〈14〉

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 着替えるべきだとわかっていたけれど、夜の残量がわからない以上余計な時間を食いたくなくて、寝巻姿のまま地下下水道の入り口に飛び込んだ。

 ハシゴを滑り下りる途中、雨粒で重たくなった裾に不運なネズミが一匹絡まった。銃の台尻で追い出す。ブーツの甲にぼてっと落ちた小さな体を稀石の青白さが縁取っていた。

 白い寝巻に包まれたボクもあのネズミ同様、下水道では目立つ存在だろう。

 雨で濃度を増した汚物の臭いが平和に押し寄せた。咽そうになって、辛うじて堪える。目尻に滲んだ涙を指先で弾くついでに、ダスト・ボックスから回収してきたボクのボロ布同然になった服を汚水に蹴りいれた。

 バカになりつつある鼻の奥で、ボクの血の臭いを強く意識する。同じ臭いが、複雑に絡んだ下水道のどこかにあるはずだ。

 生温い下水道の水蒸気が艶やかに銃の表面を濡らしている。きつく巻いたベルトに挟んだたくさんの弾倉が腰骨にぶち当たって少し痛い。

 その全ての感覚の下で殺意を研いで、ボクは人間の優しさを忘れる。

 指針のない闇の底に向かってキャットウォークが伸びている。白濁した泡を押し流す汚水の流れがボクを誘っているようだ。ボクの血肉を狙う悪食なネズミたちの執念が融け込んでいるのだろう。

 どうせならその奔流を溯ってヘカトンケイレスの――たくさんのタンクに死者を詰め込んだあの機械の配管でも食い千切ってくれればいいのに、と思う。

 素足の爪がブーツの縫い目に引っ掛かって少し歩き難い。敏感なネズミたちが眼を真っ白に発光させて近付いてくるのを蹴散らして、鼻腔に漂う微かな異臭を追って駆ける。

 進むごとに死角に全神経を向けて、肩から吊るした銃を体につけて引き金に指をかけた。

 甲高く反響する足音が絶えずボクの背後に張りついている。たくさんの人に追いかけられているような気分で、何度も振り返ってしまう。

 こんな風に、湿った地下道を駆け抜けたことが、前にもあった。あのときは銃なんて持っていなかったけれど、なにに追われているのかわからないまま、ただ恐怖に背を押されて走っていた。

 あれは、いったいなにから逃げていたのだろう?

 不意に首筋が痺れるような殺気を受けて急停止する。ひっ、と喉の粘膜が引きつれた。

 それは潜んでいた相手も同じだったようだ。不自然に呼吸を再開する音が響いた。

「お、前」朝月の声がブツ切れに届く。「なんだ、その恰好。幽霊かと思ったぞ」

「幽霊……」まさにそれに遭遇した心境のボクは呆然と呟く。「君が、そんなものの存在を信じてるなんて……」

「信じてないからビビったんだ」

 ぎち、と引き金の遊びが戻る音がした。

 輪郭をあやふやに滲ませた朝月が、暗闇の中から生まれてくる。彼自身が核となって夜を作り上げているようだ。脇に回転式拳銃を吊って、肩からはボクとお揃いの銃を掛けていた。二重に巻かれた腰のベルトにもたくさんの弾倉が詰まっている。

「ヒナコから聞いたくせに」ボクは二歩、彼から逃げる。「どうしてこんなところにいるの」

「稀人狩りのことか?」苛立ちと困惑を織り交ぜて、朝月が首を傾げた。「教会を襲うつもりで準備してた『解放の子供たち』が、今さら稀人狩りなんかに怯むかよ。雨で面子が減ってるのは計算外だが、戦力を分散配置する手間がかからんと思えばむしろ有利だ。俺とお前でこのまま」

