第5話 〈13〉
〈13〉
たった一日足を運ばなかっただけなのに、通い慣れていたはずのヒート・ミールの裏口を塞ぐ扉は完全に他人の顔でボクを拒んでいた。
下水道から這い出たボクらを出迎えたのは町の誰もが待ち倦んでいた雨だった。夜が深いせいか、はたまた息を潜める稀人狩りの兵士たちの気配を察したのか、雨を喜ぶ声は聞こえなかった。
砂漠を渡ってきた雨は、おっかなびっくり周囲を探るボクの体温をすっかりシュンと同化させている。
鼻を鳴らして、ボクは大気を注意深く嗅ぐ。路地に吹き込む風は雨の匂いばかりだけれど、軍用探知犬の臭いを嗅ぎ逃すほどじゃない。
「大丈夫」と自分に言い聞かせるため声にした。耳に届く前に雨に呑まれてしまったけれど、喉を震わせた言葉の欠片と腕に抱いたシュンの重みに縋るように、再び「大丈夫」と噛みしめる。
軍人たちは、ここには来ていない。仲間を死なせてしまったこの場所を忌避しているのかもしれない。
鍵の隠されたポストには手を伸ばさなかったのは、ボクなりの礼儀だ。
呼び鈴を押しこむ指先が震えているのを自覚する。
レンガの壁越しに、ブビーと間抜けな音が鳴るのがわかった。夜の鐘が鳴って随分と経つけれど、朝の鐘にはまだ遠い。人間たちは夢を彷徨っているべき時間だ。
だからこそ、稀人狩りが事務所に来たんだろう。眠り込んでいる朝月たちを襲うつもりだったのか、眠りを必要としないボクを燻り出すためだったのかわからない。もうどうでもいい。
朝月の仲間がシュンを殺し、ボクが朝月の仲間を殺した。あるのはその、たった二つの事実だけだ。
二度、三度と呼び鈴を押す。やっぱり誰も応じてくれない。
けれどもう、ボクが頼れるのはここだけなんだ、と身勝手に言い訳をして扉を蹴りつけた。思ったより響かない。それでも蹴り続ける。
不意に視線を感じて息を殺す。路地にはネコの一匹だっていない。雨に濡れた石畳だけが底光りする冷たさでボクを睨めている。
シュンを抱え直して扉から三歩後退る。すぐに建物の壁がボクらの退路を断つ。
「由月……」
呆然とした声が降ってきた。意識してゆっくりと顔を上げる。三つ子月のように青白く丸い顔が、二階のカーテンの隙間に浮かんでいた。
唇の動きだけで「キヨカさん」と呼ぶ。
弾かれたようにキヨカさんがカーテンの奥に引っ込んだ。怯えられてしまっただろうか? けれど諦めるわけにはいかなかった。
痛む膝を引きずって、扉の前まで戻る。
焦に撃ちこまれた銃弾が、シュンとボク自身の体重を受けて一歩ごとに骨を削っていた。損傷した骨は傷付く端から再生し、痛みだけが尽きることなく湧き上がる。
扉に寄りかかるように肩と額をつけて、けれどずっしりと腕にかかる重みを支え切れずにシュンの体が半ばまでずり落ちた。
呼び鈴に手を伸ばす余裕もなく靴先で扉を蹴りつける。中に伝わっているとは思えないほどくぐもった音しかしない。それなのに、足先から頭蓋骨にひどい痛みが突き抜ける。
しまった、と今さら思う。
ボクだと知らせるべきじゃなかった。どうしてキヨカさんが自警団に駆け込む可能性を考えなかったのだろう。人間らしく礼儀をわきまえて鍵を開けてもらおうなどと甘い考えを持っている場合じゃなかった。人間の手を借りるなら、こっそりと忍び入ってその頭に銃口でも突き付けながら協力を願うべきだったんだ。
いや、今からでも遅くない。鍵を開けて入ってしまおうか。きっとまだキヨカさんは中にいる。お店のほうから出ることもできるけれど、それにはシャッターを開けなければならない。今なら間に合う。銃を見せて、大人しくしてもらえばいい。
そうしよう、とシュンの重みを手放しかけたとき、不意に肩が泳いだ。咄嗟に出した足が砕けて踏み止まり損ねる。
けれど、覚悟した衝撃はこなかった。甘いバターの香りがボクとシュンを受け止めてくれている。
