〈15〉
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ハシゴを登りきった先は、陰鬱とした石造りの通路だった。ボクと朝月が肩を並べればそれだけでもう、互いの肩が壁に触れそうになるほど細い。さらに、貯水槽の湿気を吸い込んだ石壁は茶色くぬめった苔だかカビだかわからないもので覆われていた。
ボクの歩みに合わせてふらふらと遊ぶ寝巻の裾は、雨の水気も手伝ってあちこちの壁を掃除している。
白いレースと黒い汚れのコントラストは、三つ子月にかかる雨雲のようで落ち着かない。せっかくきれいなままだったキヨカさんの思い出まで汚してしまったようだ。
「消去法で考えれば」ロウソクが導く通路を進む朝月は、いまいち自信がなさそうだ。「こっちで合ってるはずなんだが……」
「ここ、教会のどの辺りなの?」
「修道院の下、くらいか? 礼拝堂はもう過ぎてる」
「ふぅん」と曖昧な相槌を打って天井を見上げる。配管の有無はおろか、空間の終わりすら真っ暗で見えなかった。『彼ら』の声が聞こえてこないことだけが幸いだ。
訊いておいてなんだけれど、ボクは教会がどういう配置をしているものなのか知らない。
ヒート・ミールから見えるのは三本の塔を戴いた荘厳なのか悪趣味なのか判断に困る建物だけで、それが礼拝堂なのか修道院なのかも知らない。ただ漠然と、あの尖塔の下にはボクらを狩ろうとする人間たちの全てが納まっているのだろうと考えていただけだ。
数歩ごとに壁に点されたロウソクの灯が通路を煽っている。炎の朱と影の漆黒が石壁の凹凸を強調していた。この惑星では火葬が推奨されているけれど、母星では遺体を石の棺桶に入れて埋める人々がいたらしい。さぞ息苦しくて不安だっただろう、と遺体に同情する。石の棺に閉じ込められるなんて、想像するだけで発狂しそうだ。
妙な閉塞感で口を封じられたボクらは、早々に通路の突き当たりに行きつく。
石の螺旋階段が下へと続いている。ロウソクの灯りはなく、人間が使用するには不親切な仕様になっていた。
朝月がペンライトを腰から引き抜いた。階段を光で丸く切り取ると、彼は銃を構える素振りもなく軽い足取りで石段を踏んだ。
「不用心だね」
「電力がきてないってことは、まだイオナの施設には到達してない。教会側だ。警備もいないさ」
そういう問題じゃなくて、と口の中で転がしながら、ボクも彼に続いて石段に足をかける。ブーツの底がきゅっと鳴った気がした。
「そんな高級品を、教会に喧嘩を売りに行くのに持ってくるなんて、あまりにも不用心だ。『解放の子供たち』は随分とお金持ちなんだね」
「いや、節約しろってヒナコが口うるさく言うな」朝月は顔の半分だけで振り返る。「なんだいきなり?」
「それ」朝月の手元を顎で指す。「骨董商でかなりの値段がついてるよ。こんなところでうっかりなくすには惜しい品だし、強盗だって引き寄せかねないのに」
町には教会から電力が供給されているけれど、それは大した量じゃない。せいぜい日が暮れてからしばらくの間、せいぜい夕食後にぐずる子供たちに絵本を読み聞かせてやる程度の時間しかもたない。
そんなこの惑星で、電線も介さずエネルギーを得るのは至難の業だ。化石燃料を食い潰しながら走行する三輪トラックのライトや、ヒナコやボクの持つ銃のレーザーポインタ、そしてボクのような死体を生かす石の心臓くらいのものだ。
銃のレーザーポインタと朝月のペンライトは同じ仕掛けで、極微小な稀石が組み込まれている。つまり、とてつもない高級品だ。骨董商では、ヘレブで使われていたものが裏取引されている。
朝月は、「ああ」と短く笑って「これか」と階段を照らすペンライトの光を上下に揺らした。
「所長に言うなよ、俺の私物だからな」
「元はヘレブからの支給品のくせに」とは言わなかった。皮肉にして笑い飛ばしてしまうにはまだ、ヘレブ社はボクらの中に根付き過ぎている。だからボクは「所長だって」と彼女に話題を押し付ける。
「君の私物を盗ったりはしないと思うよ」
