〈12〉
〈12〉
砂漠の夜は寒い。生命力すら蒸発させて照る昼の太陽とは対照的に、くるくると立ち位置を変え満ち欠けを繰り返す三つ子月は氷雑じりの風を呼ぶ。
もっとも、気紛れな三つ子は全員闇に姿を隠したままだし、今日の空は雨の匂いを孕んだ灰紫色の雲の底だ。
夜明けはまだ遠い。
事務所にはほんのりと、夕食に出たパイの残り香が漂っている。
シュンとヒナコ、そして途中から参加した所長が作ったそれぞれのパイを平等に一切れずつ食べたから、お腹が重たい。これだけ食べれば、丸二日は致命傷を負ったとしても飲まず食わずで支障なく活動できるだろう。
他愛のない話題に終始した食卓は、つい二日前までホタルやシュンがヒート・ミールで享受していた賑やかさを思い出させた。椅子が四脚しかなかったせいで朝月が金属製の蓋付ゴミ箱に座るはめになったけれど、それでも彼は家庭らしい雰囲気の演出に一役買っていた。
因みに誰のパイが一番美味しかったかといえば、意外にも所長の作ったヒメスナモグリの内臓パイだった。シュンのポテト・パイは大きなイモの塊が喉につっかえたし、ヒナコの果実パイは甘過ぎた。
人々が寝静まった夜中に、ボクは夕食の喧騒を思い出す。そしてキヨカさんの丸い笑顔を、想う。
以前なら、キヨカさんたちと囲んだ食卓を思い出すと、どんなに孤独な夜だって胸の奥に安らかな温もりが宿った。けれど今は、鋭い冷気が湧きあがってくる。たぶん、殺意と呼ばれる類に近い感情だろう。
でも、折に触れて朝月の背中から立ち昇る過去に比べれば、どんな温もりだって地下墓地の石室に似た冷ややかさにも思える。
ボクは、朝月たちが眠る上階を見る。当然だけど、バターの香りが停滞する天井がボクを圧しているだけだ。カビだかシミだかが輪郭を弛めて夜に馴染もうとしている。
窓枠に腰掛けて、ボクは膝に置いた絵本を開く。
ネコ仲間とともに船を作った黒ネコが、ネコという生物の正しい在り方を忘れて海賊になっていた。お気に入りの海賊帽をかぶった黒ネコは、次のページではネコらしく海に落ちて溺れ死んでしまうのだけど、今はとても誇らしげにカトラスを振りかざしている。
この黒ネコの人生――もとい、猫生をボクは一文字も違わず暗記している。死によって海賊を廃業せざるを得なくなった黒ネコは、今度は山賊になり仲間とのお宝の奪い合いによって殺されてしまう。それで改心したのか、次は教会の飼いネコになり、平穏な毎日に飽きて義賊気取りの盗賊に転職する。ロクでもない生き死にを何十回も繰り返して、ロクでもない仲間をとっかえひっかえした黒ネコが最後に出逢ったのが、白ネコだった。
ボクは折り目と血で汚れたページを開ける。ボクが破り、朝月が直してくれた最後の一ページだ。
ボクは、と指先で白ネコの背中を辿る。このネコたちに憧れているのだろう。これがボクと朝月の最期であればいいと、彼の人生の終焉すら身勝手に望んでいる。けれど。
音にしてしまわないように注意深く、喉の奥で転がす。
アララト教会を惨劇に沈めた不吉な存在が、夜明けとともに姿を現す。朝月が身を置く『解放の子供たち』の象徴ともいえる、あの男が。
きっと所長の腕を斬り落とす。そして、朝月を殺す。それは確信だ。
まだアララトで散らした血の臭気をまとっているのだろうか。あの悲鳴と嘆きの中に平然と佇んでいた男の面影をそっと思い出す。
本当のところ、星大哥がどんな男だったかと問われると、答えられる自信がない。ボクの記憶の中にいるあの男の顔はいつも薄暗い血煙に覆われて、薄らと歪んだ残忍な口元しか見えていない。
きっと、アララトを忘れたがっているボクの本能が蓋をしているのだろう。
テーブルに置いたままの銃を見る。顔がわからなくてもボクには、星大哥がわかるはずだ。野を駆ける生き物が自分たちの敵を見分けられるように、きっとボクらはあの男が纏う殺意を嗅ぎ分けられる。
「ツキ姉ぇ」と舌足らずな声に呼ばれて殺伐とした過去から離脱した。
ソファーの背凭れ越しに顔を出したシュンが、肩口までずり下がったコートを握っている。朝月の防砂コートだ。シュンの小さな体を覆ってなお、彼のコートの裾は長く床に広がっている。
「どうしたの?」
「ツキ姉は……」
シュンはコートを引き摺って窓際までくると、ボクの膝によじ登る。仔ネコにじゃれつかれているような気分になって、シュンの体をすくい上げて膝に載せた。
シュンはときどき、夜明け近くの朝靄を見下ろすボクに甘えてくる。今日はまだ夜の入り口だけど、馴れないベッドに不安を抱いているのかもしれない。