「シュンくん……」キヨカさんの声が耳元でした。「どうしたの、なにがあったの、どうしてこんなに」
血が、と続くはずの言葉が短い悲鳴に呑み込まれた。それがどこから滴っているのか気付いたようだ。
「勝手なことはわかっています」
ボクは腕を突っ張って、キヨカさんの腕の中から逃れる。けれど体は離さない。指先に力をこめてキヨカさんを威圧する。
「こんなことを頼めた義理じゃないことも、あなたを巻き込むべきじゃないことも、全部。でもホタルを迎えに行かなきゃならない」
キヨカさんは、あっさりとボクの無礼を振り払う。床に座り込んだボクの腕を逆につかんで、強引に立ち上がらせてくれた。
「話はあとでいいから、入りなさい」
「シュンだけでいいんです。ホタルを迎えに行く間だけ、シュンを寝かせておいてくれればそれでいいんです。それ以上のことは望みません。ボクが戻ったら軍に通報しても」
「いいからっ」
ボク以上に押し殺したキヨカさんの叫びが、ボクの口上を断つ。大量の小麦粉を捏ねる逞しい腕がボクを強引に室内へと連れ込んだ。
廊下から伸びた仄明りが、キッチンの天井からぶら下がる飾り棚を白く浮かび上がらせていた。散弾を浴びて壊れたままの無惨な姿が、ボクらのやり取りを見守っている。
「あなたの生活を壊したことは」
「由月」
キヨカさんのたった一言で、続けるはずだったセリフを見失う。それくらい、彼女の瞳は強かった。責められているのか、と思ったけれどすぐに違うと気付く。
「由月、怪我をしてるのね」
「稀人に怪我なんて」と嗤っただけで息切れを起こしたボクは、黙って首を振る。
「この血は? どうしたの」キヨカさんの腕はボクからシュンの体を奪う。「ちゃんと怪我を診せて。こんなに」
ひゅっ、とキヨカさんから悲鳴にならない風音が漏れた。抱き寄せたシュンの重みに耐えかねたように、そろりと膝をつく。
いつの間に脱げてしまったのか、片方だけになったシュンのスニーカーが床を打った。
「シュンくん?」キヨカさんの震える指がシュンの頬を包む。「シュンくん」
ぼんやりと、キヨカさんの丸い背中を見下ろす。
震えている。肩も呼吸も、まるで彼女のほうが本物の家族のようだ。
ボクはシュンが撃たれた後も冷静だった。ヒナコを制して、シュンを抱えて、ここまで来た。その間だって泣いたりはしなかった。こんな風に膝をついたりもしなかった。
ボクはシュンやホタルを家族だと思っていたはずなのに、どうしてこんなにも冷静でいられるんだろう。これが稀人と人間との違いだというんだろうか。
やにわにキヨカさんが立ち上がった。軽々とシュンを片腕に抱いたまま、もう片方の手でボクの手首をつかむ。
ぎょっとして体を引いたけれど、骨まで食い込んだ焦の銃弾はその自由すら許してはくれない。
引き摺られるように階段を上がる。途中で膝が砕けて三段も滑り落ちた。それでもキヨカさんは止まらない。振り向いてもくれなかった。ずり落ちたボクの体を力強く持ち上げて、夜空に同化しているような二階へと上がって行く。
打ちつけた脛がじわりと熱を持つ。皮膚が剥けたのかもしれない、と思うときには痛みすらきれいに消え去っている。
二階に満ちる空気は湿っていた。ついさっきまでキヨカさんが眠っていたはずの部屋ですら、淀んだ闇が停滞している。
「なんだ!」ベッドに上半身を起こしたアツシさんが悲鳴を上げた。「なんで……なんでここにっ」
ボクを指したアツシさんの腕が中途半端な位置で止まり、苦痛の呻きが続く。腕に巻かれた包帯が寝巻の薄い生地越しに浮かび上がっていた。朝月が撃った傷だ。
キヨカさんはそんなアツシさんなど見えていないかのように無視して、寝乱れたベッドにシュンの体を下ろした。
アツシさんがギョッと身を固くするのを感じながら、ボクはキヨカさんのベッドに吸い込まれていくシュンの血の黒を眺めていた。
何度もホタルやシュンが眠ったベッドだ。
