第6話 〈16〉

〈16〉


 子供たちから逃れるように細い通気ダクトに潜り込んだ。いくらも進まないうちに、湿った地下のにおいが乾いていく。鼻腔に届くのは、神経質に管理された空気だ。きっと雑菌ひとつ舞っていないのだろう、と知れる。ヘレブと、同じだ。

 突き当りの金網を突き破った朝月の肩越しに、ボクは過去の残骸を見る。

 機械的に調節された電光が煌々と静謐な世界を照らしていた。どこを見ても白一色の廊下だ。施設をくまなく洗う乾燥した風が、地下の湿度に甘えていた鼻の粘膜を刺激する。

 紛れもなく母星から持ち込まれた技術で固められた、ヘレブの研究施設だった。いや、今はイオナの、か。

 教会はヘレブの全てを武力で否定しておいて、その中身だけをそっくり自分たちの懐に納めてしまっていたらしい。街の人々に電力を提供する『イオナ社』なんて結局、看板を掛け変えただけのヘレブ社に過ぎなかった。

 この事実をぶちまけてしまいたい欲求に駆られた。でもこんな話を真面目に傾聴してくれる相手も思い浮かばない。

 人間なんて、自分が信じたい物事だけを信じて、その思い込みに縋る生き物だ。

 時間のせいか、人気はない。廊下の天井を這う配管から注がれる『彼ら』の声も、心なしか寝惚けているようだ。

 そう安堵しかけたとき、ばん、と緊張し過ぎて弾け切れた弦楽器めいた音がした。

 気のせいかもしれない、気のせいであってほしい。そう願ったのに、ソレは再びボクの耳朶を掠める。

「どうした?」

 ダクトから飛び降りたきり動かないボクを、朝月が不思議そうに振り返った。当然だけど、彼には聞こえていないんだ。

 汗ばんだ掌で、項に絡まる過去の残響を払い落とす。

「仲間が、いる」

「仲間? 所長か?」

「違うよ」

 所長であればどんなによかったか、と苦々しく思いながら『彼ら』の興味を引かない程度に歩調を早める。

 道筋に迷いはなかった。配管から降り注ぐソレが、全てを教えてくれている。

 あのころみたいに、どこまでも真っ白な床と壁が続いている。一瞬だけ勘違いしそうになったけれど、ヘレブには存在しなかった物体が、ここではまるで高価な装飾品のように透明なケースに入れられて、あちこちに配置されていた。

 ――対稀人用の銃剣だ。つまりイオナ社は、自分たちが生き返らせた稀人に襲われることを危惧している。いや、ひょっとしたら、自分たちが生き返らせたわけではない稀人を、恐れているのかもしれない。つまりボクたち、ヘレブの稀人だ。

 物騒なケースをいくつも通り過ぎて次の角を左に、巡回の兵士が来たからしばらく停止してやり過ごす、そこから四つ目の扉。

 けれど、そこでおしまいだった。配管から伝えられる指示通りに歩いて来たのに、ソレは終点の扉を開ける暗証番号を教えてくれなかった。

 スライド式の薄くて白い扉を前に、ボクらは立ち尽くす。

「どうした?」

「開錠番号は知らないらしい」

「ああ、これか」と頷いて、朝月は扉の脇に設置されたセキュリティボックスのパネルカバーを開ける。軽快にキーを叩く音がした。

 ブピーと間抜けな音が応じる。

「あれ? こっちじゃないのか」などと呟き、朝月はまた指を躍らせる。「こういうのには管理コードってのがあってな」再びエラー音を鳴らした朝月が舌打ちをする。「電子セキュリティーは母星の技術だから、いじれる連中は少ないはずなんだが……さすがにヘレブ時代とは変えてるか」

 素早く閃く朝月の指先を見ながら、ボクはヘレブの施設を思い出していた。

 ヘレブにはいくつもの研究棟があって、ボクらは与えられた研究棟から出ることを許されていなかった。そのかわり、棟の中の担当区画ならどの扉も、IDカードや暗証番号を入れれば通っていいことになっていた。

 生き返ってからずっと、ヘレブにあったのはカードや番号次第で勝手に道を開けてくれる扉ばかりだったから、外の世界の扉を初めて見たときはとても戸惑ったのを覚えている。

 外界の扉はどれも自分の手でノブを捻って、重たい戸板を押し開けなきゃならなかった。体重をかけて肩で押し込む扉の重厚さといったら、扉の向こうにある大気がボクの逝く手を阻もうと質量を持ったのかと勘繰るくらいだ。もちろん扉の錠を外すのに必要な鍵だって、ヘレブなんかよりずっと複雑だった。カードや番号じゃなく、棒の先に細かい凹凸が刻まれた、扉ごとに異なる形状をしているものだ。

 いったいどんなに重要な情報が隠されているのだろう、とその扉を目にするたびに期待していたけれど、結局外の世界の扉だって、大切に内包していたのは人間の生活だけだった。それすら、外界に出て数年もすれば、細い金属棒を二、三本突っ込んでガチャガチャとやれば簡単に開くことを学んでいた。

「よし」と嬉々とした朝月の声でボクは現在に戻る。信用度の低い扉があっさりと横に滑って口を開くところだった。

 甘ったるい薬品臭が不思議な粘りを帯びて押し寄せる。ヘレブでは嗅いだことのない類の臭いだ。

『久しぶりね』とボクを導いてくれた配管の声の主が――が、ボクの血中にある稀石を通して直接、囁きかける。

「久しぶりだね」ボクは声帯の存在を意識して、応じる。

『お帰りなさい』

「帰って来たわけじゃないよ」

 ゆっくりと踏み込んだ室内は青暗い明かりに照らされていた。

 いくつもの細長いカプセルが斜めに寝そべって、侵入者であるボクらを見下ろしている。数は、十二基。表面を覆う装甲の上半分が透明なガラス窓になっていて、中に満ちる薬液を泳ぐ気泡が見えた。肝心の中は、滑らかに湾曲したガラス面に反射した光に遮られて、わからなかった。