「どうしたの?」シュンの柔らかく細い髪を梳いて小さな耳にかけてやる。「怖い夢でもみた?」
「ツキ姉は、ボクを捨てて朝月と行っちゃうの?」
「それはないなぁ」と呟く声が、繕う必要もなく乾いていた。「彼を捨てることはあっても、君を捨てるって選択肢はないよ」
「ツキ姉は、たくさんの人を捨ててきたの?」
「それが生きるってことだからね」
「誰かを捨てなきゃ生きていけないなら、ボクは生きなくてもいいや」シュンは朝月のコートの前をかき合せる。「ホタルとツキ姉がいてくれるなら、それでいい」
ボクはシュンの小さな体に詰まっている重たい感情を抱き寄せる。乾いた甘い砂の香りがした。朝月の匂いだ。稀人の死臭も雑ざっている。
朝月が稀人だったらボクらの関係はもう少し展望が開けたのだろうか、と考えかけて、やめた。
下水道で聞いた『彼ら』の声を思い出す。『彼ら』の噂話が薬液に溶け出すように、ボクの妄想が稀石を含んだ血液に溶け出ていない保証なんてない。朝月が稀人だったら、なんて自分勝手で恥ずかしい妄想をシュンに、いや誰にも知られたくなかった。
もそもそと分厚いコートをかき分けたシュンの小さな指が黒ネコの背を撫でる。
「汚れてるね」
「ずっと一緒だったんだ」
「ボクよりも?」
「うん」
「朝月よりも?」
ボクは目を眇める。自嘲したように見えたかもしれない。敏いシュンは、それだけで唇をへの字に曲げて絵本から指を離す。
そのとき、不意に聴覚が奇妙な音を捉えた。窓の下に伸びる路地からしたものじゃない。もっと遠くの、夜の湿度に艶を放つ表通りの断片から人の声が聞こえた気がした。
酔っ払いだろうか、と思ってからすぐに違うと気付く。二つ前の町ならともかく、信仰心の厚いこの町では酒場でさえ夜の鐘からしばらくすると閉まってしまう。
それにこれは、誰かに聞かれることを恐れつつ何人もの人間が囁き交わす不穏な響きや宿っている。
「なにかあったのかな?」
「さあ? でも、きっとロクなことじゃない」
所長を起こしたほうがいいだろうか、と思案するボクの襟を引っ張って、シュンが表通りを覗き込んだ。小さな膝の骨が足の筋肉をすり潰して痛かったけれど、外の様子が気になるのはボクも同じだったから黙って耐える。
「またイヌが来るのかな?」
大気を嗅いでみたけれど、風向きが悪いのか軍用探知犬が出動していないのか、雨を待つ雲と石畳の匂いしかわからなかった。
目を凝らして表通りを窺うこと数秒。建物で切り取られた細い空間に、なにかが光った。
三又の銃剣――稀人を狩るためだけに編成された特殊な部隊だ。ヒート・ミールでひよっていた小隊長が率いていた警羅隊なんかとは比べものにならないくらい、彼らの装備は単純で容赦がない。
ボクらの動きを止めるための散弾と、心臓を突き刺して抉るために蕾型に配置された三枚刃の銃剣。予備の弾薬くらいは持っているかもしれないけれど基本的に、彼らの装備はこの二つの機能が合わさった銃が一本きりだ。
警戒心を最高値に入れる。
「シュン、所長に伝えて。三階の一番手前の部屋だよ。軍の、マズいほうがいるって」
「ツキ姉は?」
ボクはテーブルの上の銃を見る。軍の制圧部隊が使う型だ。対稀人部隊がここにいるのなら、ホタルを助けに行くのは今しかない。警備兵なんて、稀人狩りに比べれば子供を相手にするようなものだ。
そんなボクの首に、シュンが両腕を回した。唇を噛んで、縋りついてくる。
「一緒に行っちゃ、ダメ?」
黙って朝月のコート越しにシュンの背を撫でる。
「ボクだってホタルを助けたい。ねえ、一緒に行っちゃ」
「戻ってくるよ」シュンの頭を撫でて宥める。「君を置いていったりはしない。約束する」
だから行って、と続く言葉を掠めてシュンが滑り降りた。ボクの腕には朝月のコートだけが残される。
布地の裏に、化石燃料を擦りつけたような汚れがあった。そこから仄かな死臭が立ち昇る。ボクの血の跡だ。
これを彼の血にかえるわけにはいかない。
絵本を銃に持ち替える。朝月に教えられた通り、スライドを引いた状態で弾倉を取り出して弾の数を確認する。薬室にもすでに一発が装填済みだ。
撃つ直前まで安全装置をかけておくようにと言われていたけれど、それはしない。相手は訓練された軍人だ、きっと撃つべきだと判断してから外したって遅い。
ベルトに予備弾倉を挟めるだけ挟んでから、壁に寄り添って路地を見下ろす。