ここに泊まる夜、二人はいつも二台のベッドをくっつけてアツシさんとキヨカさんの間で眠っていた。二人が駄々を捏ねたのか、アツシさんかキヨカさんのどちらかの提案だったのか、ボクは知らない。眠りなど必要としないボクは、たいてい隣の部屋を借りていた。誰のための部屋なのかは知らないけれど、そこにはきれいに整えられたベッドと鏡台が置かれている。
壁の向こうへ漂っていたボクの意識を、アツシさんの尖った声音が突き刺した。
「なんだ、その顔は!」
ボクのことかと思ったけれど、アツシさんはキヨカさんを睨んでいた。
「俺が悪いとでも言いたいのか」
「これが」キヨカさんの声がどす黒い色を帯びている錯覚を抱く。「全部、由月のせいだっていうの? シュンくんがこんな風になってるのに、誰よりもシュンくんたちを大切にしてた由月のせいだっていうの?」
「俺のせいでもない!」
「あなたのせいよ!」
「違うよ」
ボクの呟きに、二人ともが弾かれたように視線を上げた。ボクの存在を忘れていたようだ。
アツシさんにいたっては、ぽかんと口を開けて「顔」と、今さら自分の頬を手で擦った。
そうでなくてもボロボロだったボクの顔を抉った散弾の衝撃は、お互いの記憶に新しい。何日もしないうちに引き千切られた頬はおろか、欠損していた眼球まで再生しているボクは、アツシさんから見ればじゅうぶんに化け物だろう。けれど。
「どうして驚くんですか? ボクを死体だと、あなたたちとは相容れない稀人だと詰ったのは、あなたでしょう。稀人は、こういう生き物だ。殺したいなら」シュンの血に染まった指で胸元をかきむしる。「ここにある心臓を抉るしかない。あなたたちがそうしたいなら、それでもいい。でも、今はダメだ。シュンと約束した、ホタルを助けるって。迎えに行くって。だから」
それまで待って、と続けるはずだったボクの気力は、アツシさんの浅い呼吸とキヨカさんの重たいため息に萎えて失墜する。
小さなシュンの一体どこにそれだけの量が入っていたのだろう、と思うほどの血がキヨカさんの手を伝ってシーツを汚している。むっと湿った血の臭いが寝室の空気を朱色に染めていくのが見えるようだ。
「シュンを、お願いします」
吐息で言って、ボクは踵を返す。焦に撃たれた膝が砕けかけたけれど辛うじて持ち堪える。キヨカさんたちの前で倒れるわけにはいかなかった。
扉まであと数歩というところで、腕をつかまれた。
「由月……」
バシ、と雨粒が窓を震わせた。本降りになり始めた雨が屋上に設置された貯水タンクを穿っている。
「あなたは、どうするの? ホタルちゃんを迎えにって、教会へ行く気なの? あなたたちは教会には入れないんでしょ、それでも行くの?」
「正門から行くわけじゃない、入れますよ。どれほど警備がいたって、入ります」
「あなたたちは」キヨカさんの声が甲高く昇りつめ、けれどすぐに収束していく。「稀人は、教会に入った途端に灰になるって」
「ハイ?」
なにを言われたのか本気でわからず、首を廻らせてキヨカさんの額を見る。何を言っているのだろう? と三呼吸も考えて、ようやく思い至った。
「ああ、おとぎ話ですか」
はは、と声を上げて笑う。背中の皮膚が引き攣れる感覚があったから、再生していない傷がそこにあるのかもしれない。
「あんな間抜けな子供騙しを信じていたんですか? あの悪趣味な塔に入っただけでボクらが焼け死ぬと? 冗談じゃない」
その足元にヘカトンケイレスを備えているのに、そんな建物がどうやってボクらに作用するというんだろう。あまりにもバカバカしい妄言だ。
「でも、由月、あなた足を……」
「稀人の怪我を心配してどうするんです? 教会の威光で焼け死ぬって話は信じるのに、怪我のほうはこれを」顔の右側を見せつけるために髪をかき上げた。「見てもお人好しに心配してくれるんですか?」