『あら、そうなの? じゃあ今は、別の地域の研究室にいるのね』

「それも、違う」

『謎かけは嫌いじゃないわ』

 くつくつと笑う彼女の声が、部屋に張り巡らされた配管のそこここから降ってくる。つまり、彼女はこのカプセルのどれかに内包されているということだ。

 ボクは首を伸ばしてガラス窓からカプセルの一つを覗き込む。

 侵入者を威嚇する仔ネコのように髪を逆立てた子供が漂っていた。鎖骨の辺りから黒くて太い管が生えている。

『わたしの子供たちよ』

「君の、子? どういう意味?」

 朝月は不思議そうにボクを見下ろしたけれど、なにも言わずにカプセルへと視線を戻す。

『言葉のままよ、それ以上の意味なんてないわ』

「稀人は子供を産まない」

『産まないけれど、生むことはできるのよ』

 意味がわからなくて、理解してもいけない気もして、ボクはそっと呼吸を呑みこんだ。そして次の一歩で、本当に呼吸を止める。

 部屋の奥に、円柱タンクが直立していた。薄水色に透き通った薬液で満たされたそれには、何本もの太いパイプが天井からタンクの底から生えている。その中に、彼女はいた。

「……どういうこと」

『どうって?』

「どうして……そんな姿に」

『素敵でしょ』

「おい」朝月がボクの鼓膜と背筋を震わせた。「なんだコレ。こいつ、ヘレブにいた稀人だろ。なんだってこんな」

 朝月は曖昧に声の切れ端を逃がして、沈黙する。そのくせ視線と銃口だけは、から離れない。

『なにに驚いているの? 環境への適合は、わたしたちに与えられた生存意義だったはずよ』

 そうだっただろうか。いや、違う。ボクらの存在意義は死んで、生き返ることだ。何度も殺されて、何度も傷付けられて、それでも無傷で生き返ることだ。

 だってボクらは、たった一人の女の子が美しく生き返るためだけに造られた、実験体なんだから。

『あなたは今、どこの研究所にいるの?』

「ボクは……どこにも所属していないよ。外の世界にいるんだ」

『外の世界?』コポ、と薬液の中を泳ぐ気泡が不思議そうな軌跡を描く。『また見学者の案内をしているの?』

「違うよ。壁画の向こう側だ。人間の世界にいる」

『人間の? どうして?』

「どうしてって……」

 そういえば、どうしてボクは外の世界にいたんだろう? と今さら考える。

 ヘレブでの記憶は朝月の叫びを聞きながら、最後の見学者の銃弾に倒れたところで終わっている。次の記憶はもう、外の世界だ。その間になにがあったのか、ボクは知らない。

 きっと朝月なら教えてくれるとわかっていながら、触れられずにいた。

『外の世界なんて』彼女の声が嘲笑の響きで降ってくる。『わたしたちがいるべき場所じゃないでしょう。あれは人間が、人間のためにだけに創り上げた世界よ。そんな場所に適合する必要なんてないじゃない。わたしたちはヘレブの実験体だし、今のわたしはイオナの実験体として環境に適合している。あなたはいったい、そんな重たい脚を引きずって、どこに行こうっていうの?』

 ボクは彼女の脚を見る。いや、脚だったはずのものを。

 美しい仄明りに炙られた円柱タンクの中を、彼女は漂っていた。

 ボクはタンクを泳ぐ彼女に、ヘレブの面影を探す。

 記憶と違わぬ彼女の顔は、どこか寂しそうにかげりを帯びていた。その下半分、鼻から下を透明なマスクが覆っている。ヘレブの廊下を闊歩する彼女が翻していた赤茶色く長い髪は、今や白く短くなってしまっている。全裸の彼女を見たのは初めてだったけれど、服の上からでもわかるほど誇らし気に強調していた胸も、美しい双丘を保ったままだ。

 彼女は、完璧な芸術品だった。上半身だけは。

 醜く引きつれた下腹部から、ボクの腕ほどの太さもある管が何本も生えていた。彼女をタンクに縫い留めるようだ。なによりも、健康的な曲線を描いていた彼女の脚は、布切れのように萎んで薬液の流れに遊んでしまっていた。骨が、形成されていないんだろう。

 稀人の再生能力から考えれば、それは確かに彼女のいう通りの適合だろう。この円柱タンクの中だけで生きていくには必要のない部品なのだから。けれど。

「これが」と紡いだ喉が潔癖すぎる空気に怯えてひりと痛む。「君の言う生存なの?」

『あのころよりも素敵よ』

「素敵?」

『だって、痛くないもの』

「つまりこれは、君の意志なの?」

『意志?』彼女の呼吸が、緩んだ気がした。『そんなもの、いつだって一つもなかったじゃない』

「あったよ。君が気付かなかっただけだ」

『そんなものに気付けたのはあなただけよ、ノーベンバー』

 ノーベンバー、序列十一番目の稀人。

 ボクに――優秀な再生能力と学習能力を持つ稀人にだけ与えられていたコードだ。忘れたことはなかった。同時に忘れたいとも思っていた。けれどここはヘレブの技術を継いだイオナ社だ。だからボクも彼女を、コードで呼ぶ。

「だから脚を捨てたの? 八番目オーガスト

『だって、邪魔じゃない』透明なマスクの下で唇が蠢いた気がしたけれど、彼女の声はやっぱり天井の配管から降ってくる。『想像してみて。誰かがそう望んだなら、あなただって脚くらい捨てられるでしょう? 脚があったってどうせ、わたしたちに行く場所なんてないんだから』

 そんなはずはないのに、オーガストの声が聞こえたように、朝月が身じろいだ。空調の稼働音に紛れるオーガストの思念を拾ったように床と天井を這う配管を平等に見回して、彼は静かに口を開く。

「その女を、覚えてる」

『光栄だわ、ヘカトンケイレスの技術者』

「オーガスト。赤銅色の髪で、脚がきれいだった女だろ」

『意外ね。てっきりノーベンバー以外の誰にも興味がないのかと思っていたわ』

 ボクは通訳しなかった。それでも朝月は小さく頷いて、背後に立ち並ぶカプセルを振り返る。

「ヘカトンケイレスに見学者を連れて来てるのを、何度か見かけた。皮肉だな」

苛立ちとも失笑ともつかない短い息を一つ漏らして、朝月は艶やかに湾曲したガラスの筒に浮かぶ彼女を見上げた。

「今はお前が機材の一部なのか」

 薄く、オーガストの瞼の下から濃紺の瞳が覗いた。ふやけた角膜が白く濁っている。薬液の揺らぎかもしれない。だって、髪と脚を失い、施設につながれてしまった彼女が、まだ肉体に意識を宿すことに意義を見出しているなんて、残酷すぎる。

「この部屋の電力源は、お前だな。電気を着けろよ。昔のよしみだ、素敵な意志とやらを見せてくれ」

 ヴォン、と空気が震えた。ボクは咄嗟に瞼を伏せる。これ以上彼女の状態を、ヘレブから奪われた技術に蝕まれている仲間を、見たくなかった。

 けれど、覚悟した光の奔流は起こらなかった。かわりに青い光で浮かび上がった彼女が、はっきりと瞼を持ち上げて宵闇色の瞳でボクらを見下ろしている。

 ゆら、と彼女の両腕が薬液を掻き、ガラス面に張り付いた。輪郭を膨張させた、ふやけたきった掌だ。爪がないせいで、指先がいやに太って見えた。

「オーガスト……出よう。こんなところにいるべきじゃない」

『嫌よ!』マスクと薬液を震わせた彼女の肉声が、ボクの懇願を叩き落とす。『冗談じゃない、どうして出なきゃいけないの。わたしはこんなに幸せなのに!』

「幸せ?」

『わたしは、一度だってあなたの幸せを壊したりしなかったじゃない。わたしも、他の仲間も、あなたがその人といることを儀大人に告げ口しなかったじゃない。それなのに、あなたはわたしの幸せを壊すの? また、あの苦痛に満ちた日々に戻れって? 嫌よ、絶対にイヤ』

「でも、こんなのは……」

 天井に低音が生じた、と思ったときにはキキンと電灯が甲高い軋みを連れて点っていた。不意打ちで網膜を焼かれて眼底に鈍い痛みが走る。

 明るい世界の中で彼女が、彼女の身を封じる装置の正体が、じわりと浮かび上がった。

 彼女が泳ぐ円柱タンクとの下に、濃緑色の液体の入ったガラス瓶がある。タンクと瓶をつなぐ管からぽたり、ぽつり、と黒い球体が転がり落ちていく。くるくる、ふよふよ、と楽しげに表面を波立たせながら落ちた球体が瓶の底に転がり、拳ほどの大きさの塊に吸い込まれていく。身を震わせて、その石が薄暗く瞬いた。

