〈17〉

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 両開きの扉の奥に広がる光景に、ボクは立ち竦む。

 蜘蛛の巣状に広がるキャットウォークも黒さも、円形のフロアを埋め尽くすタンクの青い仄明りも、そして天井に埋め込まれた、どこまでも底のない青空色の稀石も、すべてがあのころと同じだった。

 喉が締め上げられる不快感に、キャットウォークのどこかに転がっているはずのポリバケツを探す。見当たらない。

 引っかかり気味の呼吸を舌打ちで誤魔化して、ついでに腰の辺りまでずり落ちていたホタルを背負い直す。ねっとりとした温もりが、ボクの膝裏を伝う感触がした。

 か、こん、と寝惚けた音を立ててキャットウォークがボクの歩みを受け止める。ひたすらブーツの爪先だけを見て進む。好奇を含んだ視線が全方位から突き刺さるのがわかった。

 放射状に延びるキャットウォークの中央点まで来て、そろりと顔を上げる。

 ボクを見下ろすタンクの数は、覚悟していたよりもずっと少なかった。ヘレブでは立体的に三列もあったタンクが、ここでは一列しかない。

 キャットウォークの終着点、鉛色をした制御室の扉の上には翼を広げた鳥の紋章が刻まれていた。

 ヘレブの社章だ。

 母星の古代文字で『GYGESギュゲス』と綴られたプレートまで嵌っている。つまり、これは朝月が担当していた二番機ということだ。懐かしさ、と呼べる感情がボクの内臓をじんわりと冷やしていく。

 ご丁寧にヘレブにあったヘカトンケイレスを――いや一機分しかないからヘカトンケイルというべきだろう――丸ごと持ってきたらしい。

 突貫作業で傷の修復を終えた身体が、今さら錆びたように軋んだ。焦の銃弾が残っているのかもしれない。

 ふらりと膝をついた。ホタルの無防備な素足が喧しくキャットウォークの鉄板を打ち鳴らす。柔い骨を傷つけてしまったかもしれない、と考えながら、でも気にしている余裕はなかった。

 手すりの隙間から、奈落がボクを誘う。稀石には適合しないだろうと判断された『彼ら』を効率的に廃棄するための、墓穴だ。

 全てを下水道へと葬る通路までもが、忠実にヘレブを再現している。吹き上がる汚臭がボクに、人間のふりをした死人に、正しい居場所を示唆するようだ。

「……悪趣味、すぎるよ」

「そうかな?」

 思いがけず返事があった。ぎょっとして発言者を探す。

 砂漠で揺らぐ線路じみたキャットウォークを、コツカツとボクを問い質すリズムで鳴らしながら黒い革靴が歩いてくる。

 上質な黒い布に覆われた脚が、白衣の裾が、翻る。

 朝月だとは思わなかった。足音の硬さが全然違う。けれど、じゃあ誰かと問われればわからない。ぼんやりとボクに向かってくる脚だけを見つめる。

「アイオーンたちが妙な時間に騒ぐからなにかと思えば」男の声がねっとりと首に絡みつく。「君か、ノーベンバー」

 どうしてあなたが、と訊きたかったのに、乾いて引きつれた喉は呼吸すら閊えさせる。あまりにも懐かしくて、頭痛がひどい。目眩までしてくる。嘔吐感を誤魔化すために、「儀……大人」と絞り出すのが精一杯だった。

 苦い胃液を飲み下せず、キャットウォークにぶちまけた。酸っぱい匂いが鼻を突いて、視界が滲む。投げ出されたホタルの腕の生白さと首から上の肉塊の赤がちらちらと明滅している。

「やあ、お帰り」

 腐って糸を引く食材を思わせる、儀大人の抑揚だ。跪いた儀大人が、死体然とした張りのない掌をボクに向けている。

「君ならきっと戻って来てくれると信じていたよ、ノーベンバー。我が社の最高傑作、嬉しいよ。イオナでは一カ所にたくさんのナンバーズを留め置くことを許されなくてね。ここにはオーガストしか残っていなかったんだ。教会軍が突入してきた折に行方不明になった個体も多い」

