を思わせるささめきになる。「俺たちと目的は同じだ。対立する理由はない」

「あるんだよ、朝月。君たちは、ボクらにとってはただの殺戮者だ」

 朝月が、信じられないものを見る顔で振り返った。

「俺も、含めてか?」

 ボクは彼を無視する。

「稀石は壊す、人間の管理下にいる稀人たちにも呼びかける。でも、ボクらは彼らの意思を尊重する。彼らの生死は彼らに委ねる。人間とともに暮らすかどうかを決めるのも、ボクらだ」

 朝月の瞳がゆっくりと開く。夜色の、美しい闇が彼を満たしている。

 刹那、大地が朱色に染まった。夜明けだ。人間の時間が、ボクらを世界に焼きつける。長く伸びた影が、高速列車の余韻に震える線路を示していた。

「ホタルは、ボクを拒んだよ」

 朝月が、ボクの指先に縋る。痛かった。彼の手は強く、ボクを壊そうとするほどに締め上げている。骨の軋みが、まるで彼の感情そのもののようだ。

「ボクは、君を生き返らせてしまいそうな自分が、一番怖いんだ。そう、気付いた。だから」

 朝月の手が、力なく滑り落ちる。

「さよなら、だよ。優しい人間」

ボクは半歩後退る。肩口に稀人兵士の体温を感じた。

 ゆっくりと踵を返す。視界の端に朝月の唇が見えた。噛みしめられて真っ白く染まった唇に、朱が走る。血の赤だ。人間である彼の傷は、すぐに治ったりはしない。

 ボクは銃を手放し、肩ベルトに預ける。けれど、稀人兵士たちは銃を下ろさない。ボクがトラックに乗り込むまで『解放の子供たち』を威嚇し続けるつもりらしい。

 そのとき、ボクの嗅覚が新たな異臭を捉える。そして叫び声が。

「ツキ姉!」

 肌が粟立った。賭けに勝ったのだと、背骨を駆け抜ける震えに実感する。

 ずっと信じていなかった。あの子の胸に刺さった小さな稀石の欠片が、ホタルの心臓に食い込むはずだったその破片が、ヘレブでもイオナでもなく炭鉱からこっそり持ち出されただけの汚い塊が、命をつなぎとめられるとは、思っていなかったんだ。

 ホタルの病気を治そうと稀石の破片を手に入れた夜、ホタルの家に押しかけた強盗が刺したのはホタル以外の人間たちだった。眠っていたホタルには気付かなかったのだと、シュンは言っていた。

 そして、ホタルのための稀石はシュンを生かした。

 ボクが知る限り、シュンの稀石がシュンの傷を治したのはその一度きりだ。だから、二度目はないだろうと覚悟していた。

「ああ……」ヒナコのすすり泣きがした。「よかった……」

 純度の高い稀石を持つ彼女は、初めてシュンに会ったときから気付いていたはずだ。血の濃度こそ違えど、シュンが確かに自分たちと同じ生き物だとわかっていた。だからこそ、あの下水道でシュンが死を迎えたときにあれほど動揺したんだ。