 ――稀石だ。

 劣化した血の発光色なのに、そう直感した。これは、稀人の血に溶け出した微細な稀石を集める装置だ。

 愕然と、ボクらを取り囲むカプセルの足元を振り返る。同じだ。濃緑色の液体を満たした瓶が、その底に稀石の拍動を宿している。

「君の血から、稀石を抽出してるの?」

 朝月は短く息を吐いた。そんな技術を思い付いたイオナへの嫌悪なのか、その手法を思い付けなかったヘレブへの失望なのかは、わからない。

『わたしを撃ったら』

 配管から響いた彼女の声で我に返る。いつの間にかボクの銃のレーザーポインタが、彼女の腹を彷徨っていた。慌てて下ろす、つもりだったのに腕が動かない。レーザーの赤が薬液を割いて一直線に、彼女に伸びている。

『その子たちも殺すことになるのよ』

 十二基のカプセルに眠る子供たちが、白く光を反射する楕円形の窓越しにボクらを見下ろしている。

『その子たちだけじゃないわ。わたしを殺せば、この実験棟の全ての電源が堕ちる。稀石を生みだす子供たちや実験中の仲間、ひょっとしたら仲間になるかもしれないヘカトンケイレスの死者たち。あなたに、みんなが殺せる?』

 喉が妙な音を立てた。言葉にならない悲鳴と嗚咽と罵声が、胸の奥で我先にと外への道を争って呼吸を締め上げている。

「ケイ」朝月の温かい手がボクの肩を包む。「なにを言われた」

「彼らを……」カプセルの硬質な輝きに責められている気分で眼を伏せた。「彼女を傷付けることは、彼らを傷付けることだと……。彼女こそがこの施設の電力源だから、彼女がここを出ればみんな死んでしまう」

「ハッタリだ。電力の供給源に対する警備がこんなにザルなはずないだろう」

「でもっ!」

「落ちつけ。別にここにある全てを壊すつもりで来たわけじゃない。この女を殺す必要がないなら、放っておけばいい」

「放って、おけないよ。放っておいていいわけがない。彼女はボクだ」

「違う」

「違わない! ボクと彼女の違いなんて、君が構ってくれたかどうかだけだ。あのとき、ヘレブで君はボクを人として扱ってくれた。でも、彼女は実験体だった。今でも、実験体のままだ。それを、この状況を、彼女は幸せだと言うんだ」

「なら放っておけ。幸せなんて、人それぞれだ」

 首を振る。駄々を捏ねるシュンのように髪を乱して、ボクは銃を放した手で顔を覆う。

「ボクには選択肢があった。外の世界でいろんなものを見て、いろんな人と出逢って、死ぬことも生きることも、人間のふりをすることも選べた。出頭してこの心臓を差し出すことだって、イオナの実験体になることだってできた。でも、彼女は、違う。ボクと彼女が、同じ基準で幸せを選んでるはずがないんだ」

 朝月は宥めるようにボクの背を一撫ですると、肩から吊るした銃を背中に回した。壁際に設置されたハシゴに足をかけて、彼は慣れた様子でカプセルの上部に張られたキャットウォークに飛び移る。

「なにをする気?」

 声が二重になった。ボクの血の中でオーガストの不安が音になったのだろう。

 朝月が無造作に管理パネルを操作し始める。

『やめて、わたしに構わないで。放っておいて。わたしは幸せだと言ってるじゃない!』

 どうして壊そうとするの、と啜り泣く声は、朝月の血にも鼓膜にも届かない。そんなことは理解しているはずなのに、彼女はボクの血を震わせて懇願し続ける。

『どうしてわたしを過去に引き戻そうとするの。ヘレブに戻るなんて、絶対に嫌。脚も手も、全部わたしのものよ。誰にも斬り落とされたりしない。もう誰にも斬られたりしない、したくない。お願いだから、もう、放っておいて』

 筒に張り付いたオーガストの掌がキィと不思議な音を立てる。爪じゃない。ふやけて紫色になった肉を突き破った細い骨がガラスを掻いていた。

「オーガスト、お願いだから、出よう。外で、実験体じゃない生き方ってものを、試してみよう。ほら、脚を治して。一緒に、行こう。その程度の傷を治せない君が、本当に素敵だと思ってるの? 稀人としての能力は、生存意義は、機械の動力源なんかじゃないだろう?」

 夜を裂いた高速列車の異臭を思う。誰かの、ひょっとしたらボクらが知る仲間の胸から抉りだされたものだったのかもしれない。苦痛に顔を歪めただろうか、それともようやく訪れる死に安堵の息を吐いたのだろうか。でも、そのどちらだってボクらが望む未来じゃない。

 強張ったオーガストの頬から白い皮膚組織が浮き上がり、薬液の流れに呑みこまれて濾過装置へと吸い上げられていく。

『……治せるわ。こんな傷くらい簡単に、今でも』

「ボクは傷を負ったことにすら気付かない。気付く前に治ってしまう、その速度こそが稀人の生存意義だろう」

 オーガストの瞳がゆらりと落ちる。濁った手形をガラスの曲面に張りつけて、けれどそれすら完璧に設定された浄化装置によって消されていく。

 まるで彼女に付随するものは稀石を生む血液以外要らないのだ、と主張するイオナの悪意のようだ。

「外の世界を見て、それでもここが好ければ戻って来ればいい。君には選択肢が与えられるべきなんだ」

『ああ』彼女は諦めたようにマスクの中の呼吸を淀ませた。『あなたは幸せなのね、ノーベンバー』

 あなたは、と言ったオーガストは、自身の幸せが虚勢であることを認めたのだろうか。ボクが失われた彼女の脚を嘆いているように、彼女もボクが失ったなにかを、たとえばノーベンバーという無機質なコードを、惜しんでいるのだろうか。

『あなたは幸せなのよ』オーガストは再び、今度は独り言のように呟いた。『だからそんなにも身勝手で、残酷なの』

「残酷……」

 残酷だろうか? 残酷なのだろう。ボク自身も薄々察していた。認めたくなかっただけだ。でも、彼女は一つだけ勘違いしている。ボクが残酷なのは幸せだからじゃない。幸せな夢を手放したくないからだ。

「ケイ」

 朝月に呼ばれて配管を見上げる。電灯の白が、彼を包んでいた。侵入者らしく黒一色の装いなのに、一呼吸だけそこに白衣の幻影を見る。

「お前には、こいつらの声も聞こえてるのか」

「聞こえるはずだけど、今は聞こえないよ。彼らは眠っている」

 オーガストのタンクと子供たちのカプセルを渡る配管が震えた。朝月の足が二度、三度とそれを蹴りつける。

『やめて!』

「起きろよ。俺は」

『嘘、どうして今』

 朝月の暴挙にだけではない動揺が、オーガストに走ったのを感じる。

「朝月、誰か来る!」

 ほとんど同時に扉が音もなく開く。廊下の白い壁から生まれてきたような白衣を着た男が手にしたファイルから眼を上げて、急停止した。

「えっと、ごめん、どこの」

 子だっけ? と男が平和なことを言い終えるより早く、配管を蹴った朝月が飛び降りる。ぐげ、と潰れた悲鳴が聞こえた。男の右腕を背中に捩じりあげて、朝月は瞬き一つの間に男の白衣を床に縫い止めていた。