先手を打って出るべきだろうか? いや、ボクがここに来る前から探知犬は吠えていた。それでも所長の腕は無事だ。つまり、彼らは標的にするべき相手を正しく認識していない。下手をすればボクではなく所長を、そして彼女とともにいるシュンを狙うかもしれない。
相手がボクを敵だと認識してくれていないのなら、ボクがここを脱したとしても無意味だ。
「ケイ」
不意討ちで呼ばれて、危うく引き金にかけた指を閉じるところだった。
扉の開く音なんてしなかったはずなのに、と大慌てで振り向く。やっぱり誰もいない。闇だけが沈黙している。
「ケイ、下」
ココン、と所長の椅子を支える床板が鳴った。昼間、軍用探知犬の訪問を受けたときにボクとシュンが潜った空間だ。
素早く椅子を退けて床板を跳ね上げる。闇が口を開けているばかりで、声の主は見えなかった。
「早く」と急かされてようやく、相手がヒナコだと気付く。
穴の中に滑り込む。銃を腹と床にぶち当てながらヒナコの気配を追って這う。進むごとに汚水の臭いが濃くなるようだ。
「所長は?」
「所長?」
「シュンから聞いたんじゃないの?」
「わたしは……あなたに忠告しに来ただけで」
「忠告する相手が違うよ。表に軍が来てる。対稀人の特殊部隊だ」
「狙いはあなたです」
「なら、どうしてボクを逃がしにきたの? 表から堂々と突き出せばいい」
「あそこで戦ってほしくないから」
ヒナコの呟きの最後にメコ、と密閉されていた壁が開く。
地鳴りを思わせる轟音がボクの骨を揺さ振った。夜よりも深い暗色が、四つん這いになったヒナコの輪郭を浮き上がらせている。悪臭が吹き付けた。
下水道の竪穴に抜けたらしい。
「ボクが事務所にいないと彼らに伝えなきゃ、意味がないよ」
ボクはハシゴを降りるヒナコの頭頂部に言う。水音がひどくうるさいので叫ぶような声になった。案の定、ヒナコはボクを無視して下水道へと消えていく。
「軍用探知犬が何度も踏み込んでいるんだろ。彼らが所長を見逃すとは思えない」
それに、シュンもいる。
ボクの逡巡の隙をついて、汚水を渡るキャットウォークに降り立ったヒナコはさっさと下水を進んでいく。
シュンと朝月を残してきた背後の闇を睨んでから、仕方なくハシゴを滑り降りる。
粘った湿気が生臭く鼻腔にへばりつく。無数のネズミたちが真っ白に輝く瞳でボクとヒナコを取り囲んでいた。あまり気持ちの好いものじゃない。なにしろ彼らの何匹かは青白く体の輪郭が浮かび上がっている。汚水に紛れているけれど、彼らからはボクと同じ臭いがしているはずだ。
銃の安全装置を確認する。大丈夫、外れている。グリップを握って引き金に触れたところで、不意に前を歩くヒナコが振り返った。
彼女を狙ったつもりも狙う気もないけれど、ボクの心のどこかには彼女への、いや『解放の子供たち』への殺意が潜んでいるのかもしれない。
失礼なことをしてしまったと反省したけれど、それはお人好しなボクの取り越し苦労だった。
「なんだ、そっちだけか」下水道の黒が人の形を成す。「所長はどうした」
「だって……あの人は稀人じゃない」
言い訳じみたヒナコの呟きを、影が笑う。軍人と同じ硬質な足音を響かせて、真っ赤なレーザーポインタをボクの胸に据えた影が立ち塞がる。
その男の名を、ボクは「
「……どうあっても、ボクを殺したいの」
「ああ」焦は白い歯を薄くきらめかせて笑った。「死体は死体に戻れ。それが自然の摂理だろう。俺はお前たちの存在を認めない。だからこその『解放の子供たち』だ。それこそが、『解放の子供たち』の存在意義だ」
「稀人の一掃……君も」俯けた顔から視線だけでボクを窺うヒナコを一瞥する。「同意見なの? だから、ボクだけをここに連れて来た? あの軍人たちこそが囮だったってわけ?」
「あれは……」
「稀人がいると教えてやったらすぐに食いついてきやがった。所長の部隊を抑え込むにはあれくらい要る」
「事務所にいる人間が巻き込まれるとは考えなかったの?」
「雨がくるからって、何人かは帰っただろ」
「仲間が帰ったから軍を呼んだの? それとも」
「どっちだっていいさ」焦の銃が肩ベルトと触れ合って嫌な音を立てた。「稀人を匿うような連中は死んで当然だ」
「ボクが稀人だと知っているのはヒナコと所長、それに朝月だけだ」
パッ、と焦の腰で白い花が咲いた。と思ったときにはボクの膝が崩れている。吸い込んだ言葉の破片が喉を掠めて、ひう、と妙な風音を立てた。
なにが起きたのかわからなかった。キャットウォークに突いた掌を生温かい液体が汚していく。
撃たれた。