「由月」キヨカさんの瞳が尖った光を帯びた。「そんな足で、ホタルちゃんを迎えに行くの? 迎えに行けるの?」
キヨカさんにつかまれた肘が、熱く痛んだ。本能的に体が強張る。肌に沁み込んだ彼女の体温で火傷をしたのかもしれない。
他のどんな傷よりも、火傷は治りにくい。ボクの心臓をもってしても、ゆっくりと神経を侵していく痛みからは逃れられない。
ボクは腕を振り解く。すぐに捕らえられた。
「離して」
「ダメよ。あなたまで、シュンくんのようになったら……」
なったらどうなのか、聞き取れなかった。
バラバラと雨音がボクを責めたてる。稀人のくせに人間の家に転がり込んでいるボクを燻り出したくて仕方がないんだろう。でも、雨が降ってくれてよかった。この降りならば下水道からヒート・ミールの裏口まで続くボクらの血痕を、軍人たちの眼や探知犬の鼻から隠してくれるはずだ。
「あなたたちの手を借りようなんて、思っていない。シュンを預かってもらえれば、それでじゅうぶんです」
「お願いよ、由月。お願い、なにかさせてちょうだい。このままあなたを行かせたら、シュンくんやホタルちゃんに叱られるわ」
「あなたの罪悪感を拭うために、ですか」
さっとキヨカさんの耳に朱が走った。それなのに反駁も言い訳もない。
そんな彼女を詰ることがバカらしくなって、ボクは肩の力を抜いて「道具を」と頼む。
「道具?」
「ナイフとハサミと止血用の布。あとは……シュンの着替えくらいかな?」
「それだけで、いいの?」
安堵したようにも失望したようにも聞こえる息を吐いて、キヨカさんは指を開いた。
キヨカさんの爪の形に陥没していた皮膚は容易く盛り上がって痕すら残さない。人間の温もりすら忘れ去る。ほとんど無意識に、ボクの手は肩から吊るした銃の冷たさを求めて腰を彷徨っていた。
銃の硬さに辿りつき、ボクは廊下の灯りに彩られたキヨカさんの背中に問う。
「どうしてボクを助けるんですか? ホタルを売った罪悪感? シュンの血に動揺したの? それとも、道具をとりに行くフリをして軍人でも呼んでくるつもりですか? あなたがそうしたところで責めたりはしない。ボクにも学習能力はある。人間がどういう生き物か、わかっているつもりだ。この心臓の報奨金は無理だけど、情報提供料くらいなら差し上げます。でももし、少しでもボクらに同情してくれているならシュンを巻き込まないで。ここで、シュンの前で死体に戻りたくはない。死に場所は別の人と約束しているんだ」
お願い、と祈りにも似たボクの求めを背中で受け止めて、キヨカさんは重たい足音とともに階段を下りて行く。ボクの懇願に頷いてくれたようには見えなかった。
「由月」アツシさんの掠れた声が、意外なほど優しい抑揚で聞こえた。濃すぎる血の臭いに眠気を思い出したのかもしれない。「俺を怨んでるのか」
ボクは首だけで振り返る。
「ホタルを教会に渡した俺たちを、怨んでるのか?」
疲れた気分で首を戻す。答える気にはならなかった。
いつだったか、とても近い過去に同じような質問をされた記憶がある。
そうだ、朝月に手を引かれてヒート・ミールから逃げ出した夜、ひどく冷淡に人間の命を切り捨てた朝月に、やっぱり「怨んでいるのか」と問われた。あのときボクは、どう答えただろう? いや、答えていない。教会の高速列車に吹き飛ばされて、幸運にもボクの答えはどこかへ消えてしまった。
「由月、俺たちが軍に垂れ込んだわけじゃない。信じてくれとは言わない。ホタルを渡したのは事実だ。報奨金も貰った。お前も撃った。だが、あいつは、キヨカは最後まで反対してたんだ。ホタルを渡すことも、軍人を店に入れることも。最後までお前を信じて」
「ボクが人間だと、最後まで信じていた? だから、あなたが銃を向けることに反対した? ただの保身じゃないか」
「それでも」
「言ったでしょう、別に責めるつもりはない」