『やめて! その人に手を出さないで! 警備兵を呼んでやる!』

「朝月、警備を呼ばれる。その人を傷付けないで」

「呼んでみろよ」

 短く息を漏らした朝月の言葉を聞き間違えたのかと思った。けれど彼はゆっくりとボクの肩越しのオーガストを見上げて、挑戦的に唇の端を引き上げた。

「呼べるなら、呼んでみろ」

「朝月! 『彼ら』の情報網を甘くみないで」

「ヘカトンケイレスに収納されていた連中の意識は常に排水管の中を漂い、体にはなかった。だからこその情報伝達速度であり能力だ。人の意識は分断されたりしない。その女の意識は今、俺たちにある。意識を他所にやれるもんならやってみろよ。その瞬間」キチ、と引き金の遊びが底をつく音がした。いつの間にか朝月の銃が男の後頭部に寄り添っている。「吹き飛ばしてやる。人間が、お前のように再生すると思うなよ」

 怯えたのはボクだろうか、それともオーガストだろうか。わからない。血液が急激に冷えたことだけは自覚できた。

 朝月は人間なのに、いや人間だからこそ、その脆さを脅しとして使えるのだ。それが、怖かった。その脆さを自覚しているにもかかわらず銃を片手にこんなところに乗り込んでくる彼の刹那的な生き方が、ボクとは全然違う死への覚悟というものを表しているようでひどく恐ろしい。

 一度しかない死に怯えない彼は、どうしてボクの望みをその手で受け止めようとしてくれるんだろう。

 緊張感のない呻きを漏らした男が、朝月に拘束されていない方の手で頭を擦った。

「なんなんだ。オーガスト? 無事かい? 君たちは……どこの所属だ。ひょっとして侵入者なのかい? まいったなぁ。見ての通り、僕は兵士じゃないよ。ちょっと放してくれないか。痛いいたいいたい、肩が外れるじゃないか」

『その人を傷付けないで』

 見開かれたオーガストの瞼は、もう半ばまで組織が崩壊していた。急に動かしたせいで細胞が驚いたんだろう。対照的に、剥き出しになった眼球は濁りを排し、精力を取り戻している。

『その人だけは、お願い』

「朝月」ボクの声が彼女の嘆願を引き継ぐ。「その人を放してあげて」

「アサヅキ?」男が首を捻って彼を見上げた。「聞かない名前だけど、ホントに君たちはなんなんだ。反教会組織かい?」

「ヘレブの残党だ」と朝月がはっきりと名乗る。

「『解放の子供たち』だよ」と言ったボクの弱い声がかき消えるくらいに、朗々とした響きだった。ボクらの声は歪に絡み合って、タンクの下に並ぶ瓶を震わせる。

「ヘレブ? ああ、ああ、そうか」男は頬を床につけたまま激しく頷いた。「イオナに移籍しなかった技術者が反教会組織に流れたって噂が」

「『解放の子供たち』に教会への対立意思はない」

「え、違うのかい? まあいいよ、ほら、放してくれないかな。こんなところで暴れるつもりはないよ。君たちに勝てるとも思わないし、なにより機材が壊れると困るしね。やあ、オーガスト、気分はどう? ヘレブの技術者なら君の知り合いかい?」

『最悪よ、ドクター。脚のある昔の知り合いなんて、亡霊を見ている気分になる』

「顔色がいいね。やっぱり昔の仲間に会えるのは嬉しいかい」

『あなたを傷付ける乱暴者なんか、嫌い。こんなところまで案内するんじゃなかった』

「やっぱり付き合いの短い僕なんかより、ヘレブからの知り合いといるほうが数値が安定するのかな? 妬けるね」

「口を挟んで悪いけれど」ボクはオーガストへの同情心から割って入る。「なに一つ会話が噛み合ってないよ」

「会話って」男は首を捻って不思議そうに瞬いた。「君、ひょっとしてオーガストの声が聞こえるのかい?」

「彼女はボクらに会ったことを、ボクらをここまで案内したことを、とても後悔している」

「君は……じゃあ君も、まさかヘレブの稀人なのかい? ナンバーは? どこの班に所属していたんだ? 責任者の名前は?」

 応じたのは、男の顎先が床に打ちつけられる鈍い音だった。

「ふざけんなよ」朝月の銃の台尻が男の頭頂部を押さえ付けている。「この状況でお前が質問できる立場か」

『殴るなんて……その人は人間なのよ!』

「いや、失礼。動いてるヘレブの稀人なんて滅多に出遭えないから、つい興奮してね。通訳を頼めるかい? 一度、彼女と話してみたかったんだよ。ほら、いつもガラス越しだろう」

 問題はそこじゃないよ、と思いながらボクは銃を緩慢にオーガストに向けた。

 瞬間的に男の顔色が白くなったけれど、それも朝月が男の上から退くとすぐに元通りだ。呑気に白衣のシワを伸ばしたりしている。

『話って……わたしと喋りたいってこと?』

「話したいなら」ボクはオーガストの、マスクに封じられた顔を仰ぐ。「口を使いなよ」

『口なんて、必要ない機能でしょう』

「君にとってはね。でも人間と話したいなら、声にしなきゃ伝わらない。稀人同士でだって薬液に浸かっていない限り、口を使わなきゃなにも伝えられない。今のボクと君がそうだろ。君は君の血で話すけれど、ボクは声を出している。ボクらが震わせることのできる物体なんて自身の血と、その得体の知れない薬液が接している器具だけで、薬液に触れていないボクが君に想いを伝えるには、ボク自身の声でガラスと薬液を振るわせるしかない。これが生き物の同士の距離ってやつだよ。言葉は難しい。正しく選択したつもりでも伝わらないこともあるし、間違った言葉を使ってしまってもちゃんと伝わっていることもある。君だって」ボクはそっと優しい手付きで銃の安全装置を外す。「ヘレブにいたころは口を使っていたはずだ」

 パン、とオーガストの美しい頬にヒビが走った。ボクの放ったたった一発の銃弾が彼女を閉じ込めているタンクに穴を開ける。薬液が吹き出した。

 ぎょっとオーガストがタンクの穴へ顔を向けた。その勢いで、彼女の顔にへばりついていた瞼が完全に剥がれてしまう。崩落した彼女の皮膚組織は、すぐに浄化装置に吸い込まれていった。

「ほら、立たないと口が沈むよ」

 オーガストの肩口に開いた穴から粘度の高い薬液が流れ続けている。逆立っていた彼女の髪先が空気に触れた。骨の生成を放棄した彼女の脚が体を支えられるはずもなく、彼女は下がり続ける水面に従って、沈んでいく。タンクの天井からつられたマスクが最後まで彼女を引き留めようと伸びて、弾け飛ぶ。

