〈18〉

〈18〉


 脳が鉛になって頭蓋骨にぶち当たる激しい頭痛に、しぶしぶ目を開けた。

 なにもない。

 ボクの汚れたワークブーツと茶色く汚れてしまった寝巻の裾、それにぱたぱたと腹の辺りを平和に叩くピンクのポシェットだけが虚空に浮いている。どこまでも続く、夜を満たした穴が口を開けてボクが落ちてくるのを待っている。

 ポツリと頬に水滴が触れた。どこかの配管が破損しているのかもしれない。早く朝月を呼んで修理してもらわないと、ヘカトンケイレスに漂う『彼ら』が体調を損ねてしまう。

 ポッ、とまた一滴。

 やけに左腕が重たい。肩の骨が外れているらしい。脈打つ痛みと睡魔が、全ての感覚を呑み込もうとしている。眠る前に早く修理個所を見つけないと、と首を廻らせる、途中。

「ふ、ざけんな」

 男の声と水滴が一緒に降ってきた。強張る節々の筋肉に苦労しながら、頭上を仰ぐ。

 キャットウォークの端から砂糖細工みたいな指先がこぼれていた。

 ホタルの指だ、と思ってから、ホタルって誰だっけ? とも思う。辛うじて、その手がボクと同族のものだということはわかった。つまり、触れてもいいものだ。

 ひょう、と苦し気な風音に呼ばれて、さらに首を捻る。

 強張った顎先から汗を滴らせた朝月が、真上にいた。腹の辺りに頼りない細さの手すりが食い込んでいる。

「自力で、上がれ」

 食い縛った歯の間からぶつ切れに唸る朝月が、回転式拳銃の銃把ごとボクの手首を両手でつかんでいる。

 ボク自身の体重と朝月の力とで、銃が手首の骨を砕いていた。ひどく痛い。ずっ、と朝月の掌の中を滑り落ちたけれど、彼をつかみ返すことすらできない。

 ボクがずり下がったせいで、彼の銃が宙に押し出された。重力に引かれて闇の底へと消えていく途中、ボクの頬を強かに打ち据える。あまりの衝撃を認識できず、眼窩から耳にかけて白いフラッシュが走った。

「早く、かっ」

 肩、という単語を苦痛の声で押し潰した朝月に、ボクは反射的に「離して!」と叫ぶ。

「ボクなら大丈夫だから」

「あり、えねぇ」

「君の肩が外れる」

「なら、早く、上がれっ」

「ボクは、これくらいじゃ死なない!」

「だから、なんだ」彼の掌は、もうボクの指の辺りにある。「痛みは、あるだろっ。俺はそれが」

 嫌なんだ、と聞こえた気がした。幻聴かもしれない。

 ボクの指先と朝月の爪が一瞬だけ触れ合って、彼を青い空の下に残して、ボクだけが空に放り出された。弾けた朝月の汗が、まだボクを守るように同じ高さを落ちてくれるようだ。

 と思った瞬間、視界が真っ白に染まった。痛いとすら感じられないほどの、激痛のせいだ。悲鳴が漏れたかもしれない。それすら衝撃の中に消えていく。メコ、と無理矢理引き延ばされた腱が弾けるのを、背骨を駆け抜けた音で知る。

「おお、間に合ったぁ」

 神さまバンザイ、なんて場違いに緩んだ声が降ってきた。

 痛みに明滅する世界の中で、ボクを引き上げる誰かの輪郭が影となってボクを包む。意識が飛びかけていた。唇を噛みしめて、けれど期待した刺激は感じられない。努めてゆっくりと、深く空気を吸う。馴染みのある死臭が濃厚に香っていた。