 儀大人は、寝巻の袖から伸びたボクの腕を無造作に捕える。

 皮膚を侵して筋肉や神経まで毒されていくような錯覚を、咄嗟に振り払った。

 驚いたように見開かれた儀大人の眼が、ボクを壊し治っていく過程を楽しそうに眺めていたあの眼が、吐息の距離にある。

「あ……」

 ぱぱ、と腹の辺りで発砲音がした。

 儀大人が勢いよく尻餅をついた。その白衣に深紅が弾けている。

 なにが起こったのか、なにをしたのか、理解できなかった。ただ白と赤と、ヘカトンケイルの仄暗い青だけがボクの視界を埋め尽くす。

 ふわりと細い硝煙がボクを包んでいた。

 ボクの銃が他人顔で煙を吐いている。儀大人が赤く染まって倒れている。くつくつと真夜中の騒動を嗤う『彼ら』の声が押し寄せる。目眩がひどい。いや、眠気だろう。体の再生ばかりに必死になった心臓が、脳に血を回せずにいるんだ。自分が立っているのか、座っているのかも判然としない。

 儀大人を撃った。ボクが、儀大人を殺した。

 はは、と乾いた声が漏れた。

 両手を見る。儀大人を引き裂いた右手も、儀大人を振り払った左も同じ色だ。震えている。恐怖なのか歓喜なのか、ボクの知らない感情から生じた現象なのか、わからない。

「ふふ」と誰かの呼吸が笑った。

 周りを見まわしてみたけれど、どのタンクの『彼ら』も一様に神妙な顔で深夜の惨事を眺めている。ホタルだってキャットウォークに伏したままだ。

 この部屋にいない誰かの声だろうか、と天を仰いだとき、再び「ああ」とため息が聴覚に触れた。

 まさか、と否定するボクの脳を、嗅覚が裏切る。

 臭いが――稀人の腐臭が、した。

「儀、大人」と呼ぶはずが、胃液雑じりの咳になった。「どう、して……」

「どうして? ああ、どうして、か」

 脚を血溜りに投げ出したまま、上半身を起こした儀大人が笑う。とても嬉しそうに。

「君たちは一度死んでいるから、生き返ったときに記憶を持たない。僕は死ぬ前に自ら稀石を入れたんだ。確かにその後しばらくは記憶が欠如しているが、なに極一部だよ。とても快適だ。僕は賭けに勝った。ヘレブで積み上げた知識を持ったままイオナで新たな研究に従事できる。アイオーンを見た君ならわかるだろう。あの技術のおかげで人は母星で得ていたのと同等の電力エネルギーを得られるかもしれない。そうなればもう、教会の唱える夜の死神なんて誰も信じなくなるよ。またヘレブが、いや別にイオナという社名でもかまわないんだけどね、とにかく科学が世界を治める時代が来る」

 儀大人の独り言の半分だって理解できなかった。彼がなにを思って稀人になったのかも、彼がどんな未来を求めているのかも、どうでもいい。

 耳鳴りが大きくなる。ヘカトンケイルの駆動音なのかもしれない。それともタンクに閉じ込められた『彼ら』の嘲笑だろうか。実験する側とされる側が、互いに稀人となって再会する様は滑稽だろう。

「儀大人」必死に言葉を紡ぐ。「ボクは帰って来たわけじゃない。もう二度と、あなたの実験に参加する気はない」

「参加する気? そんなものを君に与えたことなど一度たりともないよ。君はヘレブの実験体だ。君が生存する限り、その体は隅々までヘレブのものだ。意思など要らないよ」

「あなたはその理屈でたくさんの仲間を殺してきた」

「死体が死体に戻っただけだろう? それに、あれくらいの損傷が修復できないのなら彼らは不適合だったとみなすべきだ」

 ほら、と儀大人はボロ布になった白衣の前を広げてどす黒く染まった腹を満足気に撫でた。再生したばかりの傷痕は、すでに周りの肌と同じ色にくすんでいる。

 確かに傷の治りはボクよりも早い。けれど、ずば抜けて、というわけじゃない。なにしろボクのナンバーは下から二番目だ。ボクを基準に稀石に対する適合率を計ったって仕方がない。

 そんなこと儀大人が一番わかっているはずなのに、彼は再び「ほら」と呟いて見せつけるように腹を撫でまわす。

「君がいなくなったときはとても心配したよ。大変な損失だ。ヘレブを解体しに来た軍人たちが総出で探し始めたときはさすがに笑ったけれどね、まさか人間を垂らしこんで逃げていたなんて」