「ああ、なんてことを!」

 突き飛ばされて、無警戒だったボクはカプセルの一つに背中から倒れ込む。朝月が咄嗟に腕を伸ばしてくれたけれど、ボクと彼との間には絶対的な距離が横たわっていた。ボクは彼の影の中で尻餅をつく。

 男の白衣の裾がボクを掠めて、たくさん並んだ機械に走り寄る。忙しない操作音に応じて、オーガストを取り囲んでいたガラスの筒が静かに床に呑み込まれていった。彼女に取り残されたマスクが宙ぶらりんに揺れている。

 支えを失ったオーガストが男に取り縋ったようにも、男がオーガストに抱き着いたようにも見えた。

 白衣が薬液の緑に染まっていく。オーガストの、いやボクたち稀人の、腐敗した死肉の色だ。

「脚なんか、急に再生できるはずがないだろう。なんて無茶なことを!」

「俺は」男の叫びを、朝月の静かな声が押し潰した。「ずっと訊いてみたいことがあったんだ」

 男は振り返らなかった。朝月の存在を黙殺して、脱いだ白衣で乱雑にオーガストを包んでいる。その裾から覗く薄っぺらい脚の明度とタンクの底につながった太い管の暗色が、引きずり出された内臓じみてひどく醜悪だった。

「ヘレブにいたときから、訊きたかったんだ。稀人が人間をどう思ってるのか、なにを望んでるのか」

 ガン、と物凄い衝突音が空気を震わせた。ボクだけじゃなく、男も肩を強張らせて振り返る。

 朝月の拳がカプセルの装甲板を凹ませていた。次いで彼のワークブーツの踵がカプセルの足元にあるガラス瓶を、銃の台尻でカプセルの窓を、殴りつける。

「起きろ! 起きて、答えろ! そこにいて満足か。血抜かれるだけの一生が望みなのか、イオナに生かされて幸せか! 俺に、人間に教えてくれ!」

 凶行と叫びの残響だけがひんやりと漂った。

誰も、応えなかった。

 朝月の苛烈な視線を察して、ボクは素早く床へと顔を落とす。タンクの下で黙々と血を受け、稀石を製造し続けているガラスの瓶が視界の端で揺らいでいる。

 ふっ、と配管を流れる薬液の濃度が変わった、気がした。薄くなり濃くなり、早く遅く、薬液の鈍い動きが配管の壁を引っ掻いて、拙い言葉を形成し始める。

 それが、答えだった。

 一つずつ、一音だって聞き違えないように全身の血を研ぎ澄ませる。

『触ってみたい』一つ目の願いが鼓膜の内でささめく。それが夢から目覚めたばかりの子供たちの声だと理解するころには、配管から降る言葉が雨粒のように部屋を満たしている。

『他の人に触ってみたい』

『オーガストの顔を見てみたい』

『ドクターみたいな服を着てみたい』

『パンケーキを食べてみたい』

『食事ってどんな感じなんだろう』

『夢を見てみたい』

『夜になるとママって名前の優しい幻が来てくれるって、ドクターが教えてくれたの』

 そんなことをしたって無駄だと知っているのに、耳を塞ぎたかった。でもボクの両手はしっかりと銃を握っている。

「お前は」朝月の声が、子供たちのざわめきの下からでもはっきりと聞こえた。「ケイ、お前はなにがしたい」

「君といたい」そう言ってしまいたかった、それがどれほど卑怯な答えなのかわかっているくせに。けれど、肩にかけたホタルのポシェットが、ボクらを取り囲むカプセルの発光が、許してくれるはずもない。

「ボクは……」束の間、嘘とも真実ともつかない希求を躊躇う。「ボクは、人でいたかった。たぶん、人のまま、死んでしまいたかった」

 朝月は驚いたように眼を瞠り、やおら斜め下を睨んで「そうか」と独り言のような呟き声を落とす。

 カプセルから離れた朝月は明らかに逡巡の滲んだ手付きでボクを捉える。突き放すわけでも引き寄せるわけでもない曖昧な力加減で、指先だけが絡む。

「朝月、ボクは人に憧れている。同時に妬んでもいる。きっと人間たちが稀人の心臓を求めるのと同じ感情だ。ボクもいつか、君を妬むようになるかもしれない。それが……」

「あのな、俺だって怖いことの一つや二つある」彼は薬液の沼で抱き合う人間と稀人の背中に顔を向ける。「お前は気付いてないだろうが、俺だって誰かを撃つのは怖い。神なんざ信じてないが教会の勢力を考えりゃ、こんな喧嘩は正気の沙汰じゃない。せっかく『なかったこと』にしたヘレブでの過去を、バカみたいに忠実に再現してるイオナの研究者なんざ見たくもないし、古巣崩れの施設には一歩たりとも踏み入りたかない」

「なら、どうして『解放の子供たち』なんかに?」

「言っただろ、情報が得られるからだ」

「稀人の情報なんか、君の苦痛と引き換えに得るものじゃないよ」

「お前を探してたんだ」

「それだって、君より大事なんかじゃない」

「ケイ、俺は人を殺すことや自分の携わった研究の愚かさを見るより、怖いことがある。それ以外のどんなことも、恐怖の濃度は薄い」

「それは……」

 訊いてもいいことだろうか、とボクは口籠る。

 朝月の内面に踏み込むことが怖かったんじゃない。その答えがボクの心を壊してしまうんじゃないかと思ったんだ。

 けれど朝月の指は、そんな利己的なボクの弱さこそを簡単に崩してしまう。

「お前は、俺がお前の死を本当の意味では意識できてないと言ったが、やっぱり俺は、お前を失うことが、一番怖い」

 あのとき、曇天の地上で彼は彼自身の怯えを口にしなかった。それを今口にしたのは、オーガストやタンクに内包された子供たちに、死の絶望を思い出したからだろうか。

 ボクは彼の手を握り返す。強く、爪を立てて彼の不安を握り潰す。

「俺は、お前が生きている可能性だけで、お前のいない五年を生きてきた。もう、お前の生死を疑いながらお前の不在に耐えられる気がしない」

 ボクは、黙っていた。彼がボクの死を本当の意味で理解できないのと同じように、ボクもまた彼の恐怖を正しくは理解できないのだ。

 朝月も、それきり口を噤む。ただボクの指先が冷たくなるくらいに力いっぱい、きっとそれでも加減はされているのだろうとわかる強さで、つないだ手を握り返してくれる。

 彼の肩口から仄かな砂漠と硝煙の香りが立ち昇っている。『解放の子供たち』に身を置く、ボクが知る幼い朝月とは決別した男の匂いだ。

 ゴボ、と濁った水音に、ボクらは反射的に体を放す。それぞれの銃を引き寄せて、けれど銃口を向けるべき相手を見つけ出せず、諦めに似た速度で下ろす。

 オーガストが薬液雑じりの空気を吐いていた。二度、三度と潔癖に管理された空気を吸い込んで、咽る。咳の破片がまだ不完全な声帯を掠めている。

 二人の背に、朝月はとても自然な動きで銃口を向けた。

「ドクター、『彼ら』を解放しろ」

 オーガストから剥がれた白い皮膚片を頬に貼りつかせて、男は首の動きだけで振り返る。半開きになった唇から、「は?」と間抜けな声が応えた。

「『彼ら』って、アイオーンのことかい?」

「アイオーン?」朝月が眉を寄せて、左手でカプセルを小突く。「こいつらを、そう呼んでるのか?」

「ああ、うん。ヘレブでは確立されていない技術だったね。心臓が馴染んで肉体が再生したにもかかわらず目覚めない個体の血液から、稀石の成分のみを抽出するんだ。鉱山から掘り出すには限界があるからね」