そう認識してから、痛みがきた。視界が真っ白に弾けて、熱が背筋を駆け抜ける。膝の少し上を、完全に撃ち抜かれている。
掠った程度なら痛みを捻じ伏せて動けるのに、焦の銃弾は正確にボクの筋を断ち切って骨に食い込んでいた。悲鳴だけは意地で押し込める。
なぜか、ヒナコが小さな悲鳴を上げた。ボクを誘い出した張本人のくせに、冗談みたいな反応だ。
「ほら、治してみろよ」焦の嘲る声が傷に沁みる。「完全な稀人なんだろ? ノーベンバー」
その呼び名を知っていたのか、と舌打ちをする。
所長はボクを、その名では呼ばなかった。どうして焦が知っているのか、考える必要もない。焦は星大哥を呼んだと言っていた。
アララト教会の生き残りというだけで、彼らは容易くボクの正体を特定できる。
痛みで鈍っていた脳が急速に冷えていくのを自覚した。
ノーベンバー。
そう呼ばれていたころの無感動さが体を支配し始める。
不思議な感覚だ。シュンもホタルも、朝月の存在すら知り得なかったころの実験体としてのボクが、腹で揺れる銃の重みを認識する。人間も稀人も平等に殺せる武器だ。人の悪意を固めた鈍い輝きが「さあ、敵を殺せ」とボクを誘惑する。
その凶器が、朝月を連れて来た。いやに鮮明な朝月の幻が皮肉に頬を歪める。
――いいか、足元を狙え。
砂にやられたように少し掠れた、心地好い低音だ。
わかったよ、と指先が殺意の切れ端に触れる。
唐突に、痛みに眩んだ視界の中の彼は今さら別の表情を作る。怒っているような、そして激しい痛みに耐えているような苦しい顔だ。声もなく、彼の唇が回転する。
――お前は、殺すな。
はっ、と短い息を吐く。ヒナコは人間と稀人とを行き来するボクを卑怯だと言った。でも、朝月だって同じようなものだ。ボクらは似た者同士だ。だから、ボクは彼を手放すしかない。
「これはっ」無理やり絞り出した声が引きつれた。唾を飲み込もうとして、咳になる。「こ、れは、ナミコの復讐?」
「いいえっ」反射的な速度で応じたヒナコの声のほうが、ボクより余程上擦っている。「違う」
「そう」ボクはため息で言う。「よかった」
本当に、よかった。もし彼女に肯定されてしまったらボクはこの銃を、殺意を、執着を、全て手放さざるを得ない。
腹の前で揺れる銃をつかんで脇に抱える。
左手で銃身を押さえ込む同時に引き金を絞る。軽い手応えだ、と思った瞬間肋骨から首筋まで鋭い衝撃が駆け抜けた。赤いレーザーポインタが濁った白煙の中に伸びている。小さな火花が銃口から弾け飛ぶ。ボクの血に魅かれて集まった悪食なネズミたちが、驚いて汚水の渦に飛び込む。
狙いがどこに向いているのかなんてわからない。朝月の言葉に従って床にぶちまける。「ぎゃ」だか「ぐわ」だか汚い濁音が聞こえた気もしたけれど、瀑布たる汚水の悲鳴だったのかもしれない。
左の肩を激しく叩かれてキャットウォークに背中から倒れ込んだ。それでも撃ち続ける。耳の上の空気が裂けた。髪が引きつれ、焦げた匂いが汚水の悪臭を潜って鼻を衝く。
銃声の中を駆け抜けたヒナコの金切り声が、意味を含んでいたようにも思ったけれど、理解できていなかった。
どちらの弾が先に尽きたのかはわからない。
残響を幾重にも轟かせる下水道に、錆びた血の匂いが充満していた。
「ああ」とヒナコがバカみたいに間延びしたため息を寄越す。「どうしよう。こんなことって、こんなはずじゃなかったのに。……どうして? ねえ、どうしてこんなことに」
ヒナコの泣き言に、なぜかここにいるはずのない相手の声が重なった。
「ツキっ……ぇ」
嫌な幻聴だ、と苦笑して、今度ははっきりと鼓膜に届いた喘ぎにぞっとした。
「ツキ、姉ぇ」
体を起こす。崩れた。キャットウォークに打ち付けた顎先が冷たく痺れる。腹で潰された銃が発砲の余熱で肌を焼く。
首を捻って、その先にあるものを確認した。
ヒナコの小さな背中がある。その腕からこぼれ落ちたものが、闇の中でぼんやりと輪郭を顕わにする。
細くて、頼りない、簡単に折れてしまいそうな、子供の腕だ。
下水道の壁が震えた。誰かの悲鳴が傷口を抉って吹き出した。うるさい、とてもうるさい。激しい頭痛のようだ。
肘で血をかき分けてにじり寄る。どうしてここにいるんだ! と叫んだはずなのに濁った水音しか出ない。
ヒナコを突き飛ばすように、その腕からシュンを奪い取る。
体の真ん中がどす黒い血で下水道の闇に溶け込んでいる。白く泡立つ下水の本流がこの小さな体から溢れるように濡れた布地を押し上げて、てらてらと不気味に血と内臓が蠢いていた。
「シュン?」