 人間? 朝月のことだろうか? そうだ、と喉元が脈打った。朝月以外に、いるはずがない。でもボクらは、あの最後の見学者の前で別たれたきりだった。

 ボクの、最後の見学者からつながる記憶は下水道だ。体中に飛びかかってくるネズミたちを払い落しながら、腹にべったりとついた血を拭いながら、ひたすら朝月を探して闇の中を駆けていた。

 けれど、ヘカトンケイレスの真下、廃棄された不適合者たちの死体の渦からどうやって下水道に辿りついたのか、覚えていない。

 でも今ならわかった。

 朝月が、意識を失ったボクを連れ出してくれたんだ。

 それなのに、傷を修復して意識をとり戻したボクは、自分がどこにいるのかわからなくて迷子になった。そのままずっと、ボクは帰り途を見付けられずにいたんだ。

 朝月から遠ざかったのは、ボク自身だった。彼をヘレブに残して、ボクだけが外の世界に出てしまった。

「安心するといい。今さら罰したりはしないよ、ノーベンバー。軍の襲撃に驚いたんだろう? そういうことにしておいてあげよう。それに君は自分から戻ってきた。実験はすでに次の段階に入っている。君なら、新たな技術にも適合できるはずだ」

「研究なんて、あなたの罰なんて、もうどうでもいい」

 儀大人は腹に手を当てたまま首を傾げた。

 ボクはようやく、平静の欠片をとり戻す。朝月を拒んでまでここに来た理由を、噛みしめる。

「ボクは、ホタルを生き返らせたい」

 死なせたくない、と自分に言い聞かせながら銃口を上げる。レーザーポインタが血に呑まれてひどく覚束ない。

 けれど、儀大人はその光の意味がわからないのか、血だらけの指で胸元を泳ぐポインタを追いかける。ボクの希求を理解している様子もない。

「あなたが稀人にした女の子だよ」

 瞬き一つの間だけ落としたボクの視線に釣られて、儀大人もホタルを捉える。

「イオナの心臓はダメだ。教会で暮らしているイオナの稀人のようには、させない。ヘレブの、ボクと同じ精度の心臓を、この子に与えて。それが、条件だ。この子を生き返らせてくれるなら、戻ってもいい」

 儀大人は「ふうん」と鼻息を漏らして、壁に並ぶタンクへ不吉に首を廻らせた。

 眼球が、軋んだ。彼の視線の先を知りたいのに、それ以上に知りたくなかった。瞼が引きつる。ひゅう、と掠れた呼吸音が耳障りだ。

「ケイ!」

 不意にタンクを震わせた朝月の叫びが、空気の濃度を変えた。

 咳とともに呼吸を思い出す。

 視界の端に、キャットウォークを踏み締める朝月の靴が見えた。ボクと揃いの銃がヘカトンケイルの光を鈍く反射して尾を引く。ボクとタンクを切り離す軌跡だ。

 朝月が来てくれたことに、安堵した。朝月がオーガストやあの子たちではなくボクを選んでくれたことに、そしてボクがどこかでそれを期待していたことに、ひどい安心感を覚えた。

 それ以上に、嫌悪感が湧きあがる。自分から離れておいて、そのクセ彼に甘えようとした自分に対して、だ。儀大人に怯えて実験体に準じようとするボクの防衛本能すら、彼の前では霧散する。まるで人間のように。

 儀大人がのろりと膝を引き寄せて、立ち上がる。

「ケイ? なにかの暗号かい?」

「気にするな」元上司相手にも、朝月の返答は素っ気ない。「あんたには関係ない」

「ああ、ええっと。誰だったかな? 覚えているんだが、思い出せない。もどかしいね。この体になってからときどきこうなんだ」

「誰でもいいだろう、思い出さなくていい」銃を持たない朝月の手がボクの腕を取る。「立てるか?」

 膝が砕けた。竦みきった重たい体を引き上げようとキャットウォークの手すりをつかんで、ぞっとした。本能的に「朝月!」と叫ぶ。

 ほとんど同時に彼も気が付いた。けれど、引き金を絞る指が絶望的に鈍い。

 一呼吸前までは間合いの外で突っ立っていた儀大人が、朝月の銃口の真下にいた。翻る腕が朝月の首筋を掠める。黒い軌跡だ。

 ――万年筆。

 冗談みたいなそれが、十二分に凶器として働くことを知っている。

 ヘレブで一度だけ儀大人に反抗したとき、それで眼球を刺された。ペン先が脳にまで達して再生に随分とエネルギーを使ったらしい。もっとも、意識を失っていたボクはそれを研究者たちの笑い話で知った。