 話すうちに男の声音が高くなる。オーガストの肩を支えていた腕の片方がふわふわと宙を彷徨い始めている。

「たった一つの稀石から、無限に稀石の成分が取り出せるんだ。それに、彼らの稀石自体が貴重な電力エネルギーにもなる。この町の夜が短くなったのだってアイオーンのお陰なんだ。夜を司る死の女神の畏怖だなんだと教会はいい顔をしないけど、彼らだって市民に電力を供給することで得られる尊敬は欲しいんだから勝手なものだよ。ヘレブでは、不適合者は廃棄していたんだろう?」

「黙れ」朝月が呻く。

「もったいないなぁ。せっかく生き返ったのに、起きないからってまた心臓を」

「黙って」ボクの喉が唸る。

「抜いて死体に」

 戻してしまうなんて、という言葉を裂いて銃声が響いた。

 拍子抜けするほど軽い。銃の反動がボクの肘を強かに打ち、オーガストを護っていたタンクの天井に亀裂を走らせる。撃った自覚はなかったけれど、ボクの指先はまだ銃弾を放ちたそうに痙攣していた。

「勝手に生き返らせたくせに……できるからって理由だけで勝手に生き返らせて、起きないからって勝手に死体に戻して、確かにヘレブのしていたことはひどい。絶対に許せない。でも、『彼ら』を道具にはしなかった。ちゃんと『彼ら』の意思を、生き返りたくないって想いを受け入れて、終りをあげていた」

 ヘカトンケイレスに這うキャットウォークを思う。その隙間に続く奈落こそが『彼ら』の墓穴だった。

「生き返ったボクらにも想いがある。生きているんだ。傷をつけられれば痛い、血だって出る、嫌だと思う、悲しいとか寂しいとか、怒りだって感じる。それなのに、あなたたちはボクらを死体だと言う。どうせ死体だったんだから、人間の役に立てと言う。役に立つよ、立ってるだろ? 当たり前だ、ボクらは生かされたことに、それなりの責任を感じている。人間の所有物としての意識を無意識下に植えつけられている。だからどんな実験にも耐えてきた。『彼ら』だって」カプセルの窓に美しい気泡が踊っている。「人間になにかしらの好意をもっているからこそ、人への憧れを抱くし、血を抜かれ続けても生きているんだ。それなのに、まだ足りないっていうの? これ以上どうしろっていうの? 人間よりも長い一生を、何度も死と生を繰り返す人生の全てを、なにも感じない物体のように捧げろというの? そうしなきゃ生きていると認めてくれないの? そうすれば、認めてくれるの?」

 ――稀人が人間と同じ生き物だと。

 男を、そして過去の朝月を詰る言葉が弾けていた。

 その感情がボクのものなのか、それとも配管を通してボクの血と同化した『彼ら』のものなのか、判然としない。けれど、確かにボク自身が抱き続けていた、研究所に囚われる稀人が常に内包していた慟哭の断片だった。

 男の口元が引きつった。呼吸に、懺悔に。違う。男は、笑っていた。歪んだ唇が「いやぁ、凄いね」と場違いに緩む。

「こんなに喋る稀人なんて、いやいや、こんなに人間らしい稀人なんて初めてだ。君はよっぽど高次のナンバーだったのかい? それとも人間と暮らすことによって感情を学習したのかい? 再生したばかりの稀人はなにも覚えていないはずだから、傍にいた誰かを完璧に模倣した結果なのかもしれないね。君が、女の子なのに自分のことをボクって言っていることから考えても、ヘレブの稀人には適切な教育係がいなかったか、それとも教育係が宛がわれるより速く、それこそ生き返った瞬間から学習を始めたか……」

 パン、と乾いた破裂音が男の耳障りな高音を引き千切った。壁に張り付いていた機材のガラス面に蜘蛛の巣が走っている。今度はボクの銃じゃない。

 朝月の銃が、白い煙を螺旋状に解いていた。

「イオナに限らず、研究者ってのはみんなそうなのか? 他人の気持ちを理解して、それに応えるって単純作業が、なんでできない? それがお前たちの誇る人間か? 誰かの未来を案じる分、稀人のほうがよっぽどマトモだ」

「アサヅキくん、君だってヘレブに所属していた技術者だろう? それならこの興奮がわかるはずだ」

「わからなくもない」

「だったら」

「わからなくもないが、わかりたくはない」

 朝月は銃口を男の頬に押し付ける。発砲直後の熱に、男が悲鳴を上げて逃げ腰になった。その腕の中ではオーガストが身じろぐようだ。

「稀人だのアイオーンだの人間だの、俺にはどうでもいい。俺はただ自分のエゴを押し付けたいだけだ。『彼ら』を解放しろ。オーガストはこの状態を幸せだと言った、それならここにいればいい。だが『彼ら』は」朝月は顎先でカプセルを示す。「別の望みを持ってるはずだ」

「出たって死ぬだけだ」

「稀石に適合してるから血を抽出してるんじゃないのか」

「目が覚めないなら死んでいるも同然だ」

「同じじゃない」微かな苛立ちが雑ざったことを自覚する。「彼らの声は、はっきりと聞こえている。目覚める可能性はあるんだ。イオナの報告書にあったはずだ。意識のある個体は蘇生率が高いって」

「個体」ひひ、と男は不気味に嗤う。「個体だって。君よりよっぽど冷静な判断じゃないか、アサヅキくん。ほら、稀人だって自分たちを人間だとは思っていないんだ」

「思いたいよ。思ってほしい、とも願っている。でも、現実問題として人間の多くは教会が作ったおとぎ話を信じるんだろう。ボクらが人間を襲って食う化け物だと信じて怯えている。それと同じくらいボクらも、人間を恐れているんだ。いつボクらの心臓を抜きに軍人たちが来るかと、昨日まで普通に接してくれていた人間が今日は銃やナイフを持って襲ってくるんじゃないかと、ずっと怯えている」

「それならイオナに戻ってくればいいじゃないか。ここなら誰も君を襲わない」

「でも、大切にもしてくれない。ボクには朝月がいた。ヘレブの単調で苦痛ばかりの毎日の中で朝月だけがボクを大切にしてくれた」

「君に対してだけだろう? そんなのは彼の自己満足じゃないか」

「他になにが必要なの? 他の仲間から見れば残酷な男だっただろうね。でも、ボクはそれでよかったんだ。それが、幸せだったんだ。ボクはたくさんの人間の無関心より、たった一人の優しさのほうがいい。オーガスト、君だってそうだろう? だから、ここにいたかったんだ。誰かが、この男が、君を大切にしてくれていると思ったから」

 ふらりとオーガストの腕が空を掻いた。

「なんだい?」と眼球がこぼれそうなほど目を見開いた男の声に、彼女は答えない。いや、答えたのかもしれない。自らを包む薬液を失った彼女の想いはボクにだって届かない。彼女が震わせることのできるものは、彼女自身の声帯しか残されていない。