 荷物のように手すりに担ぎ上げられた違和感で、ようやく意識がはっきりとしてくる。肋骨にヒビくらい入ったかもしれない。さすがにもう再生が追いついていないようだ。

 肩を押さえた朝月がキャットウォークに座り込む。首筋に滲んだ汗が荒い呼吸に同調してヘカトンケイルの光に瞬いている。

「おっせぇ……」

 遅い、と愚痴る朝月の声が、少し遠い。

「言うなよ。コッチにだって段取りってもんがあんだ」と軽口で応じているのは誰だろう。

 肉体の損傷を繕うために細胞が最活性しているのか、抗い難い眠気がボクを塗り潰そうとしている。視界が端から絞られていく。けれどまだ、眠るわけにはいかない。

 キャットウォークに落としたちりばめられた血と、ホタルをつなぎ留めるベルトの黒を捉える。

 そしてようやくボクを助けてくれた相手を、知る。

「どうして……死んだと」

 小隊長が――ヒート・ミールのテラス席で仲間の銃弾に倒れたはずの男が、いた。寝起きのように乏しい表情でボクを、彼が命を落とす原因となった稀人を見下ろしている。

「そいつ」小隊長の隣に立つ若い男が、ボクの体重に耐えた肩を労るように回しながら、顎をしゃくった。

「昨日起きたばっかだから、まだ言葉が怪しいぞ」

 オーガストの部屋に来た兵士だ。大人しくボクを見送ってくれたはずの彼は、どうやら朝月となんらかの交渉を成立させていたらしい。

「どうしてボクを助けたの?」

「ヘレブの先輩にゃ逆らえない」

「茶化さないで」

 男は軽薄な仕草で肩を竦めると、「こいつが」と小隊長を示す。

「子供の願いは叶えてやるものだ、とくに何人もの子供が望むことは。って言うから」

「子供……」

 ホタルに石の心臓を与えてやりたいんじゃないのかと、家族を失いたくはないだろうと、ボクに語った小隊長の声を思い出そうとして、失敗した。

 夕日に染まるヒート・ミールで生きている彼に会ったのはほんの数日前なのに、ボクが思い描く彼は軍用探知犬の怒号にまみれている。

 その不快な幻聴に、血を抜かれ続けていた子供たちを思う。

 彼らがボクに協力してくれているのはわかっていた。実際、ここに辿りつくまでも、ボクらが儀大人と争っている間も、配管を通して教会に押し入る『解放の子供たち』の様子を伝えてくれていた。

けれどまさか稀人の、それも稀人を狩るために編成された部隊に所属する稀人の兵士の協力まで取り付けてくれるとは予想もしていなかった。

 それに、と二人の稀人兵士を見る。軍人として生かされている彼らが命令を捨ててまで子供たちに同調してくれるとは思っていなかった。

 小隊長には子供がいたのだろうか、と少しだけ考える。きっといたのだろう。全ての記憶を失ってなお忘れられない家族が。小隊長の隣に立つ男にも、忘れたくない誰かがいたはずだ。

 ボクはホタルの手首から銃のベルトを解く。ボクに銃剣を突き立てた腕を掴んで、背負う。

 ボクの心臓に絡む血管すら断てなかった体だ。彼女が望んだ『キセキ』を埋め込まれたってホタルは相変わらず軽くて、頼りなくて、弱い生き物だった。

「この子のタンクはどこ?」とても息苦しい質問だった。息継ぎの音が耳障りに響く。「一昨日までは、人間だったんだ。どこかに、この子の、ホタルのタンクがある。きっと、まだ間に合う」

「さあ? ここにゃ巡回で来るくらいで、いちいちタンクの中身なんて見ちゃないから」

 知らない、と首を振る男の脇を抜けて、小隊長が夢遊病じみた足取りで歩きだす。蜘蛛の巣の一辺を構成するキャットウォークを渡り、一つのタンクの前に立った。

 背を圧したホタルの柔らかさで、手すりまで後退っていたことに気が付いた。ボクの足元では、放置された銃が所在なさげに瞬いている。膝を緩く折って縋るように、銃を引き寄せる。力なく垂れるホタルの四肢が絡んで巧く肩にかけられない。

「ケイ」

 朝月の声が耳朶に触れた。ホタルともボクとも違う、生きている人間の熱だ。髪を梳いてくれる彼の指先が、思考を拒否するボクを赦してくれる。

 朝月の腕が、ボクの背とホタルとの間に入り込んだ。とても容易く、片腕だけで彼はボクからホタルをさらっていく。でも、動かない。ボクの選択を待つように、彼はただ佇むだけだ。

 キャットウォークがやけに捻れて見えた。タンクまでの距離がひどく遠い。一歩ごとに騒ぎ立てる靴音と、そこら中から押し寄せる『彼ら』の声が、世界の密度を上げていくようだ。