その後にはもう、なにも続けられなかった。ただ青白い頬を包み込む。
「ご、めん」
どうして謝るの、なにも言わなくていいよ。
そんな言葉が喉元までせり上がったけれど、ボクが生む微かな音でさえシュンの小さく浅い呼吸をかき消してしまいそうで怖かった。シュンからこぼれる血とボクの傷口から流れるそれが混ざる粘着質な音さえ消してしまいたかった。
「キ、姉ぇ」
そっと、けれど力いっぱい痙攣を繰り返す手を握り返す。
「ホタ、ル」
「大丈夫だよ」ボクは彼と額を合わせて、そう念じる。「ちゃんと迎えに行くから」
間近で瞬くシュンの瞳が急速に焦点を失いつつある。
「シュン」と吐息で呼ぶ。
一呼吸の完全な無の後に、ふっとシュンの淡い呼吸が応じた。もう、声はない。
それでもボクには彼の幼い懇願が聞こえていた。
――ホタルを、助けて。
「わかってるよ」
――ボクが死んだら。
「そんなこと聞きたくない」と喚いてしまいたかったのに、彼の望みを聞き逃すことが怖くて激情ごと呑み込んだ。
――ボクの心臓はホタルにあげてね。ボクはお兄さんだから。ちゃんとホタルを元気にしてあげなきゃ。学校にも通わせてあげたいんだ。
「君が一緒じゃなきゃ、ホタルは喜ばないよ」
――寒いね……。
「一緒じゃなきゃ、ダメだよ」シュンの頬をつかむ指先に力を込める。「三人で、また次の町に行って、学校にも」
――ねむいよ。
ボクの想いをぶち切ってシュンは、ほうと息をこぼす。
――寒くて、眠たくて……ちょっと、こわい、よ。
「……大丈夫だよ」
ボクはシュンの手を握る力を緩める。緩めたかった。けれど指の関節が動かない。
シュンと合わせた額の熱に集中して、緩やかに夜へと馴染みつつある喪失感を必死にかき集めて、ようやく腕から少しだけ力を抜くことに成功した。
「眠っても。いいんだよ。ここにいるから、一緒にいるから、怖がらなくていいよ」
血の破片が散ったシュンの唇が震えて、体から力が失われるに任せた風音がして、それきりシュンは呼吸を止める。
息苦しかった。呼吸の仕方がわからない。胸の底が引きつって喉が妙な音を立てる。泣き喚くヒナコの声が下水道に反響しているのかもしれない。
ゆっくりと、確かな速度でシュンの温もりが皮膚から遠ざかっていくのを感じる。小さな体の中に引きこもる彼自身の魂のようだ。
ボクはシュンの体を抱き直して立ち上がる。
こんなネズミだらけの汚い場所には、もう一呼吸だってシュンを置いておきたくなかった。
それなのに、ボクの体はキャットウォークから剥がれてくれない。焦に撃ち抜かれた膝だけじゃない。他にも体を動かすための筋肉を断たれているようだ。くそっ! と唾棄したかったのに、それすらできない。
ボクは汚水の悪臭と真新しい血の臭いがまとわりつくシュンの体に鼻先を埋めて、瞼を落とす。鼓膜の内側を擦って激しく活動する血液の流れを意識する。
とにかく今は動かなきゃならない。
「ケイ……」
ヒナコの声がうるさい。邪魔をするな。早く、動けるくらいに傷を治さなきゃならないんだ。
「ケイ」と再び声がする。生きた人間の温度が、ボクの肩に触れた。
ヒナコが、いや、ナミコかもしれない、誰かの手がボクを苛む痛みを中和してくれる。
ナミコもよく、教会の二階から礼拝堂を見下ろすボクに触れてくれた。彼女たちが信じる神さまを鼻で嗤うボクにも平等に、その美しい歌声を注いでくれていた。
そうだ、彼女はいつもボクの背後に佇んでくれていたのに、ボクは一度だって彼女を振り返らなかった。見えもしない神さまに祈る人間たちを見下ろすだけで、寄り添ってくれた彼女から眼を逸らし続けていたんだ。
ならばこれは、ともう冬の井戸水くらいの温度になったシュンの手を探る。これはナミコの復讐だろうか? それとも、と逆の手でボクに触れる手に縋る。昔のようにナミコが寄り添ってくれているのだろうか。人間たちが信じている神さまのように、なにもできないくせに、そっと背後に佇むだけで幾ばくかの癒しをもたらしてくれるというのだろうか。
不意に、本当に唐突に、目の前に手が伸びてきた。関節が浮き出た未発達の男の手だ。指にはペンダコがはっきりとついている。
この手の主を、ボクは知っていた。
これは、あの日ボクに差し出された手だ。
儀大人の実験とヘレブを訪れる見学者の案内とを繰り返す退屈なボクの日常が少しだけ変化したあの日の記憶だ。
受付のロボットに導かれてやってくる見学者といえば二人か、多くても四人くらいがおっかなびっくり寄り添っているのが定番だったけれど、その日は二十七人もの青年たちが興味深そうに、先導するロボットすら追い越して研究棟に雪崩れ込んできた。