 荒野の泥を跳ね上げて、『ヒート・ミール』とペイントされた三輪トラックが停まる。

 小隊長に抱えられて荷台に納まっていたシュンが、飛び降りた。薄青色のシャツと大地色のカーゴパンツを穿いている。どちらも誂えたようにシュンの体に合っていた。

「由月」三輪トラックのハンドルを握っていたのは、キヨカさんだった。「無事だったのね」

「ツキ姉! ホタルは?」

 シュンが腰に飛びついて来た衝撃だったのか、彼の質問に動揺したのか、ボクは確かに二歩ふらついた。朝月の腕が反射的な速度で支えてくれる。

「ねえ、ホタルは?」シュンが寝巻の裾を引っ張りながら『解放の子供たち』を見回す。「どこ? 助けに行ったんでしょ」

「ホタルは……」

「いなかったんだ」小隊長とともにヘカトンケイルでホタルを見たはずの男が応えた。「教会に来た女の子は養子に出された後だった」

 シュンは男の大きな体に怯えたように、ボクの寝巻の裾を体に巻きつけた。物陰の仔ネコのように上目に男を窺い、そろりと息と言葉を押し出す。

「誰だよ、あんた。ホタルを知ってるのか」

「俺は」

「協力者だよ」今度はボクが答える。「教会でホタルを探すのを手伝ってくれた。ここにいるみんなが」教会の紋章を掲げたトラックを見る。「ボクらの仲間で、協力者なんだ」

 シュンはボクの寝巻を汚すたくさんの色を睨んで、そっと手を解いた。寝巻の裾が名残惜し気に彼の指先に絡む。

「ホタルは、いなかったの?」

「……だから、みんなで探しに行くんだよ」

「…………」

 シュンがなにかを言った。風がその声をさらっていく。

 聞き取ろうと腰を屈めたけれど、彼は身を翻して三輪トラックに座ったままのキヨカさんに駆け寄った。

 首に縋りつくシュンを抱き上げたキヨカさんがゆっくりと立ち上がる。一際長くて強い影が大地に伸びた。

「ホタルちゃんを捜しに行くのね」

 ボクは黙って頷く。

「そう」キヨカさんの息が静かな言葉になる。「行くの」

 ボクはキヨカさんの首筋に顔を埋めたシュンの後頭部を見る。子供特有の細い髪に汗と血の破片が絡んでいる。

「ここに残りたい?」

 シュンの後頭部が左右に振れる。

「君が選べばいい」

「ツキ姉は、ボクを捨てたいんだ」

「違うよ」

「朝月と行くのに、ボクが邪魔になったんだ。だから……」

 その続きをシュンは言わなかった。キヨカさんのシャツに深い皺を寄せて、さらに顔を擦りつける。

「朝月は、一緒に行かないよ」

 シュンの小さな拳が少しだけ緩んだ。

「……どうして?」

「彼が人間だから」

「……ホタルだって、人間じゃないか」

 だからボクを、そして稀人になることを拒んだんだよ。とは言えなくて、キヨカさんに縋るシュンの指先へ視線を逃がす。

「朝月は、一緒じゃない。選ぶのは君だ。キヨカさんとここに残るか、ボクらと一緒にホタルを探しに行くか」

 数秒、シュンは駄々を捏ねるようにキヨカさんに顔を擦り付けていた。そしてやおら体を起こすと、キヨカさんと額を合わせて鼻を啜りあげる。

「いいのよ」キヨカさんがシュンの髪を撫で上げた。「いいの、また会えるわ」

 誰と誰とが会えるというんだろう。シュンとキヨカさんだろうか? それともボクたちとホタルか? ボクは歯を食いしばる。

 ホタルのポシェットが消えている理由を、それが意味するところを、きっとキヨカさんは理解している。そのうえで、彼女はそんな残酷な気休めを口にするのだ。

 ひどい人だ、と詰りたい衝動がこみ上げた。でもこれ以上、シュンの前でホタルの話題を続ける度胸もなくて、ボクは苦く激情を噛み潰す。

 シュンの手がキヨカさんの肩を押しやって、滑り降りた。小さな足がたくさんの人の影を吸い込んだ大地を踏みしめる。そして彼は俯いたまま、ボクの手をつかんだ。一度だけ、ぎゅっと力いっぱい握りしめる。

 銃しかないはずの反対側の掌に、温もりを感じた。いつも片方の手にはシュンの、逆にはホタルの手があった。いつだってボクを両側から支えてくれていた。

 唐突に、ひどい喪失感が胸の奥を冷やした。

「これを」キヨカさんの大きな手が小さな包みを差し出した。「主人が、あなたたちに、って。あなたたちが食事を摂らなくても生きていられるという噂はきいたけど……でも、本当のところは知らないから……食べてくれると、嬉しいわ」

 ふわりと芳ばしいパテの香りがする。稀人を拒絶したアツシさんが、ボクを殺そうとしていた人間が、稀人のために作ってくれたものだ。

 アツシさんとキヨカさん、ホタルとシュンとボク。五人で囲んだ食卓を、人間たちもまた楽しんでくれていたのだろうか。そうだといい。

「ありがとう」と礼儀正しく応ずるはずの声が、ひどく掠れた。

 キヨカさんの大きな腕がボクを包んでくれる。温かかった。同じくらい、とても寒かった。呼吸の仕方を忘れた肺が痛い。酸欠状態の細胞を活性化させようと、心臓がうるさく拍動していた。

 まるで、人間みたいに。

 ボクはキヨカさんを押しやって、逃げる。三歩。

 シュンの手を振りほどいて、顔を覆う。息ができない。それしか呼吸をとり戻す方法を知らないように、喘ぐ。たった一つの名前が、溢れ出る。

「朝月」

 誰かが靴を引きずって離れていく音がした。

「あさづき」

 稀人の死臭が遠退く。

「アサヅキ」

 腕を、つかまれた。強い腕がボクを引き寄せる。耳朶に、ボク以上に苦し気な息遣いが触れた。

「朝月……」

 背中に彼の指が食い込む。彼にこんな風に抱きしめられたことなんてなかったのに、泣きたいくらい穏やかで懐かしい気持ちが押し寄せた。ボクは彼の背に触れる。初めて、触れる。熱くて逞しい背中だった。