 ホタルのタンクは、真っ白に濁っていた。洗浄用の発泡性薬液がホタルの残滓を消し去るために、めまぐるしくタンクの中で踊っている。

 ボクは、何事かを願ったのかもしれない。朝月が、ホタルを丁寧にキャットウォークに横たえた。

 身軽になった朝月はキャットウォークの手すりを足場に、タンク上部のへと身を躍らせた。彼の操作で、瞬く間にタンクの白が排出されていく。

 空っぽになったタンクの曲面に、醜く歪んだボクが映り込んだ。それも、新たに注がれる青い薬液の奔流に呑み込まれる。

 朝月が、ボクとタンクの間に飛び降りてきた。ヘカトンケイルの発光が彼の表情を隠す。「ケイ」と囁き声だけがボクの首を締め上げる。

「どうする」

 どうする? ボクがどうしてこんなところに来たか知っているくせに、『どうする?』だって? 腹に怒りが湧いた。いや、憤りたかっただけかもしれない。

 どうする、なんて問うたくせに、朝月はボクの返事など待たず、ホタルを背負ってくれていた。

 薬液や稀石の共鳴なんかなくても、朝月は正確にボクの望みを、その善悪なんか関係なしに、を聞きとって叶えようとしてくれる。きっと、彼にはボクを暴く特殊な機能が備わっているんだ。

 愚鈍な気泡にくすぐられながら、ホタルがタンクの中に潜っていく。

 タンクの底に爪先を触れさせて、弛緩した両手を広げて、ホタルは死者をつなぎ止める薬液に滞留する。そして――動きを忘れたはずの華奢な手足が、水流に逆らって畳まれた。

 悪夢に怯えるように体を丸めて、ホタルはふわりふわりとタンクの中を揺れ動く。辛うじて残った頭部から、最近の砂漠生活で痛んでいた髪が美しく広がった。アララト教会にいたころのように柔らかく波打っている。ナミコが朝夕梳ってくれていたころの残像だ。

 手を伸ばす。タンクのガラスに遮られて届かない。生温い薬液と彼女を包む気泡の振動だけがボクの掌に応えてくれた。

 ざり、と誰かの靴がキャットウォークを擦った。

 稀人兵士のあの男が仲間を呼びに行くんじゃないかと、こんなときなのにボクは冷静に予想して、銃口ごと素早く振り返った。

 やっぱり男が背中を向けている。

 けれど遠ざかっているのは、朝月だった。

 兵士の男はといえば、体の半分だけをボクの方へと戻して揶揄するように顎を上げる。

「指示は出ないのか、先輩? 俺としてはこのままイオナの命令通り、侵入者を排除しに行ってもいいし、あんたに手を貸したいっていう子供たちのわがままに付き合ってやってもいい」

「君は……イオナの、稀人狩りの軍人だろう?」

「あんたもヘレブの実験体だったならわかるんじゃないか? お前たちを生かしてやってるのは俺たちだとイオナの研究者どもが言い、お前たちが人間に襲われることなく暮らしていられるのは教会の軍人だからだと聖職者どもが言う。研究者に切り刻まれたかと思えば、稀人も教会に反抗する人間もいっしょくたに撃てと命じられる。そのくせ俺たちには人間を殺してはならないという、偽りの本能がすり込まれてる。うんざりだ」

 ボクは二呼吸、慎重に彼を観察する。彼の言葉に嘘が滲む可能性を、ボクの長い過去と照らし合わせて考える。

「ボクに協力するってことは、あなたたちの仲間を傷付けるってことだよ」

「どうだろうな。稀人同士の争いが不毛だってことは、全員がわかってる。訓練された仲間同士なら余計に、な。案外あんたに付く仲間は多いんじゃないか」

「君たちにとってボクは……ううん、ヘレブの稀人は、イオナや教会の命令よりも重要ものなの?」

「俺たちみたいなイオナの稀人にとっちゃ、あんたは絶対的上位にいる優秀な姉だ。たとえイオナに所属していようと、そりゃ、人間なんかより惹かれる存在に決まってる」

「ここにはオーガストがいる。彼女もヘレブの、ボクと同じ心臓を持つ稀人だ」

「タンクに引きこもってる奴なんか、死体とどう違う? だが、あんたは人間に管理されていない、独立した生物だ。過酷な生存環境に適応してる先達に従うのは、イキモノとしての本能だろ」

「イキモノ……」

 ホタルのタンクを虚ろに見上げる小隊長を、ヘカトンケイルの真ん中で天井の青を見上げる朝月を、そして悪戯っぽくボクを見下ろす男を、順に見る。

「君たちは外の世界に憧れているの? どんな夢を抱いているのかは知らないけれど、そんなにいいものじゃないよ。外は人間たちの世界で、彼らはとても排他的だ」

「別に外の世界に憧れてるわけじゃない。人間に、これ以上生死を管理されるのが、うんざりなんだ。それに、あの男も」彼は朝月の背中を一瞥する。「人間だろ。あんたに協力してこの騒動を起こした『解放の子供たち』も人間の組織だ」