 なんの躊躇いもなく伸ばされた朝月の手を、反射的に避けてしまった。

 朝月が、ぽかんと口を半開きにして瞠目する。

「ヒナコに、聞いたんじゃないの?」

「なにを?」

「焦を殺した」と言葉にすることは怖かった。彼の靴先に視線を落して、呟く。

「下水道を通って来たなら、見たはずだ」

「だから、なにを」手を宙に留めたまま、朝月は苛立ちの割合を強めた。「伝言があったのか? ヒナコは所長と一緒だ。俺はなにも聞いてない」

「どうして君がここにいるの」

「お前が先走って一人で出たからだろ! なんで俺を待たなかったんだ。おかげで……」

 無駄に下水を歩き回った、という愚痴を解いて、朝月は自分の昂りを払うように自分の首筋をつかんだ。「まあ、いい」と言葉を濁した彼の顎はまだ、ボクを責めたり問い質したりしたそうだ。それでも彼は下水道の奥へと顔を向ける。

「このまま俺とお前で教会の地下まで行って、ホタルを探す。あとから所長たちが派手に襲撃をかけるから、そのどさくさに紛れてヘカトンケイレスを破壊、脱出するって作戦だ。異論があっても今は聞いてやれない。いいな」

「ヘカトンケイレス……」

「壊すのは俺であってお前じゃない」

「そんなこと……」

「お前、今さらなにに怯えてる? その格好に関係してるのか? なにがあった? シュンはどうした? あの店に行ったのか」

 矢継ぎ早な朝月の言葉は、だんだんと疑問符を廃して確信の色を帯びていく。

 ボクは耳を覆う。詰るように尖った彼の声を聞きたくなかった。

 容赦なく朝月の手に引き剥がされる。額が触れ合った。真剣な彼の瞳がボクを覆い尽くす。二人の呼吸が浅く絡んだ。

「シュンを、どうした」

 彼の胸元に固定されたナイフの柄が見えた。脇で揺れる拳銃も、腰にある銃も。人も稀人も平等に殺すための武器が、彼を覆っている。

「キヨカさんに、頼んできたんだよ」嘘だと思われないように、口調を整える。「ホタルを迎えに行って欲しい、それがシュンの望みだ。キヨカさんもアツシさんも、わかってくれた。早く、行こう」

 ボクは朝月の手首をつかんで、引き剥がす。温かい肌だ。混じり気のない人間の血が脈動している。

 不意にキャットウォークに転がった焦の体を、どす黒い血に縁取られたシュンを受け止めたベッドのシワを、思い出す。そしてなぜか、ヘカトンケイレスを見下ろす廊下に佇む幼い朝月が、過った。

 朝月の手を強くつよく握り締める。人を撃った手だ、稀人だって殺しているのかもしれない。あのころとは全然違う、男の手だ。

 ぱちりぱちり、とボクの内でなにかが爆ぜる。焦の撃ちこんだ銃弾が今さら暴発しているのかもしれない。急なエネルギー消費に驚いた心臓にひびが入ったのかもしれない。でも、そんなことはどうでもよかった。今ここにある彼の熱だけが、シュンとの約束やホタルの残像すら焼き切りそうに発火する。

「ケイ?」

 裏切り者、と誹ってほしかった。シュンやホタルを選んだくせに、朝月の一挙手一投足に乱されるボクを、誰かに咎めてもらいたかった。

「朝月、行こう。早く、はやく」

 この迷路のような閉鎖空間から連れ出してほしい。焦やシュンや『解放の子供たち』の臭いが満ちた出口のない闇から逃げ出したかった。けれど、同時に理解してもいる。ボクがこうして朝月に縋れるのは、血と汚物と死臭が流れる下水道しかないのだ、と。