彼らがお客でないことは事前に知らされていたので、ボクは無遠慮にボクを見下ろす男たちの視線を完全に無視することにしていた。
その中でただ一人、幼さの残る顔をした少年だけがヘカトンケイレスの青い発光を見上げていた。ボクと同じくらいの背丈の彼は、失礼な見学者の波にもまれて少し居心地が悪そうだった。
ヘカトンケイレスの隙間を縫うキャットウォークの上でも、稀石の波長を調べるモニタの前でも、生きながら解剖される稀人たちを並べた手術室の中でも、彼だけは一言も質問を発しなかったし感嘆の声も上げなかった。ただ黙って、灰に還るべき死体が生かされている様を見つめていた。
エントランスで彼らを儀大人に引き継ぐときになって初めて、彼がボクの真正面に立った。
「お願いがあります」と言った彼の声には緊張感が滲んでいた。
それまでの彼は研究者や装置にばかり夢中で一度もボクをきちんと見てくれていなかったから、ボクの存在に気が付いていないんじゃないかとさえ疑っていた。
認識されていたことに少しの驚きを覚えながら、ボクはできるだけ優しい笑みを浮かべみせた。
「手を見せてもらえませんか?」
「手?」
ボクは左右の掌を見下ろす。なんの変哲もない、人間と同じ形をした手だ。
もっとも左は三日前に手首から斬り落とされて今朝再生しきったばかりだから、右よりも少し色が薄い。彼が興味を示すとしたらそれだろう、とボクは体を斜めにして自分の体の影から両の掌を出す。
彼は、右の掌だけを見つめていた。
なにか付いているだろうか、とボクも見る。やっぱりなにも見当たらない。
それなのに彼は十秒もボクの手を睨んで、ゆっくりと視線を上げた。
「触れても、いいですか?」
「禁止事項にはないけれど……理由を訊いてもいい? ボクに触れたって新たな発見があるとは思えない」
「あなたがっ」彼は勢いよく顔を上げ、けれどその激情を恥じたように目元を染めた。「一度死んでしまった人だとは、どうしても思えなくて」
「ボクにも死んでいる間の記憶はないけれど、君が見た通りの再生実験に何度も参加しているから稀人であることは確かだよ。でも、きっと触れてもわからない。研究員たちですら、切り刻まずに人間と稀人を見分けることはできないはずだから」
ふっと指先が温かくなった。
今朝生えそろったばかりの生白い指に、彼の少し日焼けした皮膚が絡んでいる。繊細な精密機械を撫でるように優しく彼はボクを辿る。指の腹を撫でて股をくすぐって、掌の肉の柔らかさに慄いたように、彼は勢いよく手を引っ込めた。
ふふ、とボクは吐息で笑う。
「稀石の脈動でも感じた?」
「いえ……」
彼は唇を噛んで先ほどよりも少しだけ力強く、それでもボクを壊すことを恐れる手付きで色違いの両手を握った。
「俺には、あなたが人に思えます」
「そう? でも、ボクらは仲間と人間を見分けられる。臭いが違うんだ」首を傾げた彼に、ボクは特別な秘密を打ち明けるように声を潜める。「稀人の体からは死臭がする」
すん、と彼の鼻が鳴った。その微かな音を恥じるように、彼は俯く。
「臭いなんて」
「なら、稀人にしかわからないのかもしれない。きっと儀大人だって知らないことだ」
彼は体を折ると、色違いのボクの両手に顔を寄せた。まるで花を愛でる子供のような仕草だった。
「俺の専攻は」ボクの手の中で彼が囁く。「生体学じゃない。それでも、あなたが生きていることはわかる。生きてる温度だ」
「細胞が活動しているだけだよ」
「あなたの体温だ」
「君のほうが温かいよ。純粋な血が通っている人間の体温だ。ボクらの血には稀石の冷たさが雑ざっている」
「でも」彼は顔を上げないまま、視線だけでボクを見た。「あなたは俺と話してくれた。タンクの中の遺体とは違う」
首の裏がくすぐったかった。彼の言葉はとても真剣で、それ故に落ち着かない気分にさせられる。そんなボク自身に苦笑して、彼の胸元に視線を下ろした。黒いマジックで『朝月』と書かれた名札が留まっていたけれど、残念ながらそのころのボクには彼の母国語であるその文字も、公用語で書かれた振り仮名すら読むことができなかった。
だからボクはそっと自分の両手をとり戻してエントランスと研究棟とを隔離する多重扉を、その上に掲げられた壁画を、振り返る。
白く艶やかな石に彫刻されたヘレブの歴史だ。ここに来る見学者のほとんどが、そこに刻まれた物語の表層しか知らない。