「どうだか」朝月が肩を竦めると、ライトも軽薄に従った。「いつだったか、所長とヒナコが大喧嘩した理由が、お互いのクッキーを食べたとか食べてないとかだぞ」
「食べ物の怨みは怖いよ。ボクだって一度、ホタルが楽しみにしてた……」
クッキーを盗って、と続ける途中で、ぶち切った。それがアララト教会の惨事が起こる数ヶ月前のことだったとか、滅多に感情を顕わにしないホタルの怒鳴り声を聞いた初めての機会だったとか、そういう感傷に浸ったせいじゃない。もっと現実的に、螺旋階段が終ったからだ。
古めかしい石階段の先に続くものが、信じられなかったからだ。
艶やかな廊下が白く延びていた。内側から自ら光を発しているような灰白色の石が、地下を貫いている。いや、本当になんらかの明かりが仕込んであるのかもしれない。ロウソクは途切れたままなのに、その廊下は仄明りに浮かんでいた。
ひどく懐かしくて、恐ろしいものだった。呼吸が浅くなるのを自覚する。
通路の床を埋めるのは、人間だけが暮らす外の世界と、死体と稀人とが当たり前に同じ空間を共有する施設との境界線として、ヘレブの壁にかかっていたものだ。その壁画に描かれた物語の前に、あのころのボクらは立ち尽くすしかなかった。壁画の下に据えられた多重扉の向こうに見え隠れする『自由』というものの存在に気が付かないふりをして、ボクらは見学者の背中を見送り切り刻まれる日々へと引き返していた。
けれど、今は違う。違うとわかっているのに、息苦しさが消えてくれない。
この惑星に降り立った移民船、大地に流れ出る人の列、そして鉱山の落盤事故。そこから始まる稀人の物語を踏みつけて、ボクは歩く。
両手を振り上げて人間に襲いかかる最初の稀人、石の心臓を掲げる研究者、そしてヘレブによって理性的な生き物として再生するたくさんの死人たち。
そこで終わるはずだったヘレブの物語は、けれど、まだ続いていた。
そこから先は、ボクが知らない物語だ。
理性的に振る舞っていた稀人たちが人間に食らいついている。首筋に噛みつき、手足を引き千切り、捕食し始めた。そして教会が蹶然と降臨する。三本の剣が絡んだ紋章に眼を焼かれ、教会騎士団に心臓を抉りだされる稀人たち。その心臓を掲げた教皇を、創造主から遣わされた三人の女神が祝福している。
教皇は稀人から抉りだした心臓で、人間に膨大なエネルギーと文明的な生活、そして希望の光を約束するんだ。
そうか、とボクは教皇の頭上に描かれた紋章を踏みにじって嗤う。人間たちが信じていたバカバカしいおとぎ話は、教会が世界に君臨するために必要な物語だったんだ。
ボクらが本当はどんな存在かなんて、彼らはどうでもよかった。人間のために教会が命をかけた、という物語が作れるなら、稀人が本物の化け物だろうと死体だろうと関係なかったんだ。
胸元を握り締めた指の間で寝巻が軋む。
こんなにバカ気た理由のために、教会の見栄のために、稀人たちは人間から隠れ住み、人間たちはボクらを殺そうと必死になって、朝月は命がけで人間を裏切ろうとしている。
こんな、もののために。
「ケイ」
不意に腕を掴まれた。戸惑いを濃くした朝月の瞳が近い。
「ケイ」
朝月の手が僕の頬を包む。
腕が痛い。ボクの手はいつの間にか銃を握っている。安全装置は、わからない。触れた記憶はないけれど外れているような気がする。ゆっくりと指を開く。掌に馴染んでいた銃の温度が失われて、冷ややかな空気がすり抜けた。
「ほら、やっぱりいたぁ」
急に響いた甲高い声にボクらは肩を震わせて飛び退いた。銃を腰に引きつけて互いに肩越しの通路を睨み、はっとして壁を見た。
床を彩る物語ばかりに気を取られていたけれど、左側の壁には一定の間隔で重厚な鉄格子の扉が嵌っていた。じわりと嫌な臭いが滲んでいる。
黒光りする太い金属棒越しに、青白い腕が唐突に伸びてきた。細い、子供の腕だった。格子に頬を押し当てて、ホタルと同じ年頃だと思われる少年が、大きな眼をきらめかせている。警戒している様子は微塵も見られなかった。
「ズルいぃ、ボクも見るぅ」