「朝月、月がきれいだ」

 彼が身じろいだ。疑問を抱いたのかもしれない。だって、月なんて一つだって出ていない。朝日の白だけが、世界を焼いている。

 けれど、ボクが知る言葉はこれしかない。心を語る言葉は難しい。こんなときこそ血の共鳴で全てが伝わればいいと思いながら、伝わらないことに安堵してもいた。

 それなのに、朝月は低い声を絞り出す。

「俺は、死んでもいい」

 それだけで、もうじゅうぶんだった。彼に通じた。彼がボクに貸してくれた中でも古いほうにある本の一文だ。お互いのために生きる、お互いがいれば他の誰も要らない。そういう関係を告げる、一文だ。

 人間のふりを諦めたボクが、同族とともに歩むことを決めたボクが、ただ一つ彼に贈れる言葉だった。

 臆病なボクに、朝月は応えてくれた。稀人たちの悲鳴と苦痛が轟くヘレブでの時間も、薄暗い制御室で過ごした夜も、それだけで満たされる。

 絵本の黒ネコがいなくても、まだもう少し、ボクは生きていける。

「ケイ」

 朝月はゆっくりと体を離してボクの瞳を覗きこんだ。雨に艶めく夜の色だ。たくさんの感情を押し込めて美しく輝いている。

「俺は、お前のためなら死んでもいい。でも俺は生き返らない。石の心臓は要らない」

 わかっているよ、と伝えるために彼の頬を撫でた。

 朝月が、その手をとる。落ちたままのもう片方の手も捉えて、顔を寄せた。あの日、ボクらが初めて会ったヘレブのエントランスで触れ合ったときと同じ姿勢で、彼はボクに触れる。祈るように、体を折る。

「お前がなにを怖れて俺の前から消えるのか、理解してるつもりだ。だから、俺もお前を手放してやれる。でも今だけだ」

 うん、と声もなく、ボクは同意する。稀人同士の血のささめきなんかなくても、彼はボクの声を、怖がりな本心を、全部知ってくれている。

「ボクの心臓は、君にあげる。君が、抉って。そのかわり、君の肉の心臓は、ボクにちょうだい」

 ふっ、と朝月の吐息が笑った。

 ボクらは互いの最期を約束する。絶対的な、再会の約束だ。

 鼻の奥がツンと痛んだ。嬉しくて、とても嬉しくて、苦しかった。

 ボクは後退る。するりと朝月とボクの手が離れる。彼の熱を失った指先が痺れた。けれど、ボクはもう立ち止まらなかった。

 大丈夫。たくさんの奇跡の果てにボクらは出逢って、別れて、再会して、また出逢えた。だから今は、彼を人間の側に還してあげられる。彼が、死なないために。

 ボクらは、お互いを看取りに行かなきゃならないんだから。

 トラックの扉を開けて待ってくれていたシュンの前で、人間たちを振り返る。

 朝月を、『解放の子供たち』の一人ひとりを、そしてトラックの荷台に立ち尽くすヒナコを、平等に見回す。

 大丈夫。人間と稀人との間にはヒナコもいる。稀人と人間の間にはボクが立つ。互いに銃を向けながら、でも誰かの大切な人が傷付いたり死んだり、生き返ったりしないために、協力し合える。

 これは、そのための宣戦布告だ。

「ボクらを殺しに来ればいい、人間たち。ボクらは元人間で、稀人だ」

 誰も応じなかった。風だけが湿った大地の匂いを立ち昇らせる。

 シートによじ登ったシュンが膝を抱える。

 助手席に滑り込んだボクが扉を閉める音が、人間たちを切り捨てた。

「いいのか?」運転席に回り込んでハンドルを握った男が独り言の抑揚で言う。

「いいんだよ」

「そうか」と呟いて、男はアクセルを噴かした、寝入り端を叩き起こされた不機嫌さで、エンジンが化石燃料を貪りだす。

 威嚇的なトラック駆動音の中で、シュンが小さく呟いた。

「ツキ姉は、ウソつきだ」

 ゴボンと排気管から追い出された黒い、大きな雲が空を汚す。海に落ちた黒ネコの毛皮みたいな排気ガスが、稀石めいた蒼天に解けて逝く。

「人間はみんな、ウソつきだ」

「そうだね」と、ボクはシュンの頭を撫でながら、吐息で相槌を打つ。

 窓の外で人間たちの三輪トラックがゆっくりと離れていく。キヨカさんを、ヒナコを、朝月を置いてボクらは走り出す。

 地平線から顔を半分だけ出した太陽が、人間と死人とを別つ朝の女神の刃めいて眩しい。陽光を受けた頬の皮膚が熱を帯びる。シュンの腕の中から、ほんのりと芳ばしいバンズとパテの香りが立ち昇る。

 フワワァン、と気の抜けたクラクションが聞こえた気がした。きっと死から目覚めた黒ネコの欠伸だろう。

 ボクは静謐な息を吐いて、優しい人間たちの残滓の中で瞼を閉ざす。


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さよならの朝は月の下 藍内 友紀 @s_skula

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