「彼はヘレブの技術者だし、『解放の子供たち』は元からここを襲う計画を立てていたんだ。ボクは便乗しただけだよ」

「それでも人間だ」

「そうだね」と呟く声に、『彼ら』のざわめきが重なった。

 どこかで爆発音がする。小さく発砲音も聞こえている。

 きっと所長やヒナコが戦っているんだ。たった一発の銃弾で死んでしまう脆い体をしているくせに。彼女たちは自分が信じる人間の生命というもののために、命をかけて戦っている。なんて矛盾しているんだろう。

 だから、ボクも少しだけ彼女たちを真似てみようと思った。

「頼みがあるんだ」

 小隊長と男を平等に見据えて、未来を望む稀人らしく身勝手で横柄で、とても大切な頼みごとを二人にする。

 面倒な上に危険な頼みごとだったのに、彼らは拍子抜けするほど簡単に頷いてくれた。あまりの安請け合い振りに不安になったくらいだ。

 それでも彼らは銃剣の残弾を確認してから、軍人らしく靴を高らかに鳴らして踵を返した。キャットウォークですれ違い様に朝月の肩を親しく叩いて、廊下の電光へと消えていく。

 聞き耳を立てていた『彼ら』は少し残念そうに薬液を揺らしたけれど、それでもボクを詰る声は一つだって降ってこなかった。

「朝月」

 ヘカトンケイルの中心で、『彼ら』に見守られた彼が振り返る。

 ボクはキャットウォークの先にある鉛色の扉を指す。翼を広げた鳥が留まる、制御室へと続く扉を。

 壁に埋め込まれた大きなガラス窓の向こうに、ボクらがコーヒーの香りに包まれて過ごした優しい空間があるはずだった。あの薄闇は、今でもボクを待っていてくれるのだろうか、と過去の彩度に眼を細める。

「行って」

 ボクの囁きは、きっと彼の鼓膜には届かない声音だった。それでも、朝月は頷いた。俯いただけだったのかもしれない。彼は視線を奈落の底に落としたままだ。

「行って」

 それがボクの選択だ、『解放の子供たち』に迎合するわけじゃない、ボク自身が選んだことなんだ、そう伝わればいいと思いながら、ボクはもう朝月を見なかった。

 ホタルと、向き合う。

 湾曲したガラス面にホタルの柔らかい頬の感触を思い出そうとしたけれど、浮かんだのは細くやつれた手の硬さだけだった。

「ホタル、遅くなってごめんね」

 薬液が微かな光を宿した、気がした。ボクの願望かもしれない。くるりくるりとタンクを上下する彼女の体を、髪と気泡が悪戯に撫でては昇っていく。

「ホタル、迎えに来たよ」

 くつり、と隣のタンクに浮かぶ女が嗤った。一拍遅れてガラス面が彼女の声を伝えてくる。

『放っておいてやりなよ、稀人のお嬢さん。この子は出たくないってさ』

「ホタル」ボクは彼女を無視する。「帰ろう。一緒に、また三人で、どこか別の町に行こう。シュンも待っているんだ」

 シュン、と下半分だけが残ったホタルの唇が淡い笑みを宿すようだ。

「帰ろう」

 全神経を聴覚に、そしてタンクと触れ合った皮膚に、集める。

「一緒に、帰りたい……ボクは君と、戻ることを、望んでる」

 ホタルの喉が微かに蠢いた。声はない。ガラス越しに掌を掠めた髪の柔らかさが、ボクを拒む。

「ホタル」タンクに額を寄せる。ポシェットのピンクがぼんやりと映り込んだ。「ホタル……ねえ、応えて、くれないの?」

 ふふ、と誰かの呼吸が笑った。また隣の女かと思ったけれど、彼女は青紫色に変色した腰から下の筋肉繊維を泳がせて、ヘカトンケイルの制御室のガラス窓を見上げていた。

 くるりとホタルが回る。脚の指で薬液を掻いて、彼女は楽しそうに泳いでいた。きっと彼女は短い人生の中で初めて泳いでいる。

「ホタル、楽しい?」

 彼女はボクを一顧だにせず、薬液の浮遊感に夢中になっている。

 心臓なら、とその軌跡を追いながら鈍く考える。稀石ならここにたくさんある。少し走れば研究所だってすぐだし、天井に嵌っている石からもたくさんとれるだろう。適合するというならばボクの心臓をあげたっていい。