人間たちはボクらに対して必要以上の畏怖を抱くのはそのせいだ。
けれど彼は、他の人間とは違う気がした。その予感をどう表せばいいのかわからなくて、ボクは淡く嘆息する。
その途端、彼は腕を下ろして姿勢を正した。
なにか勘違いをさせてしまったのかもしれない。君に向けたため息じゃないよ、と伝えたくて、ボクは「君は」と彼に問う。
「他の見学者より随分と若いけれど、君も入社希望者なの?」
「はい。学校には半分くらいしか行かなかったから」
半分でヘレブに入社できるほどの知識が得られるのだろうか? と首を傾げたボクの内心を察したのか、彼はすぐに「飛び級ばかりで」と付け加える。
「つまり、他の見学者よりも賢いってわけだ」
「そうだと嬉しいです」
「残念だけど……君にはここの社風が合うとは思えない。ここでは誰も、必要なとき以外はボクらに触れようとはしないから」
「それでも」
「アサヅキ!」彼を、エントランスに群れた彼の仲間が遮った。「点呼」
儀大人に率いられた人間たちがボクらを睨んでいた。
「アサヅキ、ね」ボクは指先で彼の名札に触れる。「覚えておくよ」
社交辞令抜きで最大の甘言を吐いて、ボクは研究棟へとつながる多重扉へと踵を返した。
彼が――朝月が首を折るような角度で頷いた表情には気付かないふりをした。
あんなに嬉しそうな表情をする男の子を見たのは、初めてだった。
「ねえっ!」
女の叫びで飛び起きた。真っ暗だ。眼球を潰されたのかと思った途端に、黒の濃淡で世界が浮かび上がってきた。
壁から細くなびく水蒸気とキャットウォーク、そして泡立つ汚水の奔流。
湿った悪臭と絡み合った血の臭いに、ああ、そうか、とボクは我に返る。ここはヘレブじゃない。
キャットウォークに屈みこんでいる女の背中に、努めて無感情な声をかける。
「どれくらい寝てた?」
「え」頬を汚したヒナコが素早く振り返り、微かに眼を瞠った。
その膝先に転がっている物体には気が付かないふりをして、背中に感ずる壁の冷たさに後頭部を預ける。
どうやら彼女が泣き喚くことを諦めて、ボクをキャットウォークから引き剥がす僅かな時間で幸せな夢を見ていたようだ。
こんなときなのに、と失笑して、いや、こんなときだからか、と短く息を漏らす。
肩に凭れかかるシュンの重みを感じる。それなのになぜか、ボクは別のことを考えている。
朝月はどうしているだろう。絵本を置いてきてしまったことに、彼は気付いてくれるだろうか。アパートの周りを徘徊していたあの軍人たちを、所長はどう判断するだろう。朝月はまた人間を殺すのだろうか? いや、ボクがいないのだから彼が人を撃つ必要はない。
きっと彼は、所長のためには人を殺さない。
なんて自惚れていて自分勝手で、薄情な考えだろう。こんなボクを、ボクは知らない。朝月のせいだ。彼がボク自身ですら知らなかったボクを暴きたてる。
かは、と乾いた咳の破片が聞こえた。体の再生が追いついていないのだろうか、と血の巡りを探ってから、別の可能性を考え付いた。
ほとんど義務感だけで首を廻らせる。
ボクが意識から追い出した物体をヒナコが苦労して壁に凭せ掛け、けれどすぐに崩れてくるのを慌てて支えていた。
血と肉片を体中に張りつかせた、焦だ。ボクらと同じように壁際に足を投げ出していたけれど、ヒナコの肩から滑り落ちた上半身は力なくキャットウォークにへばりついていた。さっきの咳は彼かもしれない。
「それ、生きているの?」
ヒナコはひゅ、と鋭く空気を吸い込んで、けれどそこに潜んでいた毒薬に気が付いたように慌てて唇を引き結んだ。血まみれのボクの服を睨んで、はみ出した内臓で押し上げられたシュンの腹部は正視に堪えなかったのか、血溜りを縁取るネズミたちに逃げる。
「そう、残念だ」
ボクは傍らの銃をとり上げる。腕は動く。震えない。空っぽの弾倉を滑り落として新しいものを送りこむ。
「ケイ……」
ヒナコの震えた呼び声に、顔を向けてやる。
それだけで彼女は黙りこんだ。けれど視線を逸らさない。ボクがこれからすることを欠片ですら見逃すものかと必死になっている。
ボクは焦を見据える。動かない、ただの物体だ。これは生き返らない。そう自分自身に言い聞かせる。
赤いレーザーポインタが焦の頬に寄り添う。死者に添えられる花の色だ。アララトで死んだ子供たちやナミコには、もっと多くの赤が向けられたのだろう。
ボクは息を吐く。腹の底まで。そして吸う。生臭い、命の臭いだ。
その延長の力で自然に、指先を絞る。