「俺が先に見付けたんだぞ」
「騒ぐなよ、俺たちが見付かっちゃうだろ」
舌ったらずに駄々をこねる子が少年の腰にしがみつき、二人の後ろから少し年長らしき少年が姿を現す。
その背後からも甲高い声ではしゃぎながら、子供たちがぞろぞろと湧いてきた。小さな扉の前に並び切れず箱詰めされたネズミのように体を斜めにしたり前の子にしがみついたりして、一目でもボクらを見ようと蠢いている。
「君たちは」半ば呆然とボクは喘ぐ。銃を隠すことすら忘れていた。「教会の子なの?」
「教会ぃ? んなわけないじゃん」
「ボクらは選ばれた子なんだよ」
「そうそう、普通の子供とはちょっと違うんだ」胸を反らして誇らしげに応じた子供は格子からつきだした腕で空を掻く。「ねえ、もうちょっとこっち来てよ。よく見せて」
朝月の手に強く肩をつかまれて、ボクは無自覚に半歩踏み出していたことに気付く。
「ねえ、いいじゃん。お姉さん、ホンモノの稀人でしょ。ニオイが違うもん。いいなぁ、カッコいいなぁ」
うっとりと眼を細めた少年の指先から立ち昇る臭いに眉を寄せる。
ボクが知る臭いにとてもよく似ていた。でも同じじゃない。どこか、鈍い。
「君たちは……なに?」
「稀人だよ!」別の子供が唇の端を下げて叫ぶ。他の子供たちも唱和するように「稀人だ」と喚きはじめる。
「うっさいなぁ」と鎮めたのは、年長の少年だった。「せっかくまいたのに慈雨・
「慈雨・紅花?」と朝月が低く呟く。
「俺たちの世話係だよ。何人かいるけど、紅花が一番しつこくってやかましい」
「君たちは、教会に住んでいるんだよね?」
「まあ、そうだよ」
「でも教会の子供じゃないよ」
「家族に捨てられた子供たちとは、全然違うんだ」
「じゃあホタルを、ホタルという名前の子を知ってる? 君くらいの女の子で、一昨日ここに来たはずなんだ。病気だから寝込んでいるかもしれない。早く薬を渡さないと」
「その子は」ボクの声を面倒臭そうにぶち切って、年長の少年が首を傾げた。「ヘレブの稀人なの?」
「え?」
「だから、その女の子。女は三人いるけど、みんなイオナで生まれ育ったヤツばっかりだよ。新入りなんてもう何年も来てない。外から来るヤツは、たいてい不良品なんだ」
「外から来るヤツなんてダメダメだぁ」
「君たちは……」子供たちのざわめきが目眩のように世界を揺らしている。「ここにいる子供たちは、みんな、本当に……」
「なんだよ。お姉さん、ホンモノの稀人のくせにボクたちのニオイがわからないの?」
「ヘレブの稀人なんて、やっぱりダメダメじゃないか」
つまんない、と唾棄した子供たちを、ボクは順に見廻す。シュンと同じ年頃か、もっと幼い子もいるだろう。一番年長らしき子ですら、ヘレブの実験体には決して採用されない歳だろう。あそこでは、お客の依頼以外で子供を生き返らせることは禁じられていた。
「稀人だよ」
年長の少年が、ゆったりと誇らし気にくりかえす。周囲の子供たちが「そうだ、そうだ」「進化した稀人なんだ」「記憶だって残ってるんだ」とたくさんの補足を口々に叫ぶ。
「俺たちは、イオナの稀人なんだ」
イオナ――現在、教会が所有する実験施設の名前だ。ボクを生き返らせた、そして朝月と出逢った、ヘレブ社の後身だ。教会はヘレブを武力で解体したくせに、イオナと名称を変えただけであっさりと、ヘレブの技術を自らのものにしてしまった。
死者を生き返らせるヘレブを否定し、すでに生き返っているボクらの心臓をエネルギー源として再使用することを掲げたイオナの、子供たち。
「朝月」半ば無自覚に、呟いていた。「滅ぼそう。これは、ダメだ。ヘレブは、ダメだ」
そんなボクに同調するように、ボクの傲慢さを告発するように、子供たちの青白い腕が、がしゃん、がしゃん、と鉄扉をかき鳴らす。
「滅茶苦茶痛かったけどな」
「痛くないよ」
「お前はいいよ、死んでたんだから」
「死んでないよ、死にかけてただけだ。死んじゃってたら記憶が残らないじゃないか」
「でも、ホンモノの稀人って死体なんだろ?」