眩暈を覚えて壁に背中を預ける。夜空に浮かぶ星のように艶めくアツシさんの瞳が、正面にあった。予想していた苛烈な感情は見当たらない。
「ホタルやシュンがどう思っているのかは知らないけど、少なくともボクは怨んでいない。人間と稀人との争いなんだ。あなたたちがボクと対立するのは当然で、朝月が……あなたを撃った男が、人間のくせにボクを助けようとする彼が、おかしい。それだけなんです」
「あの男は、お前のなんなんだ」
「白ネコ、かな」
「……ネコ?」
「怨んでいるのか、と訊いたよね」アツシさんの疑問を黙殺する。「ボクも訊きたい。彼を、あなたを撃った男を怨んでいる?」
アツシさんは寝巻の上から包帯を、その下に潜む傷を撫でた。
「もしそうなら、勝手な言い分だとは理解しているけれど、赦してあげてほしい。ボクはあなたたちを怨まない。だから、どうか彼を怨まないで。彼はうっかりボクの人生にかかわってしまった、不運な、ただの人間なんだ」
アツシさんの喉がひゅう、と鳴った。応えは、聞こえない。雨音が邪魔をする。
キヨカさんの足音がボクらの間に滑り込んだ。
「だから、赦して」
一方的にそう告げて、ボクは穏やかにアツシさん眼を逸らす。
「由月」浴室のタイルに反響したキヨカさんの声には恐怖と不安と、僅かばかりの好奇心が宿っていた。「本当に、やるの?」
「見たくないなら出て行ってください。ボクだってやりにくい」
「そういうことじゃなくて……」
「もう、やるけど」
乾いた湯船に沈んだボクは、脚に巻き付けた布の絞まり具合を確認してナイフを握る。アツシさんがいつもお客の注文に合わせて肉を切り分けるときに使っているものだ。ボクとアツシさんの二人に対する、キヨカさんの意趣返しなのかもしれない。
湯船の外にはボクの汚いブーツや焦のせいで穴のあいたパンツ、弾倉を連ねたベルトと銃が散らばっている。
こんな暴挙に出るのは初めてだった。
つるりと膝の丸い骨を包んだボクの皮膚は、もうきれいに再生しきっている。一体どこに焦の銃弾が潜んでいるのか、キヨカさんにはわからないだろう。
だからこそ、彼女はボクが握るナイフの光に怯えるのだ。
膝下の窪みに刃先を当てて、一息に突き入れた。膝上まで一文字に切り上げる。
目の前が真っ白に染まった。下水道から炎天下の砂漠に放り出されたようだ。じわりと視界が戻るにつれて、脈動する痛みが鮮明になる。壁に飛んだ血が玉になって、滑り落ちた。止血帯に使った布の圧迫感すら弾け飛ぶ。
活性化した血液が鼓膜の奥で轟々と渦を巻く。誰かの名前が悲鳴のように響いて、ひどくうるさい。世界が明滅している。頭痛だってひどい。膝から生えたナイフの光の下に、深紅が満ちている。肉と筋と、淡いクリーム色をした骨。そのどこかに、焦の殺意が食い込んでいるはずだ。ナイフから片手を離して、銃弾を探るためのハサミを持たなきゃならない。
わかっているのに、肩の力が抜けない。腕ががたがたと震えて骨にぶつかっている。ボクの意思とは関係なく再生し始めた筋肉が、刃を包んで呑み込もうとする。
少しでも再生を遅らせるために血の流れを遮ったのに、稀石の再生力は血に寄らないらしい。新たな発見だ、と苦笑したはずなのに、噯が潰れただけだった。
膠着状態のボクに焦れたのか、鮮やかに散った血が乾き始めた輪郭だけを残して滴り落ちる。
唐突にハサミの鈍色が膝に突き刺さった。肉を掻き分けてボクの裡へ入ってくる。
ボクの手はまだ両方ともナイフにかかりきりだ。
どうして、と思う余裕もなく悲鳴を上げた。浴室に響き渡ったボクの声が多重に世界をダブらせる。丸顔の女性が大きな口を慌ただしく動かしている。ボクの意識を振り切った手足が暴れ出すのを、誰かの手が押さえ付ける。
ああ、そうか。ここは――ヘレブの実験室だ。
意識を焼く激痛と空虚の合間に悟る。吹き出す血も痛みもボクを拘束する腕も全部、ヘレブでは当たり前の日常だ。どうして動揺したりしたんだろう。