 朝月が銃を下ろした。彼女の微かな声を掻き消すまいとするように、すり足で男から距離を取る。

 力なく落ちたオーガストの腕が、床に広がった薬液の表面を打って微かな水音を響かせた。本当はその薬液の中に囁いたのかもしれない。配管から降り注ぐカプセルの子供たちの望みの中では無に近しい声だ。

「君たちは」男の瞳は、研究対象を観察する狂気に染まっていた。頬に焼き付いた銃口の痕が歪む。「おかしいよ。矛盾してる。稀人が死体だと認めているくせに人間のように扱ってくれとも言う。稀人が死ぬのを見たくないと言いながらカプセルからアイオーンを出せとも言う。なんなんだ、そんな矛盾は認めない。そんな、まるで人間の子供みたいに無茶を言うなんて、ヘレブはおかしい。だから解体されたんだろう。オーガスト、君だってそう思うだろう。脚を拒否した君がっ」

 唐突に男は言葉をぶち切った。オーガストを包む白衣の裾を凝視して、肩を震わせた男は「ああ」とため息をつく。

 僅かに、けれど確実に、床にへばりついていたオーガストの脚に膨らみが戻っていた。皮膚を内側から押し上げて、縮んだ細胞を再生させては破裂させて、彼女の脚は肉と骨を形成し始める。細く萎えた脚だ。あれじゃあ歩くことはおろか立ち上がることすら難しいだろう。それでも彼女は脚を求め始めている。

「なにか食べさせてあげるといいよ」ボクは男の背中に教えてあげる。「エネルギーが不足しているんだ」

 男は慌てた様子で白衣のポケットに手を突っ込んだ。食べかけのスナックバーの袋を引き出し、けれど薬液まみれのそれは男の指先から逃げる。床の薬液溜りを滑り、みちみちと肉を押し退けて生えてくるオーガストの爪に怯えたように急停止したところで、ようやく男の乱暴な掌が抑え込んだ。

 スナックバーが砕ける微かな音に、ボクは震える。

 なにか、とても大切なものが壊れる音に似ていた。

 ボクは彼らを見据えたままそっと後退る。寝巻の裾が思い出したように脚に絡まった。肩から吊るした銃の下で、ホタルのポシェットが居心地悪そうに身じろいだ。

 ボクの体を感知した扉が廊下への道を開けてくれる。射し込んだ電光がカプセルの仄明りを塗り潰した。

「オーガスト、ボクは女の子を探しに来たんだ。二日前に連れてこられた子で、とても痩せている。その子には家族がいて、ボクは絶対に連れて帰ると約束したんだ。君たちなら」カプセルと天井を彩る配管を見廻す。「その子がどこにいるかわかるだろう? 教えてほしい。とても大切な、ボクの家族なんだ。お願い」

 協力して。そう続けるはずの声が、潰れた。

 どっと背を叩かれて息が詰まる。ひどい違和感が胸の辺りを突き抜けた。その正体を求めた手が、鋭利に冴えた金属を捉えた。

 胸を見下ろす。ぼたぼたと溢れた黒い血がピンクのポシェットを汚していた。カプセルの光を反射した小さな金属片が三つ、生えている。ちょうどボクの心臓を包むように。

 ああ、と回転の鈍い頭がようやく事態を理解し始めた。

 ――銃剣の刃だ。稀人の心臓をくりぬくことに特化した蕾状の刃が、今まさにボクの稀石と太い血管とを切り放そうとしている。けれどボクら専用の凶器は、碧く青く石と同化しつつ拍動する血管を切断し損ねている。組織のほとんどを稀石に侵された、人間とはもうかけ離れてしまった動脈だ。

 ぼんやりと、振り返る。見えない。ただ真っ白に染まった廊下の電光だけが眼を射る。

「あたしにも、『きせき』が、おきたの」

 聴覚が、ひどく滲んだ声を聞いた、気がした。配管の中でざわめく『彼ら』の声が、その正体を教えてくれる。

 ――ホタル。

 低いところで、ふわりと長い髪が揺れていた。頬に落ちた影が、ボクの記憶よりずっと薄い。けれど、見たことのない濃緑色のワンピースの襟刳りから覗く浮き出た鎖骨は見慣れた痩せ方をしていた。

「ホ、タル」

 掠れ声は、ボク自身にすら聞きとれない。それでも、ホタルはボクの腰の辺りから入れた銃剣を捻って応じてくれる。

「遅くなって」

 ごめん、と詫びるはずの相手が、唐突にボクの視界から吹き飛んだ。

 文字通り、ホタルの顔が、吹き飛ぶ。宙を舞った生温かい液体が、ボクの胸元からこぼれる血と混ざり合って寝巻に不思議な斑紋を描く。

 朝月が、たぶんなにかを叫んでいる。濁っていてわからない。忙しない閃光が世界を細切れにしていく。

 腐敗臭がした。鼓膜を侵す脈動がうるさい。体に埋まった銃剣が捻れる不快感だけが鮮明に意識を焼いた。

 ホタルがタンクまで吹き飛んだ。ひどく近くに朝月の残像だけが停滞して、それもホタルがつかみ締めた銃剣に引き摺られて離れていく。

 ボクの心臓が、半ばまで切断された血管を修復するために全力で稼働し始める。失った血液と折れた肋骨がめきめきと音を立てて補われていく。腹の底に過労気味の重怠い熱が生じた。

 ひどく、眠い。

 鈍く低く、肉の塊を打ち据える音がボクの意識を留める。

 倒れたホタルを銃の台尻で殴る朝月の横顔が、まるでヘレブを跋扈していた研究員たちのように無機質だ。

「やめて」

 懇願が、引きつれた呼吸と吐き出す血の中に消えていく。

 朝月の銃が血と皮膚の残滓を引いてホタルから離れた。その銃口が、おもむろにホタルへと落ちていく。

 薄っぺらい胸だ。本当に息ができるのか不安になるくらい、血を送りだす肉の心臓を護るには頼りないくらい、未発達のやせ細った、ホタルの躯体だ。

「やめて」

 銃を引き寄せる。肩ベルトが背中の傷を圧迫したのか、喉から血の塊が湧き出した。

 それでもボクは銃を、人を殺す凶器を、朝月に向ける。赤いレーザーポインタが電光の白と血煙を裂いて真っすぐに伸びた。

 けれど朝月は頬を汚したポインタに気付いてくれない。

 引き金にかかった彼の指先がゆっくりと、閉じていく。

「朝月」

 優柔不断なボクのレーザーポインタが彼の目に入ったのかもしれない。眇められた朝月の眼は、ようやくボクを捉える。

「お願いだから、やめて」

 ボクに撃たせないで。そう縋ったボクを、確かに朝月は見ていた。

 それなのに――。

 カプセルの窓を黒い粘着質な液体が汚した。音はない。白い閃光が朝月の横顔を、ホタルのやせ細った体を、切り取っていく。弾けた肉が舞う。

 朝月を止めなきゃいけない。引き金を絞るべきだ。ホタルを助けるために、シュンを置いてまでここに来た。

 わかっているのに、ボクの指は呆けたように固まっていた。

 キキン、と攻撃的に尖った空薬莢の音が、全てを締めくくる。床の散らばった薬莢が仄かに陽炎を立てている。

 静かに、感情の破片一つ拾えない所作で、朝月が立ち上がった。足元にホタルが、ホタルだった肉塊が、転がっている。ねっとりとした黒が、意思を有した一個の生命体のように這い寄ってくる。