 銃から離れた朝月の指がボクの手首をくすぐる。規則的に皮膚を打つ血潮を確かめるように、朝月の手は執拗にボクの手首を弄る。

「ケイ、忘れるな。俺はお前を傷付けない」

「知ってる」

「忘れるな」

 ボクは答えなかった。瀑布の音に全てを呑まれたふりをして、ボクは足を踏み出す。


 朝月の記憶とボクの嗅覚で辿りついた教会の地下は、巨大な貯水槽になっていた。

 鼓膜を引き裂く轟音をおともに、巨大な滝が幾筋も降り注いでいる。空気を含んで銀色に輝く水飛沫が緩やかに湾曲した貯水槽の壁を煙らせていた。

 いったいどんな使用方法を想定して設置されたのか理解できない垂直なハシゴが、終わりの見えない頭上に吸い込まれている。

 不安を覚えるほど細いステップの一段目に足をかけてみたけれど、なぜか朝月はつないだ手を放してくれなかった。首を傾げて彼を見上げる。

 朝月は、完成させたばかりの分厚い研究レポートに致命的な間違いを見付けたような顔をしている。

「放してくれなきゃ登れないよ」

「お前……その恰好で先に行く気か?」

 ボクは自分の体を見下ろしてみる。広がる寝巻の裾は、確かに彼の視界を塞いでしまうかもしれない。でも。

「ボクが先なら、上から撃たれたとき、君の盾になれるよ?」

「しない」吐き捨てるような即答だった。「お前越しになにを撃てってんだ」

「ボクごと、撃てばいい」と本気で思ったけれど、それを口にしないくらいには、ヒナコのお説教を真面目にきいていた。無難に、体を斜めにして彼にハシゴを譲る。

「君が先のほうがよさそうだね」

 濁流に舌打ちを紛れさせて、朝月はステップを蹴り折りそうな勢いでハシゴに足をかけた。

 なにが彼の機嫌を降下させたのかはわからなかったけれど、もう金属板の張られた靴底しか見えなくなった朝月を追って、ボクもハシゴを上がる。

 たった数段の差なのに、黒い服を着た朝月はすぐに死臭を噴き上げる貯水槽の闇に呑み込まれてしまう。

 見失うはずもない一本道なのに、少し怖かった。

 膝元でふらふらとそよぐ寝巻の裾が足に絡みついては、隙をついて靴とステップの間に滑り込もうとする。

 ボクやシュン、ホタルだって大抵ジーンズやカーゴパンツだったから、スカートがこんなに動きにくいものだとは想像もしていなかった。やっぱり着替えに戻るべきだった、と今さら思う。

 一段でも踏み外せば登って来たこの距離を、時間と体力を無駄にしてしまう。なによりも、この高さから水面に叩きつけられた場合の損傷と、その修復過程を朝月に見られたくない。

 ボクは歩きはじめた仔猫じみた足取りで、慎重に体を持ち上げる。

 ようやく巨大な排水坑と同じ高さまで達したとき、その内の一つに、ざわりざわり、と昼夜の縛りから解放された『彼ら』のお喋りが断片的に紛れこんでいることに気が付いた。

 朝月の踵を叩いて呼びとめてから、彼と同じステップまで登る。

 朝月は怯える様子もなく片足をハシゴから離して、ボクのために体半分の空間を開けてくれた。

「君たちの目的は」耳朶に問うたボクの声に、朝月の肩が小さく跳ねる。「ヘカトンケイレスの破壊?」

「それは」答えを直接鼓膜に吹き込まれて、ぞくりとした。「『解放の子供たち』の目的だ。俺とお前の目的はホタルだろ。ヘカトンケイレスはついで仕事だ」

「君は『解放の子供たち』の先鋒なのに」

「別行動って話なら呑まないぞ」

「そうじゃなくて……君は忘れているかもしれないけれど、『彼ら』の情報網は侮れない」

「彼ら?」

「『彼ら』は早耳でお喋りだ」

 その一言で、朝月は思い出してくれたらしい。さっと表情が凍る。

 そのとき、視界の端をなにかが横切った。細長くて大きなそれには、手足があった。ボクらはほとんど同時にその正体を悟る。

 人間だ。いや、人間だったもの、が下水の底に吸い込まれていく。その残像を見送って、ボクらはその存在に触れることなく視線を戻した。

「大丈夫だよ。ここにあるのはお喋りの断片だけで、まだボクらの存在は捉えられていない。でも施設の中に入ったら、わからない。ヘカトンケイレスにつながる配管の全てが、『彼ら』の目と耳だ。所長が言っていたように稀人の軍隊がいるなら、ボクと同じように『彼ら』のお喋りを聞ける」

「死角はない、と思ったほうがいいのか」

「盲点ならあるよ。『彼ら』はとても気紛れで飽き症だから、興味さえ惹かなければ噂にはならない」

「なるほど」朝月は短く息を漏らして次のステップに手をかけた。「変にこそこそして興味を引くより、ヘレブにいるつもりで堂々と動けばいいってことか」

 ボクは淡く笑って頷く。彼がヘレブに「戻る」ではなく「いる」と言ったことに、少しだけ寂しさを感じていた。


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