冷静になったボクの意識とは対照的に、本能に支配された体は暴れ続ける。嫌だ、もう死にたくない、生き返りたくない。
――朝月。
その名を、その名前だけは、呑み込んだ。儀大人の意識を彼に向けるわけにはいかない。彼に、こんな実験に加担させるわけにはいかない。絶対に、絶対に……。
意識の端に残った最後の一滴で、そう強く願った。
天井が霞んでいた。ガラス張りであるはずの壁が、なぜか塗り籠められている。湿った夜の匂いと生臭い血が複雑に絡み合ってひどく不快だった。
空調が利いていないのだろうか? と枕元に手を伸ばして、そこに巻きついているはずの計器がないことに気付く。
そういえば、ボクを監視しているはずの機材も見当たらない。薄紫色のくたびれたポシェットがナイトランプの下でくたばっているだけだ。
「由月」
女が誰かを呼んでいる。
ボク以外にも実験体はたくさんいるけれど、それにしたってそんなマトモな名前の個体がいただろうか? と首を倒した先に、子供の横顔があった。
ヘカトンケイレスから出損ねたように顔色が悪い。稀石に適合しなかったのだろう。そう思ってから、なにかが引っ掛かった。
「由月」再び女がその名を口にする。「大丈夫?」
「そんなセリフ」声を絞り出した喉がひりと痛む。「儀大人に聞かれたら怒られるよ」
「ウェイ・ターレン……?」
「研究者は何事にも冷静に、数値的に対応しなければならない」
儀大人の口癖だ。けれど、女は戸惑ったように沈黙した。
ここにきて、ようやくボクは自分がなにか決定的な間違いを犯しているのではないか、と思い始める。
「稼働率は?」
いつもなら一呼吸もなく返ってくる答えがない。苛立ちとも焦燥ともつかない感情に、つい語気が荒くなった。
「ボクの心臓の稼働率だよ。再生率は? 損傷は? パイを三切れも食べたんだ。治ってないはずがないだろ」
あれ? と飛び出した自身の言葉に首を傾げる。
ヘレブの食事にパイなんて凝った料理があっただろうか? ドロドロとした曖昧な味のスープとたくさんの錠剤、そして朝月がこっそりとくれるクッキーだけが、あそこで食べられる全てのものだったはずだ。
隣のベッドに沈む子供の寝顔を見る。
――シュンだ。
ああ、とボクは自嘲する。そうだ、この子はシュンだ。ここはヘレブじゃない。ヘレブなんて会社はもうどこにも存在しない。教会がすべてを壊してしまった。仲間たちも、散りぢりになったきりだ。
「ウェイ、ターレンは」闇の中で女が――キヨカさんがおっとりと言った。「あなたを生き返らせた人なの?」
「違う」反射的に否定して、「と思う」と付け加える。「朝月が来る前のボクに時間の概念はほとんどない。儀大人がいつからヘレブにいたのかなんて知らない。ボクより前だったのかもしれないし、後から来たのかもしれない」
「朝月さんは、あなたを助けに来た人ね?」
ボクは頷かなかった。両手で顔を覆う。
「ホタルを助けに行かなきゃ」
「朝月さんは」
「ダメだよ」ボクは柔らかなスプリングに戸惑いつつ体を起こす。「それだけは、ダメだ。彼を巻き込むわけにはいかない。これはボクとシュンとホタルの問題なんだ」
「そうやって、全部を一人で背負いこもうとするのね」
「稀人と人間は別の世界で生きるものだ。そう望んでいるのは、人間のほうだろう」
「由月」と呟いたきり、キヨカさんはぐったりと首を落とす。ちっぽけな椅子に座ったキヨカさんは夜を纏って、とても頼りなさそうに見えた。
こういうときにこそアツシさんが寄り添ってあげるべきなのに、と思ってからボクが占領しているのが彼のベッドだと気が付く。
上掛け布団を剥いでから、少し驚いた。膝の傷が治っていることにでも、血の汚れがきれいにぬぐわれていることにでもない。
ボクの体が白いふんわりとした寝巻に包まれていたことに、だ。どう見たってキヨカさんの体を包むには細すぎるし、ホタルのために用意したとしたら大きすぎる。