 でも、とタンクから額を離す。ホタルと、ボクが斜め掛けにしたピンク色のポシェットがタンクの側面に映り込んでいる。ママのお手製だと言って眠るときも手放さなかったポシェットだ。もうすっかり色褪せているけれど、ホタルの宝物だ。たとえ中身が効果のない薬ばかりだったとしても、彼女にとっては大切なものなんだ。

 破れた服の穴から、自分の胸に触れる。治癒して盛り上がった皮膚が銃剣の痕を語る。

 ホタルは、全ての記憶を失っていたのだろうか。ボクを殺しに来たのはイオナの命令だったのだろうか。それとも、彼女の深いところに潜んでいた感情の発露だったのだろうか。

「ホタル」一縷の望みに縋るように声を絞った。「たとえ君が全てを忘れてしまっても、シュンもボクも君を覚えているし、これから新しい記憶を重ねていけばいい。だから、ねえ」

 ボクらと同じ生き物になろう、と誘う自分の身勝手さに、苦笑がこぼれた。

 当たり前のように、ホタルは細い気泡とたくさんの薬液の中を幸せそうに彷徨っている。

 そして気配が――。

『シュン、は……』

 はっと顔を上げる。ガラス越しに、ホタルの白い歯列が今にもボクに食らいつかんばかりに迫っていた。

『あたしを、おいて、いっちゃう……』

「君も、一緒だよ」

『……まれ、びとは、イヤ』

 はっきりと告げられた拒絶に、ボクは口を噤む。

『アレは、ママも、パパも、シュンも……みんな、あたしから、とって、いく……』

 そうだね、と頷く。ボクがホタルやシュンと出会ったのは、すでに二人の両親が他界してしまってからだったけれど、その経緯は耳にしている。

 ホタルの両親は、ホタルの病気を治す手立てとして闇市で稀石を求めた。その結果、強盗たちがホタルの家に押し入ったらしい。

 ホタルの両親は、人間の強盗に殺された。連中を招いたのは、稀石だ。挙句にホタルの病気だって治らなかった。

彼女が稀石を、稀人を恨むのは仕方がない。仕方がない、とは、理解している。

「でもそれは……君の命と……」

 ホタルの憎悪とホタルの命を統合で結べなくて、ボクは言いよどむ。

 そんなボクを嘲笑うように、髪と肉が絡み合ったホタルの頭部がタンクの内を遠ざかっていく。

 それが、彼女の答えだ。

 ボクはポシェットを外す。その紐をキャットウォークの手すりに結びつけながら、ぼんやりと、肘の先で揺れるボクの銃を見ていた。青い光に照らされて、人を殺す道具とは思えない艶を帯びている。

『アタシには訊かないのかい?』隣のタンクで、女が言った。『アタシは死にたくないけどねぇ』

「もう死んでるよ」と切り捨てる言葉は、出てこなかった。ポシェットを汚した血の赤を撫でて、銃の冷たさに触れて、ボクは女を見上げる。

 腰から下がない。断面がきれいじゃないから爆発事故に巻き込まれたのかもしれない。炭鉱から連れてこられた奴に多い傷だった。

『子供がいたんだよ。ああ、もう一度会いたかったなぁ』

 コポリと唇から気泡を追い出して、女は弱く笑う。

「そこから出たら、全てを忘れてしまうんだよ」

『全て?』

「それが生きるって……生き返るってことなんだ」

『全て、かい。……そうかい、あの子のことを忘れちまうなら、仕方ないねぇ』

 生きていたって仕方がない、と嘆息した彼女に、気泡がざわめいた。

 ボクはホタルのタンクに触れる。湾曲した分厚いガラス越しに小さな手と触れ合った気がした。きっと錯覚だ。

 あれほど騒いでいた『彼ら』が静かに息を殺している。もう、外で起こっているバカ騒ぎやボクらには一片の興味すら向けられていない。『彼ら』は全身全霊で自分たちの終幕を、怯えつつも心待ちにしている。