爆ぜた花火の朱に、朝月の渋面を思う。それも肘まで駆け抜けた衝撃に弾け飛ぶ。鮮やかに伸びた火線が、焦の影を抉って下水道の壁に跳ねた。
それだけだった。
空気に溶け込んだ血の濃度は変わらない。焦の頬は相変わらず萎えたバンズの色でそこにある。
ボクの銃弾は、彼を殺し切れなかった。
はは、と乾いた声が喉を震わせた。どうして笑っているのかわからなかった。それなのに、ボクは銃を握った腕に顔を埋めて笑う。あまりに呼吸が苦しくて、泣いているのかもしれないと思ったけれど、至極単純な事実を思い出してさらに笑う。
稀人は泣かない生き物だ。
ボクは慎重に上体を壁から離す。ちゃんと動くようになった足で自分の重みを支えて、シュンの横に跪く。
穏やかな寝顔だった。
アツシさんにたくさん遊んでもらって、キヨカさんのシチューでお腹を満たした夜に見せる、少し疲れの滲んだ、それでも小さな幸せを両手いっぱいに握り締めた表情だ。これまで何度もソファーで寝てしまったシュンをベッドに運んだ。
そんな、いつもの夜と同じように、その体を抱き上げる。
踏み出す一歩が、強張った。傷は塞がっているのに足が巧く伸びない。内側から膝が圧迫されている。
焦の銃弾が抜けていないんだ。骨に食い込み筋肉の動きを阻害したまま、ボクの優秀すぎる体は傷口を塞いでしまった。
舌打ちをする。
その音に反応してヒナコが素早く銃を構えた。けれど、その照準はどこにも合っていない。彼女の心を示すように小刻みに迷うレーザーポインタの赤い光が、そこら中に飛び散った血の飛沫に紛れている。
「撃ちたいなら、そうすればいい」
ぎこちない二歩目を踏み出す。
「『解放の子供たち』として、その行動は正しい。そしてボクの行動は」肉の下に残された焦の銃弾が軋む。「稀人として、正しい」
ボクはヒナコの前に立つ。体を斜めにしてシュンがヒナコに触れないように、キャットウォークの細い板の上ですれ違った。
投げ出された焦の足と腕を跨ぐ一瞬だけ、彼から流れる命の粘度に視線を落とす。青白い稀石の発光で輪郭を浮き上がらせたネズミたちが、夢中でその血を啜っていた。
残された短い時間をネズミとともに過ごさせるのはかわいそうだろうか、と激しく闇を打つ水音に視線を投げる。
簡単だ、この中に蹴落としてしまえばいい。
憎悪と殺意がほんのりと手足の指を温めた。でも、呼吸一つで熱は逃げる。
傷のせいじゃない。脳裏から離れることのない、たった一人のせいだ。
ボクはそっと焦を通り過ぎる。靴底が血溜りで鳴かないように、細心の注意を払った。少しでも音を立ててしまえば、それが朝月に伝わるような気がしたんだ。
今さら、ボクは彼に、人を殺したことを知られるのを恐れていた。
その隙を突いて、ヒナコが動く。
咄嗟にシュンの体重を片腕に預けて、銃を引き寄せた。
肩ベルトがボクとシュンの間で引きつれて銃口が上がりきらなかったけれど、安全装置を指先で外す。
ヒナコの硬質な足音が響いた。ボクとの距離を計るように慎重な数歩が聞こえ、その後は小走りに。
素早く振り向くと、思ったより近いところにヒナコの靴先があった。数歩たたらを踏んで止まったその先に、ボクのレーザーポインタの赤が寂しげに落ちている。
「なんのつもり? 『解放の子供たち』」
引き金に掛けた指先の緊張が伝わるように、わざと声を低める。
「君が取るべき行動は二つ、仲間の死を看取るか、引き返して事務所に踏み込んでくる軍人たちを相手にするか、だ。それとも、ボクと争わなきゃ気が済まない?」
「違う」まだ、彼女のレーザーポインタの赤はない。「違う……。わたしは」
「なら、邪魔をしないで。こんなところにいつまでのシュンをいさせる気はないんだ」
ヒナコが銃を脇に引きつけた。赤いレーザーポインタが淀んだ空気を切り裂いてボクの足先に延びる。震えていない。彼女はゆっくりと肩で息をした。
「わたしはただ……こんなことになるなんて、思ってなくて……」
ボクは黙って踵を返す。彼女の懺悔を聞いてあげる余裕はなかった。
「ケイ!」
多重に反響した悲鳴に仕方なく足を止めて、振り返ることなく威嚇する。
「仲間のところに戻りな、『解放の子供たち』。そして、伝えればいい。稀人が仲間を殺したってね。それが今の君にできる全てだ」
ヒナコが否定の言葉を叫んだようにも思えたけれど、狭い下水道の空間で割れた言葉は聞き取れなかった。
今度こそ、ボクはシュンとともに歩き出す。ホタルを迎えに行くために。
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