誰かが言ったその言葉を合図に、子供たちの視線が一斉にボクを刺した。
「じゃあ、記憶がないってこと?」
「なんだ、ホンモノって大したことないじゃん」
「ボクたちより頭が悪いってことなの?」
「頭が悪いんじゃなくて、カワイソウなんだよ。心臓だってないんだから」
「心臓がなきゃ、どうやって生きてるの?」
「だから、生きてないんだよ。もともと死体だもん」
「だって動いてるじゃないか」
「だから、あれは研究所にある機械と同じなんだって。エネルギーが供給されてるうちは動くけど、エネルギーがなくなったら止まるんだ。稀石は機械を動かすエンジンみたいなもので、エネルギーは人間みたいにご飯を食べて補給するんだよ」
「じゃあ、血はないの? ケーブルとかが入ってるの?」
「さあ? それは」三度、子供たちの眼がボクを捉える。「体、開けててみたらわかるんじゃないか?」
素早く朝月がボクと子供たちの間に割り込んだ。ボクの肌に爪痕を残そうと忍び寄る幼い加虐心が少しだけ和らぐ。
「あれ? お兄さん、見たことあるよ」
「こないだ教会の配管掃除に来てた人だろ、覚えてるよ」
「ここには武器を持ち込んじゃいけないんだよ」
「あれ? でも、お兄さんは稀人じゃないよね。ニオイが違うもん」
「どうして稀人のお姉さんと一緒にいるの?」
「新しい実験体じゃないか?」
「お姉さんに心臓をあげるの?」
「待って!」と堪らずボクは声をあげる。うるさい! と怒鳴らなかったのは、朝月の背がボクに理性を取り戻させてくれていたおかげだ。
「さっきから、君たちの言っていることがわからない。わかるけれど、わからない。君たちの心臓は、石じゃないの?」
「心臓っていうか……」
胡乱気に頬を歪ませた年長の少年は一呼吸、沈黙する。どうして今さらそんな初歩的なことを訊くのだろう? という顔だった。
「俺たちは骨髄に稀石を埋め込んだ、より人間に近い稀人なんだ。お姉さんたちの血は心臓に到達するまでは普通の血で、稀石に触れて初めて稀石の成分が溶け込むんでしょ。でも僕らは、血を作る段階ですでに稀石が作用してるんだ。お姉さんたちみたいに心臓を取り出したりしないから死なないし、人間だったときのことも覚えているし、ゆっくりだけど成長もする。ヘレブの稀人より治癒速度が遅いから普通の人間の致命傷くらいで簡単に死んじゃうけど、健康で丈夫な普通の子供が欲しい人間たちには、俺たちみたいな稀人のほうがいいだろ。つまりさ」
俺たちはお姉さんより完璧な、稀人なんだよ。
少年が声に出さなかった最後の言葉をボクの血が、体中に溶け出した稀石が正確に聞きとった。
――不死の軍隊よ。
所長の危惧が、こだまする。
――ボクらは子供を産まない。不老だけど、不死じゃない。
ボクの時代遅れな気休めが、脆く崩れていく。
膝が震えた。急激に体温が下がっていく。石の塊でしかないボクの心臓がぎちぎちを悲鳴を上げている。
彼らを取り巻く空気の臭いに気付いてはいた。けれどそれは、子供たちの中に潜む数人から漂うものだと思っていた。子供が放つ独特な乳臭さがボクらの異臭に似ているのかとも思った。
けれど、違う。ここに人間の子供はいない。
その瞬間、ボクはようやく悟る。どうして教会の審問官がわざわざ高速鉄道で乗りつけたのかを。
いくらホタルがボクと――稀人と一緒にいた子供だといっても過剰な反応だった。
彼らは、ホタルを調べに来ていたんだ。イオナ以外で生まれた、記憶を持ち家族を想い、病気を患うことのできる、より完璧な稀人ではないか、と疑って。彼らは焦っただろう。自分たちが独占したと思い込んでいた稀石の技術がどこから漏れたのか、と。
でも、ホタルは人間だ。
「ただの人間だとわかったら……」
「コラ! やっと見付けた」
「紅花だ!」
「慈雨・紅花が来た」
「逃げろ!」
ホタルはどうなるの、と問う声を、女の甲高い声と子供たちの歓声がかき消した。
格子で裁断された闇の奥にぼんやりと、青白い人影が浮かび上がる。身を翻して散りぢりに逃げ出す子供たちを捕まえようと腕を伸ばすその横顔に、息を呑む。