 廊下から射し込む冷徹な光に照らされたカプセルの窓が、ボクを責める強さで輝いている。配管を流れる薬液のざわめきが色を変えた。

 猜疑、詮索、好奇、憎悪、失望、そして羨望。たくさんの感情が細い配管の中でせめぎ合うのがわかる。

 誰かの衣擦れがした。

 背を押されるように一歩を踏み出す。もう一歩、さらに踏み出した足が砕けた。膝をついて、それでも肘を張ってホタルに縋る。

 筋の浮き出た腕には、まだ対稀人用の銃剣が握られている。首から上はもうほとんど形が残っていない。ぐずぐずに裂けた胸からはクリーム色の肺と骨が血に埋もれるように覗いている。

 その中に、あるはずのない輝きを見た。

 恐るおそる指を伸ばす。熱っぽく熟れた内臓に恥じるように碧く、暗い静かな拍動が一つきり。ホタルをずっと苦しめてきた肉の心臓が、冷たい石の塊に変じていた。

 ――稀石、だ。

 本当は心のどこかで予想していた。

 認めたくなくて気が付かないふりをしていたけれど、確かにボクはホタルの心臓がすでに止まっているんじゃないかと思っていた。同じくらい、臆病なボクが与えてあげられなかった石の心臓を誰かがその手で埋め込んでくれていれば、とも願っていた。

 けれどそれは、誓ってこんな結末のためじゃない。

 ボクはそっと黒く沈黙した稀石の破片に触れる。

 温かかった。生き物の、無理矢理生かされているボクとは違う温もりがあった。そう願いたかっただけかもしれない。

 これが、イオナの稀石。こんなものが、ホタルに起きた奇蹟の正体だというんだろうか。

 母星の物資と技術で精製されたヘレブの心臓とは違う、この惑星独自の技術だ。肉体の損傷ならばいくらでも補修できるくせに、たった一度でも石本体を傷付けられてしまえば機能停止に陥ってしまう。なんて脆くて、正しい心臓なんだろう。

 これこそが、ヘレブが求めていた生き返り方だったはずなんだ。学者の娘を生き返らせるための技術だったはずだ。

 それなのに、どうしてコレがボクではなくホタルに埋まっているんだろう。

 唐突に、朝月が銃を上げた。

 ほとんど同時にボクは首筋に一筋の熱を感じる。上皮の一枚きりを、器用に裂かれたらしい。

「動くな」

 知らない男が、背後から警告を寄越す。まだ若い。廊下に照らされて延びる影に埋没してなお青白い、軍靴が見えた。

「稀人狩り……」

 朝月が吐き捨てた相手の正体を聞きながら、ボクはホタルを抱き寄せる。体温がこぼれて床を汚した。鈍い音を立てて、ボクを殺すための銃剣が床へと落ちた。痩せっぽっちの躯体は、凶器を失ってもなぜかひどく重たい。

「動くなよ、外の稀人」

 再びの警告を無視して、立ち上がる。

 首に添えられていた凶器が肩を掠めて背中へと下りた。ちょうどホタルによって開けられた穴から、ボクの心臓が窺える辺りだ。

 振り返ってボクらの天敵を、初めて真正面から間近に見る。

 朝月と同じくらいの年齢だろうか。いや、もう彼に歳など関係ないはずだ。部屋を溺れさせる死臭に紛れているけれど、彼も、ボクと同じ死体の臭いがするはずだ。

 その証拠に、白い軍服でボクの心臓に三又の銃剣を突きつけている彼は、微苦笑を浮かべていた。

「退け」ボクは低く宣言する。「イオナの稀人が、ヘレブの稀人を阻めると思うな」

「被験者を返してもらえりゃ、あんたのことは『見なかった』ことにしてやってもいい」

 ひょい、と軽薄な動作でホタルに向けられた男の銃剣を、叩き落とす。手首が痺れたけれど、すぐに治まる。

「あんたを」下がった銃口を戻しもせず、男は戸惑ったように眼を細めた。「ヘレブの稀人だと、どうやって信じりゃいい。外の、民間人が勝手に作りだした個体じゃないって証拠は?」

「ボクと争ってみる? 稀人同士で? 無意味だよ」

「兵士は戦うために作られてる」

「稀人狩り、君が本当にそう思うなら、どうして最初にボクの心臓を盗らなかったの」

 悔しそうに唇を噛んで、男は上目に朝月を睨める。お前のせいだ、と言いだしそうな気配に、ボクは声を上げて笑う。

 彼は、朝月と争うことを恐れたんだ。それはつまり、彼に付加された条件を物語っている。

 ――イオナの稀人は、人間を殺せない。

「イオナの稀人、それが君たちの限界だ。やめたほうがいい。彼は、強いよ。人も稀人も、平等に撃ってくれる。なにしろ」

 ヘレブの技術者だからね。

 男の頬が強張った。動揺したのか恐怖心に呑まれたのかは知らない。知ったことじゃない。

 その隙にボクはホタルの体を背負って、朝月を振り返る。

 朝月は、動かなかった。助けの腕を伸ばすことも、威嚇の銃を取ることも、憤ってボクを詰ることすらせず、ただボクを見つめている。

「ここまでだよ、朝月」

 彼は、立ち尽くしていた。自分がホタルを撃ったという事実を今さら噛み締めている様子だ。

 そして、事態に慄く白衣の肩越しに、オーガストの腕が伸びた。再生したばかりの薄桃色の爪が輝いている。

 ひゅう、と掠れた呼吸音がした。

 二度目も空気漏れの音が、三度目に声らしき響きが、そして激しい咳に腕が揺れる。それでも彼女は腕を下ろさなかった。瑞々しく伸びた彼女の指が折れ曲がる。左に、そして前に。

 ようやく、彼女の肉声がボクの鼓膜を震わせる。

「……い、て」

 ここにいて? なにか言って? 早く行って? きっと、どれも正解だろう。

 引きずるように下げた踵が廊下を捉えた。そのまま数歩後退れば、スライド式の扉が無情に朝月たちを遮断する。ホタルの血で刻まれたボクの足跡だけが、執念深く扉の下に戻りたがっていた。

 ボクは背中にホタルを揺すりあげて、重たい足を運ぶ。粘った音が、心拍のように規則正しく清潔な廊下を汚していく。たった一人、ボクの足音だけがここにある。

「ありがとう」と決して朝月には届かないと知っているからこそ、無人の廊下で呟いた。連れてきてくれて、助けてくれて、ありがとう。ホタルを止めてくれて、ありがとう。

 ボクはホタルを背負って、上品にケースの中に納まった銃剣たちに見護られながら歩く。

 真っすぐに、そして次の角を左に、右に――古い仲間の爪が示してくれた方へと、一歩ずつ慎重に進む。

 配管から聞こえるたくさんの言葉に耳を塞いで、残酷なボクはただ自分が求める幸せのためだけに前を見据える。ボクとホタルの血で汚れたポシェットだけが陽気に、銃と戯れていた。

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