 朝月が侮りを滲ませて、避けた。銃の台尻で儀大人の側頭部を薙ぎ払う。はずだったのに、儀大人は朝月の銃を軽々とかわす。

 信じられない光景だった。

 朝月が殴り合いの喧嘩を仕掛けるように銃を振り回すことよりも、いつもぺたっとしたスリッパと白衣でボクらを切り刻んでいた儀大人が、朝月の攻撃を往なしていることのほうが、信じられなかった。

 二人が力強く踏み込む度にキャットウォークが慄く。人が三人も並べば転落の危険を感じる幅だ。細い手すりの外には、下水道へと続く奈落しかない。

 大慌てでホタルの体を引き寄せて骨の浮き出た細い手首を、ボクの肩から滑り落とした銃のベルトで手すりに縛りつけた。殺し合いの道具で、ホタルが万が一にも奈落に攫われないようにつなぎ留める。

 儀大人の万年筆が朝月の銃にぶち当たって弾き飛ばされた。握っていた儀大人の指もひしゃげたように見えたけれど、痛みなんて感じていないようだ。平然と骨が突き出た指先で朝月の肩から伸びる銃のベルトを絡め取る。

 ぎょっとした顔で朝月が腕を抜いた。ほとんど同時に儀大人が力任せにベルトを引き千切っている。

 キャットウォークを滑った朝月の銃がパン、と乾いた音を上げた。一発だけ。

 でも、儀大人にとってはじゅうぶんな一発だった。

 ボクらの視線が着弾点を探って彷徨う。

 その瞬間、二の腕に痛みが走った。ふらりと支えが揺らぐ。

 目の前に、朝月がいた。目を見開いて大きな回転式拳銃の先を、ボクの胸に押し付けている。

「撃つかい?」耳朶に、ねっとりと儀大人の息がかかった。「思い出したよ。君、ノーベンバーと個人的な付き合いをしていた技術者だね。職場復帰なら歓迎するよ」

 儀大人がくつくつとボクの背後で笑う。ボクの腕を捻りあげて、キャットウォークの手すりに腰を預けて、儀大人はとても楽しそうにボクの胸に食い込んだ銃口をつついた。

 暴発を恐れる速度で、朝月の銃口が離れていく。けれど銃身はブレない。伸ばし切っていた腕を緩めただけで、朝月は真っすぐにボクの体越しに儀大人を狙っている。

「ひょっとして、今は『解放の子供たち』なのかな? ここにある稀石を奪いに来たのかい?」

「『解放の子供たち』は」朝月の声が掠れている。「稀石を破壊する組織だ」

「それなら、ここにあるじゃないか」

 儀大人の掌がボクの胸元をつかみ締めた。鈍い痛みが走る。儀大人の指が、ホタルに抉られた傷痕に侵入しようとしている。再生したてでまだ軟らかい肌は、容易く儀大人の爪に負けて陥没する。

「ここに最高傑作がある。ヘレブでも十二人しか適合しなかった最高純度の稀石だよ。イオナにだって造れなかった代物だ。ほら、これを取らないのは嘘じゃないかい? ねえ、アサヅキくん」

 キチ、と引き金の遊びが底をつく音が応じた。

 朝月は目を見開いたまま動かない。強張った彼の頬が痙攣して、薄く唇が解けて、声にならない息を追い出していく。

「僕の心臓だけとるのは不公平だよ。僕らは同じイキモノなのに」

 見せつけるように、腐った血の臭いをまとわりつかせた儀大人の腕がボクを抱き込む。

 吐き気がぶり返してきた。ひょっとしたら、彼の指先には致死性の毒が潜んでいるのかもしれない。だとすれば、この死臭はボクのものだ。

 死者を生かす薬液と甦った死体の血の臭いの中で、朝月だけが清浄な人間だった。

 朝月の唇が動く。儀大人の耳障りな呼吸が全ての音を乱す。

「君だってどうせコレを」儀大人の爪が寝巻を巻き込んでボクの心臓に達する。「とるんだろう? 遅いか早いかだけで、人間たちは全ての稀人を殺すつもりなんだろう。知っているよ、『解放の子供たち』。人間は不老不死に憧れるくせに、他人がそれを手に入れると途端に疎ましくなるんだ。いいじゃないか、どうせみんな殺すなら僕を最後にしてくれればいい。僕が手掛けた稀人たちだ、僕が最期を看取るのが正しい責任のとりかただろう」