「なに、これ。誰の? こんな恰好じゃ出ていけないよ。ボクの服はどこです?」
「捨てた」と答えたのは低い声だった。廊下の頼りない光を背負って、アツシさんの大きな体の影が部屋を侵食している。
「これを着て行くといい」
アツシさんがなにかを放る。風を孕んでベッドの上に広がったのはシャツだ。ベッドの脇に立ったアツシさんが肩から吊っている三角布と同じように淡く発光しているんじゃないかと思うほど白い。さらにアツシさんは黒いパンツまで上掛け布団に載せてくれる。
「……誰の、ですか?」
「お前が知らない子のだ」
「娘がいたのよ」キヨカさんは組み合わせた両手に額を落とす。「ホタルちゃんくらいのときにいなくなってしまったけど……今はきっと由月くらいになっているでしょうね」
「死んだの?」とは訊かなかった。ボクは黙って持ち主不在の服を見る。
「由月」キヨカさんが嘆く。「ゆづき、ユヅキ、……」
最後だけはボクの名前じゃなかった。啜り泣きだったのかもしれないし、もういない誰かを呼んだのかもしれない。
そっとシャツに手を伸ばして、触れる寸前で拳を握り込む。爪の縁にどす黒い血が潜んでいたからだ。
「こんな服じゃあ、夜空に浮かぶ満月だ。目立って仕方がないよ」
「あの子に暗い服は似合わない」アツシさんは唇だけで笑った。「防砂コートなら紺色があったから、それを着ればいい」
「借りられないよ」
「どうして?」キヨカさんが、潤んだ瞳にボクを映す。「ホタルちゃんと一緒に、戻ってくるんでしょう? シュンくんを迎えに行って、また戻ってくるんでしょ? そのときに返してくれればいいの。返すために帰って来てくれればいいの」
「これはあなたが抱く美しい妄想の産物だ」
「妄想……?」
「死者は成長しない」
キヨカさんの眼が緩慢に開いて、沈んだ。シュンの死臭に怯えるように瞼をきつく閉ざして、彼女は唇を噛みしめる。悪夢に魘されるように、その隙間から呂律の回っていない呟きが漏れた。
「あの子は、死んでないわ……いなくなっただけよ、死んだりなんて、しないわ。だから……」
「行くよ」裸足の指先を床に下ろす。「ボクの服と銃を返して」
「捨てたんだよ、由月」アツシさんが一言ずつ区切って発音した。「あんな服が軍に見つかったら俺たちまで稀人狩りの標的になる。全部ここで捨ててしまえばいい」
「軍用探知犬はボクらの血の臭いを敏感に嗅ぎつける。あれを着てボクが立ち去れば、あなたたちは稀人に押し入られた、かわいそうな人間ですむ。ゴミ箱に入れるなんて、共犯者ですと自供するようなものだ」
「またその言い方か。ただの人間と、稀人」
「事実でしょう」
アツシさんの視線がボクの喉を締め上げる。キヨカさんの早くて浅い呼吸音が頭痛をもたらす。
白磁のように透き通ったシュンの頬だけが、静かにボクの前に存在していた。
指を伸ばして、触れる。冷たかった。砂漠の夜の温度だ。
ナイトランプの足元に、ホタルのポシェットがあった。薄紫色に見えるけれど本当は優しいピンク色で、彼女が生きるために必要ないくつかの薬を護ってくれている。確か、ホタルのママが彼女のためにつくったものだ。
大人しく主を待っていたポシェットを、肩から掛ける。
「ホタルを迎えに行ってくるよ。戻ったら、また三人で……」
三人で、どうしようというんだろう。
自分が口走った一言がひどく重たかった。深く息を吸い込んで、そろりと吐き出す。
おとぎ話に出てくる眠り続けたお姫様のような白い寝巻の裾を翻して、ボクはベッドから離れる。素足のまま二人の人間の間をすり抜けて、ボクに相応しい色を取りに行く。
死と血が満ちた浴室に転がっていた銃と弾倉が、鈍色にその身を輝かせて出迎えてくれた。
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