『仕方ないねぇ』と三度、女が微笑んだ。

 その声に促されるように、制御室の窓を見上げる。

 朝月がいた。壁に埋め込まれた四角い制御室の闇の中で、彼がボクを見下ろしている。白衣を着ているわけでもないのに、彼の腕が配電盤に伸びるのがわかった。

 青白く息衝いていたヘカトンケイルが、眠気に負けて閉ざされる瞼のように瞬いた。夢に落ちる間際の長い吐息がフォンと空気を震わせる。

 漆黒の闇が訪れた。

 朝月が、電力を落としたんだ。すぐに非常電源が入る。それも、朝月にかかれば容易く断たれてしまう。

 ゆっくりと誰かの心臓のように三度拍動して、ふっと全ての明かりが消えた。

 ヘカトンケイルという名の通り、百人の命を内包した巨大な装置が、全てを道連れに活動を停止する。

 ボクは、ホタルを振り返らなかった。夜色に沈んだ制御室を睨む。

 炸薬の発光が朝月を壁に焼き付いていく。彼の銃がヘカトンケイルの基盤を撃ち抜いている。二度と誰の命もつなぎ止めないように、誰も生き返らないように。

 銃口を上げた。

 彼が浮かび上がる制御室に銃口を向けて、朝月を通り過ぎて、さらに上へ、太いケーブルの生える天井へ、晴れた昼の空を映し込んだ色をした巨大な稀石に向かって、引き金を絞る。

 冗談みたいに軽い破裂音が腹の底で響いた。リン、と恐ろしく澄んだ音がして、冷たく硬い雨が降り始める。弾け飛んだ薬莢が甲高い声で唱和する。

 人間たちのエゴや欲や、希望といった感情の全てを練り上げた巨大で美しい石が朽ちていく。

 一欠片だって誰かの命にならないように、もう誰も誰かを生き返らせようなんて思わないように、光の雨に雑じる礫を砂へと変えていく。キャットウォークに跳ねる稀石の雨と薬莢が鼓膜を刺す。

 これはボクのエゴだ。これから生き返って、誰かと出逢って、幸せを味わえる可能性のある、誰かの未来を奪っている。

 フルオートで撃ち尽くす。まだ足りない。腰から新しい弾倉を引き抜いて装填する。熱に浮かされた銃身が一瞬だけ正気の温度を思い出す。

 なにも考えたくなかった。全ての思考を焼き切ってくれるほどの熱が欲しい。

 金属の焼ける臭いが漂っていた。もう何本の弾倉を捨てたのかわからない。銃を抑え込んだ腕や肩が衝撃に痺れている。

 それでもまだ、人間の夢みたいに執念深く天井にしがみつく石がある。最後の一塊だ、拳を三つ突き合せたほどのそれに狙いをつけて、けれどボクの指は空をつかむ。

 弾切れだ。

 腰を探る。頼りなく細いベルトが巻きついているだけだ。銃が機関部を剥き出しにして喘いでいた。靴底を通して、足元にぶちまけた弾倉の熱がほんのりと伝わってくる。

 パパッ、と間抜けな音が響いた。

 上、砕けた制御室の窓を踏みつけて壁の中に立った朝月が、フルオートで銃弾を放つ。赦しを乞う罪人のように苦しげな表情で、彼は最後の雨を降らせる。雨上がりの空から伸びる光の柔らかさを帯びた粒子が、彼を包む。悪夢のように美しい光景だった。ボクが疎んでやまない宗教画の一部のようだ。

 慈雨だ。

 慈雨であればいいと願った。どうか、どんな神さまでもいい。彼の心に刺さった棘を抜いて、気休めでもいいから赦しを与えてあげてほしい。ボクと過ごした時間を、稀人なんて存在の記憶を、彼から消し去ってほしい。

 けれどもう、ボクらは出逢ってしまっている。神さまの悪戯で生き返ったボクと生者である彼は、奇跡みたいな確率で気持ちを重ねてしまった。

 全ての石を砂にして、朝月は身軽にキャットウォークに飛び下りた。生命になり損ねた粉塵が舞う。

 その中に、白衣の幻影を見た。

 あのころの、ヘレブが世界の全てだと信じていた幸せで愚かなボクが最後に見る夢だ。

「ケイ」朝月が、夜色の袖に包まれた手を伸ばす。「行こう」

 イヤだ、と閃くように思う。どこにも行きたくなかった。このまま夢の中で、絵本の中の黒ネコのように、幻の彼と消えてしまいたかった。

 けれどあれは所詮、おとぎ話だ。

 ボクは背後のタンクを振り返る。手すりに結ばれたポシェットが見えた。でもそれ以上は視線を上げなかった、上げられなかった。もう光はない。どす黒く濁った薬液だけが見える。永遠に来ない目覚めの色だ。

 ツキ姉、とボクを呼ぶホタルの声が聞こえた気がした。

 ボクはそっと朝月の指先を握る。

 力強く握り返してくれる彼の手に導かれて、痛いくらいの沈黙を運ぶ配管に見下ろされながら、ボクらは死者たちの間を駆け抜ける。

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