 喉から空気を逃がして儀大人が笑う。「違うかい? ほら、これだよ、ほら」と狂ったように、いや狂っているからこそ、たくさんの言葉を積み上げて朝月を急かしている。

 朝月の指が引き金の遊びを彷徨っている。絞って、開いて、また絞って、遊びの底で幾度も迷う。

 撃つことを躊躇っているわけじゃない。

 彼は撃てる。この町で再会したときから、いやヘレブの制御室で二人の時間を持つようになったころから、彼はずっとボクの損壊と再生を計っていた。死と蘇生の境目を、探っていた。

 彼は早い段階で死が、石の心臓を抉り取ることが、稀人たちを解放する唯一の方法だと気付いていたのだろう。だからこそボクの死を恐れているのだ。朝月はボクが、ボクの死を求めることを、恐れている。そして朝月自身が、ボクが死を望んだ場合に拒めないことを、恐れている。

 だから、ボクはそっと手を伸ばす。儀大人に拘束されていない左腕を、呼吸に沿わせて慎重に。

 朝月が気付いた。視線が絡み合う。

 出逢ったときはボクの外見よりも幼かった。今だって生きてきた時間はボクのほうが長い。それなのに彼はもう、ボクの手が届かない精悍さを手に入れていた。恐れて迷って、それでも決断することのできる大人の、成長する人間だけが宿す強い眼光でボクを捉えている。

 ボクの指先が、朝月の銃に触れた。痛いくらいに冷たい温度だ。回転式弾倉の曲線を撫でて、引き金を掠めて、朝月の指先に触れる。石であるボクの心臓までもを目覚めさせる体温が、そこにある。

 背後ではまだ儀大人の呪いが続いていた。合間を縫って『彼ら』のざわめきも聞こえる。

 ヘレブで迎えた最後の見学者を思う。あのときは、『彼ら』の忠告を聞き流してしまったけれど、今日は違う。オーガストの子供たちが、物珍しさにヘレブの稀人に加担しようとする『彼ら』が、次々と新しい情報を知らせてくれる。一つだって聞き逃さなかった。

「大丈夫」じわりと血液の流れを意識する。「まだ」

 死なない、と告げる言葉尻を地響きがかき消した。所長が率いる『解放の子供たち』だ。遠くで断続的に爆発音が響く。

 ボクらはほとんど同時に動いた。

 ボクは全体重をかけて儀大人を突き飛ばした。手すりの向こうへ、不適合だろうと判断された死者たちが投げ捨てられる奈落へ、落ちろ、と全霊で呪いながら血で粘つく白衣ごと体を投げ出す。

 朝月が素早くボクの手首を捕らえた。逆の手で拳銃の照準をボクの背後へと据える。

 鼻先で火花が弾けた。立て続けに二発、ボクを掠めた朝月の銃弾が、儀大人を襲う。

 耳から脳に駆けて鋭い痛みが走った。至近距離での発砲に鼓膜が裂けたのだろう。優秀なボクの血が即座に傷をつなぎ合わせるのがわかった。

 脳漿を弾けさせた儀大人の背中が勢いよく手すりの外へと飛び出していく。けれど、辛うじて残った儀大人の眼球はボクを捉えたままだ。

 視線が合った。瞬間、ボクの首筋に黒い靴が絡みつく。振り解く間もなく、引き摺られた。朝月の指が、簡単にボクをすり抜ける。

 はは、と耳障りな儀大人の笑い声が落ちていく。

 そしてボクも。

 くすみのない青が瞬いている。人間たちが愛する昼の空だ。

 届くはずのない色に手を伸ばして、キャットウォークの端から覗くホタルの小さな手に雲の残像を見て、ボクは落下に身を任せる。

 朝月の顔が見えた。ボクに捨てられるかもしれないと怯えたシュンの表情にとてもよく似た、ひどい表情だ。

 ごめんね、と舌の奥で謝って、瞼を閉ざす。せめて朝月の網膜に残るボクが安らかであるように願って。

 でも本当は、奈落に逃げ出すボクを責める『彼ら』を、底で待ち受ける儀大人を、見たくなかっただけなんだ。

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