そんなはずはない、『慈雨』は神学校を一定以上の成績で卒業した人に平等に与えられる名だ。彼女とは関係ない。
わかっているはずなのに、その薄水色のローブや両手首に巻かれた夜色のリボン、そして複雑に丸く結い上げられた髪が、どうしようもなくナミコの亡霊を連れてくる。
アララト教会で『解放の子供たち』にその心臓を抉り取られたナミコの無惨な最期が、どうしようもなく、重なる。
ボクらの存在に気付いて強張る頬も、子供たちの残像を追って彷徨う瞳も、一欠片だってナミコには似ていないのに、息苦しさに目眩がした。
「あなたたちは……研究所の人かしら」
この女は研究所の存在を、子供たちが稀人であることを、知っている。
朝月の呼吸の速度を落としたのがわかった。ボクか朝月、そのどちらかの銃が微かな音を立てる。
「こんな時間に」紅花の視線がボクの膝に落ちる。再生したばかりで色の薄いボクの肌に気が付いたようだ。「施設から出してもらえるの?」
「こんな時間だから」上擦った声で、それでもボクは応じる。彼女に怪しまれるわけにはいかなかった。まだホタルに辿りついていない。「出てきたんです。彼に頼んで、ここまで連れてきてもらったんです。一昨日ここに来た女の子を担当するはずだったのに、今日になっても会わせてもらえないから。誰かが事情を知っているんじゃないかと思って」
「女の子? ああ」紅花は眉を寄せて、そのくせ口元を安堵の笑みに歪ませて頷いた。「ええ、あの子ね。きいてないの?」
「女の子が来るって言われたきり、実験室にいたんだ」
紅花はボクの膝を一瞥すると、すぐに視線を戻して「そう」と呟いた。
「あの子ね、人間だったのよ」
紅花がボクらの反応を見るように二呼吸も黙ったから、「意味がわからない」という風を装って首を傾げる。
「会いたいなら、ここじゃなくて医療室だと思うわ」
「医療室? 稀人の再生室のこと?」
「ああ、そうね、あなたは行ったことがないかもしれないわね。第四研究室の奥よ」
「そう、ありがとう」行ってみるよ、と呟いて、ボクはそっと声を押し出す。「その子は稀人にされるの?」
「そうね」紅花は手首のリボンを指に絡めた。「病気をしていたみたいだから、そうなるかもしれないわね。それで治るといいんだけど……」
「……彼女がもし、稀人だったとしてもそう思う?」
「勿論よ、人間でも稀人でも、怪我や病気は見ていて辛くなるもの。とくに子供だと、かわってあげたくなるわ」
まだ子供たちの気配が強く残る通路の奥を振り返った彼女の横顔が、ナミコと同じ色を帯びていた。シュンやホタルに、そして人間にも稀人にも平等に注がれたナミコの温もりが漂っている。慈雨の名を持つ人間たちに必要な温度なのだろうか。いや、教会という場所が一部のごく限られた人間に与えるものなのかもしれない。神さまが好む、どこか歪んだ優しさだ。
「ナミコ」
紅花が瞬きをして首を傾げる。
「慈雨・紅花」知らぬ顔で、正しく呼び直す。「彼らを愛してくれて、ありがとう」
「当然よ。子供はかわいいもの」
ふふ、と呼吸で笑った紅花は、両手を合わせる。三本の指を噛み合せて三角形を作る。相手の幸せを神さまに祈るときの仕草だ。ナミコもなにかにつけて祈っていた。
ボクはそっと踵を返す。軍人と同じ朝月の靴音がボクの背を押してくれる。教会の権威を語る物語を踏みつけて、ボクらは神さまの領域から逃げ出す。
「ありがとう」と胸の奥で告げる。きっとあの子たちは彼女を好きになるだろう。シュンやホタルがナミコに懐いたように、稀人である彼らは人間を愛する。それが、このバカ気た壁画を打ち砕く可能性の一つになるだろう。教会の失墜なんかどうでもいい。人間たちが信じる愚かなおとぎ話と殺意を掻き消すことができるのは、きっと彼らだ。
少しだけ彼らを羨ましく思って、同時にとても腹が立った。
どうしてシュンやホタルには、あれが与えられなかったんだろう、と。
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